刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本史を疑え!(^_-)-☆

2022-12-23 21:44:48 | 古代史
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以前にも精力的に歴史解説をされておられる結城屋様の興味ある和邇氏に関する動画にコメント入れましたが、今回もまた以下の動画に間違いを指摘するコメントをしました。しかし、動画の内容を否定するものだったので、嫌がらせのコメントと受け取ったようでスパム扱いされたようで、大変申し訳ありませんでした。それで、今回は「日本書紀」研究について少し考えてみましたので、お付き合いください(#^.^#)



結城屋@YouTube 

刮目天
弥生時代に文字を使っていなかったというのは記紀のデマだったことが最近の考古学の成果から分かってきています。従来、砥石の欠片だと思われていたものが硯石だったと分かってきました。また、弥生後期の福岡市雀居遺跡では木製の組机が丸ごと出土しています。魏志倭人伝にも、市場での取引に税を取っていたとあります。計りの重り石も発見され、当時から十進法を使っていたと分かっています。
そして、重要なことは、伊都国の三雲遺跡の番上地区には楽浪土器が集中して出土しており、華僑が滞在した場所で、伊都国王などと交流していることが分かります(詳しくは「変わる弥生時代観!」 参照)。

ですから、当時の倭人の中にはシナ語を話し、漢字を読み書きできる倭人が居たと考えられます。その証拠が、魏志倭人伝に描かれた地名です。シナ語で読んでも通じません。従来文字を読み書きできない倭人から魏の役人が発音を聞いて韻書の冒頭の字をあてたとされていましたが、これも誤りだと分かりました。
伊都国という地名は特別な意味があったのです。これは107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくはウィト(回土)王師升)が、孟子に登場する殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)と同様の事績があったことを意味しています。これがヒントになって邪馬台国も卑弥呼も倭国大乱もヤマト王権成立の過程も考古学や民俗学の成果で検証して分かってきました。詳しくは「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。お邪魔しました(^_-)-☆


この記事のタイトルは東大史料編纂所教授の本郷和人氏の最近の著書「日本史を疑え」文春新書2022年のタイトルです。

「定説」も「最新学説」も一から見直そうという帯封が本屋で目に入り、直ぐに購入して、ざっと目を通しました。中世史のご専門ですが、古代から江戸時代までのポイントを述べられていました。その「第一章 日本史を疑ってみよう」で歴史研究者が何を注意しなければならないかが述べられていました。刮目天は読んだことはありませんが、第一級の史料とされる「満済准后日記」を例に取り上げて、中世の「日記」は自分だけが読むプライベートなものではなく、読み手は書き手の子孫だという指摘から始まり、「研究者は史料について、「それはどういう意図で記されたか」絶えず考えながら読んでいかねばなりません。それが私の考える「史料を疑う」ということです」と重要な指摘をされています(p.24)。

紙に書かれた文字資料を主なエビデンスとしている。これがいわゆる史料です。」から「史料において重要なのは、「いつ」「どこで」「誰が」書いたか。リアルタイムに当人が書いたものほど史料価値は高いとされます。そうした一次史料と呼ばれるものには、大きく分けて「古文書」と「古記録」があります。」とあり(p.25)、「日本史は古文書、古記録がたくさん残っているおかげで、より信頼できる史料をもとに歴史書のウソを指摘することができます。」とありました(p.27)。そして、三宝院満済の日記について「史料が一級であることと、そこに真実がすべて書かれていることはイコールではありません。満済は日記に”嘘”を書いたわけではない。しかし、「意図的に書かなかった」ことは十分にあり得ると思うのです。」と述べておられます。

しかし、歴史研究者が文字で書かれた一次史料を重視するので、根本史料である現存する最古の正史「日本書紀」について通説に問題があることが分かりました。

「日本書紀」が「誰が」編纂したのかについては、wiki「日本書紀」に、「不比等は『日本書紀』編纂の全般に関わったと考えられ、『日本書紀』編纂のリーダーは舎人親王であるが、実際の責任者は不比等であり、」とありますが、「どういう目的で」編纂されたかについては、「不比等は自ら携わった大宝律令の理念を『日本書紀』で歴史化したという主張した[37]。」と高寛敏氏の説(「古代の朝鮮と日本(倭国)」有斐閣2007年)を取り上げているので、多分多くの研究者も「日本書紀」が天武天皇の命令で編纂されたことと、天皇の正式な歴史書の体裁なので、上で述べた本郷和人氏の指摘のように、真実を述べてはいないかもしれないが、歴史そのものは嘘ではないという考えから、高氏のような好意的な説が固定概念になっているのではないかと考えています。

それでも、「日本書紀」の内容については、これまでの膨大な研究の中で、数多くの疑念が持たれているのも事実ですので、「編纂の目的」をもう一歩、深く分析する必要があったことが分かりました。つまり、考古学や民俗学などの成果とはっきりと矛盾する内容については、文章を好意的に解釈するのではなく、これらの矛盾は「日本書紀」の嘘と認識し、編纂者の意図・編纂目的を追求すべきです。

藤原不比等は、その権力を維持するために、三世紀の日本建国時代に活躍した豪族らの史実が邪魔だったったので、日本神話を創作して藤原氏の遠祖を活躍させ、天皇の歴史書の形で正式な歴史を改ざんしたことを、考古学などの成果を用いて実証的に突き止めました。

「日本書紀」完成の720年以降、平安期を通じて「日本書紀」の訓読に関する講えんが6回行われた記録があります。しかし、藤原氏によって没落させられた豪族らは、それぞれ家伝を密かに持っていたと推測されます。十世紀ころには日本書紀の内容が風化していただろうと庭 伊豆太郎「王年代紀と正史(下)」(東アジアの古代文化、1982秋号pp.158-160)によって指摘されています。984年に宋に留学した東大寺の奝然(ちょうねん、俗姓秦氏)が太宗に職員令とともに献上した「王年代紀」によって高天原神話が「日本書紀」の虚構であって「日本は古の倭の奴国」だということが認められ、その後のシナの正史「新唐書」「宋史」でも国号を倭国から日本国に改められたという事実がありました。歴代奴国王のことも、通説ではほとんど無視されています。文献だけではなく総合的な史料批判を行うべきです。この表題の著名な歴史家の渾身の作品が古代史の専門家の間違った通説を考え直す、いい切っ掛けになってほしいと期待しています(^_-)-☆

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