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箸墓は卑弥呼の墓じゃない!( ^)o(^ )

2023-04-01 17:34:03 | 古代史
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とても良い解説をありがとうございます。日本の古代史を勉強すると必ず出てくる常識的な内容なのですが、実はここで止まっていると、日本の古代を、そして日本の始まりを理解することができません。魏志倭人伝に7万余戸の大集落と書かれた邪馬台国は巨大集落の纏向遺跡にあったはずだから、卑弥呼の墓は箸墓に決定という間違った定説?が日本の古代史の解明を妨害してしまっています。
畿内説は方角が北部九州の東なので、魏志倭人伝の記述に反しているのですが、それを理由なく無視していますし、邪馬台国の東渡海千余里にまた倭種の国があるということも同様に無視しています。
ですから、もう一度、魏志倭人伝や邪馬台国が登場しない記紀がどういう政治的な目的・背景から書かれたのかしっかり文献批判し、考古学の成果から推理すべきなのです。詳細は拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください。
 なお、続きを書いていてかなり長くなったので、ブログにアップしましたので、ご覧いただきご意見を頂けると幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。


箸墓は3世紀末か4世紀初頭に作られており、卑弥呼は247年ころに亡くなっていますので、それより後の女王の墓です。日本書紀にも被葬者はヤマトトトビモモソヒメという孝元天皇の皇女で大物主大神(大国主命=武内宿禰=狗古智卑狗)の妻とありますので、卑弥呼の後の女王台与の墓と考えることができます。



纏向遺跡ですが、3世紀初頭に作られた大型の政治都市で、祭祀のための大型建物や東海、山陰、北陸などの各地の王・首長クラスの人々がやってきて、生活していたと考えられる掘立柱建物が数多く見られ、環濠はありません。そして、最も重要な考古学の事実は、3世紀中頃の卑弥呼の時代までに、倭国の対外的な窓口で、刺史のような役割の一大率を置く、政治の中心でもあったと魏志倭人伝に描かれた伊都国から纏向遺跡に来た証拠が全くと言っていいほど見つかりません。

纏向遺跡で最初に造営された前方後円墳の石塚古墳(210年頃築造)での祭祀などにも北部九州から人々が来ていないことは、約2割もある外来土器から分かるのです。


魏志倭人伝では邪馬台国への行程記事の後に、狗奴国の官狗古智卑狗という人物が、狗奴国王卑弥弓呼よりも先に紹介される有力者だと分かりますが、熊本県の菊池という地名がこの人物の名前に因むものと考えられ、多くの研究者らは邪馬台国の南の狗奴国は熊本と考えているようです。

しかし、それであれば邪馬台国ではない纏向遺跡の一大勢力が何であるのか説明できません。だから、狗奴国の王は纏向遺跡におり、北部九州の倭国を南から攻撃するための狗奴国側の最前線集落が熊本県菊池川中流域(山鹿市方保田東原遺跡・菊池市うてな遺跡)にあったと見るのが正しいと分かります。前者から畿内や山陰の土器が出土しており、狗奴国側の勢力の集落だと分かります。

さらに、大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓にかけて弥生時代後期から多数の鍛冶集落がつくられており、半島南部の板状の鉄素材によって大量の鉄鏃などの武器を製造して最前線基地に供給していたと推理できます。これらによって、卑弥呼が登場する前の倭国大乱の状況も説明できます。弥生後期後半の全国の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、北部九州(佐賀平野・筑紫平野・福岡平野・糸島平野)と菊池川中流域の集落の環濠から出土しており、戦乱が主として北部九州の倭国内で起こっていた痕跡も発見できましたので、このような見方が正しかったと分かるのです(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!]参照)

それでは、狗奴国と対立する倭国の勢力は何だったのか?卑弥呼が登場して倭国大乱が収まったという事実は何を意味するのかも推理できます。そこで、魏志倭人伝の行程記事が政治的な理由から、事実を曲げて書かれたことも発見できました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。


卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?

さらに卑弥呼の死後に邪馬台国の倭国が滅んでヤマト王権が纏向遺跡で誕生したと推理することが、同様に3世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況から推理でき、日本書紀で崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の話が、この時期のものだったと分かるのです(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

そして纏向遺跡の地名がヤマトとされた経緯も推理することができるのです。まだ話は長くなるので、拙ブログをご参照ください。卑弥呼の墓は魏志倭人伝にある径百余歩の宇佐市安心院町三柱山古墳であることも発見していますので古墳マップをご参照ください。長々とお邪魔しました(#^.^#)



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