登石郁郎裁判長の判決文(要旨) この矛盾に満ちた文章がこの国の司法の場で通用することに唖然とする

2011-09-28 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

根拠なく推測と矛盾だらけの陸山会判決
2011年09月27日(火)永田町異聞
  
 いま、東京地裁、登石郁郎裁判長の判決文要旨を読んでいる。この矛盾に満ちた文章が、この国の司法の場で通用することに唖然とするばかりだ。たとえば、陸山会事件に関するこの記述。
◇04年分収支報告書に「借入先・小沢一郎 4億円、備考・04年10月29日」との記載がある。・・・石川被告は4億円を複数の口座に分散させた後、陸山会の口座に集約しているが、4億円を目立たないようにする工作とみるのが自然だ◇
 それが自然だろうか。であるなら、なぜ04年収支報告書に「4億円を小沢氏から借りた」ことを記載するのだろうか。
 こういうくだりもある。「これらの事実を総合的に検討すると、石川被告は4億円の収入や、これを原資とした土地取得費用の支出が04年分収支報告書に載ることを回避しようとする強い意志を持って種々の隠ぺい工作をしたことが強く推認される」
 不可解な文章ではないか。これに対しても同じ疑問をぶつけたい。ではなぜ、04年収支報告書に小沢氏からの4億円借り入れを記載したのだろうかと。
 約3億5000万円の土地代金を支払ったとについても、記載していないわけではない。土地の登記が完了した翌年1月7日に支払ったことが次年度報告書で明らかにされている。
 記載したことを無視し、記載しなかったことだけで考えれば、検察の言うような片手落ちの理屈になり、そのストーリーにそって作文した東京地裁の判決文になる。
 この事件はつまるところ、記載の仕方がどうあるべきかという、きわめて事務的なルールの問題だ。
 そのような案件で強制捜査にまでおよんだことを正当化するために、検察は、小沢氏が陸山会に貸した4億円のなかに裏金が含まれているという、勝手な解釈を論拠の柱に据えた。
 判決文要旨にはこうある。「水谷建設社長は胆沢ダム建設工事の受注に絡み、大久保被告の要求に応じて、04年10月に5千万円を石川被告に、05年4月に同額を大久保被告に手渡したと証言したが、ほかの関係者証言や客観的証拠と符合し、信用できる。一切受け取っていないという両被告の供述は信用できない」
 それほど東京地裁が水谷建設社長の証言を信用できると断定しているのに、なぜ検察は、1億円の贈収賄事件として立件しなかったのであろうか。当然、確信を持てないから立件できなかったのである。
 だいいち、どこの政治家が、ゼネコンから裏金をもらって、そのカネを公的文書に残る表の取引に使うなんて馬鹿なことをするだろうか。裏のものは裏で使うのが自然だ。
 東京地裁は、村木冤罪事件で供述調書のほとんどが証拠不採用になった流れを受けて、陸山会事件でも多くの調書の信用性を否定したが、この判決文を見る限り、それは検察ストーリーをそっくり受け入れたという印象を薄める下準備と考えざるを得ない。
 法廷での証言などを重視したように見せかけてはいるが、判決文を素直に読めば、その判定になんら根拠や証拠があるわけでもなく、あるのはただ裁判官の「推認」のみであることがわかる。
 ここに筆者は、日本の司法の崩壊現象を強く感じる。できることなら「無罪判決」は避けたいという、裁判官の心理がこれほど白日のもとにさらされては、裁判所への国民の信頼は地に堕ちるだろう。
 「検事から控訴されない裁判官が高く評価される」という人事上の不文律が従来からこの国の司法界をゆがめてきた。
 そういえば、ジャーナリスト、岩上安身氏のインタビューに、元大阪高裁判事、生田暉雄弁護士は、三権分立とは言いながら実態として検察など行政権力に盾突きにくい裁判官の心理状況を次のように語っていた。
 「現在、行政権力が肥大化し、議会権力は付け足し、裁判はもっと付け足しになっている。第一、予算規模が違う。法務官僚は検察官が多く、検察権力が幅を利かしている。徳島地裁時代に私はかなり無罪判決を出したが、先輩に『あまり無罪を出すと出世に差し支えるよ』と言われた。無罪を出すということは行政権力に否定的な考えの持ち主とみられる。最高裁自体が行政権力に弱い。予算を握られているからだ。裁判官独立の原則があり、他の権力の介入を許さないタテマエだが、結局は給料や人事で操られている」
 検察のみならず、裁判所までが推測や印象にもとずく恣意的な判断をしていることを自ら明らかにしたのが今回の判決といえるだろう。
新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo) *強調(太字・着色)は来栖
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大林宏検事総長「小沢氏を有罪とする証拠はない」/検察審に知ってほしい小沢土地取引の真実2010-10-01 | 政治/検察/メディア/小沢一郎 
