オウム死刑囚・井上嘉浩 獄中記と「死後に届いた手紙」
2018.12.20 11:00
2018年最大のニュースのひとつは、麻原彰晃(本名・松本智津夫)らオウム真理教の幹部13人が死刑執行されたことだ。地下鉄サリン事件などの凶行は“負の平成史”として決して忘れることができない。彼らは20年超に及ぶ獄中生活で何を考えたのか。そのひとり、井上嘉浩(享年48)について、長年交流を続けてきた門田隆将氏(作家・ジャーナリスト)が綴る。(文中敬称略)
* * *
■執行当日の朝
二〇一八年七月六日金曜日午前七時半。前夜から記録的な豪雨が西日本全体を覆う中、大阪市都島区にある大阪拘置所に起床のチャイムが鳴り響いた。
大阪拘置所は、西側にある正門から見て東に向かって四棟、その奥に二棟、さらに中央棟から北と東に向かって放射状に延びる三棟、計九つの収容棟から成る。ここに未決囚や、初犯で犯罪傾向が進んでいない受刑者、あるいは確定死刑囚など、多くの収容者がいる。
屋内にいても、叩きつける雨音が耳を突く。西日本全体で実に二百人を超える死者を出し、のちに「平成三十年七月豪雨」と名づけられる線状降水帯がもたらした雨は、大阪でも異常なものとなっていた。
この朝、死刑囚が収容されている舎(注=大阪拘置所では「棟」ではなく「舎」を使う)の六階には緊張感が走った。同階にいる死刑囚は全部で七人。起床チャイムを待っていたかのように、何人もの職員が突然、このフロアに姿を現わしたのだ。彼らは、靴音を立てて廊下を歩いていく。職員の中には帽子に金線が入った幹部までいた。
間違いない。今日は死刑の執行がある。だが、これほど早くから執行が始まるのは異例中の異例だ。こんなに早いなら、執行される死刑囚には、洗顔も歯磨きも、そして朝食をとるのも許されないことになる。
(今日は複数の執行があるのか……)
死刑囚たちは息を詰めた。やがて職員たちの足は、オウム死刑囚・井上嘉浩の部屋の前で止まった。
(助かったぁ……)
死刑囚たちは、ほっと胸を撫で下ろした。そして、前後左右を職員に囲まれて廊下を歩いていく嘉浩の姿を目撃する。白い半袖Tシャツに、紺色のハーフパンツ。井上嘉浩は動揺するようすもなく、泰然自若として、ゆっくり歩を進めた。堂々とした姿が死刑囚たちの脳裡に残った。
嘉浩への絞首刑は、同拘置所北西の端にある八舎の地下で午前八時四分に執行された。享年四十八。
一九九五年五月十五日に二十五歳で逮捕されて以来二十三年二か月。井上嘉浩の人生は、こうしてピリオドが打たれたのである。
■蘇った“魂の叫び”
私は、このほど『オウム死刑囚 魂の遍歴』(PHP研究所)を上梓した。副題は、「井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり」である。嘉浩が獄中で書いたおよそ五千枚の手記をもとにしたノンフィクションだ。嘉浩本人がこの二十年余り、父親を通してずっと私に送り続けたものである。
手記には、子供の頃の思い出、中高時代の体験、オウムとの出会い、過酷な修行、死刑囚となる犯罪……すべてがその折々の心情を振り返りながら記されている。嘉浩は、「手記を書くのは、本当に辛い。愚かにも誤った道に突き進んでいった自分を思い出していくからです。後悔と悲しみが募ります」と書いている。つまり、獄中記は嘉浩の“魂の叫び”そのものなのだ。
オウム死刑囚十三人の内、嘉浩は唯一、一審が「無期懲役」、二審以降が「死刑」と、天と地ほども違う二つの判決を受けた元幹部だ。嘉浩が関わった假谷さん拉致事件(*1)が一審では「逮捕監禁」、二審以降は「逮捕監禁致死」、地下鉄サリン事件では、一審が「後方支援、連絡調整役」、二審以降は「総合調整役」とされたからだ。嘉浩には直接、手を下した殺人はなく、肝心な時に、その犯罪から「逃げていたこと」が一審の審理で明らかになった。
【*1/1995年、オウム真理教が目黒公証役場事務長だった假谷清志さん(当時68歳)をワゴン車に押し込んで拉致し、山梨県の教団施設で監禁して死なせた事件】
ひとつひとつの犯罪をすべて浮き彫りにしていった四年三か月に亘った審理は、傍聴席からも見応えのあるものだった。だが、一審の無期をひっくり返した二審は、新たな証拠もないまま、ただ、オウムの幹部は「死刑でなければならない」という世論に迎合した感は否めなかった。
私は、二〇〇九年から一〇年にかけて、嘉浩と計四度面会をしている。すでに嘉浩の獄中記の前半部分は読んでおり、裁判で長くその姿を見ていたこともあり、初対面なのに“旧知”のような思いで面会したことを覚えている。面会室で向き合った嘉浩は三十九歳となっていたのに爽やかな“青年”だった。嘉浩本人も父親から私のことはいつも聞いていたようで、お互いがそんな感覚で話し合った。
