視覚障害者きうっちの自立への道

視覚障害者きうっち(S52年生)が気の向くままに日々の生活をツラツラとつづるブログ

地獄の入院生活(04年4月)

2011-10-08 18:00:00 | 闘病日記
今月分の記事も一応、この入院生活を記した記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、ご希望の方はどうぞ。

■再び所沢の国リハ病院へ
 04年4月15日頃、『飲み込みの機能回復の手術』を無事終えた自分は再び所沢の国リハ病院へ戻って(転院して)きました。
ちなみに、今後自分は退院をするまでずっとこの国リハ病院にいることになるわけなのですが
どうやら同じ時期にここに入院した患者の中で、半年以上も同じ病院(つまりこの病院)に居座った患者は自分だけだったみたいですね。
自分はこの時、病棟の3階に入院していたのですが、まさに3階の主でしたね、主(苦笑)。

 でも、これだけ長い期間(04年1月まで入院していた私大病院時代も含めて)同じ病院に入院していると色々な患者に出会いましたよ。それにしても今そのことを思い出せば楽しい思い出(話のネタ)にはなっていますが
入院当時は『その方たち』には真面目に悩まされました、ホント。だっていきなり夜中に叫び出すおじいちゃんや壁に立ちしょんをし始めるおじいちゃんがいたり(看護士というものは普段、めったなことでは動じないものなのですが、この時ばかりはさすがにそれを見て悲鳴を上げていた)
夜中にいきなりどこかに徘徊していってしまう人もいたし……入院中の病室は基本的にはこれらの人との相部屋だったし、鬱屈した入院生活ともあいまって、この頃の自分は常にストレスでイライラしているような状態でしたね。ハッキリ言って、入院していた頃は夜ぐっすり眠れた記憶はほとんどないです。
そのことを思えば現在(2011年9月)の生活の何と幸せなことか-。今『あの頃』の忌まわしい時代を思い返しながらこれを書いていて、改めてそう感じる次第です。

■きうっち、ノートパソコンを買ってもらうの巻(忍者ハットリ君風に(笑))
 ところで今の20台はもう、アニメ『忍者ハットリ君』なんて知らないんだろうなぁ。ハットリ君といえばSMAPの香取慎吾がやっていた実写版なんだろうなぁ-。上の小見出しをつけながら、そんな年寄りくさいことを思ってしまった今日この頃。
この時期(04年4月頃)、自分は今後のことも考えて新しくノートパソコンを買ってもらいました。もちろん自分一人で操作できるように、音声読み上げソフトが初めからインストールされているものをです。
先月まではリハビリの先生についてもらって、あくまで『正規のリハビリメニュー』という形でパソコンに触らせてもらっていたのですが、
この国リハ病院にきて以来、2ヶ月週2回のペースで触らせてもらっていたので、正直音声の案内でパソコンを操作することにもだいぶ慣れてきていましたし
これくらい慣れることができれば後は自身で自習しても大丈夫かな?-。退院した後の暇つぶしの手段を確保することも含めて、ノートパソコンを買ってもらうことにしました。

 でもまぁ、せっかくノートパソコンを買ってもらっても最初の内は大したことはしていませんでしたね。
メモ帳でファイルを作って、数ヶ月後退院した後に購入したりレンタルしようと思っていた楽曲を書き出したりだとか、観たい映画(つまりDVDをレンタルする)のリストを書き出してみたりだとか-。ま、最初の頃はそんな程度のことしかしていませんでしたね。自分のいた病棟内ではインターネットに繋げることもできませんでしたし。
それが8年後の今じゃ、excelはバンバン使いこなしているし、DVDから動画ファイルは作り出しているし、他にも色々とやっていて-。ま~あ人間変われば変わるもんだなぁと我ながら感心してしまいますよ。
…まぁでも実は、この頃から数えるとその間に新品で買ったノートパソコンを2台ぶっ壊しているのも事実なんですけど(苦笑)。

■いよいよ口から食べ物が食べられる!!
 先月末に『飲み込みの機能を回復させる手術』を受けて以来、ついに待ちに待ったこの日がやってきました!
そうです!ようやく口から食べ物が食べられる日がやってきたのです!待ちに待ったこの瞬間!いっぱい『!』マークを使っているように、自分のテンションも上がりまくりです(笑)。
ただ、以前にも少し触れた通り『最初から』普通のご飯が思いっきり食べられるというわけではありませんでした。
最初はゼリーから、それをクリアできたらプリンやヨーグルト-。のようにあくまで段階を踏んで、という形だったので普通の、いわゆる『ご飯』が食べられるようになるにはまだまだ遠い道のりというわけです。
それでもこの頃の自分にはその『ゼリー』が口から食べられるだけで本当に感動でしたね。忘れもしませんよ。
小さい小鉢の上に乗せられた市販のゼリー。久しぶりに手にした小スプーンの感覚。それを15分もかけて食べ終わったあの時の感触(別に味わって食べたからこの時間がかかったというわけではなく、この頃の自分は『普通』に食べて本当にこのくらい時間がかかった)。
確かにまだまだ第一歩ではありましたが、ようやくごく普通のおまんまが食べられるようになるための第一歩でもありましたから。
これでやっと、流動食ともオサラバできる日がやってくるかと思うとせいせいしてきますよ(笑)。…まぁただ、しばらくは口から一日三食を食べることは無理なので、基本は流動食で栄養を摂取し、口から食べるゼリーやヨーグルトはあくまで3時のおやつを兼ねたリハビリ、という生活がもう少し続いてしまうのですが。
でも3時のおやつにプリンやヨーグルトを食べながらリハビリも兼ねられるって物凄い幸せな気分でしたよ。この入院生活をし始めて以来、自分の辞書には『我慢する』とか『耐える』とかそんな言葉しかありませんでしたから…。

■今月のその他のリハビリメニュー
 また、この頃には他にこんなリハビリメニューをこなしていました。

1.先月に引き続き、背もたれのない椅子になるべく長い間座る練習
2.先月に引き続きのリハビリ。手でニギニギするグリップを用いて、握力を鍛える訓練。
3.これも先月に引き続きのリハビリ。自分の片方の太腿を両手で持ち上げて、それをもう片方の太腿の上に持っていくリハビリ
4.車椅子に座った状態から肘かけに両手を添え、そこから自分の体を持ち上げる、いわゆる『プッシュアップ』をして両腕の腕力を鍛えるリハビリ

 …正直、半年も入院生活をしているとそんなに目新しいリハビリのメニューもそうそうないです(苦笑)。ただ、この時期にはそれぞれのリハビリメニューをこなすのもだいぶ楽になっていたのは事実でしたね。
1.のリハビリはだいぶ普通に座れるようになっていましたし、2.のリハビリは03年末くらいから根気強く続けていたおかげで握力がこの頃には20近くまで戻っていました。
3.のリハビリで先月の時点では自身の太腿を持ち上げるのに四苦八苦していたのがだいぶ楽に持ち上げられるようになっていましたし、4.のリハビリも言わずもがなってところです。
この時期はそれぞれのリハビリメニューでしてきたことが、目に見えて自分の体に現れてきていたので、苦しいはずのリハビリをこなすのも本当に楽しい時期でしたね。
何しろ自分の体をいじめればいじめるほど自身の体がみるみるたくましくなっていくのが分かりましたから。そりゃあマゾにもなるってもんですよ(笑)。

■この頃の自分の体の状態
 そういえば03年12月の入院生活に触れている記事で、その時の『自分の体の状態』を紹介していました。
あれから4ヶ月。その頃から自分の体の状態はいったいどれくらい変わったのか?どれくらい回復したのか?-。ここではそれを
03年12月頃と、04年4月頃との体の状態を比較する形で紹介していこうと思います。
スクリーンリーダーを使用してこのページを閲覧している人に少し補足説明しておくと、記事の以下の部分は
一番上に表題(自分の体の状態)があって、そのすぐ下に2行2列のテーブルで
その表題のことについて1行目に03年12月頃のこと、2行目に04年4月頃のことが記してあります。

・腕力や腕の動きについて


腕の力は4ヶ月でだいぶ回復し、車椅子の肘かけに両手をかけて自分の体を持ち上げられるぐらいに力が戻る。また、まだややぎこちなさは残るが腕は両腕とも二の腕が耳につくぐらいまで回復し、左右の腕とも背中に回して背中をかけるくらいにはなった
03年12月頃の状態まだまだ腕力は頼りなく、パッド型のナースコールを押すのがやっと、数グラムの超軽い積み木を持ち上げるのがやっとの状態。腕も左右とも肩の高さより少し高いくらいまでしか上がらず、とても背中に腕を回したりすることは無理。でも左腕の方が入院生活を通じてやや回復が早かったような…
04年4月頃の状態


・足を中心とした下半身



03年12月頃の状態足は入院当初から変わらずピクリとも動かない。それどころか膝から下は触られている感覚さえほとんど無い
04年4月頃の状態4ヶ月経っても足がピクリとも動かせないのは相変わらず(泣)。ただし、4ヶ月前は膝から下の感覚は無かったが、それはほぼ戻ったような気がする。この頃くらいから、足についてもかすかに希望を持てるようになっていたかな


・腹筋など、その他の体の状態



03年12月頃の状態腹筋、拝金ともにほとんど無く、自分の体の力だけではあお向けに寝転がった体を起こすことは不可能。もし、腹筋運動をしようとしても首から上の部分だけで『腹筋運動をしようとしている』動きをかすかにするだけ
04年4月頃の状態まだ腹筋、拝金の力は物足りないが、4ヶ月前よりはだいぶマシになってきたかな。同時に鍛えていた腕力がだいぶ強くなったからなのか、両手を使えばあお向けの状態からでも起き上がれるようにはなった


