捜査官を引き連れながら縦軸のマンションから
ヤフーチャト、万歳!!!
ヤフーチャト、万歳!!!
ヤフーチャト、万歳!!!と叫びながら降りてきた清潔衛生都市の除悪動物がいた。
その除悪動物の物語をテレビ各局はすごすぎ過激として報道していた。
清潔衛生都市の極限は砂であった。
それは砂ではなくセラミックの粒だと舛添要三は清掃会社の詰所で妄想していた。
昨日は午後3時すぎから急に気温が下がり、舛添要三は下痢をしてしまった。
清掃屋がトイレ汚してどうするの舛添さんと先輩から注意されてしまった。
舛添要三の肛門からはひたすら汚物が出てきた、汚物がなくなると腸から小便ではない体液が出てきた。
全部出し尽くせば下痢はなおると舛添要三は自分の体を分析していた。
腹下りの薬はありますかと先輩に聞いたら
舛添さん、それは自分で用意しておくのよ、風邪薬、頭痛薬、腹痛薬は、自分で用意しておかないと
自己責任よと先輩に注意されてしまった。
舛添要三のからだは午後5時頃には復活しつつあった。それで夜勤を貫徹した。
先輩は70歳で色白、肌艶もあった、鼻歌をしながらトイレ掃除をするのだった。
島倉千代子の声ににていますねと舛添要三は先輩をおだてるのであった。
夜勤は男の仕事なので先輩は午後5時前には帰っていった。清掃の現場は新宿都庁の高層ビルだった。
夜勤があけ舛添要三はとぼとぼと浜松ハイムに帰ってきた。
ひとねむりしてから三田図書館へ塚原卜伝のCDと中国古代に関する本を返しにいった。
そろそろアンネの日記破損事件は沈静化して、攻甲殻機動隊電子電脳未来公安警察第九課の監視も強烈度になって
いないと判断したからであった。
テレビ番組では警視庁警察庁のキャリアとノンキャリアをめぐる現場抗争の物語が花ざかりだった。
警察小説といえば佐々木譲だった。
田町駅のIFには立ち飲み屋があったが、まだ開店していなかった。
まるで帝都は冬将軍の風降ろしのなかに凍えていた。
三田図書館から借りてきたのは中国共産党に関する本だった。
天には魔神がいる、魔神、人の身に入りて天下を動かす、中国の古代戦国時代は日本の中世戦国時代の100倍いや千倍規模だった。
毛沢東は古代中国の戦争、陰謀、政治を組織細胞に魔神が宿るとして、細く細部を解体し分類し、再構成しながら研究していた。
大魔神のイメージとは始皇帝が地下に埋めた荒ぶる身体であったと舛添要三は田町駅を登りながら妄想していた。
日清戦争から120年。
中国の地下には始皇帝が埋めた大魔神が復活しようとしていた。
おそらく中国共産党と人民解放軍はすでに韓国軍と華僑秘密結社を通して同伴蜜月しているだろうと舛添要三は妄想していた。
神戸で孫文が最後に講演した東亜共和国連合の思想が人民解放軍と韓国軍には協力機構として実現しているだろうと
舛添要三は妄想していた。そしてそこに北朝鮮軍が参加していくだろうと舛添要三は妄想していた。
人民解放軍が主導する東亜共和国連合協力機構にモンゴル軍とベトナム軍が参加するかは未知数だった。
戦後レジュームからの脱却として第2次世界大戦以後の世界秩序を覆す、靖国神社の日本はすでに包囲されていると
舛添要三は中国古代戦争史書から妄想している。舛添要三は浜松町駅で降り、冬将軍の街を歩き、
崩壊した部屋に帰還した。
ファシズムとの戦争、これが国連と国際社会が結論とした第2次世界大戦に関する法的規定であった。
ドイツは国連の敵国条項にあるので、国内でナチス軍へのノスタルジアは憲法違反の犯罪とされた。
それがドイツが国際社会で生き延びる方法だった。
靖国神社は戊辰戦争以後、戦没者を祀る場所とされているが、長州・薩摩・土佐などの明治維新勝利軍によって虐殺された
東北諸藩の戦士たちは祀られていないばかりか、現地で葬ることも許されず野ざらしにされたのである。
葉隠武士道の復権として西郷隆盛とともに決起した南州軍の戦士たちも靖国には祀られていない。
靖国神社とは創建の時から国民統合の神社ではなく、次の戦争へと国民を扇動する英霊のプロパガンダ基地だった。
英霊が次の英霊を呼び寄せるという戦争装置であった。
ゆえに第2次世界大戦を勃発させた戦争計画指導者たちが英霊として祀られた。
平和憲法のもとで生活していた昭和天皇は靖国神社神官たちの陰謀によって参拝ができなくなった。
舛添要三はそのように妄想小説に書いた。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF%E5%90%88%E7%A5%80%E5%95%8F%E9%A1%8C
対外的には、1964年(昭和39年)、日本社会党の佐々木更三委員長が中華人民共和国(中国)の毛沢東共産党主席に「中国国民に多大の損害をもたらして申し訳ない」と挨拶したところ、「何も申し訳なく思うことはありませんよ。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではありませんか。皆さん、皇軍(日本軍)の力無しには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう」と半ば皮肉まじりに発言している。1979年に合祀されていたことが報道された後も鈴木善幸が首相在任中も含め8月15日等計8回参拝しているが抗議は受けていない。だが、1985年(昭和60年)に中曽根康弘が首相として公式参拝を表明し実施して以降、中国と大韓民国(韓国)から抗議を受ける事があり(靖国神社問題をめぐる日本国内の一部報道が影響しているとの指摘もある)、その度に日本でも問題として取り上げられる。政府間ではA級戦犯が取り上げられているが、中国の報道[誰?]ではBC級戦犯についても問題とされる場合もある。
