Hi there!! Sending happy thoughts ur way!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/0c/5692cf56593523245a3752081be2a1bf.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/df/8b2be504aa13dd16b2dca77d66ee78cb.jpg)
夜、マラッカ郊外のセランゴール河口で、ボートに乗ってホタル?鑑賞をしました。
*日本の蛍は、きれいな清水にしか生息できませんが、ここの蛍は、河口の汚染で異常発生したそうです。 我が国の蛍とは、かなり違う感じです。 一体何を食べているのでしょう?
*日本で、今回の旅で蛍が見れると楽しみにしていたのに・・・・・。入園門横のチケット売り場前に、ど~んと飛んでいる1匹の巨大なホタルの模型??を見たら、そんな気持ちは吹っ飛んでしまいました。 ゴキブリとか、大嫌いな私です。 「道理で異常発生するはずだ。こんなの近くにいっぱい飛んできたら一体・・・・・
。吸血蛍だったりして
。だから虫よけ持参なのか。日本の虫よけで効くの!!
」と、思いは、夜の川のクルージングへの期待ではなくて、恐怖へ
。
*入り口に、こんな不気味な模型を飛ばしておくなんて!! 肝試しをしに行くわけではないのにひどいですよねえ。小さい子だったら、多分泣きだして 絶対入園拒否すると思います。絶対、もっとかわいらしいのに変更すべきですよね。あるいは、ない方がまだましですよね。
まっ、とにかく マラッカからクアラルンプールのホテルに戻る途中、ホタル観賞へ
「え~っ、み~んな ホタル観賞に行くの??」と、思ったら
中国正月のお休みの最後の日曜日だったので、夕方、シンガポール等へ帰るためのラッシュとかちあってしまいました。
マラッカより、夜7時頃、到着。まだまだ、明るいです。
この絵も模型と同じで 不気味でおそろしい
!! しかも汚染による異常発生なんて、ホラー映画のように、襲ってきそうですよね
!!
不安をよそに まだ、暗くないので、クルージングの前に まずは、夕食です。
「RESTORAN」って、マレー語の外来語表記?? 英語のスペルよりわかりやすくていいですね。 また、「pork free」なんて、カッコ書きがあるのも、お国柄で おもしろいですね。
やはり、ババニョニャ料理でしたが、段々辛さに慣れて来たせいか、ここのお店は、ちょっと辛さがなくて、もの足りない気がしました。
チケット売り場(写真右上)に飛んでいるのが、ホタルの模型、模型でも近づきたくない!!
食事も終り、川には、結構蚊が結構飛んでいるらしいので、持参した虫よけを体につけ、いざ、エイリアンのような蛍の大群を見に
。 でも、格好は、不気味でも 実際は、日本の蛍より小さく3mm位だそうです(ちょっと、ホッ!!)。
8時過ぎだったでしょうか。先ほどの、入場門もこんなに真っ暗に。門をくぐりながら、「3mmぐらいだから、こんなのが異常にいても、大丈夫!!」と、自分に言い聞かせて前進。
いよいよ、セランゴール川をボートに揺られながら、蛍の観賞です。 ここからは、写真(フラッシュ)撮影禁止です。
あたりは、このカメラの映像より暗いです。 一応、救命着は着ているのですが、ワニとか大鯰とか出てきたら、この船ではひとたまりもなく転覆してしまいそうで、こわかったです。
全く、照明もなく、曇って星も見えない闇夜でした。 真ん中にボーっと見えるのが船です。 もしも曇っていなければ、満点の星空が見えたことでしょう。 サザンクロス(南十字星)も見えたはずですが、ホタル鑑賞には、曇りか、満月でない方が暗くてホタルの光がよく見えるそうです。
これでは、なんだかわかりませんね。川のほとりの茂みにクリスマスツリーのように 小さい光がピカピカ見えたのですが、私のカメラでは、これが限界でした
。
*案ずることはなく、美しいホタルのピカピカ小さな光を鑑賞でき(真っ暗闇で、ホタル本体や川の汚染具合を 見ないで済んだのは、幸いでした。)、 ホタル観賞も無事終わり、 クアラルンプールへと戻ったのは、夜の11時頃だったかと思います。
では
マラッカのオランダ広場から少し行った橋を渡った所にチャイナタウンがあります。
この日は 2月6日(日)で ちょうど中国正月(陰暦の元旦)のお祝いで大変賑わっていました。
オランダ広場の朱色の建物とは、また違った見事な紅い色の建物や提灯が、印象的でした。
日本の昭和レトロのような駄菓子屋さん。
バナナのフライ。ココナッツ油で揚げています。
健康に良いジュースだそうです。 結構、暑くて美味しそうに飲んでる人達がいました。 ジュースの中の白い大きな物は、冬瓜のようです。 私もトライしてみたかったのですが、万が一旅の途中でお腹を壊すと困るのでパスしました。
ヤシの皮、匂い消しに使ったり、鉢のチップ代わりに使うそうです。
画廊?もありました。子供たちが、絵描きさんの絵に見いっていました。 3人ともとてもいい表情をしていたのですが、ボケてしまって残念でした。
こんなお袋の味のような煮物を、自宅先で売っている所もありました。
これは、サトウキビの茎をしぼったジュースでしょうか? 奥に飲めるスペースがあります。
イタリアのポンペイの遺跡近くでオレンジのしぼりたてを飲んだのを思い出しました。
ランチは、マラッカの伝統的料理ババ・ニョニャ料理(中国移民とマレー人との間にできた混血の人々が、受け継いできた料理)を食べました。
中華料理をベースに、色々な香辛料が、調和して どれも美味しかったです。でも、ごちゃまぜ状態なので、何が何と言うババ・ニョニャ料理なのかは、さだかでは、ありませんが。
主人が、食べた時にブログに更新したデザートのココナッツのかき氷、名前知りませんが、もう一度食べたいなあと思う味でした。日本でも、売っていたらいいなあ(私の知らないだけで、もう売ってるのかも知ませんが)。
途中、マレーシア、最古の中国寺院(青雲亭)に寄りました。
1646年、中国から運んだ資材で建てられてるそうです。寺院の中は、皆中国系の人達でしたが、イスラムやヒンズー教の人達が寺の前を通る時は、 ちょっと一礼して通るらしいです。
屋根の上には、人や動物の像が飾られていました。空の青と調和するきれいな色合いでした。
大勢の人達が、御線香をたてるので、結構灰がとんでいました。
本堂では、正座して 拝んでいる人達が 大勢いました。
*昔 中国系移民(同化する意識のない華僑とは違うらしい。)と現地のマレー女性との間に生まれた人達の事をプラナカンと言う事を 知りました。 そして、そのプラナカンの男性をババ(紳士)、女性をニョニャ(貴婦人)と言ったそうです。 彼らは、独自の融合文化を生み出し、中国風の絵柄でありながら、パステル調の美しい陶器や、ビーズのサンダル等すばらしいです。 ここ、チャイナタウンの「ババ・ニョニャヘリテージ(プラナカンの博物館)に行くと、100年前のすばらしプラナカンの暮しぶりを見ることができます(写真撮影不可)。
*チャイナタウンに トゥン・タン・チェン・ロックと言う通りがあります。 1957年のマラヤ独立に貢献したプラナカンの名を付けたそうです。 今回、マレーシアにちょっと滞在し 感心したのは、マレーシアは、様々な人種、宗教のうまく融合された国だと言う点なのですが、でも、そこに至る過程には、やはり、色々と問題や紛争もあったようです。
*イギリスの植民地支配、その後、日本軍の占領、そして 日本の敗戦後 日本軍に協力したマレー人へのマレー共産党(中国系)の復讐等。そんな中、マレー独立問題が生じた際に中国系住民をまとめて ラーマン首相に協力してマラヤ連邦の独立を実現したのが、トゥン・タン・チェン・ロック氏。生粋のフラナガンであり、ババである彼は、華僑とマレー人の間にたち、問題の多い複雑な民族をまとめ上げる役割を果たしました。 いわば、日本の坂本竜馬のような人。 彼は、互いの文化の独自性を尊重し、民族としてではなく、一人の人間として団結して、一つの国をつくるよう、人々に訴えました。
*マラヤ独立以後も、マレーシア史上最悪と言われる5月13日(1969年)事件が勃発、これは、5月10日に行われた総選挙に対する民族衝突事件で この暴動による死者は196人、もしくはそれ以上と言われています。
*現在、暴動がチュニジア、エジプト、リビア、バーレーン等、各地に飛び火する形で勃発していますが、そんなマレーシアが、独立から統一、そして、一応の国の安定に至る過程は、これらの国々が 今後学ぶべき点、多いのではと思いました。
では、また
2日目、クアラルンプールより 車で約2時間(120km)の歴史の町、マラッカへ行きました。
マラッカは、2008年に世界文化遺産にも指定された古い都です。1400年にイスラム教を導入したマラッカ王国が誕生、繁栄し 現在のマレー世界の原形を作り、その後、大航海時代には、400年以上もの間、ポルトガル、オランダ、イギリスとヨーロッパの列強国に支配され、独特の文化を形成た興味深い歴史のある町です。
クアラルンプールより、高速道路で一路マラッカへ。 途中の料金所の屋根もイスラムっぽいかも??
