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暴走する自由 1/3

2020-10-31 13:57:11 | 文化

 

 

>361386 「暴走する自由」が対立と憎悪と暴力を生み出していく ①  >Bannister          20/10/30 PM09 

>有ろうはずがない『個人の自由』や、取れるはずのない『自己責任』が、社会的な常識として共有されたことで、世の中は有り得ないくらいの異常行動で満たされ始めている。 

 

哲学は非現実の内容であり、行動は現実の内容ですから、その整合性を求めることは難しいですね。  

 

>リンクより

>◆とてつもない暴力の時代の中で

>最近、20年も 30年も前に読んだ本の一節などがふと頭をよぎることがあります。>今に始まったことではないとしても、21世紀もまた、とてつもない暴力の時代で、そして、「合理的な理由のない暴力」がとても多くなっています。 

 

そうですね。‘理由なき反抗’ (Rebel Without a Cause) ですね。

 

>そのことについて、最近、30年近く前に読んだコリン・ウィルソンの『現代殺人百科』 (1983年)という書籍の前書きを思い出します。>「殺人の時代」と題された前書きは以下のように始まります。

>◆1970年代以降から始まった > こういう具体例がどうだということではなく、「それ以前にはなかった、動機も判然としない訳のわからない犯罪」というのは、ずっとあったものではなく、「 1970年頃に生まれた」ということで、その前書きをまずご紹介します。

>●コリン・ウィルソン『現代殺人百科』 前書き「殺人の時代」より >1960年に本書の前版『殺人百科』が出て以来、文明世界の暴力のパターンには目立った変化が見られる。>動機のない凶暴性を特徴とする犯罪がますます増加の傾向にある。>理解を越えた、背筋の寒くなるような変化である。

 

分別のない大人の出現ですね。   

 

>1982年2月10日、一人の人物がシカゴの薬局に入ってきて、タイレノールという鎮痛剤のビンに青酸カリが入ったカプセルを混入し、どこかに消えた。>最初の犠牲者は 12歳の女の子だった。>数日のうちに死者は 7人になった。>それから一週間後、中年の男がコロラド州グランド・ジャンクションで目薬を買った。>その一滴を目に落として、彼は苦悶にのたうちまわった。>だれかが塩酸と中味をすりかえたのだ。>最初の事件から数週間後以内に、これをまねした事件が全米で百件以上も起きた。> 全米各地の治安保健当局者は、ハロウィーンで「お菓子をくれなければいたずらするぞ」の遊び (Trick or Treat と言いながら近隣の家を回ること)をする子供たちに、例年よりは声を大にして警告を与えた。>これまでの十年間にも心のおかしな人がいて、お菓子に毒を混ぜたり、りんごの中に針やカミソリの刃を差し込んだりして、事件が起きている。>なので、気をつけるようにと警告を出したのだ。> 痛ましいことに、この警告はまさに的中した。>危険な細工がほどこされたお菓子を口にして病院にかつぎこまれる子供は記録的な数にのぼった。

 

良い大人が、いたずらが過ぎますね。    

 

>◆動機と犯罪の内容にまったく関係性がない殺人の増加 >そして、コリン・ウィルソンは、この著作を書いていた 1980年代頃からの犯罪の特徴として、「動機と犯罪の内容にまったく関係性がない」という事例があまりにも増えたことを長く説明します。 >しかし、今となれば、これは現在の私たちは、もう毎日のように見る事件のタイプでもあります。 >つまり、「家で夫婦喧嘩して、むしゃくしゃしていたので、道で知らない人を殴った」とか、「会社をクビになったから、ホームから知らない人を落とそうとした」とか、「親に怒られたから、街で知らない人に危害を加えた」などの報道は、もういくらでもあるような社会になっているため、私たちは、こういうタイプの犯罪を「当たり前のこと」として受け止めやすくなっていますが、「以前は、ほぼなかった」のです。 > 「家で夫婦喧嘩した」なら、妻なり夫なりが相手に対して何か危害等を与えるというのなら、その是非はともかく、道理としては真っ当であり、しかし、その人の夫婦喧嘩と「道で殴られた知らない人」の間には何の関係もありません。 

 

そうですね。八つ当たりですね。うっぷん晴らしというのかもしれませんね。  

 

 

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暴走する自由 3/3

2020-10-31 13:47:41 | 文化

 

>ルソーの時代には変革を求める強い必然性があり、したがってルソーの思想を認めるべきだとするなら、同じ根拠で今はカミュを認めなければならない。  

 

そうですね。  

 

>現代の教育制度に「倫理的責任」を教える権力があるかどうかは分からない。 

 

罪の観念は個人個人で処理することになっているようですね。これは ‘信教の自由’ よるものですかね。      

 

>しかし、社会の底辺にのさばっているこの頑迷な自由の哲学を否定する能力はあるはずだ。 >この態度に変革を迫ることが、われわれの社会の変革の鍵である。 

 

そうですね。発想の転換が必要ですね。 

  

>ここまでです。

>◆欺瞞観念に満ち溢れた社会 >このルソーやカミュのことについてはともかく、今、アメリカでもヨーロッパなどでも起きているさまざまな暴力の根源には、ここでコリン・ウィルソンが言っていることが内在しているということが、今の世の中で生きている中ではじめてわかります。 

 

魔術的思考の流行ですね。狂ったサルの増殖のようなものですね。   

 

>この「自由」という言葉は、ちょっと日本語では大仰で、これに対して何か述べる才覚は私にはないですが、ただ特に 21世紀くらいになってから、日本を含めて、どこの国でも言われるようになったのが、「格差」「平等」という言葉などで、最近のアメリカの多くの暴力などにも、こういう概念が根底にあると思いますが、どうも、この概念は「利用されている」ように感じるのです。 >人類文明が登場して以来、「すべての人が平等で、すべての人に格差がない」ときなど一度もありませんでした。

