私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

欲求

2006-03-24 10:19:13 | 自分考察
昨日の斎藤学先生のブログを拝読して、自分に当てはめて考えてみた。

人間は自分の欲望というものがむき出しにならないように常時軽くカギをロック(施錠)しておくものだということ。しかしこれをいつも締め切っていてはダメで必要なときにはアンロック(解錠)出来なければならない。(略)欲求の出過ぎは不健康なとき。しかしそれなりに身体が必要としているとき。過食しかり、性欲昂進しかり。


どんな理由で、過剰になってしまうんだろう。そう思った。
心の中の空洞を埋めたくなるということまでは、判っているのだけど、その空洞はどこから生まれてくるのか判らなかった。
自傷」を書いて思った。

結局、愛されているという安心感やそのままの私で生きていていいよという価値観を与えられないまま育って、そんな足りない部分を何かで埋めようと一生懸命だったのではないかと・・・・・
埋めても埋めても無くなりはしない、ただその行為をしているその一瞬だけ、その足りない部分から目をそむけることが出来るのではないかと・・・・・
そのほんの一瞬、生きていることを実感でき、それを求めて繰り返すのではないかと・・・・・

斎藤先生のブログにこのことが書かれていなかったら、私は考えてみようという気持ちにならなかったけれど、こういう偶然が重なるとなんだか嬉しい。



自己には大きく分けて「A:観察自己=自己を観察して叱咤激励する自己」、「B:対象自己=Aの観察対象となる欲望の塊」、「C:AとBとの関係を調停する自己」の三種がある自己には大きく分けて「A:観察自己=自己を観察して叱咤激励する自己」、「B:対象自己=Aの観察対象となる欲望の塊」、「C:AとBとの関係を調停する自己」の三種がある。
 AとBは常時葛藤しているのが普通で、Aが優位でBが萎縮している人はロボットのように暮し、なぜ生きているのかわからないと感じている。Bが表面に出てAの規制力の弱い人は幼児的で周囲の人を困らせる。AはBを批判し抑圧しようとするので、Bはこれに反撥する。反撥を受けたAは更に規制力を強めBとの対立と葛藤は次第に苛酷なものになりがちである。Cはこの葛藤を緩和しようとする自己の一部であり、Cの力が充分な人を「大人(おとな)」というが、こういう人は少ない。
 始めはCの力が微少なので、これを強化するためにCの代弁者を自分以外の「人物」の力を借りることがある。こうした「人物」をセラピスト(治療者)という。


私は、AもBも普通よりも過剰に強いかもしれない。
それは「エゴグラムによる性格診断」を見ても判る。
そして、Cが欠落している。
結婚生活に置いては、AもCも欠落している旦那と暮らし、そんな旦那の分まで頑張ろうとBを押さえ込んでいたのだろう。
そしてBが爆発したように思う。

二人の女性の例が挙げられているが、どちらも私に当てはまる。
性非行が続き、肥満によって止めたというのもそのまんまだ。
そして、「ある限界を超えて」親しくなる男性に怒りをぶつけてしまう。
というのも、同じだと思う。
その中で、カウンセリングを受けていることは、意味のあることなのだなと改めて感じた。

人が何かを学ぶ時、一番適している時期があるであろう。
語学を学ぶ時は、出来るだけ幼少期の方が適しているし、オリンピックに出場するような選手がそれを始める時期もまた、幼少期が多いことから、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
そんな時期に、学んでこなかった私は、大人になって学ぶのだから、必要以上に時間を要することと思う。

でも、少しずつだけれど、心の中で育っているのが見えている。
それが時々嬉しくなる。
学ぶということは、楽しくてウキウキするものであって欲しい、そう思う。

欲求は身体が欲しているもの。
無理に止めようとせず、罪悪感で縛ることなく、ゆっくりと観察するのもまた面白いのかもしれない。
そこに何かが、発見できるかもしれないから・・・・・