車窓よりの景色、虎が出てきそうな熱帯雨林のジャングル?かパームツリーの畑が ず~っと続いて見えました。 昔は、ゴム畑が多く、世界第1の生産高を誇っていたマレーシアですが、日本が天然ゴムにかわる人工のものを開発したため、売れなくなり、それにかわって、現在は、油や石鹸の材料になるパームツリーを栽培しているそうです。
途中のサービスエリアは、広々としていて緑が多く、大きな実のなっている木や鳥達がたくさんいました。
トイレは、きれいでしたが、エコ? 紙は使わないで、ホースで洗うようです。
休憩中に撮った果物?と鳥です。
世界文化遺産に指定されているマラッカに着きました。 マラッカ海峡より、季節風を利用して東西へ貿易船が行き来し 海上のシルクロードのような道が発展したそうです。 アジア侵略を目指すヨーロッパ諸国にとってマラッカは、アジアの重要な拠点でした。 16世紀初めのポルトガル、そしてオランダ、イギリスと数世紀にわたる外国支配は、やがてマレーシア半島全土へ。
まずは、そんなヨーロッパ各国の残した史跡のあるマラッカの起点、オランダ広場。
左の建物は、スタダイスと呼ばれていて 1650年オランダの総督達が住むために建てられたマラッカのシンボル的存在。 右の噴水は、19世紀、イギリスの植民地時代、ビクトリア女王即位60周年を記念して建てられた物。 手前の花の乗り物は トライショー(マレー語でベチャ)。
現在200台位有るらしいです。 タクシーのように 運転するには、免許と講習が必要だそうです。
後ろの教会(冒頭の絵も同じ)は、1753年 オランダ統治時代に建てられた朱色の教会。
このオランダ広場を、絵画風に アレンジしてみました(私が、描いたものではありません。コンデジ内蔵のソフトです。)。
つぎは、オランダ広場の横の小道をマラッカ海峡を眺めながら のぼってセント・ポールの丘へ。
後方に広がるのがマラッカ海峡で、手前の建物は、マラッカの警察署。マレーシアの警察署は、皆、青い屋根だそうです。 真ん中の大きな船は、「船の博物館」。
この巨大な木造船の館内には、マラッカに来航した各国の歴史的に残る船の模型があるそうです。 私達は、この丘をのぼる途中から 見ただけですが、この立派な船と同様のものが、このマラッカ海峡に何隻も停泊していた遠い昔に思いをはせることができました。
ムラカ・タミンサリー(マラッカタワー) 2008年春にオープンした高さ110mのタワー。エアコンの効いた回転式の上下する展望キャビンから、マラッカ海峡と街並みが一望できるそうです。
マラッカ海峡と、タワー、そして、右にちらり木造船(博物館)を、絵画風にしてみました。
丘の上には、フランシスコ・ザビエルの像がありました。 あの日本史で覚えた1549年、キリスト教伝来(「以後よく来るキリスト教」とテストのために語呂合わせで覚えたような?)の フランシスコ・ザビエルです。
ポルトガルの王の依頼で、イエズス会よりインドのゴアに派遣され、その後、このマラッカ海峡を渡って日本へ来たんですね!! 2年後、またインドへ戻り今度は 日本に大きな影響力のある中国へ。しかし、中国入境は、思うようにいかず 志半ばの46歳にして、病死したそうです。その遺骨は、マラッカへ移送され、この後ろのセント・ポール教会に9か月ほど安置され、インドのゴアに移されたそうです。
丘の上に建てられたセント・ポール教会跡。1521年にポルトガル人によって建てられたものです。
この丘から眺めるマラッカ海峡に沈む夕日はすばらしいそうです。
