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■【きょうの人】 0711 ■ 日野 業子 義満の寵愛を受け日野家の権力を強化 ■ 聖聡 増上寺開山

2021-07-11 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0711 ■ 日野 業子 義満の寵愛を受け日野家の権力を強化 ■ 聖聡 増上寺開山

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 聖聡 増上寺開山

 しょうそう
 正平21年/貞治5年7月10日(1366年8月16日)- 永享12年7月18日(1440年8月15日)

 南北朝時代から室町時代中期にかけての浄土宗の僧で、増上寺の基礎を築き、開山しました。父は、下総国守護千葉氏胤、浄土宗第8祖。母は新田義貞の妻と伝えられています。

 はじめ千葉妙見寺(真言宗寺院で明治初年の廃仏毀釈により千葉神社となる)で、真言密教を学びました。

 元中2年/至徳2年(1385年)浄土宗の聖冏(しょうげい)に帰依し、その門下となりました。

 聖冏が体系化した五重相伝の布教に努め、多くの弟子を養成しました。

 明徳4年(1393年)武蔵国豊嶋郡貝塚(現在の東京都千代田区)にあった光明寺と称する真言宗寺院を浄土宗に改宗して増上寺と改称し、関東における浄土宗の道場としました。

 千葉氏・佐竹氏の帰依を得、寺領の寄進もあり増上寺の基礎を築きました。永享11年(1419年)、甥の酉仰(ゆうごう)に増上寺を譲りました。

 弟子に、弘経寺開山の嘆誉良肇(りょうちょう)、松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)などがいます。

 著書も多く、七十五才にて歿しました。


■ 日野 業子 義満の寵愛を受け日野家の権力を強化

 ひの なりこ
 正平6年/観応2年(1351年)- 応永12年7月11日(1405年8月5日)

 室町幕府3代将軍足利義満の御台所で、父は日野時光、兄弟に日野資康ほかがいます。位階は従一位、准后です。

 宮中に影響力を持っていた叔母の日野宣子(岡松一品)が仲介し、1375年に足利義満と結婚しました。

 義満が京都に花の御所を造営し、そこに移ります。

 業子は和歌に秀でていたことから、義満の寵愛を受けたといわれ、義満の計らいで従一位・准后となりました。

 2人の間に成長した子はなく、1405年に55歳で死去し、法名は定心院でした。

 業子と義満の婚礼により、持明院統の公家だった日野家は朝幕政界に影響力を強めることになります。

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 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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■【きょうの人】 0710 佐伯 田公 空海(弘法大師)の父親

2021-07-10 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0710 佐伯 田公 空海(弘法大師)の父親

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 佐伯 田公 空海の父親

 さえき の たぎみ

 奈良時代から平安時代初期にかけての播磨国造の役人でした。讃岐国多度郡の豪族で、多度郡擬大領・佐伯男足の子とする系図があります。

 真魚(のちの空海)の父親で、真魚を中央官人にするため、妻の実家である阿刀氏の一族であった阿刀大足の尽力によって、大学寮明経科に入学させました。しかし、真魚は仏門の世界に入ることとなり、田公は憤慨したという記録があります。

 一族は、真言宗の発展を支え、善通寺(ぜんつうじ)の開基となりました。

 善通寺は、香川県善通寺市にある寺院、真言宗善通寺派総本山です。本尊は薬師如来で、広大な境内は、創建地である東院(伽藍)と、空海生誕地とされる西院(誕生院)に分かれています。

 7月10日には、善通寺宗祖降誕会が催されます。

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■【きょうの人】 0709 ■ 護国寺 桂昌院 ■ 狩野 正信 ■ 澤 太郎左衛門 幕末から明治期の幕臣・海軍教官

2021-07-09 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0709 ■ 護国寺 桂昌院 ■ 狩野 正信 ■ 澤 太郎左衛門 幕末から明治期の幕臣・海軍教官

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 護国寺 桂昌院

 
 徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681年)に創建された。開山は亮賢。本尊は如意輪観音。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。近代以降は宮家の墓所(豊島岡墓地)が造られた。これは1873年(明治6年)、明治天皇の皇子(稚瑞照彦尊)の薨去を機に護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものである。
 
  護国寺

 もう30年近く前になりますが、私がお世話になった会社の社長さん(還暦前になくなる)の葬儀もここで行われました。その時は人出の多かったにも関わらず社長未亡人が私に声をかけてくださったのですが、何も励ましの声をかけられず恥ずかしい思いをしました。従兄の娘が、社長のお嬢さんと学習院の初等科で同級生をしていたこともあり、個人的にも親しくさせてもらっていました。

 経営コンサルタント業をやっていると、いろいろな経営者・管理職の葬儀に立ち会いますが、その中でも立派な葬儀の一つでした。



■ 狩野 正信


 かのう まさのぶ
 永享6年(1434年)? - 享禄3年7月9日(1530年8月2日)?