 

そうですね。’人間万事不平等’ ですね。’All men are created equal’. (全ての人は生まれながらにして平等だ) は哲学 (非現実) の内容であって、現状報告ではありませんね。非現実は何処まで行っても現実と同じにはなりませんね。非現実の内容は頭の中、現実の内容は頭の外にあって、両者の所在が違っている。     

 

>それが、今になって、やたらと喧伝されるようになった。 

 

我々は規格人間になるのでしょうかね。個人の自由の余地は考えられないのでしょうかね。極端な格差と極端な平等は是正の必要があるでしょうね。是正の為には中庸の徳が必要ですね。    

 

>私自身もまた、ルソーの言う「人間は自由な人間として生まれている」のフレーズには、若い時からとても違和感を感じていました。>そして「自分は自由な人間としては生まれていない」から、いろいろと希求する。> 「自由の本質とは何か」を考える。 

 

自由とは ‘意思の自由’ の事でしょうね。考えは人人により違っている。だから、お互いに相手とぶつかり合うことになりますね。そうしたら議論・対話が必要になりますね。その個人的な能力が問題になりますね。議論・対話の能力が十分でない人も暴発は許されませんね。その取り締まりが問題になりますね。 技術力の問題ですかね。       

 

>ずっと考えてはいたけれど、全然勉強をしない人生でしたので、そのあたりがよくわからない。 >そうして、最近、ブログで書くようなこと、つまりシュタイナーの言う未来の人間とか、イエス・キリストの話とか、量子力学とかを少しずつ知る中で、 「自由の本質」 というものが何となく、ほんの少しだとしてもわかってきたような気がしないでもないです。>その観点から言えば、今の人間の状態では、「人間は絶対に自由にはなれない」と断言することができます。

 

すると、’不自由を常と思えば不足なし’ とうことになりますか。これでは、人類の進歩は望み薄ですね。そこで、今の人間の状態は改善しないといけないことになり、その方法を誰が見つけるかですね。  

 

 

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暴走する自由 2/3

2020-10-31 11:47:15 | 文化

 

  >◆因果関係存在しない行為 >まして、「道を歩いていた知らない人」に危害を加えたからといって、夫婦の間の関係が修復されるわけでもありません。 >他の例もすべて同じです。 >ホームから知らない人を落とそうとしても、その人がクビにされた会社に戻れるわけではないし、「それをやったところで、自分への具体的な良い見返りは何もないことが確定しているような犯罪」が、この数十年でとても増えたのです。 >合理的に考えれば、そんなことをしても仕方ない。

 

不自由を常と思えば不足なし’ の方針で自重すれば問題はないですね。  

 

>この「〇〇だから△△をした」という動機の〇〇と、結果の△△の間にまったく関係性のない犯罪を起こす思想をコリン・ウィルソンは、「魔術的思考」と呼んでいます。>コリン・ウィルソンは、その源泉として、1762年にルソーが出版した『社会契約論』の中にある以下の文章に「すべての責任がある」という論旨になっています。> 「人間は自由な人間として生まれている。」> 私は何十年かぶりにこの言葉を思い出しました。 

 

人間はリーズン (理性・理由・適当) のある人間として生まれている’ ではないですかね。自由にリーズンは必要ですね。そうでなければ自由そのものにも意味がない。 

 

>361387 「暴走する自由」が対立と憎悪と暴力を生み出していく ②  >Bannister          20/10/30 PM09 

>リンクより

> コリン・ウィルソンのこの『現代殺人百科』の前書きは、ものすごく長いもので、前書きだけで一冊の書籍として完成するほどの長さがありますので、内容をうまく説明はできないのですが、彼は前書きを以下のように締めくくります。

>●コリン・ウィルソン『現代殺人百科』前書き「殺人の時代」より >自由は責任と規律がなくても存在できるという思想を広めたのはルソーだが、この問題の責任の大半はこのルソーにある。 

 

犯罪・暴力の徹底追放を成し遂げるためには法と秩序 (law and order) が必要ですね。  

 

>1951年、アルベール・カミュは著作『反抗的人間』で、サドからカール・マルクスやレーニンにいたるすべての反抗の哲学は、圧政と自由の破壊を招いたと強力な宣言を時代に投げつけた。>これは、左翼に怒りの渦を巻き起こした。 

 

左翼には ‘圧政’ も ‘自由の破壊’ も気にならないのですかね。左翼になれば何でもできるという事か。自己中心的ではなかろうか。  

 

>カミュの死後、彼の正しさは現実に証明されるところとなった。>自由の哲学は国際的テロリズムの正当化の根拠となった。

 

自由の哲学は、テロリストには都合の良い ‘お墨付き’ ですね。   

 

>イタリアのテロリストは大学の教室に押し入って、教授の脚を銃で撃ち、この教授は基本的に非道徳的な社会に適合することを学生に吹聴した罪があるとうそぶいた。 >チャールズ・マンソンは、自分の追随者は「兄弟愛」から殺人をおかしたと法廷で広言した。 >これが自由の哲学の帰結である。 >自由の哲学が狂気に走った例である。

 

自由の哲学では、邪な自由に歯止めはかけられないのですね。アンリーズナブル (理不尽) の判定は存在しないのですね。ブレーキのない機関車ですね。この状態では大事故も避けられないですね。  

 

>満ちてくる潮のように暴力が社会にのさばる。 >常に自由を云々してその正当化を求める。 

 

自由も方便’ ということですね。   

 

>この種の風潮を見るとき、間違っていたのはルソーで、正しいのはカミュだということを、われわれは考えずにはいられない。  

 

そういう事になりますね。   

 

 

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