視覚障害者きうっちの自立への道

視覚障害者きうっち(S52年生)が気の向くままに日々の生活をツラツラとつづるブログ

病は突然やってきた(03年9月 その1)

2009-06-27 16:54:48 | 闘病日記
 自分は2001年4月にコンピュータ関係の仕事に就き、普通のサラリーマンとして仕事もプライベートもそれなりに楽しくやっていました。…26歳の誕生日を迎える直前、2003年8月までは。

 その生活の全てが暗転したのは2003年9月。確か9月第2週の土曜日だったと思います。
その時自分は前日ぐらいから頭が少し熱っぽい事もあり1日前、金曜日は会社を早めに切り上げてその日の夜はさっさと床に付いて体調の回復を計っていました。
ところが次の日になっても体調がちっとも戻らず、それどころか前の日より益々体がだるくなっているような感じ。
何だか体もあちこちでしびれているような感じだったし、何よりもただ部屋の中を歩く事すらツラいような状態でした。
そんなわけでこれはさすがにヤバイ、ととりあえず自分の正確な状態を知るために体温を測ってみたら何と40度超!
その時の自分は結構仕事が忙しかった事もありストレスも溜まっていたので、それで少し疲れが体にきたのかな?自分もその時点ではその程度の認識しかありませんでした。

 その時会社の借り上げアパートで一人暮らしをしていた自分は、いつもなら土日祝日は1週間溜まっていた洗濯物を片付けたり食料品を買い物に行ったりなどをしていました。
が、この時点での自分はそんな事をする余裕もなく、それどころかまともに動けないので病院に行く事もままならないような状態。
幸い実家が隣の県にあったので、あまり気は進まないけど母親の助けを呼んで、身の回りの世話をやってもらうつもりでした。
…ところがこの母親を呼んだ事が結果的に自分の命まで救う事になったのだから、人生何が幸いするのか分からないものです。
 お昼の3時ぐらいに母親に来てもらった自分は、洗濯物を片付けてもらったりほとんど物が食べられない自分が食べやすいものを作ってもらったりして
その間も自分は相変わらずまともに動けないので布団の中でずっと寝ていました。そんなこんなで陽も落ちた午後7時頃。
その日は朝からほとんど何もお腹に入れてなかったし、さすがにそれはマズイだろ?という事で前日にコンビニで買っていたカツドン弁当があったのでそれを夕食に食べるつもりでした。
…今から考えるとこの体調でそんなものを食べようとしていた時点で既に無謀というか間違っていたような感じですが(汗)。
ま、それはいいとして(苦笑)その弁当を暖めるため冷蔵庫の上に置いてあった電子レンジに行き、その弁当を温め終わりご飯を食べるため足の短いテーブルへ向かおうとしていた時、それはやってきました。

ドターン!!!

 後頭部から冷蔵庫に向かって突然力なく倒れる自分。突然の事態にあわてふためく母親。頭の中がグルグル回って何が起こったのか分からない自分。
悲鳴を上げながらあわてて救急車を呼ぼうとする母親。自分は「別にいい、大丈夫」と言うも
その声はかすれ気味でいかにも弱々しく、歩くどころか立ち上がることもままならない状態ではその言葉に説得力なんかあるわけもなく
おとなしく人生初の救急車を受け入れることに。

 そして救急車は約15分後にけたたましく例のサイレンを鳴らしながら自宅のアパート前に到着。その時二階に住んでいた自分は、
相変わらず一人では歩くこともままならない状態だったので、母親やアパートの手すりに体を支えてもらいながら、どうにかこうにか
アパートの前に止まっていた救急車の前までよろよろと。そこからは担架に横になって乗せてもらい、そのまま後ろの方から救急車へ。
それにしても人生初の担架は結構痛かった…その時点での自分は180cm80kg弱とガタイも割りといい方だったので
担架の端っこ、人を乗せるシート?(あの部分は何て言うんだろう?)を支えている二本のパイプが肩や腕にゴツゴツと当たって意外なほど痛かった覚えがあるなぁ。
それともこの担架に乗せてもらった時のゴツゴツした感じというのは誰でもそうなのだろうか…?
 そしてその約15分後に近くの総合病院へ搬送された自分は、そのまま病院の中で色々と検査を受けたような気がします。
…『気がします』というのはこの時の記憶がかなり曖昧なので(汗)。何しろその時の自分は相当の高熱と体調不良で頭が朦朧としていたし、
何よりももう6年近く前のことなもので…ただMRI検査(磁気共鳴画像装置)が『ゴォンゴォン!』とやたらうるさかったというのはハッキリと覚えていますが(笑)。
あの検査の前にはちゃんと耳栓をしてもらえるのだけれども、あの音のデカさではハッキリ言ってほとんど『焼け石に水』のような感じさえしますね。

 結局この時点での検査では『何も問題ないからとりあえず帰っていいよ』という事だったのでとりあえず帰る事に。
(結果的には『何もなかった』わけではなく、もしこの時もっと『適切な処置』をしていれば今の自分は変わっていた、少なくとももっといい状態から入院生活を送れたのかもしれませんね。あまりそういう事は考えないようにしていますが)
そして帰りもまた救急車に乗せられて(もちろんあのゴツゴツと痛い担架に乗せられて)自宅のあるアパートへ。
例によって母親やアパートの手すりに何とか体を支えてもらいながらよろよろと自分の部屋へ。しかしこんな状態で今さら何かをする気力なんかあるわけもなく、
そのまま布団の中へ。その時まで付き添っていた母親は『何かあったらすぐ電話しなさいよ』と言い残してクルマで実家へご帰宅。
…それにしても今思うと(たまたまとはいえ)この時母親を呼んでいて本当に命拾いしたと思う。数時間前、ドターン!!と倒れた時、もし部屋の中に
自分一人しかいなかったらどうなっていたことやらと改めて考えるとゾッとしてきます。一人では恐らく救急車を呼ぶ事もままならなかっただろうなぁ、と考えるとこれに関しては本当に運河良かったよなぁ…と今になってしみじみ感じてます。
ホント、その時そこにいてくれた母親には今さらながらもっと感謝しないといけないよなぁ…ただ現在普段の生活には
その『感謝の気持ち』はこれっぽっちも表れてはいませんが(苦笑)。

~以下 次回更新分へ続く



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする