牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月29日(土) 「教会とは何か?」 D・M・ロイドジョンズ著  いのちのことば社

2012-12-29 07:37:15 | 日記

 私と同世代の大リーガー松井秀喜選手が引退した。残念だ。個人的には日本のプロ野球でプレーして欲しかった。

 
 さて、著者のロイドジョンズは、ロンドンのウェストミンスターチャペルで長年牧師をしていた。20世紀最大の説教者の一人と言われている。
 著者は、本書で「教会の本質」、「教会論」について説教をしている。「教会とは何か」という問いの答えを真に発見できる場所は新約聖書(特に使徒の働き2章)であるとしている。
 
 使徒の働き2章40-48節にはこのように書かれている。
 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
 
 

 本からの引用。「教会とは何か。第一に、それは明らかに人々の集まりである。、、、、この世も人々の集まりである。この世も様々な目的で集う。、、、、一体、ここに集まった人々の大きな特徴は何だったのか。それは、明らかにこの人々が「非常に重大な変化」を経験していたということである。それゆえに彼らは一緒に集まった。、、、、彼らに起こったことは、聖霊の御力の下にあった使徒ペテロの説教の直接的結果である。、、、、この人々に何が起こったのか。彼らは、このメッセージが自分に直接語られていることに気がついた。、、、彼らは神によって召された人々である。、、、、教会は、神が自分を召したということを自覚している人々の集まりである。、、、、皆さん、もしあなたが罪人しての明確な自覚がないなら、クリスチャンであることはできないし、教会員であることはできない。、、、、、彼らは単に罪を自覚しただけではない。彼らは悔い改めた。神を信じ、告白することを認めた。彼らは主イエス・キリストに関するメッセージを信じた。。、、、、そこで彼らは教会に加わった。、、、、、彼らはこの世から分離され、福音と教会に属すようになったのである。、、、、そしてそれ以後、教会は、彼らの生活の中で重大な比重を占め、生活の中心となり、最大の関心事となった。ここに、人々の偉大な一致の理想図を見ることができる。」

 イエス・キリストの弟子であるペテロがイエス・キリストの十字架と復活の説教をした。すると人々はペテロの説教に応答し、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、罪の赦しのためにバプテスマ(水の洗礼)を受けた。そして弟子の集まりである教会に加えられた。


 続いて本からの引用。「 彼らはどのようにして、新しい与えられた生命を表明したのだろうか。その答えは、彼らがしたように一緒に集まることによってであった。聖書が記録しているように彼らは「毎日」集まった。彼らは「心を一つにして集まり続けた。」 これが真の教会の特徴であった。彼らは「一緒に集まった」「毎日」「心を一つにして」「継続的に」。、、、、彼らは教会の中で全時間を費やしたいと願った。心を一つにして「継続的に」集まった。彼らはそれを「毎日」行った。教会は彼らの中心であり、最大の関心事であったからである。彼らを教会から切り離すことはできなかった。、、、、では何のために彼らは集まったのか。答えは聖書の中にある。彼らは、使徒たちの教理を堅く守り続け、そして交わりをし、パンを裂き、祈るために集まったのである。ここに、もちろん、私たちが強調しなければならないことがある。ここで非常に重大なことは、これらの事柄が並べられている順序である。最初に述べられているのは、「教理、教え」であって、「交わり」ではないことに気づくだろう。、、、、「教理」は「交わり」に先行する。そして私たちの交わりが教理に基づいていたものでないならば、それはクリスチャンの交わりではない。それはこの世の交わりであり、人間的交わりである。、、、、、そういうわけで、私たちは使徒の教え、教理への探求を第一としなければならない。そして後、ただその後に、それを土台として交わりが来る。 」

 教会の集まりは、教理と教えが何より最初に来なければならない。すなわち神のみことばである聖書が中心である。人間の考えではなく、まず神の考えを聞くのである。人間的な交わりはその後だ。これは「信徒を目覚めさせよう」の著者オク・ハンフム牧師も書いていたことだ。弟子訓練の三つの要素(神のみことば、ご自身の模範、弟子たちの実践)のうち最初に来るのは、神様のみことばである。



 「交わりは、必然的に、使徒の教えの後から生じてくるものである。「類は友を呼ぶ」と言うように、交わりが生まれるのは、当然のことである。、、、、さて次は、パンを裂くことである。それは主の聖餐を意味する。彼らは、キリストが再び来られるまで、キリストの死を宣言しようとした。」

 著者は、教えの後に、交わりと聖餐(パンとぶどうジュースにあずかる。イエスキリストが十字架上で裂かれた体と流された血を覚える)が続き、そして祈り、喜びや賛美と他の人々の救いが続くと説教をしている。


 「皆さん、これこそが、いつも真の教会の特徴であった。教会がこのようになるとき、教会は、外部の人々を引きつける磁石となるのである。私たちが御霊の喜びと歓喜を持っているのを人々が目撃する時、彼らは、私たちに聞くために教会へ押し寄せて来るのである。」

 ロイドジョンズ師の本はいつ読んでも本当に分かりやすく素晴らしい。私が大好きな著者の一人だ。