交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

「何を」学ぶかということは重要ではない。重要なのは「学び方」を学ぶこと。

2012-06-03 22:28:20 | 徳育 人間力

http://www.city.tanabe.lg.jp/hisho/columns/22-4-28.html

 

市長のコラム

このページに関するお問合せ先 田辺市 秘書課 TEL 0739-26-9910

市長のコラム

~学び方~

  少し大げさに思われるかも知れませんが、最近読んだ本によって30余年来抱いていた疑問が解けた気分になりました。
 30年余りも前ですから10代後半の頃です。昭和の名僧と称される高僧と生活を共にする機会に恵まれました。機会に恵まれたと言えば聞こえはいいですが、そうせざるを得なかったと言えなくも無く、その経緯について今回は省略します。
 ある日、老師を空港までお送りした時のことです。帰り際に、「ご苦労さんじゃった。帰りにうどんでも食べなさい。」と、折りたたんだ小さな紙を一つ手渡してくれました。一人になってから開けてみると、“なんと”千円札が一枚入っていたのです。頼りない記憶をたどっても、その頃のうどん一杯の値段がどれ程だったか、明確な答えは見つかりませんが、千円とは比較にならないくらい安かったことは間違いありません。
 それから暫らくして、再び老師をお送りする機会がありました。帰り際です。前回の場面を再現するように、「ご苦労さんじゃった。帰りにうどんでも食べなさい。」と手渡されたのは同じ包み紙でした。正直なところ少し期待をしていた私は、「ありがとうございます。」の言葉にもいつになく力が入っていたように記憶しています。一人になるとすぐ、ラッキーなお小遣いを確認する為急いで袋を開けました。すると“なんと”(あの時と同じ“なんと”ですが)今度は袋の中身が違います。“なんと”入っていたのは百円硬貨一枚だけでした。
 言うまでもなく、この日からが私の悩みの始まりです。「老師はこのことで、私に何かを教えてくれているに違いない。」「それにしても、千円と百円の違いは何を意味するのだろう?」「私にはハイレベル過ぎて理解ができないのかもしれない。」「どうしたらこの教えを理解できるのだろう?」答えを見つけることができない私は、「老師は単にお金を入れ間違えたのだろうか?」と考えることさえありました。自問自答の年月が経過する中、「‘千円’とか‘百円’とか、ましてや‘うどん’とかに囚われることを已めよ。‘ご苦労さん’、‘ありがとうございます’を大切にしなさい。」老師の教えはこのように解釈できるのではないか、と思うようになりました。「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」、そんなに的外れな答えではないと、それまでそう思っていました。
 ところが最近、この問いを解く文章に出会いました。少し長くなりますが、端折ることなくそのまま紹介します。


  これまで教育論で何度も引きましたけれど、太公望の式略奥義(おうぎ)の伝授についてのエピソードが『鞍馬天狗』と『帳良(ちょうりょう』という能楽の二曲に採録されています。これは中世の日本人の「学び」というメカニズムについての洞察の深さを示す好個の適例だと思います。
 帳良というのは劉邦(りゅうほう)の股肱(ここう)の臣として漢の建国に功績のあった武人です。秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公(こうせきこう)という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。ところが、老人は何も教えてくれない。ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)をおとす。「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。それだけ。不思議な話です。けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。
 『張良』の師弟論についてはこれまで何度か書いたことがありますけれど、もう一度おさらいさせてください。教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。
 張良は黄石公に二度会います。黄石公は一度目は左の沓を落とし、二度目は両方の沓を落とす。そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。一度だけなら、ただの偶然かもしれない。でも、二度続いた以上、「これは私に何かを伝えるメッセージだ」とふつうは考える。そして、張良と黄石公の間には「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないわけですから、このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。張良はそう推論します(別に謡本にそう書いてあるわけではありません。私の想像)。
 沓を落とすことによって黄石公は私に何を伝えようとしているのか。張良はこう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意を会得された。
 瞬間的に会得できたということは、「兵法極意」とは修業を重ねてこつこつと習得する類の実体的な技術や知見ではないということです。兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。それが中世からさまざまの芸事の伝承において繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。

 長い引用になりました。「腑に落ちる」とは正にこのことです。永年の疑問が晴れた理由をよくご理解いただけたと思います。もちろん私は、この逸話に登場する「張良」におよぶ者ではありません。その証拠に、張良は二度目の沓を履かせた瞬間に「兵法極意」を会得したのに対し私は30年余りの間、老師の意図を明確に理解できずにいたのです。しかしながら、瞬時に理解できなかったことで、永年その問いを持ち続けることができたと考えれば、むしろプラスに働いたということもできます。
 今にして思えば「黄石公」の様な人に身をもって触れる機会を得られたことは、この上ない貴重な経験であり、その後の考え方に大きな影響を受けたことだけは間違いのないところです。

田辺市長 真砂 充敏平成22年4月28日


いまたくさんの情報が氾濫していますが、一番少ないのは自分に対する情報なのかもしれません

2012-06-03 16:19:05 | 徳育 人間力

────────────────────────────────────
■「致知随想」ベストセレクション
────────────────────────────────────



  「人生図書館」


              田中希代子(人生図書館館長)