四度の面会で印象深かったのは、嘉浩が「すべての罪はわが身にあります」と、くり返し語っていたことだ。高校時代からの神秘体験、覚醒に至るまでに自分の身体に生じた不思議な現象……さまざまな過程を経て、麻原彰晃の強固な弟子となった嘉浩は、修行の天才、神通並びなき者、と称され、およそ千人に及ぶ信者を獲得したとされる。
その自分が、ただ師に「つき従ったこと」を悔やみ、最後となった四度目の面会では、こう語った。
「本当に自分が“解脱”を求めていたなら、そして、おかしい、と思ったら麻原のもとを離れなければなりませんでした。そうあるべき自分が“そうではない、これについていかないといけない”と思い、若さで妥協してしまいました。
しかし、“若い”からこそ、私は離れなければなりませんでした。お釈迦さまは、自分の師から離れ、自立していきます。師から学び、そこから自立してこそ、本当の弟子のはずです。それなのに、私はオウムの中でただ“盲信”してしまい、おかしいと思っても、黙っていました。そこに私の弱さがあったんです。その意味で、すべての罪はわが身にあり、と思っています」
すべての罪はわが身にあり、と嘉浩は何度もくり返した。
「坂本弁護士事件も、私は、薄々気づいていました。これはおかしい、と心の中で思っていました。でも、その疑問を口に出さず、黙っていたんです。完全にわかったのは、もちろん逮捕されてからですが、なぜ、それでも(オウムから)離れられなかったのか、それが私の罪なんです」
坂本事件(*2)にも触れながら、嘉浩はこうつづけた。
【*2/1989年、オウム真理教幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた坂本堤弁護士(当時33歳)の一家3人を殺害した事件】
「私が十六歳でオウムに出会ったこと、これも自己弁解にすぎません。私には、(師を)止められるはずだったと思います」
私の脳裡には、その時の嘉浩の声が今も残っている。
■罪の「償い」とは
麻原、そして教団との対決の道を選んだ嘉浩には、常に激しいバッシングがつきまとった。それはオウムやその弁護士、さらにはマスコミにも及んだ。しかし、周囲の多くの支えによって目醒めたこの若者は、「真実を語り、二度とこのような犯罪を起こさせないことが自分にできる被害者への最大の償い」という信念で、法廷でさまざまな証言をおこなっていった。
嘉浩は自らの「死」の直前まで、真実究明の闘いを展開した。最後まで争ったのは、目黒公証人役場事務長の假谷清志の死の真相である。一九九五年三月一日、前日にオウムに拉致された假谷は、中川智正の供述によれば、嘉浩に電話をかけにいった午前十一時前後の十五分ほどの間に舌根沈下を起こして死亡したことになっている。だが、嘉浩は、二〇一四年の平田信の第九回公判でこう証言した。
「中川さんが“どうせポアさせることになると思っていたので、この際、ポア、殺害できる薬物の効果を確かめてみようと思った。めったにできることではないので、薬物を点滴したところ、假谷さんが急に光り出して亡くなってしまった”と言いました。処置しようと思ったけれど、もう光り出したのでそのままにしたということでした」
つまり、假谷は「中川に殺された」と告発したのである。中川はこれを真っ向から否定する。だが、嘉浩の一審では、假谷の死について、〈中川による不適切な行為〉が判決で指摘されており、また中川に假谷を引き継いだ医師の林郁夫も法廷証言のほかにも、著書『オウムと私』(文藝春秋)でこう記述していた。
〈假谷さんは状態が安定しており、血圧、脈、呼吸など、これまで通りの観察項目のどれにも異常はありませんでした。私は假谷さんの状態が落ち着いているため、私でなくても管理ができると思い、第六サティアンに戻ろうと思いました〉
假谷を中川に引き継いだ林は、その日の午後三時か四時頃、たまたま第二サティアン入口へ通じる坂で中川と会ったという。
〈私は假谷さんのことを中川に聞きました。「あの人、どうなりましたか」という私の質問に、中川は、「尊師と会って、尊師から假谷さんをポアするよう指示を受けた。ポアの実行を新しく事件に参加したサマナ(出家信者)にやらせることになった。ポアの手段は塩カリ(塩化カリウム)の注射だ。それで、そのサマナを假谷さんのところへ連れていったが、假谷さんはポアさせるまでもなく、亡くなっていた」と答えました。(略)このとき、私が中川に引き継いだ状態から考えて、假谷さんがなにもしないのに亡くなったということは、不可解だと思ったことを記憶しています〉