丘を下った所にある「サンチャゴ砦」。1511年、オランダの戦いに備えポルトガル軍によって作られた大砲もある砦跡。 マレー語で「ファモサ」と呼ばれる有名なスポットらしい。 地元の人達が大勢記念撮影していました。 後ろに見える立派な建物は古い王宮を再現した重厚な木造建築のマラッカ文化博物館です。
*この後、パパ・ニョニャ料理のランチを食べて、マラッカのプラナカンの暮すチャイナ・タウンへ。 そして、マラッカ郊外で 夜にホタル観賞をしてクアラルンプールに戻りました。 そのお話は また次回にでも。
☆2月26(土)21:00~ 世界ふしぎ発見!(TBS ) 「進化するアジア マレーシアの秘密」
では Junpa lagi(ジャンパ ラギ: またね)
朝、日本を出国して マレーシア、クアラルンプール(KL)に夕方到着、KLのホテルに着いたのは、もう夜も更けていて 10時頃、お腹もかなり空いていたので 夕食にありつく為に 着替えもしないで、急いで冬服のまま(勿論コートは置いて) 外に出ました。
空港からホテルまでは、シャトルバスで来たので ホテルの位置もわからないし、どんなロケーションにあるのかも わからず、とにかく、道の前方にそびえ立つランドマークのツインタワ-を目印に ブラブラと写真を撮りながら 歩きはじめました。 まあ、食べる所がなければ マックがあるさと(ホテルの道はさんでななめ向い側にマックがありました。)。
エアコンの効いたホテル内は勿論、外も もうとっくに日が落ちているので、長袖の冬服もそんなに暑くもなく、それに ここは常夏、行きかう人達は、皆涼しげな半袖でも 暗いので あまり 違和感なく冬服で歩けました。
15分位歩いたでしょうか? 道沿いのフェンスに こんなきれいな看板がありました。
しばらくフェンスに沿って進むと、たくさんの車が出入りしているレストランらしきお店の入り口にたどり着きました。 中の方は、現地の人達で、繁盛していていそうでした。
英語で看板にRestaurant(レストラン)とでも書いてあれば、類推しないで済んだのですが、「NASI KANDAR PERITA」とマレー語だけでは、何だかねえ???梨を食べさせるお店がまさか、夜遅くにやってるわけないし。いつもは、完全方向音痴なのですが、食べることに関しては、感の働く私達?、とりあえず、広い敷地内奥の建物の中に入ってみることに
何も知らないマレーシアの都会クアラルンプールのお店、人種も様々。マレー語は さっぱり読めないし、もう、夜も遅い。 ちょっとためらいがちにお店に入った途端に 不安は消えました。 みんな、にこやかに楽しそうに食べていました。 夜の11時をまわろうとしているのに週末だったせいか 子供達もいます。 それに、ここは、イスラム教の国、こんな大きなパブが堂々とあるわけないから、夜遅くても 健全な多分手頃で美味しいレストランに違いないと、確信!! 夕食はここに決定!!
お腹もすいてるせいだったかもしれませんが、どれも、これも美味しそう!!
家族や仲間達と週末を楽しく過ごしているクアラルンプールの人達、幸せそうだし、活気に溢れていました。こんな雰囲気の中で食欲も増進して、美味しさが増す私です。 「1流のシェフの作った料理を肩苦しく食べるよりも、親しい友や家族と語らいながら食べる食事の方が、数倍も美味しく感じる。」と言うような事を名前は忘れましたが、著名な方が、以前テレビで言っていましたっけ。私も同感です。 あっ、でも 私の場合は、1流のシェフの料理も勿論食べれたら、どんな環境でも美味しいと思うかも??
