愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

小説 混○○  43

2014年03月09日 | 小説

その一言そのひと動きが命を落とすとは、ユーラシア社会主義革命運動の原理原則だった。

ウクライナ情勢を読み解くためには、ハザール王国からの分析が必要であると舛添要三は妄想していた、とほほ。

 

 人はある一点の大地にたって万有引力の重力を受けている、だがその重力とは記憶でもあった。

人が立つ一点とは過去と現在、そして未来が交流する電磁波でもあった、とほほ。

ユーラシア大陸の戦争と革命とはすごすぎ過激なので、舛添要三は焼酎を飲み、妄想の夜へ逃亡するしかなかった、とほほ。

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■■■第1章:「ハザール王国」と「キエフ・ロシア国」とウクライナ人


■■古くから様々な民族が興亡を繰り返したウクライナ地域


●1991年に「ウクライナ」という国が旧ソ連から独立した。温暖な黒海に面し、欧州ではロシアに次いで国土面積が広い国である。この国南部のステップ地帯には、黒土(チェルノジョーム)と呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「ソ連邦の穀倉」と呼ばれていた。

1986年、この地域で「チェルノブイリ原発事故」が起きた際には、唯一の被爆国である日本から多くの専門家が派遣されて話題になったが、一般にウクライナは日本人にはあまりなじみのない国といえよう。

しかし、東欧ユダヤ人の歴史を知る上で、このウクライナの歴史を知ることは非常に重要である。なぜなら、そこはハザール王国のあった地域と重なっているからである。そして、ロシアでのユダヤ人迫害(ポグロム)は、このウクライナ人の存在がかなり重要な要素になっているのだ。


●なお、「ウクライナ」という言葉は、もともと「辺境」という意味で、これが国名にも民族名にもなっている。ロシア人が勝手に名付けたもので、日本語で言えば「田舎者」ということになる。この言葉が象徴するように、ウクライナ地域の歴史はウクライナ人とロシア人とユダヤ人のケンカの歴史である。



●ウクライナ人は、ロシア人、ベラルーシ人と同じく「東スラブ族」に属している。ウクライナの歴史は古く、紀元5世紀前後に東スラブ族が黒海北方沿岸地域に住み着いた頃までさかのぼる。これ以前この地域は諸民族が入り乱れ、興亡を繰り返していた。

紀元前8~7世紀の黒海北岸地域はギリシア人の植民市が建設され、ステップ地帯ではスキタイ、サルマートなどの騎馬民族国家が興亡した。2世紀には東ゴート族が侵入し、古代ローマ時代末期にはフン族が東から西へ通過していった。


●6世紀頃、ドン川、ボルガ川下流地域を中心に「ハザール王国」(ハザール汗国)が勃興し、北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。のちにこのハザール王国は、世界史上例を見ない「改宗ユダヤ教国家」となる。

9世紀頃には、都市キエフを中心に、現在のロシアのルーツとされる「キエフ・ロシア国」(キエフ・ルーシ)が成立。その担い手は東スラブ人であり、彼らは自分たちをルーシ(ルス人)と呼んでいた。現在にまで至る「ロシア」の名はこれに由来している。

 


10世紀初頭のハザール王国

 

●このキエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇った。

なお、『原初年代記』によれば、ハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジミール公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかしウラジーミル公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになる。ハザール・ユダヤ人は以後、キリスト教会側からロシア人に改宗を挑んだ者として敵意をもって見られるようになり、11世紀に入ると、ハザール王国は、キエフ・ロシア国とビザンチン帝国の連合軍に攻撃され、大きなダメージを受けてしまう。

 

■■ロシア帝国の台頭


●12~13世紀頃に、キエフ・ロシア国は内紛とステップ地域の遊牧民との争いによって力を弱め、13世紀になると、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍によって滅ぼされ、「キプチャク汗国」が成立。(「タタールのくびき」の始まり)。

これ以降、この地域の北東部ではモンゴル支配を受けつつも、モスクワ公国が中心になって統一へ進む一方、キエフを含む南西部は、バルト海沿岸から拡張しつつあった新興国リトアニアの支配下に入り、16世紀にはポーランドの支配下に入った。


