前回は自分が発病した当初の症状を中心にうんざりするぐらい長々と書いてきましたが
今回はその発病当初、入院生活を本格的に始めた頃の話を中心に書いていきたいと思います。
■何か体に色々ついてるんですけど…
前回の記事でも少し触れているのですが、この頃の自分の体には色々な管だったり医療機器だったりが付いていました。
具体的に言うと一つは前回の記事でも説明した『バルーンカテーテル』。一つはごく普通の『点滴』。これは右腕に一本、そして足の指の付け根あたり(左右どっちだったかは失念)に刺されてました。
そして以前の記事でも触れた気管切開でノドに開けた穴に挿入されていた『カニューレ』。さらにはそのカニューレの上から自身の弱々しくなっていた呼吸を補助するために付けられていた『人工呼吸器』。
もうこれだけ付いているだけでもうんざりしてくるのですが、実はまだもう一つあったりするのですよ(泣)。鼻の片方の穴に
差し込まれていた『細長い管のようなもの』がそれなのですが、これの用途はと言うと……すぐ↓の小見出しからを参照の事という事で(苦笑)。
■この頃の食事方法について
前回の更新分で口から物を食べられない、水分を飲むことができないと書きました。でもさすがに食事や水分を摂らなければ(特に水分は)
そう日が経たない内に衰弱して死んでしまいます。ではどのようにして食事を摂っていたのか?それは上で少し触れていた『鼻の穴に差し込まれていた細長い管』が大いに関係してくるわけです。
この頃の自分はこの細長い管を介してカロリーや水分を摂っていました。この管はごく普通の点滴と同じように点滴台に引っ掛けられて
そこから細長いチューブのように伸びた管が片方の鼻の穴に差し込まれていたのですが、この細長い管の中をほんの少しずつ、水滴にもならないような微量の流動食や水分を
ゆっくりゆっくり流し込んでいきます。というか『流し込む』というような表現は適切じゃないかも?細長い管の中をトロトロとしたたらせながら体内へゆっくりしみこませていく。恐らくこっちの表現の方がしっくりきますね。
そもそも何でこのような回りくどい事をするのかというと、前回の記事でも触れた通りこの頃の自分は口から入れた物を上手く飲み込めません。
なので鼻の穴の中、いわゆる鼻腔と喉が繋がっている事を利用して鼻の穴から流動食や水分を少しずつ、ゆっくりしたたらせていきます。
こうする事で飲み込みの障害が発症している自分でも無理なく食道を通して胃の中へカロリーや水分を送り込めるわけです。
ただ、もちろんこの方法にも問題はあります。というかありまくりです(苦笑)。まず一回の『食事』でやたら時間が掛かる事。
この頃の自分はだいたい朝7時頃に500cal、昼12時頃に300cal、夜6時頃に800calと水分を書く食事で200ml程度ずつ摂っていたのですが、たったこれだけを摂るのでも
各食事ごとに1時間くらいかかってしまいます。また、口を介して『食事』をしないのだから食べた気なんかちっともしません。味なんぞ当然感じるわけないですし、
水分も口の中に含めないのだから、前回の記事で触れたように『口の中が乾いてカピカピになっていく』なんて問題も出てくるわけです。
ただまぁベッドに寝ているだけで、極端に言えば眠った状態でも
『食事』ができるわけだから、ほとんど体を動かす事ができなかったこの時点での自分にはまぁ、この方法で『食事』ができてちょうどよかったのかもしれませんが。
この頃の自分の腕力では恐らくまともに茶碗やスプーンを持つ事すらできなかったでしょうし…。
■ノドの開けた穴から分泌物が出まくりで…
これは気管切開で喉に穴を開けた事がない人には少し分かりにくいかも?実は詳しいメカニズムは自分でもよく分かっていないのですが(汗)
こちらのリンク先説明にもある通り、気道を外部に晒しているため気管が刺激されて分泌物が、具体的には普通の人でも風邪をひいた時なんかに沸いてくるタンのようなものがやたら大量に発生します。
で、このタンのような分泌物を放っておくとその内気道がこの分泌物で詰まって呼吸困難になってしまうわけです。
そこでこのタンのような分泌物を吸引して気道をキレイに掃除する必要があるのですが、
これがまた結構ツラいのですよ。分泌物の吸引は専用の吸引機でするのですけど(使用する吸引機の詳しい説明については下記の*部分を参照)
これってようは『小さな掃除機』を喉の中にかけられているようなもので
チュィィィィィィン!!
などというけたたましい音と共に気管や喉に溜まった分泌物を吸われるわけなんですが
以前に何度も触れた通り、この頃の自分は肺と気管との間で空気のやり取り、呼吸を行っています。
でもその気管へ吸引機をあてがい気管や喉の中を吸引されるということは、呼吸している空気の流れを一時的(およそ10秒弱かな)に社団してしまうわけで
まぁ簡単にいえばとっても苦しいわけです。しかし気管に大量発生する分泌物を定期的に吸引していかなければ
気管が分泌物で詰まってしまいそれはそれで苦しいわけで結構悩ましい問題なんですよね。吸引作業はだいたい近くにいる看護士さんにしてもらうんですけど
これをしてもらった後は『ゲホッ、ゲホッ』などと咳き込みながら涙目になっている事もしばしばで。でもこれを何回もやってもらっていると
何だかクセになっていくのも確かなんですよね…何かだんだんマゾになっていくというか(苦笑)。
* 分泌物を吸い上げる吸引機
吸引機の大きさは、まぁ本人が実物を視認したわけではないのでハッキリとはいえないのですが
だいたい片手で余裕を持って持てるくらいの大きさ。吸引機の先端が細長いストローのようになっていて
それを気管に挿入されているカニューレへあてがい、カニューレの蓋を取り外して気管の中に溜まった分泌物を吸引する。
■ナースコールが…ボタンが押せません(涙)
病院での入院生活を送った事のある方は分かるかと思いますが、入院している患者にとって大切な道具の一つに『ナースコール』というものがあります。
これは読んでそのまんまで、まぁ困った時に看護士さんを呼ぶ事ができる、患者の各ベッドに備え付けられているスイッチのようなものですね。
まぁある程度自分で動ければこんなものは必要ないんでしょうけど、入院している大概の患者は何らかの理由で自由に動けないわけで
それが自分のような重度の症状を持った患者であればなおさらまさに『命綱』になってくるわけです。
ただその命綱も肝心の『ナースコール』そのものを押せればの話。この時点での自分はそのナースコールすらも押せないくらい腕の力が落ちてました(涙)。
