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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

只ならぬ凄み 1/2

2020-05-09 21:23:24 | 文化

>356440 権力とマスコミの結託には只ならぬ凄みがある、体制翼賛の戦時体制に抵抗のすべが無かった当時をリアルに思い浮かべた。 >持国天 ( 古稀超え )  20/05/09 AM09  

序列社会 (上下社会・縦社会) においては、一も二も無く序列が全てである。その権力はあとからついてくる。抵抗する術はない。序列社会の凄みは序列人間の力による。

>・マスコミが刷り込んだ新型コロナウイルスへの恐怖心が凄まじい。

現実直視ができなければ、その恐怖も高まりますね。

>マスコミ上がりの知事etcのはしゃぎぶりは別に、政権首脳や与野党議会人の迷走振りや専門家と称する人々の切れ味の鈍さに国民はうんざりだ。>東電福島原発の水素爆発時の混迷時と変わらぬ迷走だ。

特に知的なものは見あたりませんね。

>この危機遭遇においても、現実を直視して事実を追求する志の貧弱さが突き付けられた。

そうですね。日本人には理解よりも忖度 (推察) を好む傾向がある。推察には現実直視がない。だから、日本人は盲目の判断しかできない場合が多い。

>・然し、新しい潮流に敏感な筈の二十代の若者達まで、その怯えぶりには驚いてしまう。>マスコミの脅しに乗せられ怯え切って、おとなしく閉じこもってしまう連中が多数のようだ。

日本人は、気分・雰囲気に左右されやすいですからね。

>既得権益をご破算にさせて、老人達が積み上げた放漫財政のツケから身軽になって、新しい社会を蘇らせる千載一遇の機会が到来したのに、全く覇気が見られない。

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がない。仕方がないから無為無策でいる。
意思は未来時制の文章内容である。しかるに日本語の文法には時制というものがない。だから、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。
‘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

>マスコミを使った脅しと人々の孤立化の仕掛けが凄まじい、通常のインフルエンザの罹患と比較して遥かに社会的な損傷は軽微なのに、桁違いの大騒動を引き起こし、人々をバラバラにしてしまう。

それは、ウイルスが新型だからでしょう。

>煽るのではなく事実を追求して報道すればよい、人口当たりの死亡率や感染率などの実態事実の情報、新型が意味する、ウイルスの構造解明を追求する最先端の情報を皆は知りたい。

そうですね。読者の知的要求に応じられる執筆者はマスコミにいないのでしょうね。

>・嘗て、思春期に読んだが「聞けわだつみの声」はとても鮮烈な思い出がある。 >なんで徴兵に応じ激戦の各戦線に駆り出され、終いには特攻志願を余儀なくされ、三百万人もの日本人が犬死してしまったのか、悔しさはあっても戦時体制下の圧力がリアルには思い浮かばなかった。

‘無意思の人間’ と ‘為政者の強力な言論統制’ の相乗効果による結果でしょうね。為政者の戦争にたいする見通しはどのようにたてられていたのでしょうかね。見通しの甘さのようなものは存在しなかったのでしょうかね。

>・しかしこの度のコロナ騒動で分かった、権力とマスコミが企む凄みは只ならぬ迫力がある。>行動や情報が長期に制限され、社会から人々がバラバラに分断されてしまえば、権力の側のやりたい放題となってしまう。

そうですね。日本人は、議論・対話が下手ですからね。意思がなければ意思疎通もない。相互理解も無ければ団結もできない。’人の振り見て我がふり直せ’ では御唱和はできてもバラバラの考えは統一できませんね。


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本音で生きる

2020-05-09 13:13:12 | 文化
>356372 江戸っ子は、なぜ”宵越しのカネ”を持たなくなったのか?~本音で生きる開放の時代へ~②>山本紀克 ( 31 会社員 )  20/05/06 PM10 【印刷用へ】
>コロナを受けてこれまでの当たり前が崩壊しました。>つまり東日本大震災では潜在的な欠乏だった「これからどう生きるか?」がより自分事として顕在化したのが今なのでしょう。> 「人生そのものに想いを馳せる」。>どう生きるか、どう働くか?そしてこれからの社会をどうつくっていくか?