林は、安定した状態のまま引き継いだ假谷がその後、死亡したことを不可解に思っており、わざわざ、「ポアの手段は塩カリの注射だ」と、中川が語ったことを記述している。つまり、假谷の死は、“偶然の死”ではなかったかもしれないのである。
■法務省が葬った真相究明の道
嘉浩は、二〇一八年三月十四日、新証拠をもとに再審請求をおこなった。弁護人である伊達俊二弁護士の強い要請によるものだ。伊達弁護士はこう語る。
「假谷さんの首を絞めさせようと麻原に名指しされたサマナを、中川君に指示されて井上君は東京から連れてきました。その電話連絡の時間を中川君は午前十一時前後と証言し、その目を離した十五分ほどの間に假谷さんが亡くなったという。それが事実と認定されています。しかし、井上君はそんな時間に電話を受けていたら、とてもあの雪の中、サマナを連れてこられなかったと言いました。私は“雪?”と思ったんです」
嘉浩に接見後、伊達は当日の夕刊を調べてみた。すると未明に降り始めた雪の影響で首都圏の鉄道、道路等の交通網が大混乱に陥ったことが報じられていた。
「中川から指示があったのは、午前八時台か九時頃。だから午後早くに帰ってくることができた。午前十一時前後に指示があっても、とても上九(上九一色村)に帰ってくることなど、できませんでした」
嘉浩のその話が、裏づけられていたのである。假谷事件の認定事実は間違っている──中川証言に疑念が生じてきたことで、伊達を中心とする井上弁護団は、地下鉄サリン事件も含めて再審請求をおこなった。
(井上嘉浩の判決は一審の無期懲役こそ正しい)
伊達弁護士は、そのことに確信を持ったのである。
これを受けた東京高裁刑事八部の動きは早かった。二〇一八年五月八日、再審請求書の提出から、まだ二か月も経たないというのに、再審請求に関する「進行協議」が早くも始まったのだ。そして、さらに二回目の進行協議が、七月三日に開かれた。伊達によれば、
「検察官は、九五年三月一日の井上君の携帯電話の記録の存在を認めました。そして二週間程度でこれを開示できる、と約束しました。高裁はこれで次回の進行協議を八月六日に指定しました。いよいよ真相解明に動き出したんです」
だが、その真相究明への道は、法務省によって突然、断ち切られた。進行協議の三日後、七月六日に嘉浩を含む麻原ら七人のオウム死刑囚に絞首刑が執行されたのである。
(そんな、バカな)
真実究明が緒についたばかりの執行に茫然としたのは、伊達弁護士である。法治国家として、あり得ないことだった。日本の刑事裁判は、刑事訴訟法に基づいておこなわれており、その総則第一条には「事案の真相究明」が目的として謳われている。そして再審請求は、真実究明を求める受刑者の基本的権利として認められている。
「公開される井上君の通信記録とは、假谷事件における中川証言を覆す重要な証拠でした。しかし、それを法務省が葬り去った。再審請求中の死刑確定者に対する死刑執行は、刑の確定者に対する再審請求権を奪うものであり、また本来、死刑にされなくともよい者までも、国家が死に至らせることにもなる。とても許せるものではありません」
執行の前夜、上川陽子法相は、安倍晋三首相も参加する「赤坂自民亭」なる議員仲間の酒席に参加し、大いに楽しんでいたことが、のちに明らかになった。厳粛であるはずの死刑制度であったとしても、実際にそれを執行する側の意識がその程度であったなら、これは、「日本の不幸」と言うべきだろう。
二〇一八年十一月二十日、両親が引き継いだ再審請求によって、ついに検察が井上の携帯の通信記録を開示した。そこには井上証言が正しかった証拠が残されていた。通信は八時台から九時台に集中し、十時九分を最後に通話記録はなかったのだ。逮捕監禁致死という假谷事件の認定事実は根底から「崩れた」のである。
■死後届いた消印なき手紙
嘉浩の真実究明の闘いには、多くの支援者がいた。真宗大谷派の僧侶たちが中心となって『「生きて罪を償う」井上嘉浩さんを死刑から守る会』が結成され、嘉浩の償いを支えた。なかでも真宗大谷派の女性僧侶であり、同時にシンガーソングライターでもある鈴木君代の存在は大きかった。
「嘉浩さんは私と同じ京都の太秦で育った人で、出遇う人が違っていれば、私の方が死刑囚だったかもしれません。それで支援する会の会報に投書をしたのがきっかけで嘉浩さんと面会するようになったのです」
十年前に始まった交流は、やがて一週間に二通も三通も、君代のもとに嘉浩からの手紙が届くような関係になっていく。