ナースコールの形状は病院によって色々あると思うのですが、自分の入院していた病院にあったものの計上は二つタイプがあり
一つはパッド型で、大きさが縦5、6cm、横3cm程度の大きさのパッドの真ん中に直径2cm弱の押しボタンがあるもの。もう一つは手で握るスイッチのような形をしたもので
柄の上面にあるボタンを親指で押すようになっているもので、この二つがだいたい自分の入院していたどの病院でも常駐されていました。ちなみにどちらのナースコールを使うのかは患者の裁量に任されているので、自分としてはボタンを押すためより力(腕力や握力)を必要としないパッド型の方を使いたかったのですが
(パッド型の方がスイッチ型のものよりもボタンを押す指(主に親指)に力が入りやすいから)
この頃の自分にはその押しやすいはずのパッド型の方でさえ押せませんでした(泣)。
ICUには看護士さんが常に二人ほど待機しているとはいえ、自分にも当然、いやこんな状態の自分だからこそ看護士さんを呼ぶための『道具』は必要なわけです。
そこで通常のナースコールの代わりとなる自分だけのナースコールが必要なのですが、そのために両親が用意してくれたのがこれ。
前兆10cm程度、重さ1、2グラムの細長い鈴のようなものでした。写真か何かで説明できればこんな回りくどい説明をしなくてもいいし何より分かりやすいのですが…。
この『鈴』は手に持って左右に軽く振れば音が鳴るものでかなり弱い力でも、例え生後数ヶ月の赤ん坊でも難なく鳴らせるはずなのですが……この頃の自分にはこれすらも鳴らすのに一苦労だったのだから本当に泣けてきます(半泣)。
結局、これをまともに振れるようになったのはここから2ヶ月弱程度先、11月も末っていうんだからこの頃の自分自身には本当に歯がゆかったですね、あらゆる事で。
■暇つぶしに雑誌でも……読めませぬ(泣)
入院した事がある人は分かると思うのですが、病院の一日はとっても長い。ただ、単純に尺が長いのではなくハッキリ言って暇な時間が多すぎなのですよ、これが。
この頃の自分の一日の生活サイクルを箇条書きにするとこんな感じなのですが
・朝6時起床、7時頃朝食
・朝9時~11時頃、看護士さんに自分の体を濡れタオルで拭いてもらったり体温や血圧を測ったり色々とお世話をしてもらう。時間に余裕があれば同時にベッドのシーツ交換もしてもらう
・お昼12時頃昼食
・午後1時~5時の空いている時間でリハビリ担当の先生と共に1時間程度リハビリを行う
・午後3時~5時、特に予定が入っていなければ家族との面会の時間
・夕方6時頃夕食
・午後9時消燈。以後、朝6時まで終身時間
とまぁだいたいこんなものですね。実際には色々検査が入ったりだとか様々な問診を受けたりだとかで
それなりに時間が埋まる時もたまにあるのですが、見て何となく想像できると思いますけどここに挙げた時間以外は
ほぼ全て暇な時間と思ってもらって構わないです。時間に換算すればだいたい一日7、8時間は暇な時間なのですよ。
一日の中でこんなに空いている時間があったらさすがに暇をつぶすアイテムが必要です。というわけでとりあえず雑誌でも読んで空いている時間をつぶすつもりでした。
発病前にかけていた眼鏡と共に、親に雑誌を持ってきてもらい(この時持ってきてもらったのは確か今は亡きsports YeaH!だったと思うけど。まぁNumberのようないわゆる『スポーツ総合誌』ですね)
『さぁ雑誌を読もう!』というところまで準備したのはいいのですが…ちっとも内容を読む事なんかできません(泣)。
以前の記事でも触れた通り、自分は目がほとんど見えていません。ほぼ失明の状態です。
ただ『この頃の自分』にはその目が見えていないのも眼鏡を掛けていないからだ、眼鏡を掛けさえすればもう少しは、自我見えるくらいには視力が戻るはず-。などという希望的観測というかほとんど『祈り』のような認識さえあったので
『これできっと本も読めるようになるはず!』とワクワクしながら雑誌を開いてみたものの……当然読めるわけなんかありませんでした(涙)。
そもそも冷静になって考えてみれば色が分からなくなっている時点で『色盲』の症状が出ているわけだから、眼鏡を掛けただけで視力が飛躍的に改善されるなんて事はありえないのですが…。
ただ、この頃の自分はそんな当たり前の事も判断できないくらい、とにかく『藁にもすがりたい』思いで目が見えるようになりたかったわけです。
こんな『無駄なあがき』のような事をしたのも自分が『失明していないんだ!』という事を一刻も早く証明したかったのでしょう。
それくらいこの頃の自分には日々失明の恐怖がヒタヒタと忍び寄っていました。
ただこれで自分が今まで持っていた眼鏡を掛けても辞を読む事ができない、と証明されてしまったわけです。
それでもこの時の自分は何を思ったのか『ちゃんと度の合う眼鏡を掛ければ見えるようになるはず』などと考えていましたし
何より眼科で視力検査ができるくらい体の状態がよくなってちゃんと今の目の状態に合った眼鏡を掛けさえすれば-。と目の事についてはまだあきらめきれずにいました。
でもそうやって現実逃避をしてしまうくらい『自分が失明している』事を認めたくなかったのですよ。
ここで失明している事を自分自身が認めてしまったら、これから頑張って回復に向かおうとせっかくなってきた気持ちがガラガラと崩れてしまいそうでしたし…。
ただこれで、本や雑誌を読む事に関わらず視覚を使って暇をつぶす事は無理と証明されてしまったわけで
じゃあ自分は何をして空いた時間を過ごしていたのかというと…もう『ふて寝』するか『妄想にふける』しかないのですよ。
まぁ妄想も色々としましたよ。病気が回復して退院した後はどうするか?みたいなまともなものからピンク計のあやしいものまで(笑)。
とにかく毎日ツラすぎる事ばかりでしたし、ほんの小さな事でもいいから何か楽しみを見つける事に必死でしたね、この頃の自分は。
■中々夜が眠れません…
これは自分だけかもしれませんけど、病院での入院生活は昼だけでなく夜もとっても長いです。前述のように昼間にしょっちゅう『ふて寝』をしているもんだから
夜は目が覚めて全然眠れません。まぁこれは自業自得なのですけど実はもう一つ眠れない原因があって…それが『対抗』(たいこう。字はこれで合っているのかな?言葉で聞いただけなので正確な字面は不明)というものがあるからなのです。