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“検察の正義”に委ねていいのか? 検察を支配する「悪魔」2010-03-11 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
 “検察の正義”に委ねていいのか? 元検事、元司法記者が語る、小沢捜査の裏側
(Business Media 誠 - 03月11日 10:33)
 民主党の小沢一郎幹事長をめぐる政治資金規正法違反事件では、各メディアが小沢氏に関する疑惑を報じる中、検察は小沢氏の秘書ら3人を起訴し、小沢氏自身は不起訴とする方針を固めた。検察はなぜ小沢氏への捜査を行い、なぜ不起訴という結論に至ったのか。また、多くのメディアが検察と一体化したかのような報道を行った背景には何があったのか。
 共同通信社で司法記者を担当した魚住昭氏と東京地検などで検事を務めた郷原信郎氏は3月8日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で記者会見し、検察の“小沢捜査”の背景を語った。【堀内彰宏】
なぜ小沢捜査は行われたのか
魚住 今の日本は大きな問題を抱えています。それは検察庁という行政機関が巨大な力を持ちすぎて、誰もそれを統御できないということです。その上、検察は組織が腐敗し、かつ捜査能力が極端に低下しています。検察の暴走、腐敗、能力低下の3つが同時進行しているのです。それを如実に示したのが小沢幹事長をめぐる一連の捜査でした。
 2009年3月、西松建設関連の政治団体から2100万円の偽装献金を受け取った疑いで、小沢氏の秘書(大久保隆規氏)が政治資金規正法違反の疑いで逮捕されました。これは従来の常識では考えられない出来事でした。過去の摘発例を見ると1億円を超える裏献金を受け取った政治家が立件されたケースはありますが、政治資金収支報告書に記載されているオモテの金で、額が2100万円に過ぎないのに立件するというのは異常なことです。
 しかも衆議院選挙を目前にした時期に、検察は従来の立件のハードルをガクンと下げて、野党第1党の党首側近を逮捕しました。当然ながら、「この捜査は不当な政治介入だ」と世論の強い批判を浴びました。一部では、「当時の麻生政権の要請を受けて行われた国策捜査だ」という意見もありましたが、私はそうは思いません。検察はその時々の政権の意のままに動くような組織ではありません。特捜部の検事たちはいつの時代もそうですが、多少無理をしてでも政治家がらみの事件をやって手柄をあげ、マスコミの脚光を浴びて出世の足がかりにしたいのです。
 問題は「特捜部の暴走を検察の上層部がなぜ止めなかったか」ということです。私は上層部の判断の背景には「小沢政権ができることに対する忌避感があったのではないか」と疑っています。
 小沢氏はもともと検察と仲が良くありません。しかも彼は脱官僚、つまり検察を中軸とする中央官僚機構の解体・再編を目指すと公言している政治家です。「そんな人が首相になったら困る」という上層部の思惑が微妙に作用したのではないか。そうとでも考えなければ理解できない異常な捜査でした。
 2009年末から表面化した陸山会の土地購入をめぐる事件は、西松建設の事件で世論の批判を浴びた検察がその失地回復のために行った捜査でした。つまり、検察のやったことを正当化し、「小沢は金に汚い悪質な政治家だ」ということを証明するために行われたものです。
 この第2ラウンドの捜査でも検察は敗北しました。大物政治家を2度も被疑者として調べながら、起訴できないというのは、検察にとって戦後最大級の失態です。捜査が失敗した理由は明白です。「小沢氏の当時秘書だった石川知裕衆議院議員に5000万円の闇献金を渡した」という水谷建設(水谷功元会長)側の怪しげな証言を信じ込んだからです。
 まんじゅうに例えると、アンコに当たる部分が5000万円の闇献金で、皮に当たる部分が4億円の土地購入の不記載です。皮の部分の4億円の不記載は、煎じ詰めると「土地の購入時期を2~3カ月ずらして政治資金収支報告書に書いた」という形式犯に過ぎません。5000万円の闇献金がその土地購入費にあてられたというアンコが立証されなければ、スカスカの皮だけのまんじゅうになって食べられたものではありません。
 ところが、検察が信じた水谷建設側の供述はうそ話だった。アンコが腐っていたんです。石川議員が否認を貫き通せたのは、まったく身に覚えがない事実だったからです。あらかじめ決めたターゲットを摘発する、つまり「小沢を狙い撃ちする」という捜査の常道に反することをしたから検察は失敗したのです。今回の事件だけでなく、10年あまり前から検察は同じような不純な捜査を繰り返すようになっており、検察の劣化・暴走が目立つようになりました。
検察の劣化・暴走が目立つようになったワケ
 なぜ検察はそうなってしまったのか?