●そして、この頃から、ウクライナ南部に逃亡農奴を中心にした「ウクライナ・コサック集団」(自治国家)が形成され、勢力を誇るようになる。これが直接的なウクライナ国家の起源とされる。

しかし、コサックたちの自治国家は、当時、東欧の大国であったポーランド=リトアニア連合王国や、さらにロシア帝国、オスマン・トルコ帝国に挟まれ、長くは続かなかった。彼らの領土は、ロシア帝国とポーランドによって東西分割され、ポーランドが滅亡すると、ガリチア地方はハプスブルク帝国の支配下に、その他の大部分はロシア帝国の領土となってしまうのであった。

※ ガリチア地方とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。


●19世紀の民族運動の発展において、ウクライナ地域では、ウクライナの過去の栄光を象徴する存在としてコサックが理想化された。そして、ウクライナ独立という目標を掲げたウクライナ民族運動が起きるようになるが、ロシア帝国下では、ウクライナ民族主義は徹底的に弾圧され、ロシア化が図られた。

しかし、ウクライナ人への弾圧は、かえってウクライナ人としての民族意識を根強いものとした。また一方で、ウクライナ人は、ハザール王国時代以来の同居人であるユダヤ人を迫害することによっても、自らをウクライナ人として意識したのであった。

※ このウクライナ人によるユダヤ人迫害については、後で詳しく触れていきます。

 

 


 

■■■第2章:ロシア帝国における反ユダヤ政策の実態


■■ロシア皇帝が相次いで実施した反ユダヤ政策


●ロシア国内における反ユダヤ主義は、1470年代に発生した「ユダヤ教的異端」をきっかけに現れた。この異端は、モスクワ宮廷内に広がり、高級聖職者、貴族、さらにはイワン3世の義娘によっても信奉された。この異端の広がりにより、1487年にはノヴゴロド大司教がユダヤ教徒追放令を、1504年には、イワン3世が、この異端信奉者を火刑にする命令を出した。


●イワン4世もまたユダヤ人に対する敵意を示している。彼はユダヤ人を“毒薬商人”とみなし、1545年にはモスクワにおいて、ユダヤ人の商品を焼き、彼らのモスクワでの商業活動を禁じた。また1555年には、リトアニアのユダヤ商人がロシアに入国することを要求したが、ポーランド王ジイグムントが拒否している。さらには、プスコフ併合後、1563年に、ポオツク市において、キリスト教への改宗を拒むユダヤ人を川に投げこむように命じた。

 


イワン4世(雷帝)

ユダヤ人を“毒薬商人”とみなした

 

●ユダヤ人追放令は、以後何度も出された。1610年にはシュイスキー、1727年にはピョートル2世が、さらに1744年には女帝エリザベータが約3万5000人のユダヤ人をリヴォニアから9年以内に追放するように命じた。この追放令に対しては、ユダヤ人の商業活動による利益を考慮した元老院からの反対があったが、エリザベータは、「私はキリストの敵から利益を得たくない」としてこれを拒否した。

 

■■ロシアは当時、世界で一番ユダヤ人の多い国となった


●1762年に就任した女帝エカチェリーナ2世は、それまでの皇帝によるユダヤ人政策を受け継ぎ、1762年に、ユダヤ人以外の外国商人に対しては、入国許可令を出した。しかしこのようなユダヤ人の入国を許可しない政策は「ポーランド分割」によって無意味になった。

なぜなら、1772年の第1回ポーランド分割によって約20万人のユダヤ人が、さらに1793年と1795年の分割によって約70万人のユダヤ人がロシア支配下となり、短期間で合わせて約100万人ものユダヤ人がロシア支配下になったためだ。その結果、ロシアは、当時、世界で最大のユダヤ人口を有する国となったのであった。同時に、それまでのユダヤ人追放令は機能しなくなり、廃止せざるをえなくなってしまった。

 


第8代ロシア皇帝 エカチェリーナ2世
(在位1762~96年)

 

●こうして、エカチェリーナ2世は反ユダヤ政策を改め、その植民地化政策の過程で、特別な制限を加えることなく、ユダヤ人がロシアへ入ってくるままにまかせるようになったのである。

