【古朝鮮】
檀君(단군)
古朝鮮を建国したといわれている王。檀君王倹(단군 왕검)ともいう。熊が,ヨモギとニンニクを食べて洞窟の中で100日間過ごした後,人間になったといわれている。10月3日は,建国記念日。紀元前2333 年,檀君が半島に「朝鮮」という国を建てたとされる日。
近肖古王(근초고왕)
近肖古王は,京畿道,忠清道,全羅道,江原道,黄海道を含む広大な百済の領土を手に入れた。彼は広大な土地を治めつつ,中国の文化を受け入れ,日本に伝えた。これにより王の権力は非常に強くなり,恐れるものがなくなった。王の位も自分の思い通りにし,会議なしに息子を王にした。王の息子が王になる世襲政治制度は,近肖古王から始まったのである。
王仁(왕인)
王仁は王の孫である珍昌王と共に『論語』10巻と『千字文』1巻を持って日本に渡り,天皇の息子に直接教えたといわれている。
◆三国時代
【高句麗】
朱蒙(주몽)
大きな卵から生まれたという伝説を持つ高句麗の始祖。東明聖王(동명성왕)ともいう。母は柳花(유화),父は北扶余の始祖・解慕漱(해모수)といわれている。
瑠璃(유리)
東明王・朱蒙の長男
乙巴素(을파소)[?~203]
高句麗の政治家。
廣開土王(광개토왕)[391~413]
古代朝鮮半島の高句麗(고구려)の王。彼の治世において,高句麗は急速に勢力を拡大し,周辺の部族や国家との関係を築き,中国の後漢王朝とも外交関係を深めた。彼の息子である長寿王は広開土王の功績を広く知らしめるべく,王の功績を一枚一枚刻んだ広開土大王碑(광개토대왕비)を満州に建てた。
乙支文德(을지문덕)[? ~ ?]
高句麗の武将。隋(수나라)の総勢200万を自称する遠征軍を半数にも満たない軍勢で撃退したと言われる。
曇徴(담징)[579~631]
高句麗の僧侶,画家。推古天皇の時代610 年(推古18)に百済を経て日本に渡り,飛鳥文化の仏教美術の発達に大きく貢献したとされる。日本の法隆寺の壁面には,淡晶が描いた金堂壁画があった。これは中国の雲崗石窟(윈깡석불),慶州の石窟庵(석굴암)とともに,東洋の三大美術品とされている。
淵蓋蘇文(연개소문)[?~ 666]
高句麗の武将。隋に続いて国を興した唐の太宗による17万人の遠征軍を退けた。安市城の戦い(안시성 싸움)。」
【百済】
溫祚(온조)
朱蒙の3 番目の息子。高句麗を離れ自立し,南下して百済を建国。兄・沸流(비류)とともに南下し,兄は彌鄒忽(미추홀)に,温祚は河南慰禮城(하남위례성)に,それぞれ都を作った。
武寧王(무령왕)[462~523]
佐賀県鎮西町,東松浦半島の沖合に浮かぶ加唐島で生まれたとされる百済の第25代王。桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫であると,『続日本紀』に記されている。
階白将軍(계백 장군)[?~660]
百済の将軍。わずか5千の軍勢を率いて,金庾信(김유신)率いる新羅5万の軍勢と善戦するが,衆寡敵せず,自らも切腹して果てる。
【新羅】
朴赫居世(박혁거세)[BC69~ 6]
天から白馬とともに赤い卵の状態で使わされたという新羅の始祖。この当時,すでに「朴」という姓をもっていた。
善德女王(선덕여왕)[? ~ 647]
新羅第27 代の王。父親である真平王の死後,後継ぎの息子がいないので周囲から女王に推挙され即位。
金春秋(김춘추)・武烈王(무열왕)[602~661]
新羅が三国を統一するのに最も重要な役割を果たした人物。花郎道の出身。大化改新(다이카 개신)後,日本にも渡り中大兄皇子(나카노오에노 황자)らとも会談している。残念なことに三国統一の目前で,亡くなってしまい,死後に武烈王(무열왕)という諡号(시호)を贈られた。
