牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月26日(水) 「信徒を目覚めさせよう④」 オク・ハンフム著

2012-12-26 07:44:42 | 日記

 「信徒を目覚めさせよう」を読み終わった。第五部のタイトルは、「牧会の現場から見た可能性」(牧会現場としての弟子たち)だ。

 本からの引用。「サラン教会が、初めてその開拓の門を開いた1978年7月に、何か持っているものがあったとすれば、それはたった一つのものだけでした。「弟子訓練にいのちをかける」という主任牧師の徹底した覚悟です。10名に満たない教会員は、指導者のこのような意志をまだどんなものか詳しくは分かっていませんでしたが、共に共感し集まった兄弟たち(クリスチャンたち)でした。」

 「もう一度言いますが、弟子訓練は、我々が選択し得る様々な牧会方法の中の一つ、などというようなものではありません。それは、地上の教会の本質に等しいものであり、イエス様が親しく模範を示され、命じられた、唯一の牧会方法なのです。、、、、、私たちが力不足だからといって、やめるようなことはできないのです。、、、、、、何よりも重要なことは、じっとこらえながら、一本道をひたすら歩んでいく牧会者を、教会が信頼するということです。」

 「牧師の手で訓練されていない信徒には、絶対に重要な職務を分担させないという原則を最初からしっかり守ってきました。このことが、サラン教会の弟子訓練牧会を揺るがない岩の上に建て上げるのに大きく寄与しました。、、、、差し出がましいことかもしれませんが、この言葉を申し上げたいと思います。弟子訓練をする牧師は、信徒の前で自分自身を赤裸々にさらけ出すことになります。偽善をしたくてもできませんし、適当に転がって生きていきたくても、そうはできません。真実は真実のまま伝わって、うそはうそのまま伝わります。ですから、自分の羊をイエス様の弟子として造り上げるためには、力を尽くし、集中し、この身を犠牲にしなければなりません。このようなまっすぐな姿勢が、人々を動かすのです。」

 著者が言っている弟子訓練牧会は主イエス様がされた方法であり、現代の教会もそのようにするべきである、という主張に私は大きなアーメンである。まさにその通りだと思う。教会開拓をするにあたって私にも著者のような覚悟が必要である。とても難しいと思うが。また現時点でそこまでの自信がないのだが。著者は、そのような牧会が教会と人々に信頼され、そのような姿勢が教会と人々を動かす、と自分の経験から語っている。ただ韓国式をそのまま直輸入していいものかというのが、私の疑問であり、考えていることである。原則はそのままで良いと思う。これを変えてしまったらいけない。しかし、実際の訓練方法に関しては、より日本人に合った方法があるのではないだろうか。韓国人と日本人はやはり違うのである。どのような聖書を学ぶテキストがいいのか(自分で作成するべきか、既存のものを使うのか、使うとしたらどれがいいのか、それとも聖書だけを用いたら良いのか)、どのように私は信徒に模範を示したら良いのか(一緒に生活をするのは難しいだろうからどのような形で信徒たちと関わっていったらいいのか)、実践の現場をどのように提供できるのか(礼拝、伝道、祈りの奉仕など)、と具体的な方法に関してはこれから更に検討が必要である。