愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

小説 混○○  40

2014年03月08日 | 小説

 

 

ウクライナ・キエフ情勢を大衆インターネットで読みながら、舛添要三はハザール王国の逆襲ではないかと動物的に妄想していた。

夜の漆黒は妄想の漆黒でもあった。

陰謀論においては、ハザール王国の民こそアメリカ金融帝国を支配しているユダヤであると定義されていた。

ハザール王国を滅亡させたのがキエフであった。

 

 

 

 

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■■■第3章:「キエフ・ロシア国」の台頭と「ハザール王国」の衰退


■■新たな強敵ルス人の台頭とユダヤ教への改宗


●アラブ帝国に代わって、新たな強敵が北方から台頭してきた。バイキングと呼ばれる北方部族の雄ルス人(後のロシア人)である。834年、ハザール王はビザンチン帝国に、北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。

この「サルケル砦」のおかげで、ドン川の下流域や、ドン・ボルガ水路に沿ったルス人の艦隊の動きを封じることができた。10世紀半ばまでの間、全体として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に向けられていた。それに対してハザール人とは、摩擦や時には衝突はあったものの、本質的には交易を基礎とした関係を結んでいた。ハザール人は、ルス人の交易ルートを押さえることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して国を通り抜けていく全ての貨物に10%の税金を課すこともできた。


●ところで、この時期のハザール王国内では、国の未来を左右する大きな変動が生じていた。9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799~809年)でユダヤ教に改宗してしまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外のユダヤ教国家」となった。

しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い結果を生み出していった。もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとかハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことになっていった。


●ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。そしてついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の一部は皆殺しにされ、一部は国外に逃れたのである。

この事件は、反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。この有力貴族は家族とともにボルガのロストフの地に亡命した。このロストフはルス人の商人団が築いた根拠地のひとつであり、ここでルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の息子との婚姻が行なわれた。こうして「ルーシ・ハン国」(後のキエフ・ロシア国の前身)が成立したのである(※ 後にハザール王国の後継者としてビザンチン帝国に公認されるようになる)。



●862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル川沿いの重要都市キエフを無血併合したのである。(キエフという名前は、もともとはハザールの将軍クイの砦からついた名前である)。

やがてこのキエフはルス人の町として発展し、「ロシアの町の母」となり、この町の名をとった公国「キエフ・ロシア国(キエフ・ルーシ)」が、最初のロシア国家の揺籃となった。ルス人がキエフに住み着いてから、ビザンチン帝国に対するルス人の脅威はますます増加し、この後200年の間、ビザンチン帝国とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行ったり来たりした。

 

■■「ハザール王国」の衰退


●ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合うようになる。それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。ハザール人の王国は、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流れに10%の税をかけるハザール人の存在は、ビザンチン帝国の国庫にとってもキエフ・ロシア国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となっていった。


●9世紀末あたりから、ルス人の艦隊が、ハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。そして913年、800隻からなるルス人の大艦隊がやってくると、事態は武力衝突へと進展し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行なわれた。この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足場を築いた。

965年、キエフ・ロシア国のスビャトスラフによって、ハザールの防衛の「サルケル砦」が陥落してしまった。このあと、ハザール王国の首都イティルも攻撃を受けた。



●ところで、『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかしウラジーミル大公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになった。これ以後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになってしまう。

また、同じ時期にウラジーミル大公はビザンチン帝国の王女アンナと結婚。これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシア同盟」は終焉し、それに代わって、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができたのである。


●なお、当時、この地域で帝国としての地位を認められていたのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国(アッバース朝)、それとハザール王国の3つであった。

キエフ・ロシア国のウラジーミル大公に嫁いだのはビザンチン帝国の王女アンナであったが、アンナはその前にドイツのオットー2世に求婚された際、これをすげなく拒否している。理由は格が違うというものであった。そのアンナがウラジーミル大公に嫁いだということは、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の格が違わなかったことを示している。それはキエフ・ロシア国がハザール王国の後継者であるからであった。

※ ウラジーミル大公が、ビザンチンなど西側の文献で、時々、ハン(汗)とかカガン(可汗)というトルコ系(ハザール)特有の呼び名で呼ばれているのは、これを反映している。



●ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び敗北を喫した。

ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われた。ハザール王国の西部方面(クリミア半島含む)では、比較的被害は少なかったが、都市は荒れて交易路も乱れた。

10世紀半ばの首都イティル陥落によってハザール王国は大きなダメージを受けたが、それ以後13世紀半ばまで、領土こそ縮小したものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続ける。


●ちなみに、ハザール・ユダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町の中にも近郊にも存在していて、ハザール王国の崩壊期に、ハザール人が多く流入して強化されたといわれている。事実、ロシアの年代記には「ゼムリャ・ジュドフカヤ(ユダヤ人の国)」から来る「ジェドヴィン・ボガトウイル(ユダヤの勇士)」たちに何度も言及している。

 

 

 


10世紀後半のヨーロッパとオリエント

 

 


 

■■■第4章:「キプチャク汗国」の成立とハザール人の離散


■■クマン人(ポロヴェツ人)の侵入


●キエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇るようになったわけだが、ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。

遊牧民の絶え間ない圧迫の結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていった。


●ビザンチン帝国は、新たな同盟国であるキエフ・ロシア国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の中心になるだろうと計算していたが、実際はそうなるどころか、キエフの衰退は速かった。それはロシアの歴史の第1章の終わりで、その後1ダースもの独立した大公国が互いに果てしなく争いあう空白の時期が続いたのである。


●この力の空白地帯に新たに乗り込んできたのが遊牧民族のクマン人(ポロヴェツ人)である。彼らはハンガリーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。

それに続いて今度はモンゴル人が侵略してきた……。

 

■■モンゴル軍の侵入と「キプチャク汗国」


●1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした。

そして1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫のバトゥ・ハンもヨーロッパ遠征に出発した。ボルガ河畔からロシアに侵入したバトゥ・ハンの遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を次々と攻略した。更にその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め込んだ。


●こうしてバトゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイ・ハンが没すると、バトゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流のサライを首都として「キプチャク汗国」を建てた(1243年)。

こうして、「キプチャク汗国」はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外側にあった諸公国も従属関係に入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まったのである。


●ちなみに、この「キプチャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルといった。すなわちハザール王国の首都だった都市である。

このことから、ハザール王国がいつ滅亡したのか具体的な記録は残されていないが、この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」したことがわかる。


●なお、ちょうどこの時期、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残している。

1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節団を送った。新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった。使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にボルガ川下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着した。

この使節団の長だった修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。その歴史的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある。そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで「ユダヤ教を信じるハザール人」の名がある。

今のところこの記録が、民族としてのハザール人についての最後の「公式記録」とされている。



●ところで、ハンガリーの歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8~9世紀のマジャール社会』でハザール人に数章をあてている。8~9世紀のほとんどの期間、マジャール人(ハンガリー人の祖)はハザール人に支配されていたからである。しかし、ユダヤ教への改宗には一節をあてているのみで、しかも困惑もあらわである。

「我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗教の問題には読者の注意を喚起しなければならない。社会の支配階級の公式宗教となったのはユダヤ教であった。いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。しかし、我々は次のような所見を述べるにとどめたい。

この公式のユダヤ教への改宗は、ビザンチン帝国によるキリスト教伝道活動や東からのイスラム教の影響およびこれら二大勢力の政治的圧力をはねつけて行なわれた。しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく、むしろほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである。」

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