「嘉浩さんからの手紙は、十年で千通ほどになります。面会でお別れする時は、アクリル板越しに手と手、そして額と額を合わせて心を合わせる儀式をやるようにもなりました」
死刑確定後は、死刑囚には外部交通権が制限されるので、それへの対策として嘉浩から君代への獄中結婚の申し込みもあった。幸いに宗教者であり、それまでの面会実績も認められ、君代には外部交通者としての許可が下りた。交流は死刑確定後もつづいたのである。
それだけに、突然の死刑執行は信じられなかった。嘉浩の母と共に大阪拘置所に遺体を引き取りにいったのも鈴木君代である。嘉浩の父親はこう語る。
「息子が心を寄せていた君代さんに妻と一緒に行ってもらったのです。通夜と葬儀は、京都の真宗大谷派の岡崎別院でおこなわれ、通夜の導師は君代さんにやってもらえました。心から感謝しております」
その君代のもとに、
「君代さんへの手紙が見つかりました」
両親からそんな連絡が入ったのは、嘉浩の三七日(みなのか)に当たる七月末のことだ。両親は嘉浩の死後、拘置所から送られてきた荷物の整理をつづけていた。二十三年間の拘置所生活の荷物は、実に段ボール二十五箱にも達していた。両親はその最後に、ある物を発見した。
「鈴木君代様」という宛名を書いた封書が、切手を貼ったまま、投函されずに出てきたのである。死刑当日に嘉浩が出そうとしたものである。まさに絶筆だ。
手紙に封はされていなかった。拘置所の検閲を経なければ、嘉浩たちには手紙類を出すことは許されていない。そのため封筒の口は開いていた。
三七日でお経を上げに来た君代に差し出された手紙。消印の捺されていない自分宛ての封書である。見慣れた「嘉浩さん」の字だった。震える手で、君代は、便箋を取り出した。
〈君代さんへ
前略 先週は面会と差し入れ、ありがとうございました。とても元気を与えていただきました〉
そんな言葉で、手紙は始まっていた。死刑執行の前の週、君代は六月二十七、二十八、二十九日と三日連続で嘉浩に面会に行っていた。二十八日には、コンサートでもらった花束を嘉浩に見てもらおうと、色とりどりの豪華な薔薇の花束を抱えていった。拘置所では花を見ることもできないだろう、という思いやりからだった。嘉浩はその花束を見て本当に喜んでくれた。
よほど嬉しかったに違いない。面会の間、嘉浩は「元気をもらった」と何度も言っていた。手紙にもそう書いている。だが、君代の目から涙があふれ出たのは、その次のくだりである。
かなり雨が降っています。大丈夫ですか? くれぐれも身心を大切にして下さい。
7月7日、七夕ですね。いのちの大空に、七夕の星々が輝いています。いのちの大空の下、いつも一緒です。
ありがとう ありがとう
大丈夫 大丈夫
いつも待っています。
2018・7・5 嘉浩
手紙には、そう書かれていたのだ。
〈7月7日、七夕〉とは、自分が導師を務めて、嘉浩の通夜を営んだその夜のことだ。それにつづいて、嘉浩は、〈いのちの大空に、七夕の星々が 輝いています〉と記し、〈いのちの大空の下、いつも一緒です〉と君代に語りかけていた。
しかも〈いのちの大空〉という言葉を二回使っている。そして〈ありがとう ありがとう〉、さらには〈大丈夫 大丈夫〉と語っている。
今生のお礼としか思えない〈ありがとう〉を記し、その後の打ちひしがれている自分を見越したかのように〈大丈夫 大丈夫〉と励ましてくれているのである。
君代は、嘉浩がすべてをお見通しであったことを感じた。その上で「どうして、あなたは、そこまで人のことを思いやれるの?」と思った。やり尽くした償いと、それで培ったに違いない類いまれな人としての優しさ。死ぬまで罪と向き合い、犠牲者のことを考えつづけた二十三年の嘉浩の凄まじい獄中生活に、君代は涙の中で思いを馳せていた。
真実は、法務省の手で闇に葬られ、オウム事件はこうして「歴史」となったのである。
※週刊ポスト2019年1月1・4日号
◎上記事は[NEWS ポストセブン]からの転載・引用です
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◇ オウム死刑囚・井上嘉浩の5000枚の手記は何を語るのか 門田隆将著『オウム死刑囚 魂の遍歴』
◇ 井上嘉浩・炎天下のコンテナ監禁…4日間「断水断食」の地獄 門田隆将著『オウム死刑囚 魂の遍歴』
◇ すべての罪はわが身にあり…その言葉を井上嘉浩は何度もくり返した 門田隆将著『オウム死刑囚 魂の遍歴』
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