・毎日の食事やトイレの方法



03年12月頃の状態小便、大便ともに自分の意思で排泄することはできず。小便は膀胱にねじ込んでいた『バルーンカテーテル』で尿を取り出し、大便は自然と出てくる便を紙オムツで受けることで対応。また、毎日のお食事は1食1時間程度かけ、お腹のあたりにつけた胃瘻から流動食を摂ることでカロリーを決まった分だけ補給。何とも味気なし(涙)
04年4月頃の状態小便、大便を排泄する方法は4ヶ月前とほぼ変わらず。ただし、手術をしてやっと物が口から食べられるようになる。ただ、まだその訓練を始めたばかりであり、口から物を食べる時はあくまで『訓練』の一環。毎日のお食事は相変わらず、お腹につけた胃瘻から流動食を摂ってカロリーを摂取


・この時点で体に取り付けられていた医療器具



03年12月頃の状態膀胱に繋げられたバルーンカテーテル、お腹につけられた胃瘻、ノドの気管切開した穴に挿入されたカテーテル
04年4月頃の状態基本的には4ヶ月前と同じ


・それ以外の体の状態



03年12月頃の状態この頃の握力は左右とも5から7といった程度。また、せっかくスピーチカニューレは取り付けてもらっても、ベッドに寝た状態でしかつけられなかったのでほとんど『宝の持ち腐れ状態』(涙)
04年4月頃の状態この頃の握力は左右とも20程度。また、相変わらずスピーチカニューレはベッドの上に寝た状態でしか付けることができず。


~来週へ続く


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地獄の入院生活(04年3月)

2011-10-01 18:00:00 | 闘病日記
今月分の記事も一応、この入院生活を記した記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、ご希望の方はどうぞ。

■自分の太腿って実は結構重いんですよ
 車椅子に乗った体勢で、自分の片方の足の太腿に手をかけ『ふんぬー!(by 桜木花道(笑)』と持ち上げ、もう片方の足の太腿の上に乗せる-。この頃から自分は、リハビリの先生についてもらってこんなリハビリを始めました。
まぁようは単純に腕力を鍛えるためにこんなことを始めたわけなのですが、これがもう、本当に大変でした。まさに泣きながら、鼻水をたらしながら己の太腿を必死に持ち上げていましたからね(涙)。
でも何でそんな思いをするの?たかが自分の太腿を持ち上げるくらいで?-。そう疑問に思った人は多いかも知れませんね。
まず大前提として、この頃の自分はまだまだ腕の力が絶対的に不足していました。上で挙げているように、ようやく車椅子に座っている自分の体をプッシュアップで持ち上げられるようにはなりましたが
それでも普通の人たちと比べたらまだまだでしたね。そしてこの時の自分はまだ、自分の意思で足が全然動かせなかったというのが一番大きかったと思います。人間、自分の手の力だけで足を上げているつもりでも、足が自由に動けば無意識に足が動くものですからね。
でも人間の太腿って意外に重いんですよ、これが。うそだと思うのなら、みなさんも椅子か何かに座って自分の太腿を持ち上げてもう片方の足に乗せようとしてみてください。
意外なその重さにみなさんも『あれ?』と思うと思いますよ、ホント。まさに『世界・不思議発見!』な気分になれると思います(笑)。

■プッシュアップ!オン 車椅子
 ところで、みなさんは車椅子に乗っている人がたまに使っている『プッシュアップ』という言葉をご存知でしょうか?この言葉は、簡単に言うと両手を車椅子の肘かけに添え、
両腕の力で自分の体を『ひょい』と浮かせること。車椅子に乗っている人は、基本的にずっと自分のお尻が(車)椅子の上にあるわけなので、
ずっとこのままの状態にしておくと、お尻が圧迫されて褥瘡ができてしまいます。人間が眠っている時に寝返りを打つことも同じような理由からですね。

 で、話を自分のことに戻すと、自分も入院以来ずっと車椅子での生活を余儀なくされてきたわけなので
本来であれば自分もこの『ぷっしゅアップ』を定期的に行なう必要がありました。だいたい2時間おきにしてください、とこの時看護士さんには言われましたが。
でも自分はこれまでこの『プッシュアップ』が出来なかったんですよね。何故出来なかったのか?でもその理由はとっても単純ですよ。
だってこれまでは自身の腕力に自分の体を持ち上げることができるだけの力が無かっただけですから(泣)。これをやろうとして肘かけに両手をそえ、両腕に目一杯力をこめたとしても
『フンッ!』と自分の掛け声がむなしく響き渡るだけ、というのがこれまでの関の山でしたね。

 でも、これまで腕の体操をして腕の動きを少しでも良くするように努めてきたり、壁際の手すりに掴まって
腕立て伏せの真似事のようなことをして筋力を少しずつつけてきた結果、この頃くらいから自分にもこの『プッシュアップ』が出来るようになったんですよ!
いや~一番最初にこれをして自分のお尻が『自分の力』で持ち上げられた時は本当に感動でした。苦節6ヶ月、全然動かせなかった、ナースコールさえまともに押すことが出来なかった自分がようやくここまできたのだと。
で、せっかくこの『プッシュアップ』が出来るようになったので、この頃から先月あたりから始めていた、壁際の手すりに掴まってやっていた
『腕立て伏せの真似事』を少しずつこのプッシュアップに切り替えていきました。実際にやってみると分かると思いますが、腕への負荷はプッシュアップの方が明らかに高いですから。
ただ正直、最初は連続10回くらいしか出来ませんでした。でもこれをやり始めてから腕力がみるみる戻っていくのが分かりましたね。
朝ご飯の前に30回を3セット、昼ご飯の前に30回を3セット、夜ご飯の前に30回を3セット-。とりあえずはこれを一日のノルマとして設定し、ほぼ毎日繰り返した結果
退院直前の5ヵ月後には、腕の力はほぼ病気前と同じくらいに戻せましたからね。それにこの運動、やっていて楽しかったですよ。何より自分自身の力が回復していくのを本当に『肌』で感じることができましたからね。

■今月のその他のリハビリメニュー
 上では既に今月していたリハビリを2つ紹介したのですが、今月はさらにこんなリハビリをしていました。

1.先月に引き続き、パソコンを使ったリハビリ
2.これも先月に引き続き、背もたれのない椅子になるべく長い間座る練習
3.これも先月に引き続きのリハビリ。手でニギニギするグリップを用いて、握力を鍛える訓練。

 …というわけで、上で挙げている2つ以外は実は先月からしていることはほとんど変わらないんですけどね。この3つの中であえて変わったことをしたことといえば
3.のリハビリでニギニギグリップの重さを少し重くしたといったところですね。

■障害者手帳を手に入れる
 この頃、既に申請していた自身の障害者手帳が自分の手元に届きました。2月初旬にやたら検査をしていたのは、これを交付してもらうためでもありました。そして、これで自分も立派な視覚障害者の仲間入りです(苦笑)。
ところで、若手女優の沢尻エリカがまだ悪名を轟かせる前(笑)主演していたドラマに1リットルの涙という作品があるのですが(このドラマ自体もかなり泣ける、とてもいいドラマではあるのでまだ未見の人にはぜひ観てもらいたいのですね)
そのドラマの中に沢尻エリカ演じる主人公が、自身の障害者手帳を手にして、『これでわたしはもう…』みたいな気持ちになるシーンがあります。
自身の障害者手帳を手にしたこの時の自分の気持ちが、まさにこのドラマのこのシーンのような感じでしたね。
自分がこのドラマそのものを初めて観たのが、これより約2年後のことだったので、この話はだいぶ前後するのではあるのですが
このドラマの上記のシーンを観た時は、自分が障害者手帳を初めて手にした時の姿とダブって見えたことを覚えています。

 ところで障害者手帳にはその人の抱えている、障害の程度を表した『等級』というものが必ず記載されています。
その等級も結構細かく区分されていて、例えばこの人は視覚障害○級、この人は肢体不自由の障害○級みたいな感じですね。
そしてこの時自分に交付された障害者手帳の等級は-。この頃から自分はほぼ目が見えていない、全盲の状態だったので
当然視覚障害は1級です(これは2011年9月現在も変わらず)。そしてもう1つ。この頃の自分は両足を全く動かすことができませんでした。当然移動は車椅子です。
なのでこの頃交付された自分の障害者手帳には、視覚障害1級の他に下肢(いわゆる下半身)の肢体不自由の1級も記載されていました。

 ちなみにこの時交付された障害者手帳、実はわたくし、2011年9月の時点でもまだ持っていたりするんですよね(苦笑)。
で、役所の福祉課に様々な手続きをしに行った際、『この』障害者手帳を提示することがしばしばあるのですが
その時役所の人には大概驚かれますね。手帳に書いてある障害の内容と今(2011年頃)のきうっちさんの状態、何か全然違いませんか?-。と。
そうすると役所の人に自分の病の経緯や回復してきた経過などをイチイチ説明しなければならない。これが実は結構面倒くさいんですよね。…ま、それを説明することも自分自身が『そこまで体を戻すことができた』ということを改めて実感することができるので、それはそれでちょっと嬉しい気分になることも事実なんですけど(苦笑)。
そういうわけで、この頃(2004年3月)交付された自身の障害者手帳に記載されている内容と、2011年9月現在の自分の体の状態とでは、両者にかなりの乖離があります。
なので自分は近々、障害者手帳の内容を改めるために更新の手続きを取ることになるかもしれません。
その時にはきっと肢体不自由の方の等級は無くなってしまうかもしれませんね。以前、職リハへ入所する際に診断書を作った時にも医者にそんなことを言われたような気がしましたし。