対抗というのは簡単に言えば『人為的』に寝返りを打たせるというもの。自分のようにかなり状態の悪い患者は自分自身の力で寝返りを打てない人も多いわけです。
でもそのままの体勢でずっと放っておいたらお尻などに『床ずれ』ができてしまう。だから定期的、3時間に1回くらいは看護士さん二人くらいで
この対抗処置を行うわけです。具体的には寝ている患者の向きを看護士さんの一人が左右どちらかへ向かせ、その間にもう一人の看護士さんがその患者の背中側から割と大きなまくらを入れる。
これが一回の対抗処置で前回左向きに寝返りを打たせたらその次は右向き、みたいな感じで3時間ぐらいごとに繰り返し処置を行っていくのですが
ここで問題なのはこの対抗処置をするのが昼間だけではなく夜間もするということ。この処置、夜間はだいたい午後11時頃と午前2時頃、そして午前4時頃にされるのですが
外部から人の力で割りと大きく体を動かすのだから、当然対抗処置をされる旅に目が覚めてしまいます。例えそれまで気持ちよく眠っていたとしても
この対抗処置で強引に叩き起こされてしまうような形になってしまうわけで、そこからまた気持ちよく眠りに入れというのはかなり至難。
それでもどうにかこうにか眠気がやってきて熟睡に入ろうとしていたら、気がつけば3時間ほど立っていてまた対抗処置をされる。以下、そんな事の繰り返しで朝を迎えてしまうわけです。
しかし朝は迎えても本人は夜の間まともに眠っていないわけで当然のように昼間中途半端に昼寝してしまい、そんな風に昼間に寝てしまったのだから
余計に夜眠れなくなってしまうという悪循環。こうして自分の睡眠不足のルーチンが見事に完成してしまうというわけです(苦笑)。
ただ、それでも『じゃあ昼間に寝ないようにすればいいじゃないか!』というお叱りの声が聞こえてきそうですが、病院の明かりがついている朝6時~夜9時も
この頃の自分はその時間の大部分をベッドに寝転んで過ごしていたのだから、どう頑張ってもどこかで睡魔には襲われてしまいます。しかも前述したようにこの頃の自分には
ロクに暇をつぶす手段がありません(涙)。そんなわけでベッドの上で瞑想(妄想?)にふけっていたら自然と眠っているわけですよ。
こうして今日も自分にとって長い夜がやってくるわけですが、夜中々眠れないと色々な思いがこみあげてくるんですよね。
これは普通の人でも結構あると思うんですけど、『この先自分は一体どうなってしまうんだろう?』みたいな将来への不安とか。どういうわけか明るい未来像はほとんど脳裏に浮かんでこないんですよね、夜眠れない時って。
少なくとも普段からマイナス思考全開の自分はそうなのですが、みなさんはどうでしょうか?
■友人知人の存在をこれほどありがたいと思った事はないです……(号泣)
これまで述べてきたように入院生活当初から苦難の日々が続いていた自分なのですが、ほんの少しはいい事もありました。
中でも家族以外の人たちがお見舞いに来てくれた時には本当に嬉しかったですね。
特に自分の同期入社の友人が持ってきてくれた『同年代の会社の仲間たちからの寄せ書き』には本当に泣いてしまいました。
それも目に涙を溜めて必死に泣くのを我慢していた、という程度ではなくちょっと気を抜いたら『ヒグッ、ヒグッ』と嗚咽を漏らしてしまいそうな勢いで。
これまで何度も述べてきたように、自分には色紙に書いてあった字を読む事ができなかったので
父親に内容を読み聞かせてもらう形で書いてある内容を知ったのですが
書いてある内容を読み上げてもらうたびにドンドン感情がこみ上げてきて…先に述べたように嗚咽もだんだん我慢できなくなり
必死に我慢していた涙も堰を切ったようにポロポロとこぼれ落ちてきて…もうほとんど号泣状態でしたね。
でもこの事は本当に嬉しかったし、何より力をもらいました。
そしてこの事がこの先自分の『絶対に回復して会社に戻るぞ!』というモチベーションに繋がっていくのですが。
(ただ結果から言うと、この後約二年にも及ぶ必死のリハビリも空しくこの時勤めていた会社には結局戻れなかったのですが…)
ただ上の『病院での1日の生活サイクル』でも触れたように、この頃自分が入っていたICU(集中治療室)は
どういうわけか家族以外の面会は禁止されていました。実際には前述した同期入社の友人の他にも
何人かお見舞いには来ていただいたのですが、こういう病院の決まりが合ったので結局直接会う事はありませんでした。(お見舞いに来てくれた方には改めて非常に申し訳ないです。m(_ _)m)
でもこの頃の自分には『こんなひどい、変わり果てた姿の自分を1ヶ月前まで普通に会っていた人たちには見せたくない』という思いもあったので
上のような病院の決まりごとがなくても自ら進んで会おうとはしなかったような気もします。
ただ今から思うと自分の友人知人へもっと積極的にこの頃の『変わり果てた姿』を見せておいた方がよかったのかなとも今更ながら思っています。
今こうして『あの』地獄のような日々をブログのネタにして書いているのですが、実際にこの頃の自分を見た事があるのはほぼ両親だけなのですから
こうやって書いている事も中々イメージが沸きにくいでしょうし、ひょっとしたら信憑性も読んでいる人からすれば結構あやしいものなのかもしれないですからね。
■この頃の主なリハビリメニュー
10月になるかならないかという時期に意識を取り戻した自分。10月も最初の1週間は検査や問診ばかりの日々だったのですが
2週間目くらいから本格的に回復へ向けてのリハビリを始めました。
ただこれまで何度もしつこいくらい述べてきたようにこの頃の自分はほとんど体が動かなかったのでリハビリも大した事なんて
できません。以下に挙げるメニューはリハビリの先生についてもらってやっていたメニューなのですが、実際のところどんな事をやっていたのかというと
・ベッドにあお向けに寝転んだ状態で左右の腕を上げ下げする
・ただ車椅子に乗る練習。本当に少しの間、ただただ座っているだけの練習
とまぁ主にやっていたのはこの二つなのですが、まず腕の方のリハビリについて。
これはベッドの上にあお向けに寝ていた自分がリハビリの先生に介助してもらって左右の腕を上げ下げするというもの。
ただこの時期の自分は腕そのものをずっと動かしていなかった事もあり、両肩の関節自体が相当硬くなっていました。
具体的には先生に介助してもらっていても、あお向けに寝ていた自分の腕がベッドに対してほぼ垂直までの角度しか上がらない。