               『致知』2012年6月号「致知随想」
               ※肩書きは『致知』掲載当時のものです


────────────────────────────────────

大阪・心斎橋の一角に私が館長を務める
「人生図書館」があります。

図書館といってもマンションの一部屋を改築した、
蔵書も154冊の小さな図書館です。

蔵書のすべては心ある方からの寄贈です。
しかも不要になった図書ではなく、ご自分にとって
「人生の一冊」といえる本にご自身のメッセージを添えて
お贈りいただいているのです。

昨年、印象的なご来館者がいました。
その女性は真夏なのにお帽子を被り、
館内でも脱がないのです。

声を掛けてみるとご職業は看護師さんで、
実はこれまで自身ががんの治療をされていたといいます。

お若いので進行も早く、いろいろ転移をしたけれども、
治療の甲斐あって職場復帰できるほど回復、
復職の前に「人生図書館」で本を読みたいと
思っていたそうです。


「看護師としてがんの患者さんをたくさん看てきましたが、
 自分がその立場になって、いかに自分本位な
 接し方だったかを知りました。

 これからは同じ経験をした者として、
 違う向き合い方ができると思います」


そんな、人生の転機や自分を見つめ直したい時に
訪ねたくなる場所、それが「人生図書館」だと思っています。


もともと私はこの図書館がある
マンションの持ち主であるねじ製造会社で、
ビル管理の仕事をしていました。

空き部屋が出たことをきっかけに、
そこを使って、誰もが立ち寄れて
コミュニケーションが図れる場をつくりたいと
いう思いが湧いてきました。

根底にあったのは弟の存在です。
私が10歳の時、2歳半だった弟は
交通事故で亡くなりました。

生きたかったけれども、生きられなかった命がある――。
自殺者や引きこもり、ニートの存在が
大きな社会問題になるにつれ、
私の中でそんな思いが膨らんでいきました。

もちろん、それで自殺者を減らせるとは思いませんが、
少しの間でも立ち止まり、人生を見つめ直す場所があれば
少しは違うのではないかと思うのです。
また、地域貢献にも繋がると思いました。

ねじ製造会社のオーナーに申し出ると、
賃料は無料、改築費は私が出資することで
了承をもらいました。

企画プランナーで、映画『おくりびと』の脚本家でも
知られる小山薫堂さんにもアドバイスをいただき、
「本を媒介に人生が交錯する場所」というコンセプトで
「人生図書館」はスタートしました。

オープンは2010年の6月30日。
その数日前に、1台に数百冊もダウンロードして持ち運べる
iPadが発売されたばかり。

全部で150数冊の小さな図書館なんて、
時代に逆行しているのではないかと
友人たちに心配されました。


確かに本の数ではiPadや書店、
普通の図書館には及びませんが、
当館の特徴の一つは、思いもよらない本に出合い、
寄贈された方の人生の一端に触れることだと思います。

当館に『いいからいいから』という絵本を
寄贈してくれたのは6歳の女の子です。

子供がいない私は長く絵本を手にすることは
ありませんでしたが、読み終えた時
「こういうピュアな気持ちを忘れてはいけないなぁ」と、
不思議と癒やされている自分に気がつきました。

逆にご高齢者から頂戴したご本とメッセージからは、
これから先の心構えをいただいたような気持ちになります。


数が少ないからこそ「こんな本があったんだ」と
普段なら素通りしていた本を手に取り、
寄贈者のメッセージを見て、
「そんなに感動する本なら読んでみよう」
というきっかけに繋がると思います。


そういう意味で、私が特に心に残っている一冊は
吉村昭さんの『漂流』という、史実を基にした小説です。

江戸時代、漂流した漁師たちは
なんの生活の手段もない無人島に辿りつきます。
仲間たちが次々と倒れていくなか、
長平という船乗りは12年間の苦闘の末、
ついに生還を果たす壮絶な物語です。


この本はある中年男性からの寄贈でした。

会社経営に失敗、工事現場で日雇いや
時給数百円のアルバイトをする自分が惨めで、
生きている価値はないと思っていた時、
古本屋で巡り合ったとメッセージにありました。

考えてみれば、自分には家族もいる。
質素だけれどもごはんにもありつける。
この本の長平はただ生きるために孤独に耐え、
食うや食わずで生き延びた。


「人間は水と空気と太陽があれば、生きられる。
 そう気が付いた時、
 “なんだ、自分は社長じゃなくなっただけだ”
 と思えるようになった」


いまはそこから立ち上がり、個人事業主となって
仕事を頑張っているそうですが、
事務所にはこの『漂流』を置き、
折に触れて読み返しては、
初心を思い出していると教えてくださいました。

自分自身を振り返っても、
人生に大きく影響を与えた本を手にすると、
原点に帰り己を鼓舞することができるように感じます。

一方で、「あの時、こういう感動を覚えたんだ」
と自分を顧み、自己を肯定するきっかけになると思います。

いまたくさんの情報が氾濫していますが、
一番少ないのは自分に対する情報なのかもしれません。
「人生図書館」は本と出合い、寄贈者の思いに出合い、
そして自分が知らなかった自分に出合う。

一冊の本を通してそんな心のバトンを
繋いでいける場所にしたいと思っています