■手術をするための転院
 確か3月の20日頃だったかな、ついに『飲み込みの手術』をするために新宿にある国際医療センターへ転院することになりました。
でも今回の転院は手術をするためだけの、短期の転院で手術が終わったらまたこの国リハ病院に戻ってくるということは初めから分かっていたので
『あ~また転院かよ。めんどくせ~』という感じはあまり無かったですね。それよりも『やっと毎日の食事を口から摂ることができるかもしれない♪』という喜びの感情の方が大きかったですから。

 で、今回は所沢→新宿の病院への移動時間はクルマで2時間ほどでした。
この時期には自分の体もだいぶ回復してきていたので正直、車椅子に乗ったままクルマに乗って移動することも考えたのですが
担当医の判断として『それはまだちょっと厳しいかな…』とお許しが出ず、今回もストレッチャーに寝たまま新宿にある国際医療センターに転院することになりました。
ところで全然関係のない話ですが、転院先の国際医療センターには割りと分かりやすいところに『霊安室』がありました。
実はこの国際医療センターは割りと病院内のフロアが狭い病院で、自分が自主的にリハビリをしようと思ったら
この霊安室の近くしかリハビリ運動をする場所がありませんでした。だから、こんなあまり縁起のよくない場所?でしかリハビリをする場所が無かったのですが、
霊安室の周りって思ってたよりもずっと涼しいんですよね、実際に近くにいってみると。まぁ『仏さん』が安置されている場所の近くなのだから、よく考えてみればそんなの当たり前なんですけどね。

■再び口から食べられるようになるための手術
 3月30日。いよいよ待ちに待った、そしてほんの少しだけ不安のあった手術の日を迎えました。
これまで何度も触れているように、今回の手術は再び口から食べ物を食べられるようにするための手術。
ちなみに手術の前日には『この手術に際して例え失敗してもわたしは病院側を訴えたりしません』みたいな契約書にサイン(当然代筆)をさせられたりもしました。
胃瘻を取り付ける手術の時にもそんなものにサインはしなかったので、その話を出された際にはさすがにちょっとビックリしましたね。
契約書を出された瞬間は『おい、この手術、失敗する確率はほとんどないんじゃ無かったのかよ!?』って感じでした。まぁ病院側としては、確かに失敗する確率は限りなくゼロに近いけど
万が一失敗してしまったら自分の体に与えるダメージはでかいからこういう契約書を出してきた、と自分は勝手に想像しています。

 ところで今回の具体的な手術の内容を記しておくと、ノドの辺りをパックリと切り開き、そこから例のフリッパーに
かなりの強度の超細~い糸のようなものを取り付けて、食べ物を食べた時にその糸が『グイィ』と持ち上がり、その糸が取り付けられているノドのフリッパーも一緒に持ち上がって
普通の人と同じように、口から食べた食べ物が食道を通って胃に落ちるようにする-。正直、あんまり上手く説明できていないような気もしますが、これが今回の手術の概要といったところです。
ところでこの手術、上でも触れている通りノドをパックリ切ることになるので、当然全身麻酔をして
自分の意識を無くさせてから手術をすることになります。そんなわけでこの手術、手術全体にかかる時間は数時間にも及ぶ、結構規模の大きいものらしいのですが
全身麻酔のおかげで、自分の意識があるのは最初の5分程度でしたから、手術にかかった時間の割りには
この手術、何だかあっという間に終わってしまった感じでしたね。手術が始まって5分くらいは何をされていたのかハッキリと覚えているのですが
それから知らない間に意識が落ちていて、気がついたら自分の病室のベッドの上でしたしね。

 というわけで手術は(あくまで自分の中では)あっという間に終わりました。もちろん手術は成功しました。
これでめでたく、本当にめでたく念願の『口からご飯』を食べられるようになりました!-。と書きたいところなのですが、そうは問屋がおろさなかったんですよ、実は(泣)。
確かに手術は成功に終わったのですが、医者がいうには『述語、1週間くらいは様子見』とのことで口から物を食べるのはまだお預けの状態。
さらに口から物を食べられるようになったとしてもいきなり『お米』のような形があるものは食べられないとのこと(涙)。最初はヨーグルトやゼリーのようなものをゆっくり食べる練習から始める、と言われちょっと拍子抜けした覚えがありますね。
さらにさらに、そのヨーグルトやゼリーを食べる練習も店員前の、所沢の国リハ病院に戻ってから始めると言われさらに拍子抜けした覚えがあります。
そんなわけで実際に口から食べる練習を始めたのは、実は手術からかなり後の4月15日以降でした。
来月(04年4月)以降は『この話』を中心に記事を書いていこうと思います。何といっても自分自身にとっても、この話は入院生活後半のメインでしたからね。

~来週へ続く

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地獄の入院生活(04年2月)

2011-09-17 18:00:00 | 闘病日記
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■再び口から物を食べられるようになるために
先月末(04年1月末)に病院をこの国リハ病院に移って以来、最初の1週間くらいはそれこそ検査検査の嵐でした。
レントゲン撮影、音がガンガンうるさいMRI検査、それから一応の眼科での視力検査、神経内科での問診etc…-。その中でも、この時の自分にとって一番気になっていたのが『飲み込みの検査』の結果だったのかもしれないですね。

 これまで何度も書いてきた通り、自分は口から物を飲み込んでそれが正しく胃に送られず肺にいってしまうように体がなっていました。
ま、ようするに口から食べた食べ物が正しく飲み込めなかったわけです。この『飲み込みの検査』では、この時の自分が入院当初の頃と比べて飲み込みの力が回復しているのかを診る目的の検査でした。
で、その結果は-。結果は入院当初の頃と全く変わっていなかったらしいです(涙)。
もうこの病気を発病して5ヶ月近く。これだけ経って、ほとんど『飲み込みの機能』は戻っていないわけですから、もう自然治癒の力だけで再び口から物が食べられるようになる見込みは、この時点でかなり薄いといえました。
だったら人為的な力で再び口から物を食べられるようにするしかない-。ということで、この時担当医に進められたのが『ノドを手術して飲み込みの機能を人為的に回復させる』という方法でした。

 ところで、口から飲み込んだ食べ物が胃の中に送られていくというのは、次のような原理で成り立っているそうです。
人間が口から飲み込んだ物は、ノドを通り気道から食道を通り胃の中に落ちるわけなんですけど
この際、気道を通る時には通常『ちょっとした仕掛け』が働いて胃に物が落ちるようになっているんです。
人間というのは普段、口と肺とが気道を通じて繋がっていて、その気道を通って酸素を取り込み、いわゆる呼吸をしているのですが
ただ、その普段は酸素を取り込んでいる肺があるあたりには、実はピンボールのフリッパー(または踏み切りの遮断機の方が分かりやすい?)のようなものがあって、気道から何か食べ物が落ちてきた時には『ちょっとゴメンよ』という感じでそのフリッパーが上に上がり、気道と食道とが繋がって、食べ物が胃に落ちるようになっているんです。
みなさん何か食べ物を食べた時には、いわゆる『ノドちんこ』が上がっていると思うのですが、実はそのノドちんこが『グイィ』と上がっているタイミングで上で挙げているフリッパーのようなものが上がり、食道を通って食べ物が胃に落ちているんです。興味のある人は何か食べ物を食べた際に自分でノドちんこを触って確認してみてください。

 で、話を自分のことに戻すと、この時の自分は上で挙げているような『食べ物を口から食べた際に上がるはずの、肺の近くにあるフリッパー』が全く上に上がらなくなっていました。
その結果、口から食べた食べ物が胃に落ちなくて肺にいってしまい、そのまま食べ物を摂取してしまうとあっという間に肺炎になってしまう-。こういう理由で、この頃の自分は口から食べ物を食べることができなくなっていました。
それで、上のような自分の体の状態を治そうというのが今回の手術の主旨で、その方法としてこの時の担当医が示してきた手術の方法が以下の3つでした。

1.気道のフリッパーを完全に取っ払ってしまい、口から食べ物を食べられるようにする方法。ただし、これをしてしまうと以後、完全に声を出すことができなくなってしまうらしい
2.手術は行なわないで、現状のままにしておく方法。この方法だと、口から物を食べることは一生できなくなるが将来的に声を出せる可能性は高い
3.上で挙げているフリッパーを人為的に上げ下げさせられるように手術をする方法。この方法を取れば、口から物を食べられるようになり将来的には声も出せるようになる可能性が高い

この時、自分が洗濯したのが当然3つ目の選択肢。そりゃ誰だって、自由に物が食べられて声が出せるようになった方がいいってもんですから。
ただ、何故この時担当医が1.と2.の選択肢を提示してきたのかというと、回復力があまりないお年寄りなんかにはこの手術、それなりにリスクはあるみたいなんですよね。
なので一応、ということでした。でも自分はまだこの時れっきとした20代でしたし(苦笑)この話をしてきた担当医の方も『きうっちさんはまだ若いから3.の手術をする方向で考えた方がいいよ』と言ってくれましたから、自分にも当然迷いはありませんでした。
それほど年配の人でなければこの手術、成功率は相当高いみたいですし(というか失敗する確率は何十万分の1らしい)。
もし万が一3.の手術に失敗したとしても、1.の手術はまだできるみたいでしたからね。そんなわけで近々この手術を受ける方向で調整していくことになりました。