成田の飛行場で、5000円だけ こちらの通貨(1リンギット=30円位でした。)にかえていたので、それを早速使う事にしました。
まずは、ビーフ入りとラム入りスープを試しに1つずつ。 1椀で、100円位だったと思います。 オーダーして席に座っていると、持ってきてくれます。
中には、とろけそうにまろやかで美味しいお肉が、こんなに!! スープは、かなり色々なスパイスでホット!! でも 塩辛いのではなく、長時間煮込んだ野菜やお肉のエキスとスパイスの辛みが まじり合って とてもいいお味でした。 一気に二人で2つ食べ終わり、味をしめて 次は、メインディッシュに何かチョイスする事に。
お店の、色々なブースを見て回り、どれも美味しそうだったのですが、ちょっと人の並んでいる「NASI KANDAR」に決めました。
で、数人の行列の後ろに私達も並んでオーダー。この私達のメインディッシュが、帰国後ネットで調べてわかったのですが 有名なマレーシア料理で このお店の自慢のNASI KANDAR(下記に説明有り)でした。
列に並びながら、動画を撮ったので みてください。
Food Court in Kuala Lumpur
*初めにチラリ写っている持ち帰りの人が、薄いビニール袋に入れてもらうのが、何ともエコと言うか「ゲ◎袋っぽい」と言うか??ジュースは、他の国でも見かけたことありますが。カレーは、ちょっと・・・。
これで、300円位だったかな??多いので2人で食べました。
エビの量が半端じゃないです。
チキンだけだと これで50円位だったか? 大きくて食べやすい所を選んでくれました。これは、そんなに辛くなく、タンドールチキンに似た味付けで、美味しかったです。
先ほどスープを持ってきてくれたお兄さんが、忙しいのにわざわざ、来て 写真を撮ってくれました。 二人とも腕まくりしても 暑くて汗だくの状態です。 ホテルから、歩き、香辛料のきいた料理を食べ そして、ここは、夏の国、やはり冬服は暑かった!!
週末の夕食、楽しく美味しくいただき 記念写真まで撮ってもらって お値段は2人分の合計で500円位でした。安い!! 第二の人生をこの地で暮らしている日本の方々がいらっしゃるのもうなずけます。
このレストラン「NASI KANDAR PELITA」、人種も様々、衣服も様々、ここには、写っていませんが、フォークやナイフ、箸、れんげ、そして、右手と食べ方も様々、降りたってまだ数時間の私達ですが、互いに認め合い仲良く共存し、未来を築きあげようとしている国、マレーシアの魅力を少し垣間見たような一時でした。
☆帰国後、ネットで調べたら、NASI KANDAR(ナシ カンダー)とは、インド&イスラム料理で 植民地時代に 肩に天秤棒(KANDAR)を担いだ人々が カレーのいい香りを漂わせながらて ご飯(NASI)や、新鮮な魚のフライや 牛肉や鶏肉などをかごに入れて、家から家へと 売り歩いた事に由来するらしいです。それが、時代と共に 路上で売るようになり屋台になりました。そして現在、マレーシアの文化遺産とも言える伝統的な料理としてマレーシアの人々に愛されています。また、Wikipediaにはペナン島より北マレーシアで、評判になったインド系マレー料理と書いてありました。
☆お店の名前、「PELITA(ペリータ)」は、マレー語で光(あかり)と言う意味。 で、この「NASI KANDAR PELITA」と言うお店は、昔ながらのNASi KANDARのレシピを使用し、マレーシア独特の伝統ある料理の味を大切にしているそうです。また、このお店、地元では 美味しく手頃な24時間営業の人気のチェーン店のようです。
食後、ツインタワーの近くまで歩いて、もう、深夜12時を回っていたので 途中、セブンイレブンでペットボトルを買って帰りました。
☆2月26(土)21:00~ 世界ふしぎ発見!(TBS ) 「進化するアジア マレーシアの秘密」
では Junpa lagi(ジャンパ ラギ: またね)
多民族国家のマレーシア、約半数を占めるマレー系(イスラム教)と3割の中国系(仏教)、そしてインド系(ヒンズー教)その他の人々。そこには、単一民族の日本とは違うアジアの面白味がありました。 そして、人々がお互いの宗教と伝統ある文化を尊重しつつ暮らしているこの国の発展を また、見にきたい、できたら 今度は もう少しのんびりロングステイしてみたいと思わせる国でした。