 室町時代の絵師で、狩野派の祖です。狩野派は、室町時代から明治に至るまで400年にわたって命脈を保ち、常に日本の絵画界の中心にあった画派です。

 この狩野派の初代とされるのが、室町幕府に御用絵師として仕えた狩野正信です。

 京は幕府御用絵師の宗湛(小栗宗湛)に師事したようです。

 古記録から、正信は寛正4年(1463年)には、京で絵師として活動していたことが明らかで、この時すでに幕府御用絵師の地位にあったといわれています。

 長男は、やはり絵師の元信です。

 没年は享禄3年(1530年)とされ、数え年97歳で没しました。



■ 澤 太郎左衛門 没 幕末から明治期の幕臣・海軍教官

 さわ たろうざえもん
 天保5年6月4日(1834年7月10日) - 明治31年(1898年)5月9日

 幕末から明治期の幕臣で、技術者、海軍教官でもありました。名は貞説、幼名はえい太郎(鍈太郎)です。

 箱館戦争時に成立した旧幕府軍政権(蝦夷共和国)の開拓奉行です。海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞は,彼の子息です。

 日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは、澤が最初です。

 榎本武揚が、オランダ渡航中に著した『航海日誌』は、榎本がセントヘレナ島で海に投げ捨てようとしたところを澤が惜しんで預かりました。

 その時に判断に任せて行うことは、時として大きな損失に繋がることがあります。茶話の陰で貴重な記録が残されたのです。

 

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■【きょうの人】 0708 聖宝(理源大師) 醍醐寺の開祖

2021-07-08 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0708 聖宝(理源大師) 醍醐寺の開祖

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 聖宝(理源大師)没 醍醐寺の開祖

 しょうぼう
 天長9年2月15日(832年3月21日)- 延喜9年7月6日(909年7月25日)

 平安時代前期の真言宗の僧、醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖でもあります。また、後に当山派修験道の祖ともされています。

 俗名は、恒蔭王(つねかげおう)で、天智天皇の6世孫にあたり、父は、葛声王(かどなおう)といい、諡号は、理源大師です。

 三論、法相、華厳などを学び、後に、密教を真雅、真然より授かっています。醍醐寺を開き、また東南院を建てて、三論宗の本拠地としています。

 役行者(役小角)の遺風を慕って、その最高に務めたので、後世、修験道の中興と言われるようになりました。

『古今和歌集』に歌一首があります。

 聖宝に唱える言葉は「南無聖宝尊師(なむ しょうぼうそんじ」であり、三祖宝号の時は「南無遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」で、お山の中では順番は逆になるのだそうです。

 善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。

 信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。

 そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。

 鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。

 建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。

 弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。

 

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■【きょうの人】 0707 崇徳天皇 保元の乱で後鳥羽上皇に破れる

2021-07-07 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0707 崇徳天皇 保元の乱で後鳥羽上皇に破れる

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 崇徳天皇 保元の乱で後鳥羽上皇に破れる

 すとくてんのう
 1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉

 第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)で、諱は顕仁(あきひと)です。

 鳥羽天皇の第一皇子で、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)という、素晴らしい血統を引き継いでいます。譲位後は新院、しかし、その後、平安時代末期の1156年(保元元年)に、貴族の内部抗争である保元の乱で、後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれました。

 崇徳院は、在位中から頻繁に歌会を催し、太上天皇になってからは和歌の世界に没頭しました。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開しました。

 鳥羽院とうまく行かず、上皇としては実権がありませんでした。保元の乱後、鳥羽法皇が崩御しても、その地位は快方に向かわず、讃岐に流罪となってしまいました。

 雨月物語に代表されますように、崇徳院の怨念が数々の禍を引き起こしていると、非難囂々の晩年でした。

 

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■【きょうの人】 0706 ■ 惠心僧都源信 平安時代中期の天台宗の僧 ■ 良忠

2021-07-06 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0706 ■ 惠心僧都源信 平安時代中期の天台宗の僧 ■ 良忠

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 惠心僧都源信 平安時代中期の天台宗の僧

 えしんそうずげんしん
 天慶5年(942年)- 寛仁元年6月10日(1017年7月6日)

恵心院
(比叡山延暦寺横川兜率谷)


 源信(げんしん)は、平安時代中期の天台宗の僧で、惠心は、恵心僧都(えしんそうず)と、浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称されます。

 大和当麻で生まれ、幼少時に比叡山に登り、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学び、天暦9年(955年)に得度しています。

 天暦10年(956年)には、わずか15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれました。

 寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂しました。臨終にあたって、阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅したといわれています。

 


■ 良忠

 りょうちゅう
 正治元年7月27日 - 弘安10年7月6日 (1199年8月20日 - 1287年8月16日)