普通、健康な人なら腕が耳につけられるくらい肩関節が回るはずなのですがこの頃の自分はそのほぼ半分までしか肩関節が回りません。
もしそれ以上、腕を動かそうとすると肩関節がきしみ『痛ててててててっ』となってしまうんですよ。
ただ、こうやって『痛い思い』をして間接の稼動域を広げていく事も腕そのものの動きを向上させるのと共にこのリハビリの目的なのだから結局は我慢するしかないのですが…。
それとこの頃もう一つの主なリハビリメニューだったのが車椅子に座る練習。これは本当にただ車椅子に座っているだけ-。こうやって書くと何だか大した事ないような感じなのですが
これがまぁ大変だったのですよ。まずこの頃の自分ではベッド脇にある車椅子へ、当然一人で乗り移れるわけなんかないですから
看護士さんたちに乗せてもらうわけなのですが、まずこれがいちいち大掛かりで。
身長180cmと体は大きい上に『ほぼ寝たきり状態』の自分を車椅子まで運ばなければいけないのですからそれはもう大変で
一番最初の頃は総勢6人掛りで、具体的には二人が左右の足を一本ずつ持ち、二人が上半身を左右から一人ずつかかえ
残りの二人で頭と首を支えながらベッド脇にある車椅子まで『よいしょっと!』とみんなで息を合わせて乗せるわけです。
とまぁ、こんなに大掛かりでやっとこさ自分を車椅子に乗せたわけなのですが実はまだ問題が。
にわかには信じられないかもしれませんが、この頃の自分は生後数ヶ月の赤ん坊と同じように首が立ちませんでした。
自分のこの時点での首の力では『自分自身の頭』が支えられないから、車椅子に座っても頭部の重心が後ろへかかれば
頭が後方へ『カクンッ』となってしまうし、反対に頭部の重心が前の方へかかれば、前方へ頭が思いっきり『ガクンッ』と傾いてしまうわけです。
そういうわけでこれを防ぐために、結局は車椅子の背もたれを自分の頭のある高さくらいまで『継ぎ足す』事で頭を後ろへ寄りかかれるようにして対応するハメになるのですが。
(ちなみに通常車椅子の背もたれの高さは、だいたい患者が座った時の『肩の高さ』より少し低いくらい、患者の背中が3分の2くらいカバーできる高さが目安)
とまぁここまで大掛かりに、しかも色々とお膳立てしてもらってやっとまともに訓練できる体勢になったわけですが
この頃の自分にはこの『ただ座っている』だけでも相当大変で。一番最初の頃など、まぁ余裕を持って座っていられるのはせいぜい10分といったところで
15分を過ぎれば体から脂汗がダラダラと。そしてどんなに頑張っても20分が限界って感じでしたね、非常に情けない事に。
でもたったこれだけの時間しか乗れないのではこれから院内の様々な場所へ行く事や、色々なリハビリをする事を考えるととてもお話にならないわけで
『とりあえず連続して2時間は乗れるようになろう!』というのがリハビリの先生から与えられたこの時点での課題でした。
最初にそれを聞いた時は『2時間かぁ…結構大変だな…』と思ったものです。一番最初の時点で15分程度しか満足に座ってられないのだから
それも当然なのですが。ただこの課題は意外なほど早くクリアできてしまったのだから不思議なもので…別に『自慢話』でこういう事を書いているのではなくて
実際に色々なリハビリをやってみて分かったのですが、これに限らずこういう体に関するリハビリっていうのは『ある地点』をクリアできてしまうと
そこからは飛躍的に伸びていくんですよね。ま、その話はおいおいするという事で…。
■自分だけでも自主的に色々と
また、リハビリは先生についてもらってこなしていたメニューだけではなくて
自分一人でも色々とやっていました。先に述べた通り、どうせ空いている時間は限りなくあるわけですから。
ただ、これまでさんざん言ってきたようにこの頃の自分はほとんどまともに体を動かす事ができませんでした。
じゃあ一体何をやっていたのかといえば、箇条書きにすると
・ゴムマリ、ゴムボールを握って握力の強化
・割とキツイ手の形、指の動きを作りその体勢のまま手をベッドに押し付けて指の稼動域を広げる
とこんな感じですね。それぞれ少し補足説明しておくと、握力は普通、ペンチやニッパーのような形をしたものを使い(すみません。あれってどう説明したらいいんだろう…?ちなみに自分は『グリップ』と呼んでいましたが。あれってちゃんとした正式名称はあるんですか?)
それを『ギュッ、ギュッ』と何度も握って鍛えると思うのですが、この時点の自分には一番軽いタイプでもあんなものをちゃんと握る事はできません。
なので一番最初はそれよりも遥かに握りやすいゴムマリで、それが十分握れるようになってきたら次は軟式テニスのゴムボールを何度も握って握力を鍛えてました。
『こんな柔らかい物で本当に握力が鍛えられるのか?』などという声がどこからともなく聞こえてきそうですが、
この頃の自分のように握力が『ゼロ』に限りなく近いところまで落ちた人間ならこんなものでも十分なのですよ。
ほら、ドラクエでも最初はスライムから戦って徐々にレベルアップしていくでしょう?あれと同じようなもんですよ(笑)。
それとベッドに手を押し付けて指の稼動域を広げていたというのは例えばこんな感じでした。
まず手の形をジャンケンの『チョキ』の形にする。でも何かで抑えていないと、この頃の自分ではすぐにこの形が崩れてしまうから
このままベッドへ押し付ける。で、30分ずっとこのままの体勢で、というような感じで。
こんなたわいのない事だったのですが、これが1、2ヶ月もすればそれなりに効果は上がっていましたね。
そしてこうも思いました。我ながら中々考えたじゃん、と(笑)。
でも真面目な話、上に挙げた二つのような事ならベッドに寝た状態のままでもできたので
今考えると、この頃の自分にとってはちょうどいい暇つぶしになっていたのかもしれませんね。
…もっとも、この頃の自分には『これくらい』の事が自分自身の力でできる精一杯のリハビリだったのですが。
今回も気がついたらダラダラとメチャクチャ長くなってしまった…(汗)。初めはこの半分くらいの長さに収めるつもりではあったのですが。
それからこの地獄のような入院生活はまだまだ先があるのですけど…実はここから先
UPする記事がまったくできていません(苦笑)。それにどうせならちゃんとした形でUPしたいので、また後日余裕ができたら順次記事を投稿していこうと思います。
またこのブログはとりあえず他の事を取り上げていくつもりなので引き続きそちらも見てくださいね。
これまで書いてきた病気のいきさつについては『不定期連載』という事で(笑)これからもどうぞよろしくお願いします。m(_ _)m