 ただこの手術、この時自分がいた所沢の国リハ病院ではできないとのことでした。なので『この手術をするためだけに』短期で違う病院、具体的には
新宿にある国際医療センターという病院に近々転院することになりました。ところでこの手術を受けることが決まった時の自分の考えていたことなのですが、本人としては『ここに転院してきたばかりなのにまた転院すんのかよ…』というめんどくささと
『これで、やっと口から食べ物が食べられるようになる!』という喜びの感情が入り混じっていたことを覚えています。それとこの時手術に対する不安というのはほとんどありませんでした。
この手術の失敗する確率が相当低いということももちろんあったのですが、ただこの時の自分の中では『だって受けるしかないじゃん、この手術。だってそうしないと病気前のように元に戻ることはできないんでしょ?』という思いが強かったですし、
先月の時点で『もう再び目が見えるようになる可能性はほとんどない』ということも分かり、色々なことにちょっと捨て鉢になっていた部分もあったのかもしれません。この時の自分はまだ、正直前向きに物事を考えることはできませんでしたね。
何かをしなければ物事が前には決して進まない、というのは認識はしていましたが。でもそれを自らのプラスの方向へ変えられる発想がありませんでしたね、この時の自分には。

■かなり久しぶりの歯磨き。でも…
 この時期、担当医からお許しが出て久しぶりに歯磨きをすることができました。それに歯磨きをする際には
歯を磨いた後に口の中を水でゆすげるわけで、実はこれが一番ありがたかったんです。それまでカピカピに乾いていた口の中を水で潤すことができたわけですから。
いや~本当に気持ちのいいの何のって……病気で倒れて以来4ヶ月以上、口の中にまともに水を含んだことは無かったので、ホントこの時には『口の中に水分を含めることのありがたみ』をこれでもかと噛み締めていましたよ。

 ただ久しぶりの歯磨きは正直『歯を磨く』どころではありませんでした。というか歯ブラシで歯を『磨く』というよりは『撫でる』という感じでしたね、久しぶりに歯磨きをした時には。
何でそんなことになってしまったのかというと、それはこの頃の自分には腕にほとんど力が入らなかったから。片手で歯ブラシを持つことはさすがに大丈夫だったのですが、
問題になったのは手にした歯ブラシを歯に添えてもそこで力が全然入らないということ。みなさん何かを磨こう(または拭こう)としてもらえれば分かると思うのですが、何かを磨くためには
それなりに腕に力がいるということが改めて分かると思います。そうしないと磨く対象にブラシを『添えて撫でている』だけになってしまいますから。そして、この時の自分が『歯磨きをしている』状態がまさにそうでした(涙)。
前述のように片手で持った歯ブラシを歯に添えても全然力が入らないので、両手を使い、両手を横に並べて必死にゴシゴシと歯を磨いていましたね、この頃の自分は。
そう。まるで普通の人がクルマを洗車する際に大きいブラシでクルマのボディをゴシゴシと磨くように。…でもまぁ、実はそれでも力の入っていたレベルとしてはどうにか『撫でる』から『磨く』といえるようになったかな?というくらいにしか手に力が入っていませんでしたけどね…。

■あお向けに寝たまま入れるお風呂♪
 04年1月分の入院生活を記した記事でも触れましたが、先月ようやくお風呂(シャワーを浴びる)に入れるようになりました。
ただ、その記事でも触れていた通り、この段階では車椅子だったので湯船につかることはかないませんでした。またその時には『寝たまま入れるお風呂』があればこの時の自分でも湯船に浸かれるともチラッと触れていました。
…そして!そしてです!この国リハ病院ではその『あお向けに寝たまま入れるお風呂』があったのですよ!
おかげで自分も入院生活5ヶ月目にしてようやく、本当にようやく湯船に浸かることができましたよ(感涙)。

 ところで、これを読んでくれている大抵のみなさんは疑問に思ったことと思います。
一体どうしたらあお向けに寝たまま湯船に浸かれるのか?-。と。それはこういうことです。
まず横の幅が2メートル、縦の幅が60cm程度の皮製のソファーを想像してみてください。
この大きさのソファー(のようなもの)の外側にあたる四方全てに同じ皮製の、高さ20cmくらいの仕切りがあると思ってください。
ここがお風呂の『湯船』にあたる部分で、ここに解除者本人(この場合は自分)が寝転がります。後はこの『湯船』にシャワーなどで
お湯をジャージャーと溜めれば『あお向けに寝たまま浸かれる湯船』の完成です。でも、文章だけの説明ではちょっと分かりにくいかもしれませんね。
また、体や頭はこの『湯船』に浸かったまま洗うことになるのですが、この『湯船』に浸かった自分を4人くらいの看護士さんでよってたかって洗う(介助)することになるわけです。

 そういうわけで、結構大掛かりで人手がたくさんいるわけですから、この時点での自分がこの『お風呂』に入れるのは
だいたい1週間に一度といった程度でした。でもまぁ、この頃の自分にとってはこの『お風呂タイム』は本当にありがたかったですし、この頃の数少ない楽しみの一つでもありましたね。
4ヶ月以上もお風呂に入れなかったことを考えると、やっぱり大変な生活環境の改善でしたよ。

■ボタン付シャツを着る練習
 自分は04年1月末頃にリハビリ専門の病院である、この国リハ病院に転院してきたわけなのですが、
そのおかげというべきなのか、これまでやってきたリハビリの内容も一変してしまいました。
その一つがここで紹介する、ボタン付のシャツを着る練習をしたことでした。

 このリハビリは、ようは車椅子に乗った状態の自分が『自力で』ボタン付のシャツを着れるようにする練習、まぁようは普通の人が
毎日普通にこなしていることを自分にもできるようにしようと。ちなみにこの頃の自分は、毎日の服の着替えは手の力や腕の動きが悪かったこともあって、自分一人の力ではできなくて看護士さんなどの助けを借りる形でしていました。
当然このリハビリの目的は自分にもそろそろ一人で服を着れるようにしようというのが主旨なわけなんですけど、服を着る作業をすることで今まで(病気になってから)してこなかった腕の動きをすることになったり
視力に全く頼らずにボタンを留められるようにするなどの手元の器用さを鍛えることにも繋がっていました。

 ただ、最初の頃は本当に大変でしたよ、服を一人で着るのは。
この頃の自分はまだ両腕があまり自由に動かせませんでした。具体的には両腕が肩の高さより少し高く上がるくらいだったので
まず腕が服(この時練習で使用していたのは長袖)の袖に上手く通すことができません。さらにやっとの思いで袖に腕を通して、服をはおることができたとしても
次に待っている難関がボタンを留めること。最初の頃はこれにかなり苦労させられましたね、ホントに。
まず目が全然見えていないわけですから、ボタンを留めるための『穴』を探すことが成れていないと結構大変なんですわ、これが。
そしてこの頃の自分はまだ手にそれほど力が入りませんでしたから(握力でいえば10より少しあるかな?という程度)ボタンを留める穴を見つけることができても、その穴に上手くボタンを通すことができませんでした。
また、目が見えてないおかげで服の右側のボタンと左側のボタンを通す穴が一つズレるなんてことは日常茶飯事でしたしね。
でもまぁ、このあたりは手の力が徐々に戻っていくのといわゆる『成れ』のおかげで徐々に改善されてはいくんですけどね。1ヶ月半も経つと、もうほぼ完全に一人でボタン付のシャツは着ることはできるようになっていましたし。…別に何も自慢できることではないのでしょうが(苦笑)。

■音声読み上げソフトとの出会い
 この国リハの病院は『リハビリ専門の病院』というだけあって、本当に色々なリハビリをやらせてもらえました。その中でも、今後の自分の人生で欠かせなくなるスクリーンリーダー、いわゆる音声読み上げソフトを
紹介してもらったことは本当にありがたかったですね。というか、この音声読み上げソフトに出会った時は本当に衝撃でした。
病気になるまでの自分は『パソコンの画面に映っている内容や、自分が打った内容を音声で案内してくれるアプリケーション』なんてものがあるなんて想像もしたことが無かったし、
目が見えなくなってこのかた、自分がまた再びパソコンのキーボードを触ることになるなんて考えもしてなかったですから、そのことはちょっとした感動ですらありました。

 そもそも何でこの『音声読み上げソフト』を紹介してもらえたのかといえば、その時の主治医の先生に自分がパソコン関係(厳密には違うのですが、他の人に説明する時はかなり面倒なので一言で『SE』としてしまいますけど(苦笑))で仕事をしていたことを話したところ
『じゃあきうっちさん、もし良かったらパソコンのリハビリメニューやってみる?』ということで、この音声読み上げソフト、別名スクリーンリーダーを紹介してくれました。
ただ、パソコンのリハビリメニューといっても、単純にメモ帳にちょっと長い文章を打つだけの、病気前はパソコンを仕事の生業としていた自分には少し物足りない感じのリハビリのメニューでした。…一見すれば。

 ここで一見すれば、といったのは病気前の目の見えていた自分と病気後の目の見えなくなっていた自分とでは、同じキーボードを打つのでもだいぶ勝手が違っていたということでした。
まず、そもそもこの頃の自分と病気になる前との自分とでは手の力や指の動きのよさが全然違うということ。こういう状態を経験して初めて思い知ったのですが、
一見それほど力が無くても支障が無さそうなキーボードの入力も、実はそれなりに手の力や持久力がないと結構しんどいということが嫌というほど分かりましたね。病気になって、こういう状態でキーボードを操作してみて。
それともう1つ。自分は大学時代、勉強はあんまりマジメにやってはいなかったのですが(汗)ブラインドタッチだけは結構真剣にやっていました。
だから、例え目が見えなくなっていてもキーボード入力に関しては大丈夫だろ?とタカをくくっていたところもあったのですが-。実際はそうでもありませんでしたね。その目論見は完全に甘かったです。

