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■【きょうの人】 0620 鎮西上人 生誕 浄土宗の正統を伝道

2021-06-20 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0620 鎮西上人 生誕 浄土宗の正統を伝道

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ 鎮西上人 生誕 浄土宗の正統を伝道

 ちんぜいしょうにん
 別名 弁長聖光(べんちょうせいこう)
 応保2年5月6日(1162年6月20日) - 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日)

 平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。鎮西義の祖。父は古川則茂。字は弁阿(べんな)。房号は聖光房(【Wikipedia】)

 14歳で出家し、比叡山に登り、短大集を学び、秘奥を究めたと言われています。

 後に、故郷の筑前に帰り、油山の学頭職に補せられますが、弟の死に遭遇し、無常を感じて建久8年に上洛しました。

 そこで法然に謁(まみ)え、浄土念仏の要道を聴き、専心法然に支持して浄土門に期すことになりました。

 元久元年、浄土宗の正統を伝道し、鎮西に帰り、善導寺を建立しました。


 人の「死」というのは、人間の生き方を変える契機となるほどのことなのですね。

 私事ですが、中学二年の時に祖母を亡くしました。祖母からは、「偉くなっても稲穂を忘れてはいけないよ」という言葉を始め、いろいろと教えられました。

 祖母の死に遭遇したときに、いろいろな教えをもとに生きていくということを墓前で誓ったことを鮮明に記憶しています。


 

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■【きょうの人】 0619 ■ 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖

2021-06-19 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0619  覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖

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 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖

 かくばん/こうぎょうだいし
 嘉保2年6月17日(1095年7月21日)- 康治2年12月12日(1144年1月18日)

 平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖でもあります。

 諡号を興教大師(こうぎょうだいし)といいます。

 肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分 新義真言宗大本山誕生院)に生まれました。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で、幼名は、弥千歳といいました。

 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学において、いかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。

 即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしています。

 空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として知られています。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈』の著者でもあります。

 

 

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■【きょうの人】 0618 石川丈山 武将、儒者、漢詩人

2021-06-18 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0618 石川丈山 武将、儒者、漢詩人

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 石川丈山 武将、儒者、漢詩人

 いしかわじょうざん
 天正11年(1583年)- 寛文12年5月23日(1672年6月18日)

 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、儒者、漢詩人で、大坂の陣後、獄中生活をし、一時仕官もしましたが、京都郊外に隠棲して丈山と号しました。

 林羅山らと交わり、儒学を学び、漢詩人となりました。作庭家としても有名で、隠棲生活を送った詩仙堂(左京区)の庭園を自ら作ったほか、渉成園や一休寺の酬恩庵庭園(京田辺市)などが丈山の作といわれています。

 幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、煎茶の祖ともいわれています。


 人間の生き方は、人それぞれ。丈山は徳川家康に仕える武士でありながら、京都郊外に隠棲するなどと生き方を変えました。

 現代人も、たとえば大企業に仕えていても、自分の生き方や求めるものに反するような場合には、丈山のように、生き方を変えるという道もあるでしょう。

 一方で、「石の上にも三年」といいます。

 現状の正確な把握と自分の気持ちのバランスとを考えながら判断すべきです。「この会社は俺には会わない」というような決めつけや即断で、せっかく与えられた機会を損失しないようにすべきではないでしょうか。


 

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■【きょうの人】 0617 ■ 阿部 正弘 江戸幕府の老中首座 ■ 興教大師降誕会

2021-06-17 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0617 ■ 阿部 正弘 江戸幕府の老中首座 ■ 興教大師降誕会

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 興教大師降誕会

 興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)上人は、嘉保2年6月17日(1095)、肥前国藤津庄(現在の佐賀県鹿島市)に生誕しました。

 13歳の夏上京、仁和寺の寛助大僧正のもとで出家した後、奈良で本格的な勉強を始めました。20歳の時、東大寺戒壇院で受戒、覚鑁と改めました。

 のちに高野山で約10年修行、当時衰微しつつあった高野山の復興を志します。伽藍の復興、高野山の運営の革新などをも断行しました。

 勅命によって諸国の名師を訪ね、真言諸派の秘奥を探り、宗学を大成しました。

 永年、京都東寺の支配下にありました高野山を独立させ、真言宗団の中興に寄与しました。

  真言宗豊山派 ←クリック

 