 鎌倉時代中期の僧で、浄土宗第3祖、諱は然阿(ねんな)、記主禅師の諡号が滅後7年の永仁元年(1293年)に伏見天皇より贈られています。

 善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。

 信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。

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 建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。

 弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。

 

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■【きょうの人】 0705 栄西禅師 緑茶を日本に広める

2021-07-05 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

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 栄西禅師 緑茶を日本に広める

 

 明菴栄西
 みょうあん えいさい/ようさい
 永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日(1215年8月1日)

 平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本における臨済宗の開祖で、京都・建仁寺を開山しました。天台密教葉上流の流祖でもあります。

 字が「明菴」、諱が「栄西」です。

 中国より持ち帰った茶の木の種をもとに、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られています。

 ちなみに、京都高山寺は、鳥獣戯画図で有名ですが、ここに日本で最初の茶畑があります。

「喫茶養生記」という上下2巻からなる本を書いていて、上巻では、茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用をといています。下巻では、飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に関して桑の効用や用法について説いています。

 このことから、「茶桑経(ちゃそうきょう)」という別称もあるほどです。

「誓願寺盂蘭盆縁起」は、栄西の肉筆文書で国宝となっています。福岡市・誓願寺に滞在した時に書いたといわれ、同寺が所蔵(九州国立博物館寄託)しています。

 

 

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■【歴史に学ぶ】 0731 ■ ウィリアム・スミス・クラーク博士  少年よ大志を抱け

2021-07-05 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0731  ウィリアム・スミスクラーク博士  少年よ大志を抱け

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 クラーク,ウィリアム・スミス 少年よ大志を抱け

 

 William Smith Clark
 1826年7月31日- 1886年3月9日

 アメリカ人の教育者であり、化学、植物学、動物学の教師でもあります。農学教育のリーダーで、1876年(明治9年)札幌農学校(現北海道大学)を開校し、初代教頭を務めています。

 同大学では、専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えたといいます。

 この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じ、のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をしました。

 日本ではクラーク博士として知られ、日本人から見るといわゆる「お雇い外国人」のひとりといえます。

 札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉が、よく知られています。

  「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていますが、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代がありました。

 1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われました。

 しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録しています。安東が、当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明しました。

 安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、これは「この老人(=私)のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になります。

 北海道大学で 【カシャリ! ひとり旅】

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■【きょうの人】 0704 義真(修善大師) 平安時代前期の天台宗の僧

2021-07-04 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0704 義真(修善大師) 平安時代前期の天台宗の僧

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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 義真(修善大師) 平安時代前期の天台宗の僧

 ぎしん
 天応元年(781年)- 天長10年7月4日(833年8月26日)

 平安時代前期の天台宗の僧で、俗性は丸子連または丸子部、相模国の出身です。修禅大師とも称されます。

奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から授戒されて中国語にも通じていました。

 その後は、奈良・大安寺で最澄に師事し、804年(延暦23年)中国語の通訳(訳語)として最澄とともに唐へ渡り、最澄と同じく道邃から円頓戒を、順暁から密教の付法を承けて日本へ帰国しました。

 822年(弘仁13年)に、最澄が没した後には比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となり、戒壇院を建てました。

 824年(天長元年)初代の天台座主に就任し、832年(天長9年)には天台宗の僧として初めて維摩会の講師となりました。著書に『天台法華宗義集』があり、五十三才で歿しています。

 

 

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■【きょうの人】 0703 ■ 加藤 楸邨 日本の俳人、国文学者 ■ 堀田 正英 江戸時代前期の大名

2021-07-03 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0703 ■ 加藤 楸邨 日本の俳人、国文学者 ■ 堀田 正英 江戸時代前期の大名

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■ 加藤 楸邨 日本の俳人、国文学者

 かとう しゅうそん
 1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)

  日本の俳人、国文学者で、本名は健雄(たけお)、水原秋桜子に師事しました。

 はじめ「馬酔木」に拠りましたが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなりました。

 人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求し、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれる会派を立ち上げました。

 戦後は、戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開しました。また主宰した「寒雷」では、伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てました。


■ 堀田 正英 江戸時代前期の大名

 ほった まさひで
 寛永15年(1638年)-貞享5年7月3日(1688年7月29日)

 江戸時代前期の大名、常陸北条藩主で、江戸幕府の若年寄も務めました。

 寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の四男として生まれ、寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となりました。

 万治2年(1659年)に、中奥の御小姓に任じられ、寛文9年(1669年)に小姓組番頭に任じられ、頭角を現してきます。

 その後も、書院番頭、大番頭と要職を歴任するようになり、延宝8年(1680年)には第5代将軍・徳川綱吉の世子・徳松の守役に任じられました。

 その後、若年寄に任じられ、1万3000石大名となり、常陸北条藩主となりました。

 貞享5年(1688年)7月3日に死去、享年51才でした。

 

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