【新羅】
朴赫居世(박혁거세)[BC69~ 6]
天から白馬とともに赤い卵の状態で使わされたという新羅の始祖。この当時,すでに「朴」という姓をもっていた。
善德女王(선덕여왕)[? ~ 647]
新羅第27 代の王。父親である真平王の死後,後継ぎの息子がいないので周囲から女王に推挙され即位。
金春秋(김춘추)・武烈王(무열왕)[602~661]
新羅が三国を統一するのに最も重要な役割を果たした人物。花郎道の出身。大化改新(다이카 개신)後,日本にも渡り中大兄皇子(나카노오에노 황자)らとも会談している。残念なことに三国統一の目前で,亡くなってしまい,死後に武烈王(무열왕)という諡号(시호)を贈られた。
渤海(발해)
大祚榮(대조영)[? ~ 660]
*渤海の始祖。王号は고왕〈高王〉。
統一新羅(통일신라)
官昌 (관창) [645 ~ 660]
新羅の花郎(화랑)。官昌は,金庾信総軍の新羅の半島統一を後押しした。官昌は幼い頃から馬に乗って弓を射るのが得意だった。官昌は百済軍の中に飛び込んでいき,階伯将軍に捕らえられたが,その勇気を称賛され一度は解放された。しかし,再度百済軍に突撃し,捕らえられ,最終的に階伯将軍によって殺された。この出来事は新羅軍を激怒させ,彼らは全力で戦い大勝利を収めた。
元暁(원효)[617 ~ 686]
新羅時代の仏教僧侶であり이두〈吏讀〉を作った新羅の大学者설총〈薛聰〉の父。617年に新羅の金城(現在の慶州)で生まれた。元暁は15歳の時に出家して僧侶となり,その後多くの寺院で修行し,仏教を研究し広めた。「金剛三昧経論」と「大乗起信論疏」などの多くの著作を残し,仏教の真理を一般の人々にも伝えることに努めた。
圓光法師(원광법사)
新羅時代の僧侶。中国の晋に渡り仏教を研究した。彼は博識で教え上手であったため,晋で名が広まり師として崇められた。再び新羅に戻り,多くの僧侶に新しい仏教の知識を伝え,『世俗五戒(세속오계)』を編纂した。これは後に花郎が守るべき戒めを示す重要な書となった。
金仁問(김인문) [629 ~ 694]
*金春秋(武烈王)の息子。新羅,唐外交の中心的な人物。
伽倻(가야)
古代の朝鮮半島南部にあった小国家群。建国説話によると,空から六つの黄金の玉が降り,そこから六人の子供が生まれて伽倻諸国の王になったと言われている。伽倻は,日本の古代から中世にかけて存在した朝鮮半島南部の洛東江の下流に位置する6つの国から成り,新羅と百済の間で常に脅威を受けながら生き延びていた。伽倻は日本などと貿易を行い,大陸の文化を伝えたが,最終的に新羅に併合されてしまった。伽倻は,鉄の産出地として重要な役割を果たしていて,その鉄製品は日本や中国にも広がった。伽倻文化は,土器や遺跡などからも伺うことができ,独自の文化を持っていた。
金庾信(김유신)[595 ~ 673]
金春秋の義理の兄。金春秋の片腕となって新羅の半島統一に貢献し,後に大将軍となる。金春秋と同じく花郎道の出身。
文武王(문무왕)[? ~ 681]
金春秋(武烈王)の長男。父の死後,高句麗を滅ぼし三国統一を成し遂げた新羅の王。‘내가 죽거든 화장하여 동해에 장사하라. 내 죽어서 용이 되어 침략하는왜구를 막으리라.(死後,火葬して海中に埋めて欲しい。龍に生まれ変わって,倭の攻撃から新羅を守りたい)’ と遺言する。陵墓を築かないことも,遺骸を火葬にすることも,当時としてはたいへん異例のことだった。現在,慶州郊外の海中には文武大王陵(문무대왕릉)が残る。
慧超(혜초)[704 ~ 787]