■ 阿部 正弘

 あべ まさひろ
 文政2年10月16日(1819年12月3日)- 安政4年6月17日(1857年8月6日)

 江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主で、江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行しました。

 天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰することになりました。

 しかし正弘は、一度罷免された水野が復帰することに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したといわれます。

 水野が復帰しますと、天保改革時代に不正などを行っていた町奉行鳥居忠耀や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となりました。

 また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め大胆な人材登用を行いました。

 ペリーの再来により、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げさせることになります。

 開国派であった井伊直弼らと反りが合わず、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図りました。

 

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■【きょうの人】 0616 アレキサンドロス大王(3世) 東方大遠征の強大な軍事力

2021-06-16 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0616 アレキサンドロス大王(3世) 東方大遠征の強大な軍事力

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■ アレキサンドロス大王(3世)

 紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日

 通称アレクサンドロス大王といいますと、三省のことです。

 3世は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)のことです。

 「アレキサンドロスの大遠征」といわれ、強大な軍事力を下に、広大な地域を制覇しました。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主でありましたり、エジプトのファラオも兼ねたりもしました。

 ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれました。

 ギリシア語ではアレクサンドロス大王ですが、英語風に読みますとアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王となります。

 

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■【きょうの人】 0615 ■ 源 義経 牛若丸としても知られる

2021-06-15 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

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 源 義経 牛若丸としても知られる

 みなもと の よしつね、源義經
 平治元年(1159年)-文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 享年31

 平安時代末期の武将、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄です。仮名は九郎、実名は義經(義経)です。

 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれ、五条の大橋で、弁慶を懲らしめた話は有名です。

 平治の乱で父が敗死したことにより、鞍馬寺に預けられました。

 後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受けました。

 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼす、最大の功労者となりました。

 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって頼朝の怒りを買うことになりました。

 このことから、頼朝と対立し、朝敵とされ、義経の嘆願にもかかわらず、追われる身となりました。

 全国に捕縛の命が伝わりますと、難を逃れ再び藤原秀衡を頼りました。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃しました。

 その最期は、多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき、「はんがん」と読まない)という言葉を始め、多くの伝説や物語を生み、その一つとして、中国に渡り、ジンギスカンとなったともいわれます。ただし、ジンギスカンと義経とは時代が異なり、これは単なる伝説に過ぎないと言えます。

 

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■【きょうの人】 0614 柴田 勝家  信長に逆らった男 ■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

2021-06-14 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0614 柴田 勝家  信長に逆らった男 ■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

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■ 柴田 勝家 信長に逆らった男

 しばた かついえ
 大永2年(1522年)?-天正11年4月24日(1583年6月14日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で、下社城址には、柴田勝家誕生地の碑が、愛知県名古屋市名東区陸前町の明徳寺に建っています。

 出自は不明で柴田勝義の子といわれますが、確実な資料はなく、おそらく土豪階層の家の出身であるといわれています。

 若いころから織田信秀の重鎮として仕え、尾張国愛知郡下社村を領していました。信秀が死去しますと、子の織田信行(信勝)に家老として仕えました。

 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、織田信長の排除を試みましたが、信長との戦いに敗れました。信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、受け入れられました。

 信行が、謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、仮病の信長を見舞った信行は殺害されました。

 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推しました。しかし、秀吉が、明智光秀を討伐したことで実績や発言力を増し、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立した秀吉に押し切られました。(異説もある)

 信長の遺領配分においても河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得たのみで、勝家と秀吉の立場は逆転してしまいました。

 清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となりました。

 その後、勝家は信長の妹・お市の方と結婚しました。

 勢力争いがくすぶり、勝家は、滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗しますが、結果的には、賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城にてお市とともに自害しました。享年62歳でした。

 

■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)

 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

 

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■【きょうの人】 0613 ■ 明智 光秀 ■ 北条 義時  ■ 修円 平安時代前期の法相宗の僧

2021-06-13 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0613 ■ 明智 光秀 ■ 北条 義時  ■ 修円 平安時代前期の法相宗の僧

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 修円 平安時代前期の法相宗の僧

 しゅえん
 宝亀2年(771年)-承和2年6月13日(835年7月16日)