今回はその発病当初、入院生活を本格的に始めた頃の話を中心に書いていきたいと思います。
■何か体に色々ついてるんですけど…
前回の記事でも少し触れているのですが、この頃の自分の体には色々な管だったり医療機器だったりが付いていました。
具体的に言うと一つは前回の記事でも説明した『バルーンカテーテル』。一つはごく普通の『点滴』。これは右腕に一本、そして足の指の付け根あたり(左右どっちだったかは失念)に刺されてました。
そして以前の記事でも触れた気管切開でノドに開けた穴に挿入されていた『カニューレ』。さらにはそのカニューレの上から自身の弱々しくなっていた呼吸を補助するために付けられていた『人工呼吸器』。
もうこれだけ付いているだけでもうんざりしてくるのですが、実はまだもう一つあったりするのですよ(泣)。鼻の片方の穴に
差し込まれていた『細長い管のようなもの』がそれなのですが、これの用途はと言うと……すぐ↓の小見出しからを参照の事という事で(苦笑)。
■この頃の食事方法について
前回の更新分で口から物を食べられない、水分を飲むことができないと書きました。でもさすがに食事や水分を摂らなければ(特に水分は)
そう日が経たない内に衰弱して死んでしまいます。ではどのようにして食事を摂っていたのか?それは上で少し触れていた『鼻の穴に差し込まれていた細長い管』が大いに関係してくるわけです。
この頃の自分はこの細長い管を介してカロリーや水分を摂っていました。この管はごく普通の点滴と同じように点滴台に引っ掛けられて
そこから細長いチューブのように伸びた管が片方の鼻の穴に差し込まれていたのですが、この細長い管の中をほんの少しずつ、水滴にもならないような微量の流動食や水分を
ゆっくりゆっくり流し込んでいきます。というか『流し込む』というような表現は適切じゃないかも?細長い管の中をトロトロとしたたらせながら体内へゆっくりしみこませていく。恐らくこっちの表現の方がしっくりきますね。
そもそも何でこのような回りくどい事をするのかというと、前回の記事でも触れた通りこの頃の自分は口から入れた物を上手く飲み込めません。
なので鼻の穴の中、いわゆる鼻腔と喉が繋がっている事を利用して鼻の穴から流動食や水分を少しずつ、ゆっくりしたたらせていきます。
こうする事で飲み込みの障害が発症している自分でも無理なく食道を通して胃の中へカロリーや水分を送り込めるわけです。
ただ、もちろんこの方法にも問題はあります。というかありまくりです(苦笑)。まず一回の『食事』でやたら時間が掛かる事。
この頃の自分はだいたい朝7時頃に500cal、昼12時頃に300cal、夜6時頃に800calと水分を書く食事で200ml程度ずつ摂っていたのですが、たったこれだけを摂るのでも
各食事ごとに1時間くらいかかってしまいます。また、口を介して『食事』をしないのだから食べた気なんかちっともしません。味なんぞ当然感じるわけないですし、
水分も口の中に含めないのだから、前回の記事で触れたように『口の中が乾いてカピカピになっていく』なんて問題も出てくるわけです。
ただまぁベッドに寝ているだけで、極端に言えば眠った状態でも
『食事』ができるわけだから、ほとんど体を動かす事ができなかったこの時点での自分にはまぁ、この方法で『食事』ができてちょうどよかったのかもしれませんが。
この頃の自分の腕力では恐らくまともに茶碗やスプーンを持つ事すらできなかったでしょうし…。
■ノドの開けた穴から分泌物が出まくりで…
これは気管切開で喉に穴を開けた事がない人には少し分かりにくいかも?実は詳しいメカニズムは自分でもよく分かっていないのですが(汗)
こちらのリンク先説明にもある通り、気道を外部に晒しているため気管が刺激されて分泌物が、具体的には普通の人でも風邪をひいた時なんかに沸いてくるタンのようなものがやたら大量に発生します。
で、このタンのような分泌物を放っておくとその内気道がこの分泌物で詰まって呼吸困難になってしまうわけです。
そこでこのタンのような分泌物を吸引して気道をキレイに掃除する必要があるのですが、
これがまた結構ツラいのですよ。分泌物の吸引は専用の吸引機でするのですけど(使用する吸引機の詳しい説明については下記の*部分を参照)
これってようは『小さな掃除機』を喉の中にかけられているようなもので
チュィィィィィィン!!
などというけたたましい音と共に気管や喉に溜まった分泌物を吸われるわけなんですが
以前に何度も触れた通り、この頃の自分は肺と気管との間で空気のやり取り、呼吸を行っています。
でもその気管へ吸引機をあてがい気管や喉の中を吸引されるということは、呼吸している空気の流れを一時的(およそ10秒弱かな)に社団してしまうわけで
まぁ簡単にいえばとっても苦しいわけです。しかし気管に大量発生する分泌物を定期的に吸引していかなければ
気管が分泌物で詰まってしまいそれはそれで苦しいわけで結構悩ましい問題なんですよね。吸引作業はだいたい近くにいる看護士さんにしてもらうんですけど
これをしてもらった後は『ゲホッ、ゲホッ』などと咳き込みながら涙目になっている事もしばしばで。でもこれを何回もやってもらっていると
何だかクセになっていくのも確かなんですよね…何かだんだんマゾになっていくというか(苦笑)。
* 分泌物を吸い上げる吸引機
吸引機の大きさは、まぁ本人が実物を視認したわけではないのでハッキリとはいえないのですが
だいたい片手で余裕を持って持てるくらいの大きさ。吸引機の先端が細長いストローのようになっていて
それを気管に挿入されているカニューレへあてがい、カニューレの蓋を取り外して気管の中に溜まった分泌物を吸引する。
■ナースコールが…ボタンが押せません(涙)
病院での入院生活を送った事のある方は分かるかと思いますが、入院している患者にとって大切な道具の一つに『ナースコール』というものがあります。
これは読んでそのまんまで、まぁ困った時に看護士さんを呼ぶ事ができる、患者の各ベッドに備え付けられているスイッチのようなものですね。
まぁある程度自分で動ければこんなものは必要ないんでしょうけど、入院している大概の患者は何らかの理由で自由に動けないわけで
それが自分のような重度の症状を持った患者であればなおさらまさに『命綱』になってくるわけです。
ただその命綱も肝心の『ナースコール』そのものを押せればの話。この時点での自分はそのナースコールすらも押せないくらい腕の力が落ちてました(涙)。