新羅の僧。中国,インド,イラン,アラビア,シリアなどを徒歩で巡礼し,旅行記왕오천축국전〈往五天竺國傳〉を著した。
張保皐(장보고)[?~846]
唐,日本と新羅を中心に国際貿易を主としながら,海上を掌握していた人物。海上王の異名がある。日本では張宝高の名前で知られる。
甄萱(견훤)[?~936]
後百済の建国者。新羅が弱体化した隙をついて後百済を建国した。
弓裔(궁예)[?~918]
新羅の王子だったが愛されず,自ら後高句麗を建て,王を名乗った。彼は暴虐で,民を虐げ多くの新羅人を殺した。耐えかねた臣下たちは別の王を立て,恐れた彼は逃げたが最終的に殺された。
【高麗】
太祖王建(태조왕건)[877 ~ 943]
高麗第1 代目の王。
徐熙(서희)[942 ~ 998]
高麗時代初期の政治家,優秀な外交官。
姜邯贊(강감찬)[948 ~ 1031]
高麗時代初期の名将。1019年(顕宗10年)に姜邯贊が中心となって高麗に侵入した高麗軍を龜州(구주)で撃退した戦いは구주대첩〈龜州大捷〉という。龜州は現在の北朝鮮に位置し平安北道の中心部。
義天(의천)[1055 ~ 1101]
高麗時代の僧侶。교장도감〈敎藏都監〉を置き,広く仏教書を集め속장경〈續藏經〉を刻む。
金富軾(김부식)[1075~1151]
高麗時代中期の学者,政治家。三国史記(삼국사기・三國史記)を編纂。宋からの使臣は彼の才能に感嘆し,宋でも彼の名が知られるようになった。
尹瓘(윤관)[1040~1111]
北方の女真(여진)に対抗し国を守った高麗時代の優れた将軍。女真討伐作戦では別武班(별부반)」という軍事組織を作って軍を強化し,女真族の勢力を一時的に抑えることに成功した。
朝鮮建国~朝鮮末期
一然(일연) [1206 ~ 1289]
高麗時代後期の僧侶,学者。삼국유사〈三國遺事〉を著す。
崔茂宣(최무선) [1325 ~ 1395]
高麗時代後期,朝鮮時代初期の発明家。火砲などの火薬武器を初めて使用した。
崔瑩(최영) [1325 ~ 1395]
高麗時代の名将。倭寇征伐をした。
文益漸(문익점)[1329~1398]
中国の元から綿の種(목화씨)を密かに持ち帰った高麗時代の学者。
鄭夢周(정몽주)[1337 ~ 1392]
高麗時代末期の学者。李成桂が新しい王朝を築こうとする動きに反対し,1392年に李成桂の息子によって暗殺された。鄭夢周の著書には「圃隠集(포은집)」があり,彼の詩文や書画も高く評価されている。나는 백 번을 죽어도, 뼈가 가루가 되어 넋이 없어진다고 해도 절대로 고려를 배신하지 않겠다!(私は百回死んでも,骨が粉になって魂が無くなっても,絶対に高麗を裏切らない)という時調(시조)・丹心歌(단심가)を詠み,最後まで高麗を捨てなかったという。彼の死後も,その忠誠心と学問は高く評価され,朝鮮王朝でも賞賛された。
恭愍王(공민왕) [1330~1374]
衰退する元の干渉から抜け出し,高麗を独立した国にした。台頭してきた明に属する親明政策をとった。蒙古風を禁止し,奪われた土地を取り戻した。彼の治世に将軍として元討伐や倭寇討伐で活躍した이성계〈李成桂〉は,続く王禑・王昌を殺して王位に就き,次の朝鮮王朝を築き上げた。高麗を代表する画家としても有名。
【朝鮮時代】
李成桂(이성계)[1335 ~ 1408]
倒れかけていた高麗の後を継いで新しい王朝を始めた朝鮮の最初の王。国の名前を朝鮮とし,漢陽を都とした。
朴堧(박연)[1378 ~ 1458]
朝鮮時代初期の文臣,音楽家。
安堅(안견)[? ~ ? ]
朝鮮時代初期の画家。作品には안평대군〈安平大君〉の肖像画,몽유도원도〈夢遊桃源圖〉