彼女の政治的、経済的実用主義は「啓蒙主義」の思想の影響によって本質的に強化された。啓蒙主義者たちはユダヤ人に対して、宗教的な偏見を抱いていなかった。彼らはユダヤ人を、すべての人々と同じ権利と義務とを具えた良き国民につくり上げようとした。

この、第1次ポーランド分割後のロシアの政策は、短期間にユダヤ人を同権をもって遇するということにおいて、他のすべてのヨーロッパの国家に大きく先んじたのであった。


●とはいえ、同権の待遇は、結果として種々の規制も招来した。時間が経つにつれて、とくに第2次および第3次のポーランド分割の後、ユダヤ人がますます大量にロシア帝国の支配下に帰するようになると、かなり大きな反動が現われてくるようになった。

このままユダヤ人を自由にさせていては、ロシア帝国内にユダヤ人が流れ込んでしまう。そのことを内心恐れ始めていたエカチェリーナ2世は、ロシア帝国の支配下に入った地域のユダヤ人全員の移住を禁じ、その土地に縛り付ける政策を実施するようになる。いわゆる「定住区域」という名の巨大なゲットーのスタートである。

 

■■エカチェリーナ2世によって作られた巨大なゲットー=「定住区域」


●彼女は1772年8月16日に、ユダヤ人と非ユダヤ人とを区別し、ユダヤ人はポーランド分割以前の定住地から移動することを禁じる勅令を出した。そして1791年には、ユダヤ商人、職人の身分登録地をベロルシアに限定した(「定住区域」の成立)。その後1793年にはミンスク、ウクライナ、小ロシア、1795年にはリトアニアなども登録地となり、ユダヤ人は、これらの区域以外には定住することができなくなった。

このようにしてエカチェリーナ2世は、「定住区域」の基礎を作った。ユダヤ人は少数の例外を除いて、1917年のロシア革命直前に至るまで、この区域を離れることが許されなかった。こうした区域は形式的には、長期にわたる準備の後に1804年に発せられたロシアにおける「ユダヤ人に対する条例」によって確定した。ただし、区域内のユダヤ人をロシアに同化させるかどうかについては、明確な政策を取らなかった。

 


黒く塗られたエリアがロシアの巨大なゲットーと呼ばれる
「定住区域」(ユダヤ人制限居住地域)である

1791年から1917年まで、ユダヤ人が移動することが禁じられた

 

●エカチェリーナ2世がこの「定住区域」を設定したのは、皇帝による伝統的なユダヤ人追放令の延長ともいえるが、直接には、ユダヤ商人によるロシア国内での商業活動を恐れたロシア商人の要求によるものであった。

この「定住区域」の広さは約100万平方キロメートルにも及び、ロシアにおけるいわば巨大な「ゲットー」のような存在であった。1897年までに500万人以上のユダヤ人が住んでいた。(※ この「定住区域」は、英語では「ロシア・ペール」と呼ばれている)。


●このように啓蒙君主であるピョートル大帝を除くと、ほとんどのロシア皇帝は、18世紀後半のポーランド分割に至るまでは、ユダヤ人追放という一貫した政策を取ったことがわかる。そのため、女帝エカチェリーナ2世によって「定住区域」が設置される以前の東欧ユダヤ人は、度重なる追放令によってロシア国内には法的には存在せず、もともとハザール王国の領域だった地域──黒海北部・ウクライナの地域で多く生活していたのである。この時期のウクライナはポーランド領である。

 



↑ロシアの定住区域の拡大図

定住区域外の東部の町にも多くのユダヤ人が住んでいた

 

■■スラブ主義者とウクライナ民族主義者の台頭


●1801年に就任したロシア皇帝アレクサンドル1世は、「ユダヤ人改善委員会」を設置して、漸進的にユダヤ人を矯正して改宗させようとしたが、それはユダヤ人の反対にあい失敗に終わった。そこで、次に就任したロシア皇帝ニコライ1世は、「兵営学校制度」などを施行し、ユダヤ人の強制同化策を取った。しかしこの制度によって改宗したユダヤ人はごく少数であった。また改宗を拒んだユダヤ人の中には、自殺した者も少なくなかった。