中国政府(中国共産党)の抗議として、もっぱら首相以外の靖国神社参拝への抗議はしていなかった。しかし、2005年(平成17年)2月22日の春季例大祭に、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」数十名が集団参拝したことに対して、中国政府の秦剛副報道局長が中国外交部を代表して「強烈な不満」を表明した。その直後、王毅駐日大使が自民党の外交調査会での講演で、かつて政府の顔である首相、官房長官、外務大臣の3人は在任中に参拝しないという紳士協定があったとしている(裏を返せば「それ以外の人間の参拝については言及しない」ということとも解釈できる[独自研究?])。このことから、秦剛副報道局長の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」などの参拝についての言及については矛盾しており、主張が二転三転しているとの指摘[誰?]もある。
戦没者の靖国神社合祀に関連して、1956年(昭和31年)遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局から、都道府県に対して靖国神社合祀の事務に対する協力について通知が行われた。後にこの通知は、1971年(昭和46年)に「合祀事務」や「祭神名票」など不適切な用語が用いられていたとして廃止された。その後、遺族援護事務としての一般的調査回答業務とした形で1986年(昭和61年)まで続けられていた。なお、1985年(昭和60年)には政教分離原則に反する不適切な通知だった、と当時の厚生大臣が国会で答弁している。
この引揚援護局からの通知に基づいた祭神名票(戦没者身分等調査票)は、靖国神社側が合祀を判断するため、戦没者あるいは一定の合祀資格条件に該当する者かどうかなど、照会があって調査作成されていたものである。合祀予定者の調査を靖国神社ではなく行政府が行っていたという経緯から、「合祀は日本政府の指示によるものではないか」という意見[誰?]もある。しかし、政府の出した名簿が全て合祀された訳ではなく、2002年(平成14年)7月の国会答弁では「国として靖国神社の行う合祀には関わりを持っていない」事が確認されている。
靖国神社の照会により引揚援護局が作成した祭神名票には、改正された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法改正」の支給根拠である「戦犯は国内法で裁かれた者ではない」という解釈から、東京裁判における戦犯も除外なく記載されている。靖国神社では1959年(昭和34年)にBC級戦犯を合祀した。A級戦犯については合祀のための照会をしていなかった。だが、1965年(昭和40年)に厚生省に戦犯を含む資料の送付を依頼。翌1966年(昭和41年)厚生省引揚援護局調査課長が「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」の通知に基づき祭神名票を送付。1970年(昭和45年)に靖国神社の崇敬者総代会でA級戦犯の合祀が決定された。ただし、当時の宮司預かりとなり、合祀はされていなかった。1978年(昭和53年)になって新宮司が就任。A級戦犯の受刑者を「昭和殉難者」と称して合祀した。また、靖国神社は、東京裁判の有効性や侵略の事実を否定するなど、「A級戦犯は戦争犯罪者ではない」として名誉回復の方針を見解として打ち出している。A級戦犯合祀問題の背景には、靖国神社などによる「A級戦犯は戦勝国による犠牲者」とする意見と、侵略戦争を認めた政府見解や、国民への多大な犠牲などから「侵略・亡国戦争の責任者である」と一般の犠牲者である軍人・軍属などと一緒に祀り、顕彰することを問題視する意見の対立があると思われる。1963年(昭和38年)以降、8月15日に開かれている政府主催の全国戦没者追悼式の戦没者の対象にA級戦犯も含まれているが、問題視されていない。全国戦没者追悼式は追悼であり、靖国神社は顕彰しているという理由からである。また、自決・戦死による祭神の中にも戦争責任者とみなされる人物は存在するが(支那事変開始時の陸相で太平洋戦争開戦当時の参謀総長である杉山元、満洲事変当時の関東軍司令官である本庄繁、支那事変開始時の海軍次官で太平洋戦争開戦当時の連合艦隊司令長官山本五十六など)、現在のところ問題とはされていない。
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昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度、靖国神社に親拝したが、1975年11月21日を最後に親拝が行われなくなり、今上天皇も参拝を行っていない。この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことを理由とする主張と、1975年当時の三木武夫首相が同年の終戦の日の参拝の後、「総理としてではなく、個人として参拝した」と発言した事を理由とする主張とがあった。昭和天皇が合祀に不快感をもっていたことを記録した「富田メモ」や、内容を裏付ける『卜部亮吾侍従日記』の発見によって、A級戦犯の合祀が天皇の参拝を妨げていることが明らかになった。
なお、天皇の靖国神社への親拝は行われなくなった後も、例大祭の勅使参向と内廷以外の皇族の参拝は行われている。
