さて前のページの一応の結論
『つまりは「上記の様な観測データからは慣性系αとβでどちらの時間が遅れていたのかは判断できない」という事です。』から続けましょう。
それではこの測定実験は無意味だったのでしょうか?
いやそんな事はありません。
ローレンツ変換が我々の宇宙では常に働いている、という事の確認実験になっています。
と言うのもガリレイ変換では前述の様な観測データを得る事は出来ないからであります。(追記参照)
とはいえ残念ながら「ランダウ、リフシッツの実験方法」では当初目的の「慣性系αとβのどちらの時間が遅れていたのかを識別する」という事はできないという結論には至りました。(注1)
さて時計Bの抗弁、説明から明らかになった事は時間遅れの実験を計画しその結果
『TB@イベント①=0秒
TC@イベント①=0秒
TB@イベント②=3秒
TA@イベント②=5秒
但しイベント①にて時計Cと時計Bをリセットしたものとする。』
と言う様な観測データを得られた。
「それでこれをMN図のあらわすと図1のようになる、従って時計Aが静止していて時計Bが移動していたのである」と言う判断は「我々が今まで陥っていた錯覚である」という事です。(注2)
それでこの錯覚にランダウ、リフシッツも陥っていましたから
『・・・2つの基準系の時計を比較する為には、一方の基準系では数個の時計、他方の基準系では一個の時計を必要とする事が分かる。
従ってこの操作は両方の系について対称ではない。遅れると判断される時計は常に同一で、それが他の系の異なったいくつかの時計と比べられるのである。・・・』
と言う様に「この方法で2つの基準系のどちらが遅れているのか判断できる」と主張する事になります。(注3)
しかしながらこの様に判断する事は通常の我々の生活体験では普通のことであり、常識的である、と言えます。
つまり「慣性系βが、時計Bの時間が遅れていたのであれば次のような観測結果が得られるはずだ、という予測は常識的である」という事です。
表1:慣性系βの時間が、時計Bの時間が遅れていた場合に得られると予測される結果
『TB@イベント①=0秒
TC@イベント①=0秒
TB@イベント②=3秒
TA@イベント②=5秒
但しイベント①にて時計Cと時計Bをリセットしたものとする。』
この様な観測結果が得られれば「なるほど、時計Bの時間は遅れていた」と。
「そうしてもし慣性系αの時間が、時計Aの時間が遅れていたならば次の様なデータが得られる事になる。」と普通は考えます。
表2:慣性系αの時間が、時計Aの時間が遅れていた場合に得られると予測される結果
『TB@イベント①=0秒
TC@イベント①=0秒
TB@イベント②=5秒
TA@イベント②=3秒
但しイベント①にて時計Cと時計Bをリセットしたものとする。』
以上の様な事前の、常識的な判断がありますから表1で示される様な観測結果が得られれば「慣性系βの時間が、時計Bの時間が遅れていた」と判断する事になります。
つまり「動いていたのは慣性系βで静止していたのは慣性系αだ」とそう結論を出す事になるのです。
しかしながら「そのような判断は間違いである」という事が時計Bの説明によって明らかになってしまったのでした。
ちなみに「時間の遅れを測定するのは難しい」というこのタイトルは実にこの状況を指していたのでした。
注1:「ランダウ、リフシッツの実験方法」と言っていますが、時間遅れの測定についてはまじめに考えてみるならば大抵はこれと同じ実験方法を考えると思われます。
現に当方も「ランダウ、リフシッツの提案」を知る前にこの方法については、考えが到達していました。
注2:図1につきましては内容詳細は「時計Aからみた時のミンコフスキー図」: http://fsci.4rm.jp/modules/d3forum/index.php?post_id=29864 :にてご確認願います。
注3:「ランダウ、リフシッツ パラドックス」: http://fsci.4rm.jp/modules/d3forum/index.php?post_id=29541 :に引用したランダウ、リフシッツのより詳細な記述がありますので、そちらをご確認願います。
追記:ローレンツ変換でなくガリレイ変換が我々の暮らす宇宙を支配していたら、この観測実験の測定結果は以下のようになります。
『TB@イベント①=0秒
TC@イベント①=0秒
TB@イベント②=5秒
TA@イベント②=5秒
但しイベント①にて時計Cと時計Bをリセットしたものとする。』
さてこの結果は表1の測定結果とは異なりますので、こうして我々は自分が暮らす宇宙の変換則は「慣性系α、βのどちらが静止系にあるのかは巧妙に隠しますが(=時計Aが運動しているのかそれとも時計Bが運動しているのかを観測データからでは判断できないようにして隠します)、いずれにしても運動は時間の遅れを引き起こす」と言う事を知るのです。
追伸の2
時計Aが「静止しているのは時計Aだ」と主張し、そうして又時計Bが「静止しているのは時計Bだ」とそれぞれが主張するような状況の時に、「両方とも正しい」とするのが「主観物理学」です。
つまり「それぞれの観測者が静止系を決める事が出来る」という立場ですね。
それに対して「同時に2つの静止系は存在できない」がゆえに「どちらかが客観的な静止系である」とする立場が「客観物理学」です。
そうしてローレンツ変換自体は「主観物理学が正しい」とも「客観物理学が正しい」とも主張しません。
どちらであってもローレンツ変換が成立し、それによって説明が可能であるからです。
さてそうであれば「主観物理学」と「客観物理学」のこのせめぎ合いの白黒をつけるのは相当に難しい、と言う事になります。
ちなみに「同時に2つの静止系は存在できない」がゆえに「どちらかが客観的な静止系である」とする立場をとる「客観物理学」を認めると、その客観的な静止系は「唯一の特別な慣性系=宇宙の中で一番早く時間が進む慣性系」となり「全ての慣性系は平等である」という「特殊相対論の教義にそむく」と言う事になります。
追伸の3
以上の事から分かります様に「MN図のY軸は観察者の視点=観察者が自分が静止していると認識している」と言う事を表しているだけであって、その観察者が客観的に存在する静止系=基準慣性系に立っている事を保証するものではない、と言う事になります。
そうしてその観察者の視点を切り替える=MN図を描き変えるのがローレンツ変換の役目である、と言う事が分かるのです。
しかしながらもちろん、観測者が偶然に基準慣性系に立っていた場合でも、それまでと同じように違和感なくMN図はその状態を表す事になります。
したがって、MN図からは基準慣性系がどこにあるのかは判別する事ができない、と言う結論に至るのです。
そうであればこそ、ローレンツ変換によって視点を切り替えられてしまった観測者は目の前に展開している状況=描き変えられたMN図が示す状況こそが唯一の事実である、と主張する事になるのです。