ニコライ1世は、1841年には、ユダヤ人の改宗を目的とする公立学校とラビ神学校を設立し、1844年にはユダヤ人自治組織を廃止する法令を出した。また、1851年にはユダヤ人分類計画を提案した。しかし、これらの強制同化の試みは、あるものは廃止され、あるものはユダヤ人の反対にあって実施されず、全体的には失敗に終わった。

 


第11代ロシア皇帝
ニコライ1世
(在位1825~55年)

 

●ニコライ1世の次に就任したロシア皇帝アレクサンドル2世は、最初は自由主義的な政策を実施し、ユダヤ人に対しても比較的寛容であったが、1861年のポーランド反乱後、急変。ユダヤ人に対する政策は厳しくなり、1870年には都市条例を出し、ユダヤ人が市役所職員の3分の1以上を占めることと、市長職に就くことを禁止した。また1873年には、ユダヤ人の公立学校とラビ神学校を閉鎖した。

 


第12代ロシア皇帝
アレクサンドル2世
(在位1855~81年)

 

●一方、ロシア国内においては、スラブ主義者とウクライナ民族主義者が台頭し、反ユダヤ宣伝が繰り広げられた。その最たるものがヤコブ・ブラフマンによって1869年に出版された『カハルの書』であった。この序文は、ユダヤ人が国家の中に国家を形成し、その目的は一般市民を服従させ、搾取することである、という反ユダヤ宣伝になっている。この書は主として政府高官に好評を得た。

また、1880年には、新聞『ノーヴォエ・ヴレーミヤ(新時代)』が、自由主義から反動的立場に転じ、「ユダヤ人がやってくる」という警告文を掲載し、ユダヤ人のロシア文化への進出に対する危険性が述べられた。

 

 


 

■■■第3章:ウクライナ人によるユダヤ人迫害 (ポグロムの始まり)


■■ウクライナで生活していた富めるユダヤ人と貧しいユダヤ人


●ウクライナに住んでいたユダヤ人は、活発な商業活動を展開していた。例えば当時、ウクライナの周辺都市に点在していた居酒屋の80%近くはユダヤ人が経営していた。また、ユダヤ人たちは借地小作雇主としても活動し、目立つ存在であった。

こんなユダヤ人たちに対し、ウクライナの農民とコサックたちは、「搾取者」とみなして敵意を募らせていた。


●S・エティンゲルの調査によれば、東欧におけるユダヤ人の都市の数は、ハザール王国滅亡後の14世紀には41、15世紀には62、16世紀には、実に198に増加している。ユダヤ共同体も、1503年から1648年に至る期間、ウクライナだけにおいても115も形成されていた。

さらに、C・M・ドゥブノーフによれば、1501年から1648年に至る期間、ポーランドに居住するユダヤ人は、5万人から実に50万人に増加したことになる。ポーランドはロシアに分割される前は、当時、最大のユダヤ人口を有していたのである。


●1817年、ウクライナにおいて工場の30%はユダヤ人が所有していた。とりわけ製酒工場の90%、製材工場の56.6%、タバコ工場の48.8%、製糖工場の32.5%がユダヤ人経営であった。これらは中小企業にすぎないが、このような産業から何人かのユダヤ人資本家が登場していた。

例えば、製糖業では「砂糖の王」と称されたA・ブロッキー、鉄道建設業ではC・ポリャコフが1850年から1870年にかけて第一人者であった。また黒海北部に1883年開始されたドニエプル運河搬業、1876年のヴォルガ河蒸気船業などはいずれもユダヤ資本家によるものであった。


●なお注意しないといけないのは、ウクライナに住んでいた一般のユダヤ市民のほとんどは、都市下層民に属していたという点である。この地域のユダヤ人は、北西ロシアに比較すると、経済的には恵まれてはいたが、貧しさは共通していた。当時のユダヤ人の状況に関する調査報告には、ユダヤ人の多くは貧困状態にあり、食事は通常、パンと野菜のみであったと記されている。キエフのある地主の報告によれば、ほとんどのユダヤ人はウクライナ農民よりも貧しかったとさえ述べられている。

