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日本人の働き方  

2025-04-02 03:23:17 | 文化

>現代ビジネス   >オフィスに「個室」がないのは日本だけ…「日本人の働き方」の「知られざる問題」   >小熊英二 (社会学者) の意見・   >18時間・   

>なぜ日本は停滞からなかなか抜け出せないのか? その背景には、日本社会を支配する「暗黙のルール」があったーー。   

>社会学者・小熊英二さんが、硬直化した日本社会の原因を鋭く分析します。   

>※本記事は小熊英二『日本社会のしくみ』(講談社現代新書、2019年)から抜粋・編集したものです。   

>個室と大部屋   

>日本の特徴は、オフィスの形にも表れる。   

>職務を定めてそれを請け負う雇用だと、企業という場に集まってはいても、各自が個室かコンパートメントで各自の職務をこなす。   

>最近は回遊性を高めたオフィスや、間仕切りだけのコンパートメントも増えたが、基本は個室型である。   

>それに対し、日本は大部屋で共同作業だ。   

>これはどうも、日本だけの特徴であるようだ。   

2017年にある労働組織論の研究者は、こう述べている。   

>「私は欧米をはじめ各国で企業のオフィスを見てきたが、大部屋で仕切りがなく、上司や同僚と顔を突き合わせて仕事をしているのは日本だけだ」。   

 

そうですね。   

 

>この「大部屋」は、日本の官庁の特徴でもある。   

>フランスの国立行政学院(ENA)から研修で来日したキャリーヌ・クラウスは、2004年に日本の官庁についてこう述べている。   

>「驚いたことはいくつもありますが、先ず直接目にした驚き、それは役所の執務室の配置でした。   

>フランスではほとんどの公務員は自分たちの個室を持っていますが、日本の公務員は皆同じ部屋で働いています」。   

>官僚制については、フランスやドイツのような大陸ヨーロッパ型と、アメリカ型では違いがある。   

>とはいえ日本に比較的近い大陸ヨーロッパ型でも、大部屋で働いてはいない。   

>またドイツやフランス、あるいはイギリスやアメリカの官僚制でも、定期人事異動や新卒一括採用というものはなく、欠員ができたときに部内か部外から公募する形式だ。   

>行政学者の大森彌は、この「大部屋主義」が、日本の行政の特徴を表しているという。   

 

小人閑居して不全をなすと言われていますからね、日本人には相互監視が必要ですね。日本人は義理と人情の世界に住んでいますからね。義理とは序列関係から生じる個人的な義務のこと。人情は、私意・我儘・身勝手などである。         

一人では信用されませんね。個人判断ができない。      

 

>他国の官庁では、職務の内容を定め、それにふさわしい専門能力や学位を持つ人を欠員募集する。   

>そうなると、各人の権限と責任の範囲が明確になるし、与えられた職務内容に即して評価することができる。   

>ところが日本の官庁では、試験で一般的な能力を試して採用したあと、職場に配置して仕事を覚えさせる。   

 

日本人は没個性ですね。OTJですね。   [OJT: On-the-Job Training (職場内訓練、実地研修)]      

 

>しかも大部屋での共同作業に表れているように、職務内容の境界が不明確で、権限や責任の範囲も不明確になりやすい。   

>だから評価も、職務のパフォーマンスよりは、「人物」とか「人柄」に傾斜しやすい。   

 

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。それで責任者捜しに苦労する。      

 

>大森によれば、欧米その他の官庁では、まず職務があり、それに即した人を雇う。   

 

ジョブ型雇用ですね。   

 

>それに対し日本では、まず人を雇い、それに対して職務をあてがう。   

 

メンバーシップ型雇用ですね。やくざの組員採用の様なものですね。     

 

>大森はこれを「初めに職務ありき」と「初めに職員ありき」の違いとして論じている。   

>行政学者の新藤宗幸は、このことが、日本で行政指導による業界と官庁の癒着がおきやすい一因だとしている。   

>行政指導とは、法律にもとづく正式な行政命令ではなく、官庁の「アドバイス」である。   

 

一種の馴れ合いですね。   

 

>こういうものがあるのは、権限と責任の範囲が不明確だからだ。   

>しかも省庁の「課」が全体として業界と癒着し、誰が責任者なのかもわかりにくい。    

>それぞれの権限が明確であれば、特定の官吏が彼の権限のなかで汚職することはあっても、「課」が全体として業界と癒着する形にはなりにくいし、課内の動向が公文書で残り責任を問いやすい。   

>「初めに人ありき」の呪縛   

>社会学者のマックス・ウェーバーは、官僚制の特徴は専門化であり、これは近代化の特徴でもあると論じた。   

>彼が官僚の典型的人間像だとした「専門人」は、ドイツ語ではFach-menschである。   

Fachとは、「専門」とか「個室」といった意味だ。   

>つまりウェーバーの考える官僚制とは、個々の職務を個室でこなしている専門家たちの分業体制である。   

>これが近代の特徴だと考えるなら、日本の官僚制は、あまり近代的ではないのかもしれない。   

 

そうですね。   

 

>だが本書の文脈で重要なのは、以下のことだ。   

>「初めに職務ありき」の社会では、まず職務があり、それに即した人を雇う。   

>しかし「初めに職員ありき」の社会では、まず人を雇い、その人に職務をあてがう。   

>この違いが働き方や教育、採用や人事にまで影響しているのだ。   

 

そうですね。   

 

>そしてじつは、大森が官庁で行なった類型化と同じことを、日本の雇用を論じる人々も異口同音に指摘している。   

>その代表的な論者である濱口桂一郎は、日本の雇用形態を「メンバーシップ型」、欧米その他を「ジョブ型」と名づけて類型化している。   

>「初めに人ありき」のしくみは、定期人事異動や新卒一括採用、大部屋のオフィスと一体だ。   

>日本の官庁や企業は、大量の大学新卒者を定期的に採用し、組織内に配置する。   

>そうなると、既存の職員はどこかに押し出されるので、大規模な定期人事異動が必要になる。   

>未経験の新しい職務に配置されたら、右も左もわからないことが多いが、大部屋で働いている隣の人が教えてくれるだろう。   

 

OJTですね。   

 

>このあり方では、職務で賃金を決めることはできない。   

>第6章で述べるが、敗戦直後に、アメリカ占領軍が職務給を奨励したことがあった。   

>しかし当時の労働省の労働統計調査局長だった金子美雄は、部下の楠田丘にこう言ったという。   

>〔日本では〕何々株式会社社員を採用して、そのあとで君は営業に、君は経理に、今日はこれをやってくれと、仕事はその都度組織の都合で決められるんだから、仕事で賃金を決められたら、異動するたびに賃金が上がったり下がったりする。   

>上がるならいいけれど下がったら、君、どうするんだ。   

>その人間はもうやる気を起こさないだろう。   

>だから、仕事で決める賃金は日本には無理だよ。   

>〔日本に向いているのは〕その人の価値で決める賃金だ。   

 

そうですね。やくざの組員のようなものですね。価値は序列の順位で決まる。      

 

>そこで楠田が「じゃあ、人間の価値はどうやって決めるんですか」といったら、「それはこれからの労働省の大きな課題だ」と金子は答えたという。   

>とはいえ第4章以下で述べるように、学歴や勤続年数、あるいは「人物」で判定することになりやすかった。   

>この「初めに人ありき」の原理は、官庁においても、企業においても、日本の特徴なのだ。   

 

そうですね。没個性的な評価方式ですね。    

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々の考えの内容は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。  

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得するための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がうやむやにはならない。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。 

 

 

 

 

 

 



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