先日、1週間ばかり旅してきたマレーシア、今回旅行会社のお手頃なパッケージツアーに参加しました。なので、下調べも予備知識もなく 旅の前夜にパスポートだけは、しっかりバックにしまって、あとは、トランク一つに夫と私の夏服数枚詰め込んで おまかせ旅行と気楽に飛行機に乗りました。マレーシアが アジアのどこに位置するのかもわからずに。 多分以前訪れた事のあるタイやシンガポールの近くかなあ??ぐらいで。
昔、学生の頃から歴史も地理も芸術も アジアより西欧の情報量の方が圧倒的に多かった気がします。短期間で、ほんの少しマレーシアをかじっただけの私達ですが、忘れないうちに この旅で感じた事、考えた事等を私も学びながら ぼちぼちで綴っていこうと思います。
昨年秋、格安のエア(LCC)が 羽田に就航、手頃に行けるアジアンリゾート、マレーシアとして雑誌等でも紹介。 また、MM2H(マレーシア・マイ・セカンド・ホーム)で、物価の安いマレーシアで退職後の生活を謳歌している方々のお話もテレビ等でちらほら耳にする昨今。この私達の旅の感想を読んで、ちょっとでも何かの参考になれば嬉しいです。
旅のはじめ -成田の飛行場搭乗前の喫茶店にて-
成田で搭乗を待つ間、喫茶店から見たKL(クアラルンプール)行きJALの飛行機。これだけ見ると ワア、立派と思いますが
横のKL行きマレーシア航空と比べたら マレーシア航空の飛行機の方が 輝いて見え オーラを感じました。単に新しく大きかったせいかもしれませんが。昔は、どこの飛行場でもJALの飛行機が輝きオーラを放っていたのに
。 何となく全盛期を過ぎた斜陽の日本を象徴しているようでちょっと寂しさを覚えました。
*でも機内の客室乗務員のサービスは、良く、快適な8時間の空の旅でした。 機内食もワインもまあまあで、朝出て、夕方着く便だったので、これから封切られる映画も2本見れました。
クアラルンプールの飛行場内
以前、何回か乗り継ぎに利用したKLの飛行場。このフロアーを見て1度だけ半日以上 乗り継ぎの間があった時に クアラルンプールのセンターへ早朝、通勤ラッシュのバスに乗って 行ったことがあるのを思い出しました。 その時は、通勤前のたくさんの人々が 高速道路の下の屋台で 出勤前の朝食をとっていて、私もその中に混じって カレーらしきものを食べたと思います。それは、もうだいぶ前の事。まだ街のシンボル「ツインタワー」が 出来たばかりで世界第1の高さを誇っていた頃であり、また、あのユニークな日本の建築家(数年前では乃木坂の国立新美術館が有名)黒川紀章氏による斬新な飛行場も出来たばかりの頃でした。
その時は、飛行場の外のムッとした暑さを感じたのですが、今回は すぐ待っていたリムジンバスに乗ったせいか、暑さも余り感じませんでした。夜、7時過ぎだというのに まだ ほの明るい夕暮れ時、ヤシの木の並ぶ常夏の異国の景色を車窓より楽しみながら、クアラルンプールのホテルに着いたのは、9時近かったと思います。
クアラルンプールのホテルに到着
入った時に、どことなく帝国ホテルの正面ロビーに似てる?と思っいました。 このホテルに関しては、先ほどの飛行機で感じた事に関連してお話したいのですが それは、また 後ほど。
マレーシア(クアラルンプール)到着の夜
夜の10時頃(日本時刻だと夜11時)、JALは昼便で機内食1食だけの私達、もう夜も遅いので あわてて服も着替えずに 夕食にありつくためにとりあえず外へ。 どこと言うあてもなく このホテルのロケーションも 知らないまま まだ昼間の暑さの残る街に繰り出しました。その日の夕食の話は、携帯から主人がちらり更新していますが、また次回に動画も添えてお話したいと思います。
では Junpa lagi(ジャンパ ラギ: またね)
![]() |
奇跡は起こせる わが子を救うため、新薬開発に挑戦したビジネスマン (宝島社文庫) |
ジョン・F・クラウリー | |
宝島社 |
古代ローマの街並みを出た所に グッド・タイミングで、ジュース屋さん(カフェ?)が、ありました。