 

■■ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生


●1648年、まだウクライナがポーランド領であった頃、ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生した。いわゆる「フメリニツキーの乱」である。ボグダン・フメリニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、ウクライナとポーランドの行く先々でユダヤ人を襲い、金品を略奪したあげく虐殺した。約50万ものユダヤ人が殺された。

 

 
「フメリニツキーの乱」を起こした
ボグダン・フメリニツキー

 

●ボグダン・フメリニツキーは、ロシア史においては、コサックと農民の反乱指導者として、ウクライナをポーランドから解放し、ロシア支配に至らせたとして高く評価されている。しかしその反乱において、ユダヤ人を虐殺し、ユダヤ共同体を破壊したために、ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。虐殺は、ガリチア地方(西ウクライナ)を中心として、ベロルシア、さらにウクライナ南東部にも及んだ。この虐殺と破壊によって、ユダヤ人共同体は、崩壊的危機に立たされた。


●さらに、1734年から1736年にかけてもウクライナにおいて「ハイダマク」という名称の集団が、ユダヤ人虐殺を行なった。このハイダマク運動においては、フメリニツキー以上にユダヤ人虐殺に目標が置かれ、しかもロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行なったのである。

 

■■「ポグロム」はウクライナ南部(黒海北岸)で始まった


●ロシアにおけるユダヤ迫害は、一般に「ポグロム」と呼ばれているが、一番最初のポグロム(本格的なタイプ)がどこで起きたのか知る人は少ない。一番最初のポグロムは、1871年にウクライナ南部──黒海北岸の都市オデッサで発生した。

オデッサは1794年に創設された多民族都市であり、ギリシア人、ユダヤ人などが多数存在し、ロシア・ユダヤ文化の中心地であった。市の3分の1がユダヤ人だった。後にオデッサからはロシア革命の指導者の1人トロツキーや、シオニズム運動の理論的指導者となるジャボチンスキー、散文作家バーベリなど著名なユダヤ人が輩出した。

 


ジャボチンスキー

 

●1881年の春、アレクサンドル2世が暗殺されると、この犯行グループの中にユダヤ人女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、民衆の間で「皇帝殺しのユダヤ人に制裁を加えるべきだ!」という煽動がなされた。そのため、この皇帝暗殺事件を機にポグロムは爆発的に波及したのだが、興味深いことに、ほぼ全てのポグロムがウクライナ南部の定住区域──かつてのハザール王国領と重なる地域(黒海北岸)に集中していたのである。当時のユダヤ人作家は、この時のポグロムを「ウクライナ南部(黒海北岸)の暴風」と呼んでいた。

ポグロム加害者は、ウクライナ農民と町人、それも下層労働者が多く、被害者はユダヤ町人、商人であり、こちらも下層民が多かった。

 



↑1881~1884年のポグロムの発生状況

黒海北岸で集中的に起きている

 

●なお、有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は、東欧ユダヤ文学者であるシャローム・アライヘムの『テヴィエの7人の娘たち』を原作としているが、これは帝政ロシア時代末期にウクライナで生活していたユダヤ人が、ポグロムに遭遇する物語である。この作品には、ユダヤ人を迫害するウクライナ人の暴動ぶりが描かれているのである。

 


『屋根の上のバイオリン弾き』

 

●また、1809年ウクライナ生まれの小説家、ニコライ・ゴーゴリの名作『タラス・ブーリバ』には、当時ウクライナの主人公だったコサックたちが、なにかといえばユダヤ人を虐殺していた姿が描かれている。それをまたウクライナ人のニコライ・ゴーゴリが、いかにも楽しげに書いている。

 


ウクライナ生まれの小説家
ニコライ・ゴーゴリ

 