 自分以外の、目が普通に見えているパソコンを使っている人の大概の人もそうなのかもしれませんが、目が見えているとブラインドタッチでキーボードを入力しているつもりでも
ついつい下をチラチラと無意識に見てしまうと思うんですよね。かくいう自分も、目が普通に見えていた頃はそうでした。
でも目が完全に見えなくなって、まさに『本当のブラインドタッチ状態』になった時にその『メッキ』ははがされるということです。
普段、よく押すことが多かった数字やアルファベットのキー(ABC…)はまだよかったのですが、それまであんまり使うことが無かった記号のキー(¥や’など)は、その時いたリハビリの先生に聞かないとどこにあるか分かりませんでしたから。
それに目の見えていた頃には、Altキーやキーボード右側のCtrlキーなんて使わなかったですしね。さらにいうと、画面上に表示されているブラウザの内容なども、目の見えていた頃と音声の案内のみで操作している『現在』とでは見える景色が全然違っていましたし。
結局、この頃からまた自分はパソコンに関しては一から勉強していくハメになりました。それも独学で。…まぁでもおかげさまで、目が見えていた頃よりもパソコンは遥かに使いこなせるようにはなりましたけどね。まさにケガの巧妙ってヤツですよ(笑)。

■今月のその他のリハビリメニュー
 上で挙げているボタン付シャツを着る練習やパソコンを使ったリハビリ以外にも、リハビリの先生がつく正規のリハビリも自分で勝手にやっているものも含めて、この頃はこんなリハビリをしていました。

1.背もたれのない椅子(病院の待合室なんかにある長椅子を想像してもらうと分かりやすいかも)になるべく長い間座る練習
2.先月まで行なっていた両腕の体操。これをリクライニングベッドを立てた上でやるのではなく、車椅子に乗った状態で行なう
3.これも先月に引き続きのリハビリ。手でニギニギするグリップを用いて、握力を鍛える訓練。
4.病院の壁際にある手すり。それに向かって車椅子を垂直方向に向け、その状態から壁際にある手すりを両手で掴む。すると上半身だけ腕立て伏せのような体勢が出来上がるので、その状態から腕立て伏せのような動きをするリハビリ

まずここで少し整理。ここで挙げた1.はリハビリの先生がつく正規のリハビリで、2.から4.が自分で自主的に行なっていたリハビリでした。
で、1.のリハビリは先月までしていたベッドサイドに座り、自分の目の前に配置された簡単な机を支えにして座る練習をもう少しレベルアップさせたもので、
具体的には先月まで自分の目の前にあった『支えにしていた』机を無くした状態で座る練習をしていました。
この時期の自分はまだ何の支えも無しに、背もたれのない所には座れませんでしたから、当然何かを支えにして座ろうとするわけで、そうするともう、自分が体を支えようとして掴む場所は
自らが座っている長椅子の外側の部分しかないわけです。でもちょっとその姿を想像してみてください。この姿勢って実はかなり不安定なんですよ。
この頃の自分は足の感覚や力もまだほとんど無いですから、自分の体は両手で掴んでいる長椅子とかすかにあるお尻と腹筋や拝金の力だけで支えている状態。
だから唯一まともな感覚がある、長椅子を掴んでいる両手には相当の負担がかかっているわけです。よって、この頃の自分では、たった10分だって、この姿勢を維持することはとても大変でした。

 そして2.と3.のリハビリに関しては先月にしていたことなので、ここでの詳しい説明は省略しますが
2.に関してはリハビリをしていた場所が先月までのリクライニングベッドの上から、車椅子の上に変わりました。
正直、それほどの環境の変化ではないと思うのですが、先月までは自分の首が疲れてくれば
すぐ後ろにあった(目一杯立てていた)リクライニングベッドの上にもたれかかればよかったんですけど、車椅子に乗ってリハビリをしている今月からはそういう『逃げ道』は無くなってしまったわけです。ま、そういう意味では少しだけ変化はあるのかな…。

 そして今月から自主的に始めた4.について。2ヶ月くらい前の03年末には車椅子に2時間くらいは乗っていられるようになった、と書きましたが
この時期の自分はもう、それどころか4時間以上だって乗っていられるようになっていました。なので、この頃くらいから自分は
何もすることがない時は基本的に車椅子に乗っているように習慣つけていました。こうすることで、ベッドの上に主にいた時には、ついウトウトと昼ねをしてしまい、夜間眠れなかったというのを防ぎたかったというのもありました。…中々その目論見通りにはいかなかったのですが(苦笑)。
…話を戻します。で、この頃の自分は普段はなるべく車椅子に乗っているようにしていたわけですが
そうすると『できること』がベッドに主に寝ていた頃と比べると格段に増えることになります。その一環の中で始めたのが、このリハビリでした。
このリハビリはまず病院の壁際まで車椅子に乗った状態の自分を連れていってもらい、
続いて上で紹介しているような『腕立て伏せのような体勢』を取るわけなんですけど、そこから先はもうひたすら腕立て伏せのような動きの繰り返し。
この時期の自分がこれについて立てた具体的な一日のノルマは、だいたい100回を1セットとしてそれを1日3セットから5セットといったところ。
この頃の自分は足の方は正直全く動かせませんでした。それどころか感覚すらもあまりありませんでしたからね…。
ただ、その代わりといってはなんですが、腕を中心とした上半身はだいぶ自分で動かせるようになっていました。
そしてこの頃くらいから自分には、これまでの入院生活の経験から得た確信めいたものもありました。腕や足はとりあえずある程度は動いてくれさえすれば、後は自分がひたすら酷使(運動)させればぐんぐん回復するものだと。
実際、動き始めるのが足に比べて早かった上半身を中心とした腕は、この時期くらいから飛躍的に回復していくスピードが早くなりましたしね。
だから自分としては、こう考えました。とりあえず、まだ動くか一生動かないか全く分からない足を中心とした下半身はほっといて
今は自分の力である程度動かせる腕を中心とした上半身を徹底的に鍛えようと。でもまぁ、この時の自分には『そうするしかなかった』ということもあったのは事実なんですけどね…。

 ところで、自分の入院生活を記したこの闘病日記も今回で丁度半分といったところですね。
…それにしてもまだ半分か……完結までは先が長いなぁ…。

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地獄の入院生活(04年1月)

2011-09-10 18:00:00 | 闘病日記
 ところでこの年(04年)の初め、自分は前にいた病室からさらに転室することになりました。
前いた病室は4人患者の相部屋で常に看護士さんが2人常駐していた部屋だったのですが、
今回移った部屋は6人患者の相部屋で看護士さんが特に常駐していることもなく、何か用事がある時は自分でナースコールを押して看護士さんを呼ぶ形の
一番標準的な病室だったそうです。…とまぁ、確かにそんな標準的な病室には移れたんですけど、自分の病状は相変わらずひどかったわけで
それに対して特に喜ぶようなこともなく、毎日のリハビリと診察を淡々とこなす日々はまだまだ続くんですけどね…。
あ、それとこの入院生活を記した記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、ご希望の方はどうぞ。

■超久しぶりのお風呂♪
 この時期まで自分は入院生活を始めて以来、一切お風呂に入ることができなかったのですが、この04年の1月、久しぶりに、本当に久しぶりにお風呂に入ることができました♪
この頃、自分もだいぶ長い時間車椅子に乗っていられるようになってきたし、車椅子に長時間乗っていても、気管切開で開けていたノドの穴から分泌物、いわゆるタンがあまり出ないようになっていたので、
担当医から『きうっちさん、そろそろお風呂に入ってみる?』と薦められ、念願のお風呂に入ることとなりました♪

 ただ、この時点の自分は立つことはおろか、足はほとんど動かせなかったので、お風呂に入るにも少し工夫が必要でした。
この頃の自分がお風呂に入る時は、車椅子に乗って入ることになるのですが、その車椅子は普段自分が乗っているのとは違う、濡れても別に構わない、ほとんど廃棄寸前のものでお風呂場に行っていました。
ちなみに本来であれば、このようなケースの場合、車椅子の人がお風呂に入る際に使用する専用の車椅子、いわゆるシャワーチェアーというものがあるのですが……でもそのシャワーチェアーが自分がこの時入院していた病院には無かったので、この時は別のもので代用という形を取っていました。
そして気管切開をして開けていたノドの穴からお風呂の水(お湯)が入ってしまわないように、そこをタオルで入念にカバー。さらにその時着ていた服は病室でほぼ全て脱いでしまってから、自分の乗っていた車椅子を看護士さんに押してもらってお風呂場へいざ出陣!お風呂場では3人ほどの看護士さんに体や頭を洗ってもらっていました。
ちなみに『お風呂に入る』といってもこの時点の自分がいわゆる湯船に浸かるのはとても無理な話で、お風呂場ではもっぱらシャワーをずっと浴び続けていましたね。30分程度。
それでも自分は病に倒れて以来、4ヶ月以上お風呂には入っていなかったわけで、お風呂でシャワーを浴びている時の自分は本当に幸せな気分でした♪お風呂って何て気持ちがいいんだろう……と。