적벽도〈赤壁圖〉,동경산수도〈冬景山水圖〉などがある。
世宗大王(세종대왕) [1397 ~ 1450]
朝鮮第4 代の王。1443 年にハングルの元になる訓民正音を制定。民衆が便利に暮らせるように科学技術を発達させた。宮中の音楽も整理し,集賢殿を作って本を出版したりもした。儒教の理想とする官僚と国王の権力が融和した王道政治を展開し,朝鮮の中でも最も優れた王とされる。
申叔舟(신숙주)[1417 ~ 1475]
朝鮮時代初期の学者,文臣。
金時習(김시습)[1435 ~ 1493]
朝鮮時代初期の学者。最初の漢文小説「金鰲新話」(금오신화)を残した。
蔣英實(장영실)[? ~ ? ]
朝鮮時代の科学技術者。1441 年には初めての雨量計である측우기〈測雨器〉を発明。
徐敬德(서경덕)[1489 ~ 1546]
朝鮮時代初期の学者。
李退溪(이퇴계)[1501 ~ 1570]
朝鮮時代の大儒学者。本名は이황〈李滉〉。人間には何よりも精神が大切だと考えた。34歳になって科挙試験に合格し,国の様々な重要な役職を歴任した。著書には퇴계집〈退渓集〉,주자서절요〈朱子書節要〉などがあり,その名を冠した作品として도산십이곡〈陶山十二曲〉がある。
申師任堂(신사임당)[1504 ~ 1551]
朝鮮時代中期の女流書道,書画家。針細工(침공),刺繍(자수)などにも長けていた。자리도〈紫鯉圖〉,초충도〈草蟲圖〉が有名。儒学者・李珥(율곡 이이)の母親。幼少期から四書三経に親しみ,詩文や刺繍,絵画に優れた才能を発揮した。
李珥(이이),李栗谷(이율곡)[1536 ~ 1584]
李退渓と並ぶ朝鮮儒学の巨頭。政治家でもある。율곡〈栗谷〉という号でも知られている。朱子学(주자학)の発展に大きく貢献し,特に主気説(주기설)を提唱した。また,壬辰倭乱を予見し,国防の重要性を説いた。彼の母親は신사임당〈申師任堂〉であり,李珥は母親から多くの影響を受け,幼少期から優れた才能を発揮した。李珥の思想や業績は,後世の朝鮮の学問や政治に大きな影響を与え続けている。
黃眞伊(황진이)[? ~ ? ]
朝鮮時代の開城の名キーセン,女流詩人。
權慄(권율)[1537 ~ 1599]
朝鮮中期の文臣,名将。倭軍に対して,幸州(행주)の大勝利をおさめた後,文禄・慶長の役(임진왜란/壬辰倭亂)でも韓国が勝利するために大きな貢献をした。
韓濩(한호) [1543 ~ 1605]
李舜臣(이순신)[1545 ~ 1598]
文禄・慶長の役〔壬辰倭乱〕時の朝鮮時代の名将軍。韓国では国民的英雄となっている。豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始すると,亀甲船(거북선)を駆使して日本水軍に損害を与え功績を立てた。
許浚(허준)[1546 ~ 1615]
朝鮮時代の名医。동의보감〈東醫寶鑑〉を完成した。
郭再祐(곽재우)[1552 ~ 1617]
文禄慶長の役の義兵長。
金時敏(김시민)[1554 ~ 1592]
朝鮮時代の武臣。
論介(논개)[? ~ 1593]
文禄・慶長の役〔壬辰倭乱〕のときの妓生(キーセン)。
朴文秀(박문수)[1691 ~ 1756]
朝鮮後期の文臣。公儀隠密・暗行御史として活躍。
洪大容(홍대용)[1731 ~ 1783]
朝鮮時代後期の科学者,実学思想家。私立天文台・籠水閣を建てた。地球回転説を唱えた。
朴趾源(박지원)[1737〜1805]
学問が実生活と結びついているべきだと考えた学者であり,多くの優れた作品を残した小説家。
申潤福(신윤복)[1758~?]