ナースコールの形状は病院によって色々あると思うのですが、自分の入院していた病院にあったものの計上は二つタイプがあり
一つはパッド型で、大きさが縦5、6cm、横3cm程度の大きさのパッドの真ん中に直径2cm弱の押しボタンがあるもの。もう一つは手で握るスイッチのような形をしたもので
柄の上面にあるボタンを親指で押すようになっているもので、この二つがだいたい自分の入院していたどの病院でも常駐されていました。ちなみにどちらのナースコールを使うのかは患者の裁量に任されているので、自分としてはボタンを押すためより力(腕力や握力)を必要としないパッド型の方を使いたかったのですが
(パッド型の方がスイッチ型のものよりもボタンを押す指(主に親指)に力が入りやすいから)
この頃の自分にはその押しやすいはずのパッド型の方でさえ押せませんでした(泣)。
ICUには看護士さんが常に二人ほど待機しているとはいえ、自分にも当然、いやこんな状態の自分だからこそ看護士さんを呼ぶための『道具』は必要なわけです。
そこで通常のナースコールの代わりとなる自分だけのナースコールが必要なのですが、そのために両親が用意してくれたのがこれ。
前兆10cm程度、重さ1、2グラムの細長い鈴のようなものでした。写真か何かで説明できればこんな回りくどい説明をしなくてもいいし何より分かりやすいのですが…。
この『鈴』は手に持って左右に軽く振れば音が鳴るものでかなり弱い力でも、例え生後数ヶ月の赤ん坊でも難なく鳴らせるはずなのですが……この頃の自分にはこれすらも鳴らすのに一苦労だったのだから本当に泣けてきます(半泣)。
結局、これをまともに振れるようになったのはここから2ヶ月弱程度先、11月も末っていうんだからこの頃の自分自身には本当に歯がゆかったですね、あらゆる事で。
■暇つぶしに雑誌でも……読めませぬ(泣)
入院した事がある人は分かると思うのですが、病院の一日はとっても長い。ただ、単純に尺が長いのではなくハッキリ言って暇な時間が多すぎなのですよ、これが。
この頃の自分の一日の生活サイクルを箇条書きにするとこんな感じなのですが
・朝6時起床、7時頃朝食
・朝9時~11時頃、看護士さんに自分の体を濡れタオルで拭いてもらったり体温や血圧を測ったり色々とお世話をしてもらう。時間に余裕があれば同時にベッドのシーツ交換もしてもらう
・お昼12時頃昼食
・午後1時~5時の空いている時間でリハビリ担当の先生と共に1時間程度リハビリを行う
・午後3時~5時、特に予定が入っていなければ家族との面会の時間
・夕方6時頃夕食
・午後9時消燈。以後、朝6時まで終身時間
とまぁだいたいこんなものですね。実際には色々検査が入ったりだとか様々な問診を受けたりだとかで
それなりに時間が埋まる時もたまにあるのですが、見て何となく想像できると思いますけどここに挙げた時間以外は
ほぼ全て暇な時間と思ってもらって構わないです。時間に換算すればだいたい一日7、8時間は暇な時間なのですよ。
一日の中でこんなに空いている時間があったらさすがに暇をつぶすアイテムが必要です。というわけでとりあえず雑誌でも読んで空いている時間をつぶすつもりでした。
発病前にかけていた眼鏡と共に、親に雑誌を持ってきてもらい(この時持ってきてもらったのは確か今は亡きsports YeaH!だったと思うけど。まぁNumberのようないわゆる『スポーツ総合誌』ですね)
『さぁ雑誌を読もう!』というところまで準備したのはいいのですが…ちっとも内容を読む事なんかできません(泣)。
以前の記事でも触れた通り、自分は目がほとんど見えていません。ほぼ失明の状態です。
ただ『この頃の自分』にはその目が見えていないのも眼鏡を掛けていないからだ、眼鏡を掛けさえすればもう少しは、自我見えるくらいには視力が戻るはず-。などという希望的観測というかほとんど『祈り』のような認識さえあったので
『これできっと本も読めるようになるはず!』とワクワクしながら雑誌を開いてみたものの……当然読めるわけなんかありませんでした(涙)。
そもそも冷静になって考えてみれば色が分からなくなっている時点で『色盲』の症状が出ているわけだから、眼鏡を掛けただけで視力が飛躍的に改善されるなんて事はありえないのですが…。
ただ、この頃の自分はそんな当たり前の事も判断できないくらい、とにかく『藁にもすがりたい』思いで目が見えるようになりたかったわけです。
こんな『無駄なあがき』のような事をしたのも自分が『失明していないんだ!』という事を一刻も早く証明したかったのでしょう。
それくらいこの頃の自分には日々失明の恐怖がヒタヒタと忍び寄っていました。
ただこれで自分が今まで持っていた眼鏡を掛けても辞を読む事ができない、と証明されてしまったわけです。
それでもこの時の自分は何を思ったのか『ちゃんと度の合う眼鏡を掛ければ見えるようになるはず』などと考えていましたし
何より眼科で視力検査ができるくらい体の状態がよくなってちゃんと今の目の状態に合った眼鏡を掛けさえすれば-。と目の事についてはまだあきらめきれずにいました。
でもそうやって現実逃避をしてしまうくらい『自分が失明している』事を認めたくなかったのですよ。
ここで失明している事を自分自身が認めてしまったら、これから頑張って回復に向かおうとせっかくなってきた気持ちがガラガラと崩れてしまいそうでしたし…。
ただこれで、本や雑誌を読む事に関わらず視覚を使って暇をつぶす事は無理と証明されてしまったわけで
じゃあ自分は何をして空いた時間を過ごしていたのかというと…もう『ふて寝』するか『妄想にふける』しかないのですよ。
まぁ妄想も色々としましたよ。病気が回復して退院した後はどうするか?みたいなまともなものからピンク計のあやしいものまで(笑)。
とにかく毎日ツラすぎる事ばかりでしたし、ほんの小さな事でもいいから何か楽しみを見つける事に必死でしたね、この頃の自分は。
■中々夜が眠れません…
これは自分だけかもしれませんけど、病院での入院生活は昼だけでなく夜もとっても長いです。前述のように昼間にしょっちゅう『ふて寝』をしているもんだから
夜は目が覚めて全然眠れません。まぁこれは自業自得なのですけど実はもう一つ眠れない原因があって…それが『対抗』(たいこう。字はこれで合っているのかな?言葉で聞いただけなので正確な字面は不明)というものがあるからなのです。