 平安時代前期の法相宗の僧で、俗姓は小谷氏、大和国北谷の出身です。

生禅師(ていしょうぜんじ)とも称されます。

 義真から天台教学を学び、義真の没後は義真に代わって、大和国室生寺に住し、いわゆる「室生天台」を現出させた「円修」と混同されることが多いのですが、別人です。

 大和国興福寺の賢憬に法相を学び、794年(延暦13年)比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめました。805年(延暦24年)には最澄から灌頂(かんじょう:菩薩が仏になる儀式)を受けています。

 810年(弘仁元年)に律師、812年(弘仁3年)に興福寺別当となり、興福寺に伝法院を設けて深密会を始めました。827年(天長4年)には、少僧都(しょうそうず:僧正の下にあって、大僧都を助けて僧尼を統率する僧官)となりました。

 空海とも親しく、天台宗・真言宗という当時としては新しい仏教に理解を示していたようです。


■ 明智 光秀

 あけち みつひで
 不明 - 天正10年6月13日(1582年7月2日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名で、本能寺の変で、その名はよく知られています。 

 清和源氏の土岐氏の支流である明智氏に生まれ、父親の名前も伝わらない低い身分でした。そのため、歴史舞台に登場する前野光秀の詳細は、あまり伝わっていません。

 土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えますが、弘治2年(1556年)に、道三が、息子義龍と長良川の戦いを行い、道三に味方した光秀は、義龍に明智城を攻められ、一族が離散しました。

 室町幕府の将軍足利義昭は、織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促しました。朝倉義景の世話を受けていた光秀は、義昭が義景を頼ったことを契機に、光秀は義昭と接触を持つこととなりました。

 一時期、義昭と信長の両属の家臣でしたが、光秀は、金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に、秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功しました。

 比叡山焼き討ちでは、実行部隊の中心として武功を上げ、近江国の滋賀郡を与えられ、間もなく坂本城を築城します。

 この頃から信長に重用されます。ところが、原因は、いまだに明白ではありませんが、信長に反旗を翻し、本能寺の変に至ります。

 羽柴秀吉に攻められ、配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されました。最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けることを言い残したといわれています。

 光秀の娘珠(後の細川ガラシャ)は、細川忠興の正室となっていることは、よく知られています。


■ 北条 義時

 ほうじょう よしとき
 長寛元年(1163年)-元仁元年6月13日(1224年7月1日)

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で、鎌倉幕府の第2代執権です。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男で、源頼朝の正室・北条政子の弟です。

 源氏三代にわたる将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者といえます。

 幕府と朝廷の対立が激化しますと、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となりました。幕府軍は、京都に攻め上り、朝廷を制圧した、いわゆる承久の乱となったのです。 

 北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなりました。

 

 

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■【きょうの人】 0612  今川 義元 桶狭間の合戦で知られる

2021-06-12 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0612  今川 義元 桶狭間の合戦で知られる

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ 今川 義元 桶狭間の合戦で知られる

 いまがわ よしもと
 永正16年(1519年)-永禄3年5月19日(1560年6月12日)

 戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名で、今川氏第11代当主です。義元の姉妹が、政略結婚していますので、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたります。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者でした。

 寄親・寄子制度という合理的な軍事改革等により、たくみな領国経営をしていました。また、外征面でも才覚を発揮して、今川氏を戦国大名へと転身させました。

 所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させたのです。

 戦国時代における今川家の最盛期を築き上げ、一方で、京都志向が強く、都の雅な文化を取り入れていたことも知られています。

 桶狭間の戦いで大群を引き連れていたにもかかわらず、織田信長軍の奇襲戦に敗れたことは、あまりにも有名です。毛利良勝(新助)に討ち取られて、その生涯を閉じました。

 

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■【きょうの人】 0611 アレキサンドロス大王(3世) アレキサンダー大王の大遠征

2021-06-11 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

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 アレキサンドロス大王(3世) アレキサンダー大王の大遠征

 紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日

 通称アレクサンドロス大王といいますと、3世のことです。

 3世は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)のことです。

 「アレキサンドロスの大遠征」といわれ、強大な軍事力を下に、広大な地域を制覇しました。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主でありましたり、エジプトのファラオも兼ねたりもしました。

 ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれました。

 ギリシア語ではアレクサンドロス大王ですが、英語風に読みますとアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王となります。

 

 

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