主に巫女や妓生を描いた朝鮮時代の風俗画家。有名な絵には미인도〈美人圖〉,주막도〈酒幕圖〉などがある。
丁若鏞(정약용)[1762 ~ 1836]
実用的な学問をすべて集めてまとめた朝鮮時代末期の学者。どうすれば民衆が安定し,便利に暮らせるかを考え,その方法を深く研究し,多くの本を書いた。中でも国政改革のプランを示した경세유표〈經世遺表〉,地方行政について記した민심서〈牧民心書〉,司法分野の改善について述べた흠흠신서〈欽欽新書〉などが有名。
金大建(김대건)[1821 ~ 1846]
韓国最初の天主教神父。幼い頃から神父になりたくて,15歳の若さでマカオに行き神学を勉強した。当時,韓国ではカトリックに対する迫害があり,布教の最中に捕らえられ,わずか26歳で亡くなった。
金正浩(김정호)[? ~ 1866]
朝鮮時代末期の地理学者。청구도〈靑丘圖〉,대동여지도〈大東輿地圖〉などが有名。
金正喜(김정희)[1786 ~ 1856]
朝鮮時代末期の文臣,書画家。추사체〈秋史體〉という有名な書体を考案した。
金弘道(김홍도)[1745 ~ ?]
風俗画,風景画,人物画など様々な絵を得意とした朝鮮時代の画家。この世のあらゆるものを絵に収めた。소림명월도〈疎林明月圖〉,신선도병풍〈神仙圖屛風〉などが有名。
興宣大院君(흥선대원군)[1821〜1898]
朝鮮末期の王族であり,政治家。本名は李昰応(이하응)。高宗の実父。1864年から1873年まで摂政として朝鮮の国政を司り,外戚の専横排除や有能な人材の登用,官制改革などを行った。1866年にはフランス人神父やカトリック信者を弾圧し,これを機にフランス艦隊を撃退するなど,鎖国政策を堅持した。
明成皇后(명성황후)[1851 ~ 1895]
朝鮮第26 代高宗の妃。少女時代から聡明で政治的手腕の持ち主であり,王朝政治にも関与していた。親露〔現ロシア〕政策をもって日本に対抗したため,三浦梧楼(みうらごろう)らによって殺害された。
崔益鉉(최익현)[1833~1906]
朝鮮末期の学者,義兵隊長。
金弘集(김홍집)[1842 ~ 1896]
朝鮮時代末期の文臣,政治家。
수신사(修信使)として明治維新の日本に派遣された(1876年に金綺秀,80年に金弘集,82年に朴泳孝など開化派の人々が任命された)。自分が井の中の蛙であったことに気づき,世界が発展していることに私たちも歩調を合わせて発展していかなければならないと主張した。
【大韓帝国】
高宗(고종)[1852 ~ 1919]
朝鮮第26 代の王。
池錫永(지석영)[1855 ~ 1935]
医師,国文学者。種痘法を実施。
閔泳煥(민영환)[1861 ~ 1905]
朝鮮末期の文臣。殉国の志士。英・独・仏・伊・オーストリアの特命全権公使。
朴泳孝(박영효)[1861 ~ 1939]
朝鮮末期の政治家。
孫秉熙(손병희)[1864 ~ 1951]
独立運動家,天主教教主。
徐載弼(서재필)[1864 ~ 1951]
独立運動家。
周時經(주시경)[1876 ~ 1914]
ハングル学者。한글という単語の命名者。
金九(김구)[1876 ~ 1949]
抗日独立運動家,政治家。
安昌浩(안창호)[1878 ~ 1938]
独立運動家,教育家。教育の重要性を強調し,韓国初の男女共学の学校である正進学校(정진헉교)を設立した。アメリカに留学し,帰国後に新民会(신민회)を設立した。