対抗というのは簡単に言えば『人為的』に寝返りを打たせるというもの。自分のようにかなり状態の悪い患者は自分自身の力で寝返りを打てない人も多いわけです。
でもそのままの体勢でずっと放っておいたらお尻などに『床ずれ』ができてしまう。だから定期的、3時間に1回くらいは看護士さん二人くらいで
この対抗処置を行うわけです。具体的には寝ている患者の向きを看護士さんの一人が左右どちらかへ向かせ、その間にもう一人の看護士さんがその患者の背中側から割と大きなまくらを入れる。
これが一回の対抗処置で前回左向きに寝返りを打たせたらその次は右向き、みたいな感じで3時間ぐらいごとに繰り返し処置を行っていくのですが
ここで問題なのはこの対抗処置をするのが昼間だけではなく夜間もするということ。この処置、夜間はだいたい午後11時頃と午前2時頃、そして午前4時頃にされるのですが
外部から人の力で割りと大きく体を動かすのだから、当然対抗処置をされる旅に目が覚めてしまいます。例えそれまで気持ちよく眠っていたとしても
この対抗処置で強引に叩き起こされてしまうような形になってしまうわけで、そこからまた気持ちよく眠りに入れというのはかなり至難。
それでもどうにかこうにか眠気がやってきて熟睡に入ろうとしていたら、気がつけば3時間ほど立っていてまた対抗処置をされる。以下、そんな事の繰り返しで朝を迎えてしまうわけです。
しかし朝は迎えても本人は夜の間まともに眠っていないわけで当然のように昼間中途半端に昼寝してしまい、そんな風に昼間に寝てしまったのだから
余計に夜眠れなくなってしまうという悪循環。こうして自分の睡眠不足のルーチンが見事に完成してしまうというわけです(苦笑)。
ただ、それでも『じゃあ昼間に寝ないようにすればいいじゃないか!』というお叱りの声が聞こえてきそうですが、病院の明かりがついている朝6時~夜9時も
この頃の自分はその時間の大部分をベッドに寝転んで過ごしていたのだから、どう頑張ってもどこかで睡魔には襲われてしまいます。しかも前述したようにこの頃の自分には
ロクに暇をつぶす手段がありません(涙)。そんなわけでベッドの上で瞑想(妄想?)にふけっていたら自然と眠っているわけですよ。
こうして今日も自分にとって長い夜がやってくるわけですが、夜中々眠れないと色々な思いがこみあげてくるんですよね。
これは普通の人でも結構あると思うんですけど、『この先自分は一体どうなってしまうんだろう?』みたいな将来への不安とか。どういうわけか明るい未来像はほとんど脳裏に浮かんでこないんですよね、夜眠れない時って。
少なくとも普段からマイナス思考全開の自分はそうなのですが、みなさんはどうでしょうか?
■友人知人の存在をこれほどありがたいと思った事はないです……(号泣)
これまで述べてきたように入院生活当初から苦難の日々が続いていた自分なのですが、ほんの少しはいい事もありました。
中でも家族以外の人たちがお見舞いに来てくれた時には本当に嬉しかったですね。
特に自分の同期入社の友人が持ってきてくれた『同年代の会社の仲間たちからの寄せ書き』には本当に泣いてしまいました。
それも目に涙を溜めて必死に泣くのを我慢していた、という程度ではなくちょっと気を抜いたら『ヒグッ、ヒグッ』と嗚咽を漏らしてしまいそうな勢いで。
これまで何度も述べてきたように、自分には色紙に書いてあった字を読む事ができなかったので
父親に内容を読み聞かせてもらう形で書いてある内容を知ったのですが
書いてある内容を読み上げてもらうたびにドンドン感情がこみ上げてきて…先に述べたように嗚咽もだんだん我慢できなくなり
必死に我慢していた涙も堰を切ったようにポロポロとこぼれ落ちてきて…もうほとんど号泣状態でしたね。
でもこの事は本当に嬉しかったし、何より力をもらいました。
そしてこの事がこの先自分の『絶対に回復して会社に戻るぞ!』というモチベーションに繋がっていくのですが。
(ただ結果から言うと、この後約二年にも及ぶ必死のリハビリも空しくこの時勤めていた会社には結局戻れなかったのですが…)
ただ上の『病院での1日の生活サイクル』でも触れたように、この頃自分が入っていたICU(集中治療室)は
どういうわけか家族以外の面会は禁止されていました。実際には前述した同期入社の友人の他にも
何人かお見舞いには来ていただいたのですが、こういう病院の決まりが合ったので結局直接会う事はありませんでした。(お見舞いに来てくれた方には改めて非常に申し訳ないです。m(_ _)m)
でもこの頃の自分には『こんなひどい、変わり果てた姿の自分を1ヶ月前まで普通に会っていた人たちには見せたくない』という思いもあったので
上のような病院の決まりごとがなくても自ら進んで会おうとはしなかったような気もします。
ただ今から思うと自分の友人知人へもっと積極的にこの頃の『変わり果てた姿』を見せておいた方がよかったのかなとも今更ながら思っています。
今こうして『あの』地獄のような日々をブログのネタにして書いているのですが、実際にこの頃の自分を見た事があるのはほぼ両親だけなのですから
こうやって書いている事も中々イメージが沸きにくいでしょうし、ひょっとしたら信憑性も読んでいる人からすれば結構あやしいものなのかもしれないですからね。
■この頃の主なリハビリメニュー
10月になるかならないかという時期に意識を取り戻した自分。10月も最初の1週間は検査や問診ばかりの日々だったのですが
2週間目くらいから本格的に回復へ向けてのリハビリを始めました。
ただこれまで何度もしつこいくらい述べてきたようにこの頃の自分はほとんど体が動かなかったのでリハビリも大した事なんて
できません。以下に挙げるメニューはリハビリの先生についてもらってやっていたメニューなのですが、実際のところどんな事をやっていたのかというと
・ベッドにあお向けに寝転んだ状態で左右の腕を上げ下げする
・ただ車椅子に乗る練習。本当に少しの間、ただただ座っているだけの練習
とまぁ主にやっていたのはこの二つなのですが、まず腕の方のリハビリについて。
これはベッドの上にあお向けに寝ていた自分がリハビリの先生に介助してもらって左右の腕を上げ下げするというもの。
ただこの時期の自分は腕そのものをずっと動かしていなかった事もあり、両肩の関節自体が相当硬くなっていました。
具体的には先生に介助してもらっていても、あお向けに寝ていた自分の腕がベッドに対してほぼ垂直までの角度しか上がらない。
普通、健康な人なら腕が耳につけられるくらい肩関節が回るはずなのですがこの頃の自分はそのほぼ半分までしか肩関節が回りません。