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2006年(平成18年)7月20日に、1988年(昭和63年)当時の宮内庁長官であった富田朝彦が昭和天皇の発言・会話をメモしていた手帳に、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことを示す発言をメモしたものが残されていた、と日本経済新聞の1面で報道された。このメモ(富田メモ)は、富田朝彦の遺族が保管していた手帳に貼り付けてあったものである。以下、そのメモの記述の一部を示す。
私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ
「松岡」とは、松岡洋右元外務大臣、「白取」とは、白鳥敏夫元駐イタリア大使、「筑波」とは、靖国神社宮司で1966年(昭和41年)に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった筑波藤麿を指すと推察される。1965年6月30日の靖国神社の総代会で合祀する方針が決定されたが、合祀の時期は宮司に一任された。合祀強行派の中には、「戦争責任者として合祀しないとなると神社の責任は重いぞ」と主張する者[誰?]がいたが、当時の宮司であった筑波藤麿は「ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい」と引き取り、結局任期中に合祀を行わなかった。「筑波が慎重に対処してくれた」とは、このことを指すと考えられる。「松平」とは終戦直後の最後の宮内大臣であった松平慶民、「松平の子」とは慶民の長男で1978年にA級戦犯を合祀を決断した当時の靖国神社宮司、松平永芳(1915-2005 元海軍少佐・一等陸佐)を指すと推察される。[独自研究?]
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靖国神社に合祀されているA級戦犯は以下の14人である。
- 氏名は50音順にソートされる。刑死/病死の欄でソートすると元の順序に戻る。没年齢は満年齢である。
氏名 | 所属/階級 | 役職歴/地位 | 判決 | 刑死/病死 | 没年月日 | 没年齢 |
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東條英機 | 陸軍大将 | 内閣総理大臣・陸軍大臣 | 絞首刑 | 刑死 | 1948年12月23日 | 64歳 |
広田弘毅 | (外交官) | 内閣総理大臣・外務大臣・駐ソヴィエト大使 | 絞首刑 | 刑死 | 1948年12月23日 | 70歳 |
土肥原賢二 | 陸軍大将 | 奉天特務機関長 | 絞首刑 | 刑死 | 1948年12月23日 | 65歳 |
板垣征四郎 | 陸軍大将 | 支那派遣軍総参謀長 | 絞首刑 | 刑死 | 1948年12月23日 | 63歳 |
木村兵太郎 | 陸軍大将 | ビルマ方面軍司令官 | 絞首刑 | 刑死 | 1948年12月23日 | 60歳 |
松井石根 | 陸軍大将 | 中支那方面軍司令官 | 絞首刑 | 刑死 | 1948年12月23日 | 70歳 |
武藤章 | 陸軍中将 | 陸軍省軍務局長 | 絞首刑 | 刑死 | 1948年12月23日 | 56歳 |
平沼騏一郎 | (司法官) | 内閣総理大臣・枢密院議長 | 終身刑 | 刑期中に病死 | 1952年8月22日 | 84歳 |
白鳥敏夫 | (外交官) | 駐イタリア大使 | 終身刑 | 刑期中に病死 | 1949年6月3日 | 61歳 |
小磯国昭 | 陸軍大将 | 内閣総理大臣・朝鮮総督 | 終身刑 | 刑期中に病死 | 1950年11月3日 | 70歳 |
梅津美治郎 | 陸軍大将 | 関東軍司令官・陸軍参謀総長 | 終身刑 | 刑期中に病死 | 1949年1月8日 | 67歳 |
東郷茂徳 | (外交官) | 外務大臣・駐ドイツ/駐ソヴィエト大使 | 禁固20年 | 刑期中に病死 | 1950年 | 7月23日67歳 |
永野修身 | 海軍大将 | 海軍大臣・海軍軍令部総長 | ― | 判決前に病死 |
戦犯指定を受けたが1947年1月5日 | 66歳 |
松岡洋右 | (外交官) | 外務大臣・南満州鉄道総裁 | ― | 判決前に病死 |
戦犯指定を受けたが1946年6月27日 | 66歳 |
何も申し訳なく思うことはありませんよ。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではありませんか。皆さん、皇軍(日本軍)の力無しには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。
毛沢東
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日本軍国主義ファシズムへのノスタルジア回帰は中国に大きな利益をもたらす、これが中国共産党と人民解放軍の毛沢東原理原則であった。
おそらく靖国神社宮司、松平永芳とは、中国共産党と人民解放軍の第1級国家神道工作員であったと舛添要三は妄想していた。
中国人と日本人の見分けはつかない、おそらく松平永芳に華僑が接触し、松平永芳は華僑の秘密結社に入ったのであろう。
そこから中国共産党と人民解放軍の第1級国家神道工作員になったと舛添要三は妄想していた。
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