●例えば、次のような場面では、コサックの会話の中に搾取者としてのユダヤ人への敵意が表現されている。

「今でも教会もみな、ユダヤ人どもに抵当に押さえられているんだ。それで前もってユダヤ人に借金を返さんことには、礼拝式のミサも行なうことができない有様なんじゃ。」

「なんだと! ユダヤ人どもがキリストの教会堂を抵当に差し押さえたとな!──忌まわしい邪宗門どものために、ロシアの大地の上でこんな苦難がまかり通っているんだと!──そうだ。そんな真似はさせておかんぞ、断じてなるものか!」(『ゴーゴリ全集』第2巻)

この会話の後、ウクライナ・コサックたちはユダヤ人を手当たりしだいに川に投げ込んだのである。


●このように、かつてハザール王国があった領域に住んでいたユダヤ人たちは、その地に住むウクライナ人によって、とんでもない迫害に遭遇したのである。

 



↑1903年~1906年の主なポグロム発生地

依然として黒海北岸で集中的に起きている



ポグロムで死んだ黒海北岸の都市オデッサのユダヤ人たち

 

■■反ユダヤ政策の「5月法」成立


●1881年のポグロム後、内相イグナチエフは、皇帝アレクサンドル3世に、ポグロムの原因をユダヤ人の商業、工業への進出に対する一般民衆の抵抗の表明であるとし、ユダヤ人の“有害な”活動を阻止する必要があることを報告した。これを受けて、アレクサンドル3世は特別委員会を開設し、この問題について討議させた。この結果として翌1882年5月3日に、種々の反ユダヤ法が成立した。

 


第13代ロシア皇帝
アレクサンドル3世
(在位1881~94年)

 

●「5月法」と呼ばれる反ユダヤ法の内容は以下の通りである。


◎ 町以外におけるユダヤ人の居住を禁止する

◎ 町以外におけるユダヤ人の商業活動、および土地賃貸の中止

◎ ユダヤ人の日曜日(キリスト教祭日)の商業活動の禁止



●これらはいずれもロシア人地方商人階級の要求を満たすものであり、特に定住区域の15県において実施された。1887年には、1882年以前から村に居住しているユダヤ人の村間の移動が禁止された。


●帝政ロシアにおけるユダヤ人政策は、この「5月法」にその完成をみる。ユダヤ人の商業活動と都市進出に注目し、それをロシアに同化させ利用しようとした試みも失敗し、最後には、差別政策を押し出さざるを得なかった。その背景の一つとしてユダヤ人迫害の伝統のあるウクライナを中心とする民衆運動が、政府に影響を与えたことは無視できない。



●なお、ロシアの支配機構の内部には、人道的ないしは経済戦略的な理由から、反ユダヤ政策の段階的撤廃を望む人物もいた。とくにロシアの大蔵大臣らは種々の規定の緩和を支持した。彼らは、ユダヤ人がロシア帝国において重要な経済的要素たり得ることを理解していた。そして、ユダヤ人敵視の政策がこの先ずっと継続した場合、国際的な枠組みにおいて──外国のユダヤ人銀行家からの影響に基づいて、不利益が生じることを恐れていた。

重責を負っていた大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテが、ロシア皇帝アレクサンドル3世と行なった対話は、この関連で示唆に富んでいる。

アレクサンドル3世は大蔵大臣のセルゲイ・ヴィッテに、ユダヤ人に好感をもっているかどうか訊ねた。これに対してセルゲイ・ヴィッテは、「ユダヤ人を全員黒海で溺死させることが可能でしょうか?」と問い返し、言葉を続けて、「もしそれができないとすれば、ユダヤ人は『生きていて』もよいとせざるをえません。それはとりもなおさず、ユダヤ人に結局、ほかの全臣民と同様の権利を承認することを意味するものです」と答えた。

しかし、本質的な改善は実施され得なかった。



●ちなみに、ロシア史に詳しいある研究家は、次のように述べている。

「かつて静かだった『定住区域』(ユダヤ人制限居住地域)は、相次ぐポグロムの影響で、革命活動の温床となり、地下活動が広がっていった。モージス・リッシンによれば、1901~1903年に政治的理由でロシアで投獄された7791人のうち、2269人はユダヤ人であった。1903年3月から1904年11月までに政治的違反のかどで有罪判決を受けた者の54%はユダヤ人であった。そのような判決を受けた女性の64%はユダヤ人女性であった。」

 

 

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