もしそれ以上、腕を動かそうとすると肩関節がきしみ『痛ててててててっ』となってしまうんですよ。
ただ、こうやって『痛い思い』をして間接の稼動域を広げていく事も腕そのものの動きを向上させるのと共にこのリハビリの目的なのだから結局は我慢するしかないのですが…。
それとこの頃もう一つの主なリハビリメニューだったのが車椅子に座る練習。これは本当にただ車椅子に座っているだけ-。こうやって書くと何だか大した事ないような感じなのですが
これがまぁ大変だったのですよ。まずこの頃の自分ではベッド脇にある車椅子へ、当然一人で乗り移れるわけなんかないですから
看護士さんたちに乗せてもらうわけなのですが、まずこれがいちいち大掛かりで。
身長180cmと体は大きい上に『ほぼ寝たきり状態』の自分を車椅子まで運ばなければいけないのですからそれはもう大変で
一番最初の頃は総勢6人掛りで、具体的には二人が左右の足を一本ずつ持ち、二人が上半身を左右から一人ずつかかえ
残りの二人で頭と首を支えながらベッド脇にある車椅子まで『よいしょっと!』とみんなで息を合わせて乗せるわけです。
とまぁ、こんなに大掛かりでやっとこさ自分を車椅子に乗せたわけなのですが実はまだ問題が。
にわかには信じられないかもしれませんが、この頃の自分は生後数ヶ月の赤ん坊と同じように首が立ちませんでした。
自分のこの時点での首の力では『自分自身の頭』が支えられないから、車椅子に座っても頭部の重心が後ろへかかれば
頭が後方へ『カクンッ』となってしまうし、反対に頭部の重心が前の方へかかれば、前方へ頭が思いっきり『ガクンッ』と傾いてしまうわけです。
そういうわけでこれを防ぐために、結局は車椅子の背もたれを自分の頭のある高さくらいまで『継ぎ足す』事で頭を後ろへ寄りかかれるようにして対応するハメになるのですが。
(ちなみに通常車椅子の背もたれの高さは、だいたい患者が座った時の『肩の高さ』より少し低いくらい、患者の背中が3分の2くらいカバーできる高さが目安)
とまぁここまで大掛かりに、しかも色々とお膳立てしてもらってやっとまともに訓練できる体勢になったわけですが
この頃の自分にはこの『ただ座っている』だけでも相当大変で。一番最初の頃など、まぁ余裕を持って座っていられるのはせいぜい10分といったところで
15分を過ぎれば体から脂汗がダラダラと。そしてどんなに頑張っても20分が限界って感じでしたね、非常に情けない事に。
でもたったこれだけの時間しか乗れないのではこれから院内の様々な場所へ行く事や、色々なリハビリをする事を考えるととてもお話にならないわけで
『とりあえず連続して2時間は乗れるようになろう!』というのがリハビリの先生から与えられたこの時点での課題でした。
最初にそれを聞いた時は『2時間かぁ…結構大変だな…』と思ったものです。一番最初の時点で15分程度しか満足に座ってられないのだから
それも当然なのですが。ただこの課題は意外なほど早くクリアできてしまったのだから不思議なもので…別に『自慢話』でこういう事を書いているのではなくて
実際に色々なリハビリをやってみて分かったのですが、これに限らずこういう体に関するリハビリっていうのは『ある地点』をクリアできてしまうと
そこからは飛躍的に伸びていくんですよね。ま、その話はおいおいするという事で…。
■自分だけでも自主的に色々と
また、リハビリは先生についてもらってこなしていたメニューだけではなくて
自分一人でも色々とやっていました。先に述べた通り、どうせ空いている時間は限りなくあるわけですから。
ただ、これまでさんざん言ってきたようにこの頃の自分はほとんどまともに体を動かす事ができませんでした。
じゃあ一体何をやっていたのかといえば、箇条書きにすると
・ゴムマリ、ゴムボールを握って握力の強化
・割とキツイ手の形、指の動きを作りその体勢のまま手をベッドに押し付けて指の稼動域を広げる
とこんな感じですね。それぞれ少し補足説明しておくと、握力は普通、ペンチやニッパーのような形をしたものを使い(すみません。あれってどう説明したらいいんだろう…?ちなみに自分は『グリップ』と呼んでいましたが。あれってちゃんとした正式名称はあるんですか?)
それを『ギュッ、ギュッ』と何度も握って鍛えると思うのですが、この時点の自分には一番軽いタイプでもあんなものをちゃんと握る事はできません。
なので一番最初はそれよりも遥かに握りやすいゴムマリで、それが十分握れるようになってきたら次は軟式テニスのゴムボールを何度も握って握力を鍛えてました。
『こんな柔らかい物で本当に握力が鍛えられるのか?』などという声がどこからともなく聞こえてきそうですが、
この頃の自分のように握力が『ゼロ』に限りなく近いところまで落ちた人間ならこんなものでも十分なのですよ。
ほら、ドラクエでも最初はスライムから戦って徐々にレベルアップしていくでしょう?あれと同じようなもんですよ(笑)。
それとベッドに手を押し付けて指の稼動域を広げていたというのは例えばこんな感じでした。
まず手の形をジャンケンの『チョキ』の形にする。でも何かで抑えていないと、この頃の自分ではすぐにこの形が崩れてしまうから
このままベッドへ押し付ける。で、30分ずっとこのままの体勢で、というような感じで。
こんなたわいのない事だったのですが、これが1、2ヶ月もすればそれなりに効果は上がっていましたね。
そしてこうも思いました。我ながら中々考えたじゃん、と(笑)。
でも真面目な話、上に挙げた二つのような事ならベッドに寝た状態のままでもできたので
今考えると、この頃の自分にとってはちょうどいい暇つぶしになっていたのかもしれませんね。
…もっとも、この頃の自分には『これくらい』の事が自分自身の力でできる精一杯のリハビリだったのですが。
今回も気がついたらダラダラとメチャクチャ長くなってしまった…(汗)。初めはこの半分くらいの長さに収めるつもりではあったのですが。
それからこの地獄のような入院生活はまだまだ先があるのですけど…実はここから先
UPする記事がまったくできていません(苦笑)。それにどうせならちゃんとした形でUPしたいので、また後日余裕ができたら順次記事を投稿していこうと思います。
またこのブログはとりあえず他の事を取り上げていくつもりなので引き続きそちらも見てくださいね。
これまで書いてきた病気のいきさつについては『不定期連載』という事で(笑)これからもどうぞよろしくお願いします。m(_ _)m