李承晩(이승만)〔1875~1965〕
朝鮮の独立運動家であり、大韓民国の初代大統領。1948年に大韓民国の初代大統領に就任し、その後も再選を重ねたが、1960年の四月革命により辞任し、ハワイに亡命した。
安重根(안중근)[1879 ~ 1910]
両班の家庭に生まれた民族主義運動家。1909年10月26日,哈爾浜(하얼빈)駅の構内で,韓国統監府初代統監で当時は枢密院議長だった伊藤博文を暗殺し,その後旅順刑務所で絞首刑に処せられた。
申采浩(신채호)[1880 ~ 1936]
独立運動家,史学者,言論人。朝鮮民族主義歴史学を提唱し,抗日暴力革命思想を啓蒙した。日本の植民地支配に対抗するために,朝鮮の独立と自由を求める運動を展開したが,1928年に台湾で逮捕され,大連の旅順監獄で服役し,1936年に獄中で亡くなった。
呂運亨(여운형)[1886-1947]
独立運動家,政治家。
金佐鎭(김좌진)[1889 ~ 1930]
独立運動家。独立戦争の一つである青山里(청산리)戦闘を大勝利に導いた人物。青山里戦闘とは,1920年に韓国独立軍が満州で日本軍に対して行った戦闘。
方定煥(방정환)[1899 ~ 1931]
児童文学家。子供たちを愛し尊重した。‘어린이’という子供向け雑誌を創刊し,子供の日(어린이 날)」を制定した。
金素月(김소월)[1902 ~ 1934]
詩人。代表作にはチンダレ花(진달래꽃)がある。
엄마야 누나야 강변 살자/뜰에는 반짝이는 금모레빛
둿문 밖에는 갈잎의 노래/엄마냐 누나냐 る강번 살자
柳寛順(류관순)[1904 ~ 1920]
「韓国のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた独立運動家。15 歳で日本の官憲に逮捕され,残酷な拷間を受けたが屈せず,堂々と「おまえたち日本人に,我々を裁く権利はない。裁きを受けるべきはおまえたちのほうだ」と叫び,獄死した。
安益泰(안익태)[1905 ~ 1965]
作曲家,指揮者。韓国国歌・愛国歌(애국가)の作曲者。
金素雲(김소운)[1907 ~ 1981]
詩人,随筆家。
尹奉吉(윤봉길)[1908~1932]
独立運動家。1932年4月29日に上海の虹口公園で行われた天長節(天皇誕生日)の祝賀式典で爆弾を投げ,日本の高官を含む多数の人々に重軽傷を負わせた。彼はその場で逮捕され,後に軍法会議で死刑判決を受け,年末に死刑にされた。
【日本植民地時代】
李箱(이상) [1908~1932]
詩人,小説家。詩や小説は前衛的で難解なことで有名。東京に渡り若くして客死した。
李仲燮(이중섭) [1916 ~ 1956]
西洋画家。
尹東柱(윤동주)〔1917 ~ 1945〕
詩人であり,抗日独立運動に関与した人物。満州(現在の中国吉林省)で生まれ,朝鮮語で多くの詩を創作した。彼の代表作には『空とは風と星と詩(하늘과 바람과 별과 시)』がある。1945 年2 月に思想犯として逮捕され,旧福岡刑務所において獄死。厳しい植民地支配の中で書き続けられ,死後に発表された詩は,今なお韓国で幅広い世代の人々に親しまれている。
金斗漢(김두한)〔1918 ~ 1972〕
政治家。김좌진〈金佐鎭〉将軍の子。