■今月のリハビリメニュー
 この頃にしていたリハビリのメニューをご紹介……といっても実は先月としていたことはほとんど変わらなかったんですけどね。まぁ一応この頃のリハビリのメニューを挙げておくと

1.リクライニングベッド(自分が普段寝ていたベッド)を目一杯起こし、なるべく座った状態に近い姿勢にして両腕の体操。
2.ベッドサイドに座り(もちろん解除されて)、自分の目の前に配置された簡単な机(たぶん机の脚が1本だけの単純なものだったと思う)を支えにして座る練習
3.これと平行して、先月までにしていた口元のリハビリと手の指の可動域を広げるための運動も続行
4.手でニギニギするグリップ(名称不明。誰か名前知っていたら教えてください(汗))を用いて、握力を鍛える訓練。

えっと、1.~3.までは先月とやっていたことはほぼ同じなので、もし詳しい解説が知りたければ、そちらを参照してください。
で、今月から始めた4.について。別に何の障害を持たないみなさんも、手でニギニギするグリップのようなもので、握力を鍛えようとした経験のある人はいると思います。
先月までゴムボールをニギニギして握力を鍛えていた自分も、この頃になるとだいぶ握力が戻ってきていた(それでも握力は10未満だったと思いますが)ので、この時期から少しランクを上げてこのニギニギグリップ(正式名称不明なので、自分はこう呼んでいます)で握力を鍛えることにしました。
で、自分がこの時使用していたのが、ニギニギグリップの根元の部分を少し動かすことでグリップの重さが5段階に変えられるもの。一番軽い段階は小さな子供でも握れるような超軽いもので、一番重たい5段階目にすると握力が最低20はないと、連続で数回も握れないような重さになるものでした。
ちなみにこのニギニギグリップは約7ヵ月後の退院の時まで、ずっとお世話になることになりました。この頃の自分はまだまだ握力も弱かったので、一番軽い段階で毎日ニギニギしていたわけなのですが、
半年もすると一番重たい段階にしても全然大丈夫なくらいにまで握力を戻すことができましたからね。この握力を鍛えるニギニギグリップは今後、自分自身が体の回復具合の目安を計る一種のバロメーターのような感じにもなっていたと思います。
何より、これ握っているの結構楽しかったですからね、本人的には。先にも触れた通り、本人的には自分の力の『戻り具合』が一番実感できるものでしたし。

■FM-NACK5との出会い
 ところで、自分がこの頃入院していた病室には毎日ラジオ(FM-NACK5(ナックファイブ))が流れていました。自分はそれまで、ラジオなんて全然聴いたことがなかったし、
最初は、この病室で消灯時間以外(7:00-21:00の間)に流れていたNACK5の放送も何となく聴いているだけでした。ところが……それまで何となく聴いていたNACK5もちゃんと聴いてみると……結構面白いじゃん!ということに気づきました(笑)。
特にNACK5の平日夜の看板番組である鬼玉(おにたま)を初めて聴いた時は衝撃でしたね。何ていい加減な番組なんだと(笑)。でもまぁ、それにも増してこれまでTV視聴では味わったことのない、独特の面白さを感じることもできましたけど。

 思えばこの時から今の自分へと繋がる、ラジオ人生が始まったようなものでした。特に自分の入院生活は体が動かないうえに目まで見えなくて本を読んだりTVを持ち込んだりして
暇をつぶすことができなかったので、このNACK5ならびにラジオとの出会いは本当にありがたかったですね。この頃、早速携帯ラジオを両親に買ってきてもらって
入院中はそれこそ、リハビリをしていた時間以外はラジオばっか聴いていたくらいですし、一時期は自分がよく聴いていた局(前述のNACK5とTBSラジオ)の一日の番組プログラムをそらで言えたくらい、ラジオにどっぷりハマっていましたからね。
それにしても、全然関係のない話ですが、いい加減NHkのラジオ第一が早くラジコで聴けるようになってくれないですかねぇ……そうすれば正月の箱根駅伝もラジコで聴けるようになるんだけどなぁ…。

■『失明』の決定的宣告
 これまで何度も述べてきましたが、この頃自分はようやく車椅子にそれなりに長い時間乗っていられるようになったので
念願だった(この時期、一体いくつ念願があったのかは自分でも分かりませんが(苦笑))眼科へ視力検査に行くことができました。そこで視力検査をして、ちゃんと今の自分に度のあったメガネをかければそれなりに目が見えるようになるんじゃないのか-。この時期の自分はまだ『自分が失明していた』とは本気で思っていなかったので
そんな甘いことを考えていました。それでこの先の入院生活にも文字通り光が見え、今後のリハビリ、ひいては今後の人生にも力が入るのではないかと。…ところが-。みなさんのご想像の通り、結果は無残なものでした。厳しすぎる現実を突きつけられただけでした。
これを書いている8年後の現在も目は全然見えてないのですから当然この頃もちっとも見えていないわけで、この時測った視力は左右とも0.01以下、というかほぼ計測不能で色も光も判別することができず、まぎれもなく『全盲』と呼べる状態でした。

 以前から薄々感じてはいましたが、この結果を突きつけられた時は本当にショックでした。よくボクサーが『網膜剥離で失明の機器』なんて話はそれまでも何となく耳にはしていましたが、03年9月に病気で倒れるまでは自分が失明してしまうなんて想像もしたことは無かったですから…。
ああ…これで自分の大好きなTVゲームはもう一生できなくなってしまうのかな……もう例えこの先手足を動かすことができるようになったとしても二度とクルマは運転することができないな……
その日、眼科から視力検査で『現実』を突きつけられて病室に戻ってきて自分のベッドに寝転がった後、そんな悲しい現実を考えていたらだんだん目頭が熱くなってきて……
そのすぐ後に、その時いた数人の看護士さんや自分の担当医から次々と『まだ見えるようになる可能性はあるんだから!きうっちさんは眼球は傷ついてないんだからあきらめちゃダメ!』と次々と励まされて……その時の自分はもう涙がこらえきれなくなっていました。
でもそれはみんなに励まされて出てきた涙では無かったですね。たぶん、『自分はまぎれもなく失明した』と現実を突きつけられ絶望し、この先の自分の人生に光が見えるどころかまったく見えなくなって、もうどうしたらいいのか分からなくなって自然と出てきた悲しみの涙だったと思います。

 この後、正直2、3日くらいはショックで何もヤル気が起きなかったですね。でもその後、結局自分は日々のリハビリを黙々とこなすようになっていました。
その原動力が何だったのか?-。それは正直、8年後の今でもよく分かりません。確かに病気になるまで勤めていた会社からは、約2年間の休職期間をもらっていたので
05年11月までに会社に復帰できればいいということにはなっていました。自分もそれまでは一応、会社に復帰できるようにということを一つの目標にしてリハビリはしていたつもりです。
ただ、これまでの自分の体の回復のペースや目が完全に見えなくなったことを考えると、この頃の自分もさすがに『それはたぶん難しいだろうな…』というのは感じていました。(その後、2年後には現実に会社を退職することになったのでそれはあたっていたのですが)
じゃあ一体何が原動力になっていたのか?-。たぶんそれは、何も原動力なんて無かったんだと思います。じゃあ何で何も原動力が無かったのにリハビリに勤しんでいたのか?-。それは他に何もやることが無かったからだと思います、今思うと。

 そのことが良かったのか悪かったのか、この頃の自分は病院のベッドの上ではやることが本当に何もありませんでした。やることといえば、前述の『携帯ラジオ』を聴くことくらいでしたから。
だからリハビリをすることしか、毎日体を動かすことくらいしか、暇をつぶす方法が無かったんですよ、悲しいですけど…。
それに体を動かしていた方が、自分に突きつけられた『悲しい現実』を少しでも忘れることができましたしね。というか少しでも『そのこと』を考えないようにしないと、自分の精神状態が本当におかしくなってしまいそうでしたから…。

■リハビリ病院への転院
 この時期、04年も1月くらいの頃になると、自分もだいぶ体の状態はよくなっていました。それに伴って先生に観て貰えるリハビリのメニューも徐々にグレードがアップしていきました。
そこでその時の自分の担当医からこんな提案をされました。きうっちさんは体の状態も入院当初の頃と比べるとだいぶ良くなってきたし、リハビリ専門の病院に転院してみる?-。と。
病院に入院している患者というのは同じ病院にずっとは居られないらしくて、どんな患者も長いサイクルで半年くらい経ったら他の病院に転院しなければいけないみたいなんですよね。
ま、この話は自分がその時近くにいた看護士さんから小耳に聞いた話をよく調べもせずにうろ覚えの記憶で書いているので、真偽のほどはさだかでは実はないのですが…。
まぁともかく、自分もそろそろ他の病院に転院をする時期となり、だったらきうっちさんはリハビリをこの先効率よくやるためにもリハビリ専門の病院に移った方がいいのでは?ということで、自分はこの月の待つ、リハビリ専門の病院へ転院することになりました。
で、自分がこの時転院する病院となったのが『国立障害者リハビリテーションセンター』という病院。…このブログをずっと読んでくれていた人なら、この名前を聞いて『あれ?』と思ったかもしれません。
そうです。自分がこの夏(11年7月)まで入っていた寮があった施設で、その同じ敷地内にあった病院が今回の転院先の病院でした。
この時から、自分と国立障害者リハビリテーションセンター、通称国リハとは不思議と縁があった、というわけなんですよ。