ヴェスヴィオ火山が大噴火した夏も、こんなに暑かったのでしょうか?お昼過ぎの日照りの古代の街並みを歩いていたので、喉が、ジュースを欲している所にちょうど、1件ポツリとあるお店です。前回最後に書いたように、笠松と糸杉、世界の国々の国旗が目印です。
お店の中が、どこもかしこも 陽気で明るい感じ!! 南イタリアらしさを主張していて、とっても、すてきでした。
お店の左横にも中庭にも、レモン棚があって、レモンが鈴なりでした。下には、この辺でとれたスイカやトマト等、美味しそうな果物や野菜が売っていました。どれも、色がとても鮮やか!! すべて本物です。
この座っているお二人、お客さんかと思っていたのですが、あとでよく写真を見たら、あのおいしいジュースを作ってくれたお店の方々でした。 こんなとても洒落た空間で、しかもおいしいフレッシュジュース屋さん(カフェ)が、日本にあったら、行列を作るほどの繁盛だと思いますが、ここでは、お店の方も、のんびり座ってお客待ちです。
これは、かき氷(シャーペット状)。
その場で、搾ってくれるフレッシュ・ジュースには、2種類ありました。レモンジュースとオレンジジュース。レモンジュースは、かなり酸っぱいのでは?と思い 2人ともオレンジジュースを注文しました。
写真左の奥さん(?)が、オレンジを次から次へと輪切りに切り、右のおじさんが、それを、次から次へと惜しみなく 手で搾り続けてくれます。そして、コップ(Lサイズ位)がなみなみとなるまで、注いでくれます。1杯分が終わると、一端、皮等のかすを捨てて、次の1杯分も同様に作ってくれます。氷も、水も入れていない正真正銘のジュースです。
たくさんのオレンジが、絞られる様、余りに嬉しくて、写真撮るのも、どれだけの個数かを数えるのを忘れてしまいました(上の写真は、もう2杯目搾りおわって、底に残った搾りかすを、捨てる所です。) 多分1杯分で、オレンジの輪切りが10個以上あったと思います。それで、1人分、2ユーロ(200円ちょい位)でした。
日照りの遺跡の街並みを歩いてきたせいもありますが、この地でとれたオレンジでもあり、また、ジューサー等で全て苦みまで搾り切るのでなく、手で時間をかけて搾ってくれたこのジュース、最高でした。 氷を入れない自然の温度が自然のうま味を引き出していて、こんなに美味しいオレンジのフレッシュ・ジュースは、初めてかもしれません。また、1度にオレンジ5個分以上ものビタミンC等を摂取できるなんて、心も、体もリフレッシュして、更に、日照りで増えた活性酸素もいっきに 解消しできたのでは?と思いました。
美味しいオレンジやレモンがたくさんとれるポンペイ、きっと2000年前の人たちも、こんな贅沢なジュースを、毎日、気軽に飲んでいたのでしょうね。いいなあ!! ランチといい、このジュースといい、本当に新鮮な美味しさ!!それに、色々な種類の花が、咲き乱れていたであろうポンペイ(下記参照)。昔、ローマの人々が、ここに住みたいと思った気持、実際に少しだけあじわうことが、できました。
ジュースもおいしかったのですが、各テーブルの壺毎に違った種類の花達が、惜しげもなく、たくさん無造作に入れられていました。温暖で肥沃な所だから、きっと、こんなお花達も花屋さんで買わなくても、お庭でたくさん咲くのかもしれません。
見上げるといたる所になっているレモンの生ジュースは、どんな味だったか試せなかったのがちょっと心残り。
レモン棚の木陰で涼みながら、2000年前のポンペイの別荘の中庭で、くつろいでいるような気分で、ジュースをいただきました。(でも、後方には、コカコーラが・・・)。
*今日のマイケルは??というと、相変わらず、暑くて、エアコンのない所だと、 「あつすぎる~から、何かちょうだい!!」と言う訳で
エアコンつけて、更に涼しくんなるために、トリミングで剃ってもらったお腹や胸を上に出して、いつものようにごろり仰向けの格好で寝ています。食欲は、暑くても、飼い主同様一向に衰えず、実家で太った?13KGをそのまま維持しています。
*ローマに戻っての話が、あと少しで、旅行のネタも、終わります。退屈と思いますが、あと少しお付き合いください。