そうですね。我々は ‘考える人’ (the thinking man) になる必要がありますね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

> 自らが本能・共認次元で感じる思いを観念で蓋することなく「本音で生きる開放の時代」になるということなのです。

本音の定義にもよりますが、本音で生きるのは難しいでしようね。

 > 前投稿の続きです。リンクより >----------------------------------------------------------------
(略)
>■みんな「本音で生きる」ようになるかもしれない。

本音で生きることは難しいでしょうね。本音は恣意 (私意・我儘・身勝手) でしょう。恣意の自由は何処の国でも認められていませんね。恣意の自由は、’自由のはき違え’ となります。ですから、’不自由を常と思えば不足なし’ となるでしょう。

> (略)
>その変化の一つとして、「我慢していた」多くのことからの「開放」のきっかけにはなるかもしれません。

それは我慢の内容にもよるでしょうね。

> 近年、ジェンダーに関する議論や様々なハラスメントなどに対する声が上がるような社会になり、理不尽さを「我慢」することをやめる機運が生まれて来ています。

我々にリーズン (理性・理由・適当) は必要ですね。リーズナブル (理由になる) なことは認められるでしょう。アンリーズナブル (理不尽) なことは認められないでしょう。

>なので余計に今回の事態は、働き方や生活で知らず知らず感じてきた「我慢」も浮き彫りにする可能性があります。

それはありますね。

> 嫌なことは嫌と言い、社会や強者への「忖度」を仕方ないとする雰囲気から、「結局は本音で生きなきゃ」という感覚は、多くの人が強く持つようになるでしょう。

我々は、建前 (言い訳・口実) と本音 (恣意) の生活から脱する必要がありますね。だが、これは日本人には難しい。日本語は、現実の世界しか考えさせない言語ですから。ナウな感じのする話ばかりをしているようでは望み薄ですね。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)
‘あるべき姿’ (things as they should be) の内容 (非現実) と、’今ある姿’ (things as they are) の内容 (現実) を並べて論じられるようになれば、世界の人々は注目しますね。人類の進歩に貢献することでしょう。

> (略)
>しかしこうして色々考えてみると、前述の江戸時代の例だけではなく、特に我々日本人の感覚や考え方は、もしかしたら、むしろ「災害」が当たり前の環境によって作られたものかもしれませんね。

そうですね。過去は幻、未来は夢。眼前の内容 (現実) しか信じることができないメンタリティ (考え方) ですね。

>あの東日本大震災では、「あんなひどい状況でも、パニックにならず配給に列を作る日本人」が、諸外国から称賛されました。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。座して死を待つのか。
意思は未来時制の文章内容である。だが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。
‘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)  
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 英文法には時制がある。英米人には意思がある。英米人には方法がある。

>もしかしたらあれも、「災害時なのにすごい」のではなく、「元来日本人が、繰り返す災害から得た感覚」なのではないかと。

日本語の文法によるところが大きいでしょうね。

>つまり、私達の祖先が、大陸の端の島国という他に逃げにくく、しかも定期的に災害が起こる地域に住み着いたこと自体が要因で、それでもなんとか力を合わせて豊かな生活を再興してきたことが、もしかしたら遺伝子レベル(?)で記憶されているからこそ、そういう行動が自然と沸き起こるかもしれないなとまで思います。

わが国は、日本人に適した環境であったかもしれませんね。

> 安易な「日本礼賛」をするつもりはありませんが、災害が私達の思考そのものに大きく影響していることは間違いありません。

災害に耐えうる思考形式であったかもしれませんね。

>そして、その行方がまた大きく変化するタイミングに差し掛かっていることを、意識していきたいと思います。

能動的な思考形式に変わると良いですね。

> 文:ネイティブ倉重


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