 ところで、この時自分が入院していた私大病院から国リハ病院まではだいたいクルマで1時間半弱の道のりでした。
で、この頃の自分はだいぶ状態はよくなったとはいえ、大きなワゴン(軍の装甲車のようなクルマの大きさを想像してもらうといいかも)に自分の車椅子を載せてクルマで移動するのは、正直キツいものがありました。
どうもそのことは病院側でも考えていたらしく、この時自分が転院する時には『ベッドに寝た状態のまま』クルマに載せて移動できるように病院側で配慮してくれていました。
病院関係のドラマなんかが好きな人は知っていると思いますが、いわゆるストレッチャーを浸かって自分を寝かせたまま、そのストレッチャーをクルマ(恐らく救急車?)に載せて
所沢の国リハ病院まで行くことになりました。おかげで転院の際の移動はかなり楽でしたね。同時にこの頃の自分にはまだ、車椅子で座ったままクルマで遠出するのはちょっと難しいかなとも感じていました。

 で、約1時間半後、無事国リハ病院にたどり着いたわけなのですが、その時転院先の国リハ病院で
自分の乗った(載せられた?)クルマまで迎えに来ていた、国リハ病院の看護士さんたちが自分の病状を見て
非常に驚いていたのが印象に残っています。たぶん、こんな風に思っていたんでしょうね。
この人、こんなにひどい状態なのに本当にここの病院のリハビリ頑張れるの?ホントに大丈夫なのかな…-。と。

~来週へ続く
コメント (1)
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地獄の入院生活(03年12月)

2011-08-27 18:00:00 | 闘病日記
 まだまだ続く自分の入院生活。この記事では入院生活の3ヶ月から4ヶ月目にあたる、03年12月頃のことを触れようと思っているのですが、この入院生活、退院したのが04年8月の頭だったので
この時点で実はまだ全体の3分の1にも達していないんですよね。約10ヶ月か……我ながらホント、長く辛い入院生活でした。
そんなわけで、過去の入院生活の記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、こちらからどうぞ。

■頭髪を丸刈りボー図頭に
 ところで、この頃頭髪を丸刈りボー図頭にしました。自分は病気になるまでは、普通のいわゆる『五部分け』のような髪型だったのですが、
それをこの時期、長さ6ミリ程度のボー図頭にバッサリと切ってしまいました。その理由は割と単純。
先月の記事でも触れた通り、この頃の自分はお風呂に入れませんでした。1週間に一度程度は髪を洗ってもらえたとはいえ、正直頭がずっとかゆい上体が続いていたんですよね。おまけにこの頃の自分は、頭にはシラミのようなものまで沸いていたという話だったし。
で、この時期の自分はほぼ外部の人間と接触する機会が無かったし、悲しいかな、必然的に外見を気にするような必要もありませんでした。なので、だったらいっそのこと-。というわけで、看護士さんにバリカンでバッサリと切ってもらいました。
それにこの頃の自分には『今は修行中の身だから』などという、今考えると自分でも訳のわからない理屈が働いていて『退院するまでは髪はボー図で』という、ちょっとナンセンスな思いが働いていました。
でもまぁ、結果的にはこのボー図頭からの流れで今も割と短いスポーツ刈りの髪型は、2011年8月現在も続いているわけで、今考えるとこの事は自分にとってはちょっとしたエポックメイキングな出来事ではありました。

 それとどうでもいいことですが、この時期自分が突然『かなり短いボー図頭』になったことが当時入院していた看護士さんたちの間で話題となり、
あろうことか、自分のシャリシャリした頭を触ることがちょっとしたブームになってしまいました。何でも自分の頭は割りと形がいいらしく、かつ自分のシャリシャリした頭は、タワシを触っているみたいで気持ちが良かったとのこと。
…まぁ別にいいですけどね。それとこの頃の自分は『それ』から逃げられるほどまともには動けなかったし、この頃の自分はほとんどの時間をベッドの上に寝転がっているか、そうでなければ車椅子に座っていたので、立って歩いて動いていた、周りの看護士さんたちからは、自分の頭は撫でやすい、丁度いい高さにあったことも、こんなことをされていた要因だったのかもしれませんね。

■この頃、食事を摂る方法を少し変えました
 03年10月頃の入院生活に触れた記事でも紹介した通り、この頃の自分の食事を摂る方法は一般的な『食事を摂る』方法とは明らかに異なっていました。
その方法は、片方の鼻の穴に細長いチューブのようなものを突っ込みそのチューブを点滴台に引っ掛け、その上でそのチューブから流動食を自分の体の中へ1時間ほどかけてゆっくり流し込んでいく-。というような方法で、毎日の食事や水分を摂っていました。
そもそも何でこんな面倒な方法で食事を摂っていたのかというと、この時点での自分は、普通に口から食べ物を飲み込んだ時にその飲み込んだものが胃ではなく肺にいってしまい、この状態をほったらかしにしてしまうとあっという間に肺炎になってしまうからでした。
なので、この方法であれば口から食事を摂ることができないこの時点での自分でも安全に栄養を補給することができたわけなのですが、この方法には少し問題もありました。
それは常にこの『栄養を摂るためのチューブ』を装着していなければならないため、それに伴って必然的に点滴台を抱えて移動しなければならず、また体に常にチューブのような『長いコードのようなもの』がついているため
非常に動きにくい。今までは自分もそんなに自分自身で動くことができなかったのでそれほど問題にはなってこなかったのですが、この頃の自分は入院当初と比べればだいぶ動けるようになっていました。
言い換えると、この『栄養を摂るために装着しているチューブ』がリハビリの明らかな邪魔になってきていました。

 そこでお医者さんから提案されたのが、今回紹介する方法で栄養を摂る方法。それは胃瘻(いろう)と呼ばれるものを腹部に取り付け、そこから胃へ直接栄養を送り込もうというものでした。
これを腹部に取り付ければ前述の『鼻チューブ』は完全に要らなくなるわけだし、体には腹部に15cm程度のチューブが『チョロ』とついているだけなので、リハビリをする時にもこれまでよりも格段に動きやすくなります。
体を動かす時の制限はほぼ無く、普通の人と何ら変わらないとさえいえます。

 で、この胃瘻を腹部に取り付けるためには、全身麻酔を打ってから簡単な手術で取り付けることになるのですが
その前に自分には『胃カメラ』と『バリウム』を飲み込まなければならないという、非常に憂鬱な問題をクリアしなければなりませんでした。
しかも胃カメラを飲み込む時には、体を左向きに寝転がって飲みこまなければならず、大変大変苦しい思いをした覚えがあります。
それにバリウムは妙に甘くて気持ち悪かったし……でもまぁ手術事態は30分程度で終わったし、あとは全身麻酔の効果で3時間ほど眠っていたらしいので、手術そのものは本人の中では『何となく』終わってしまったような感じでしたね。この手術をした後も『毎日の『食事』を摂るために1時間程度掛かるのは変わらないわけだし。
でも前述の『鼻にチューブが常に挿し込まれている状態』が無くなっただけでも、本人的にはかなり楽にはなりました。ま、考えてもみてくださいよ。
今までは常に、自分の鼻の穴の中(片方)にチューブのようなものが挿し込まれていたんです。つまり、自分の鼻の穴の中には1日24時間、ずっと違和感があったわけですよ。
この『違和感』から開放されたというだけでも、今回のこの胃瘻取り付けの手術は本人的にはやって本当に良かったという感じでした。

■人生で初めて車椅子を漕ぐ
 先月の終わり頃、ようやく止まっている車椅子に2時間ほど乗っていられるようになったこともあり、リハビリの先生の薦めもあってこの頃から車椅子を自分の手で漕ぐリハビリをするようになりました。
ところで自分は生まれてこの方、この頃まで車椅子と触れ合うことが一切無かったので知らなかったのですが、車椅子の車輪というのは
タイヤの部分の他に、乗っている本人が車椅子を漕ぐ時のために別の車輪が、タイヤの内側についていたんですね……これは自分で車椅子を漕ぐまで本当に知りませんでした(汗)、恥ずかしながら。

 ところで、この時点の自分には視力なんぞはほぼ無かったので、実際には車椅子本体を漕ぐことはできたとしても、その車椅子が一体どこに向かって進んでいくのか?というのが全く分からない、自分の意思でコントロールできない状態でした。
なのでこの時の自分が車椅子を漕ぐ時は、誰かに車椅子の前で手を『パン、パン』と叩いてもらい、その音を頼りに車椅子を漕いでいました。何だか自分が犬になったようで情けないのですが…。
でもまぁ、車椅子を漕ぐという動作は、ある程度の腕力、握力が必要なわけだし車椅子に座っていることがそんなに負担にならないということも、一つの条件になってきます。
そもそも『車椅子を漕ぐという動作』は特に腕力や握力を鍛えることになっていたと思いますから、やはりこの時点での自分には必要なことだったのでしょうね。例え犬のような扱いをしてまで車椅子を漕ぐことになったとしても。

■この頃のその他のリハビリメニュー
 ところで、上では車椅子を漕ぐリハビリについて紹介したのですが、ここではこの頃にやっていた、その他のリハビリについても紹介しようと思います。
この頃の自分は他にこんなリハビリを主にしていました。

1.リクライニングベッド(自分が普段寝ていたベッド)を目一杯起こし、なるべく座った状態に近い姿勢にして両腕の体操。
2.ベッドサイドに座り(もちろん解除されて)、自分の目の前に配置された簡単な机(たぶん机の脚が1本だけの単純なものだったと思う)を支えにして座る練習
3.これと平行して、先月までにしていた口元のリハビリと手の指の可動域を広げるための運動も続行

 とまぁ、これだけではよく分からないと思うので、例によってちょっと補足説明。
ただし、3.に関しては先月に書いていた内容とやっていたことは全く同じなので、その内容については03年11月の事を記した記事を参照してください。

 ではまず1.について。この頃の自分は両腕に関しては入院当初よりもだいぶ動くようになり、両腕ともだいたい自分の肩の高さと平行くらいの位置までは腕が上がるようになっていました。
また、ここまで腕が動いてくれれば自分自身の意思があれば体操のような動きもできるわけで、この頃から約半年くらいの期間、
自分は両腕をひたすら動かす、擬似ラジオ体操のような動きを黙々と繰り返していました。腕を上げたり下げたり、腕を前に出してパンチを繰り出すような動きをしたり-。それこそ、こんな単調な動きを
朝50回3セット、昼と夜もご飯の前に同じだけ、みたいにノルマを自分の中で課して、毎日毎日繰り返しこなしていました。
実はこのリハビリは誰に言われるまでもなく、ほとんど自主的に始めたものだったのですが、こうして書くと『毎日単調なだけでただ辛いもの…』のように聞こえてくるかもしれないですね。
ただ本人の中では実はそうでもありませんでした。ここまで読んできてもらった方にはお分かりでしょうが、自分は相当体のレベルが低い状態から回復を目指してリハビリを始めることになりました。
でもそのおかげで、リハビリをしていて自分の体の状態が良くなっていく、リハビリの成果が現れていくのがかなり目に見えて分かってくるんですよ、これが。
それがまた、TVゲームのRPGの主人公のレベルアップをしているようで、これが結構楽しかったりしていました。毎日毎日リハビリを繰り返していると、どこからともなくファンファーレが流れてきて『♪きうっちはレベルが上がった!』みたいな(笑)。

 そして2.について。同じように座る練習について先月の段階までは『車椅子になるべく長く座る』練習をしていました。ただ、上でも書いているようにこの頃の自分は車椅子にはだいぶ座れるようにはなってきていたので
今月からは少し段階を上げて、ベッドサイドに腰掛けた状態で、自分の目の前に設置された机を支えにしてベッドサイドに座る、という練習をしていました。
…まぁこんな事は何の障害もない、普通の人から見たら『そんなの簡単じゃん』という感じかもしれないですが、実はこれ結構大変だったんです。
この頃の自分の下半身、腰から下の部分はまだ感覚があまりありませんでした。ベッドサイドに座っていても、ベッドが下にあるはずのお尻の感覚はほとんどなくて
何だか雲の上に座っているような、ふわふわしている変な感覚でした。それに加えてベッドサイドに座っていたので、ベッドの下の床を踏みしめているはずの両足。
このベッドサイドに座る練習をしていた時、自分ははだしだったので本来床を踏みしめている感じはかなりあったはずだったのですが、この頃の自分には床を踏みしめている感覚がほぼありませんでした。
それどころかこの頃の自分は膝から下の感覚がまだほとんどない状態だったので、自分の足が床についているのかどうかということも全く分かりませんでした。
で、自分のお尻の感覚は上で示したようにふわふわした雲の上に乗ったような感覚で、とても不安定な感じ。そんなわけで、本来ベッドサイドに座った上で自分の目の前にある机に両腕を乗せて支えているのなら
自分の体は両足の裏、お尻と両腕で支えられているので、とても安定している姿勢だったはずなのですが、既に述べているようにこの頃の自分にはお尻から下の感覚がほぼ無かったので
机の上に乗せていた両腕の力だけで、ベッドサイドに座っていた自分の体を支えていたようなものでした。で、こういう状態だとどうなるのか?
両腕の力だけで自分の体を支えていたことになるので、当然自分の体は安定しません。例えるなら、両腕が『ニョキニョキ』と生えたダルマが、自分の目の前にある机にしがみついて
必死に自分の体を立たせているようなものでした。だからこの頃の自分はこの姿勢から片方の腕だけでも外そうとすると、当然ダルマのように『…コテン』と横に転んでしまうことになっていました。
しかもこの体勢で座っていることは、この時点での自分には10分でも大変なことでした。そんな自分が情けなくなってきて、自然と涙がぽろぽろとこぼれてきたこともありました。
あの涙は思えば何をやっても上手くいかなかった、当時の自分への憤り、悔し涙だったのでしょうね。まぁでも、あれを乗り越えてこられたから今の自分があるわけで、ロクに苦労もしてこなかった自分には『いい薬』になったのかもしれないな-。今はそんな風に思うことにしています。

■この頃の自分の体の状態
 ところで、これで03年分の入院生活の記録は全て書き終わりました。で、ちょうど区切りがいいので
ここでこの時点での自分の体の状態を整理しておこうと思います。

・手足の状態
入院当初の頃と比べると、両腕はかなり動かせるようになりました。腕はまだ自分の力で自分の頭の近くまで上げることはできませんが、前方にパンチを繰り出す姿勢を取ったり、だいぶ自分の力で動かせるようになりました。
一方、両足はこの時点でも入院当初の頃と変わらずピクリとも動きません(涙)。それどころか両足とも膝から下はほとんど感覚がありませんでした(さらに涙)。
この頃の自分は『本当に足が再び動かせるようになるのか?また自分の両の足で歩けるようになるのか?』という不安と毎日戦っていましたね。正直、それを考えると毎日気分が本当に憂鬱でしたよ……それでも再び足が動かせると信じて、毎日不機嫌モードになりながらも歯を食いしばって懸命に『今動く』腕の方のリハビリを必死にこなしていましたけど。その『厳しすぎる現実』を少しでも考えないようにするためにも。

・腹筋など、その他の体の状態
この時期、自分の腹筋はまだほとんどありませんでした。普通の人は平らなベッドから自分の腹筋の力だけで『ムクッ』と起き上がることができると思うのですが、この時期の自分にはそんなことはとてもできませんでした。例え起き上がろうとしても、自分の首がほんの少しだけ起き上がろうとするだけでしたね。
その代わりといっては何ですが、手や手の指の力はだいぶ上がってきました。入院当初の握力はほぼゼロ、計測不能という感じだったのですが
この時期握力は左手が7、右手が5くらいまで戻っていました。1ヶ月前までは押すことさえできなかったナースコールも、割と押しやすいパッド型のものならどうにか押せるレベルにはなりましたね。これも毎日、ゴムボールをニギニギしていた成果が出たのかな…。

・毎日のトイレやお食事
この2つに関しては、以前照会した状態とほとんど変わっていないですね。唯一変わったことといえば、上で示した通り、
食事(流動食)を摂る方法が、片方の鼻の穴に挿していたいわゆる『鼻チューブ』から上で紹介した『胃瘻』に変わったことくらいですかね。
トイレ(排泄物を出す)をする方法に関しては本当に変わっていないので、03年10月分の頃の入院生活の様子を記したこちらの記事を参照してください。

・この時点で体に取り付けられていた医療器具
入院当初、自分の体には点滴やら呼吸器やら体に医療器具が結構着いていたのですが、この時点では
それらはほぼ無くなっていましたね。この時点で体に着いていた医療器具といえば、上で紹介した『胃瘻』と膀胱から自力で出すことができない尿を出すためにつけていたおしっこの袋、通称バルーンカテーテルくらいのものでしたから。ちなみにおしっこのバルーンカテーテルについての詳しい解説は過去のこの記事を参照してください。
自分が動く時には常に一緒に動いていた点滴台も無くなり、自分の周りが非常にスッキリして、入院当初の頃と比べれば遥かに動きやすくなっていたと思います。

・それ以外の体の状態
一応上で挙げた以外の体の状態を記しておくと、耳はかなりハッキリ聞こえていました。いいのか悪いのか、脳の意識は相当ハッキリしていましたね。ま、だからこそこんな『入院回顧録』を長々と書くことができるのでしょうが…。
それとこの時点では『におい』はかなりハッキリと分かりました。隣のベッドに寝ていた患者が食べていた食べ物のにおいが漂ってきて、本人はすごく嫌な思いをしていましたけど…。
と、ここまでが体の『正常に動いていた部分』のお話。ここから先は体の『異常をきたしていた部分』のお話。
この時点でも目は全然見えませんでした。もっとも、今も『全盲の視覚障害者』を自認しているのだからそんなのは当然なのですが…。
また基本的にしゃべることもまだ出来ませんでしたね。『スピーチカニューレを装着する』という裏技を使えばどうにか声は出せたのですが、これも以前紹介した通り、
座った状態でこれを着けると呼吸困難になる、という何とも悲しい状態がまだまだ解消されそうにありませんでしたから、基本的にこのスピーチカニューレを付けられるのは、自分があお向けに寝ていられる時だけでしたね。というわけで、実質はまだ自分の力でしゃべるというのはこの時点ではまだまだ出来ないって感じだったよなぁ…。
ところで話は変わるのですが、自分の口からしゃべれなくなると本人もそれを自覚してなのか、口そのものを動かそうとしなくなるんですよ。
誰かに何かを問われたとしても、首を縦や横に振って自分の意思を示そうとしたり……とにかくだんだん人間が横着になってくるんですよ、これが。
これはスピーチカニューレを装着して一時的にしゃべることができるようになった状態でも、自分のその行動パターンはあまり変わりませんでしたね。本人の中でも『この傾向は非常にマズイ』という認識はあるんですが……しゃべることができなくなると自然とそうなっていってしまうんです。
言い換えれば『何に対しても、だんだん無気力になっていく』という感じだったと思います。

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