 重要なポイントだけを挙げると、1つは検察の裏金問題です。検察は少なくとも1999年まで、年間5億円前後の裏金を組織的に作り、幹部の交際費、遊興費にあててきました。検察はその事実を全面否認したばかりか、2002年にはその裏金作りを内部告発していた三井環という中堅幹部を口封じのために逮捕しました。これは恐ろしい権力犯罪ですが、日本の主要なメディアはきちんと批判しませんでした。検察が最も大事な情報源であるため、その検察の機嫌を損ねて情報がもらえなくなるのを恐れたからです。
 これを別の角度から見ると、検察は主要なメディアに対する影響力を保ち、自らの恥部を覆い隠すためにも常に大事件をやり続けなければならない。そういう自転車操業的な体質を身に付けてしまったと言えます。この裏金問題は、検察組織のモラルハザードを深刻化させました。上層部が「自己保身のために何をやってもいいのだ」というお手本を示したのですから当然でしょう。
 2つ目の理由は、今も触れた主要な新聞・テレビメディアと検察の癒着関係です。検察の暴走をチェックすべきメディアがその役割をほとんど果たしていません。
 3つ目の理由は、裁判所と検察の癒着です。日本では起訴された案件の99%近くが有罪になります。起訴事実を否認して無実を主張すると、1年も2年も身柄を拘束されます。検察の言い分を裁判官がほとんど認めるので、裁判所は検察の暴走をチェックする役割を果たしていません。
 つまり、検察をメディアと裁判所が強力にサポートする体制ができあがっているのです。だから検察の力は巨大なのです。法律の上でも検察の幹部人事は国会の承認が必要ではありません。選挙による民意のコントロールも利きません。
 一方、日本の政党勢力の方はどうでしょうか。政権与党の民主党は大雑把に言うと、新自由主義者と社会民主主義者、つまり小さな政府論者と大きな政府論者の寄り合い所帯です。そのため、とても壊れやすく、政策の方向性を決めるのが難しい。国民新党や社民党と連立を組んでいるのでなおさらです。
 それでも民主党を軸にした連立政権がとりあえず機能しているのは、小沢という求心軸があるからです。彼が内政においては「反小泉構造改革」、つまり社会民主主義的な所得の再分配、それに「脱官僚」、つまり従来の官僚主導政治の改革、外交においては「対米自立路線」、この3つの基本政策を打ち出すことで、民主党左派や社民党、国民新党の支持を取り付け、民主党内の新自由主義者たち、反小沢勢力をおさえこんできました。
 ところが、今回の事件で小沢幹事長は自らの金権体質を国民に批判され、深手を負いました。長崎県知事選の敗北(2月21日)も重なって、彼の求心力はかなり弱まったと思います。
●検察中心の刑事司法の仕組み
郷原 私の西松建設事件と陸山会事件についての見方も、今、魚住さんが話したこととほとんど変わりません。検察の能力が極端に低下し、そういう言ってみれば最低レベルの事件しかできなくなっているのに、まったくマスコミなどから批判されないまま、それがまかり通っているというのが現在の状況です。
 魚住さんは司法記者として検察を外から見てこられた人ですが、私は23年間検事として仕事をして、検察の中にいました。それだけに今の検察の状況については、驚きというか「絶望を感じるほど問題だ」と思っています。そこで、私の方からは「なぜ検察がこういう状況になってしまったのか」「日本の検察には組織としてどういう特徴があるのか」ということをお話ししたいと思います。
 日本の検察は、刑事司法に関して全面的な権限を与えられているところに特徴があります。すべての刑事事件について、検察官は起訴や控訴をする処分権限を持っています。そして、検察官は「犯罪事実が認められる場合でも、あえて起訴をしない」という訴追を猶予する権限も持っています。この2つによって検察は、刑事司法に関して絶対的な権限を持っています。
 このような検察中心の刑事司法の仕組みは、殺人や強盗、薬事犯のようなアウトローによる犯罪、社会の周辺部分と言いましょうか、あまり社会生活や経済活動などに影響を及ぼさないような犯罪現象を前提として構築されたと考えていいと思います。
 殺人や強盗、薬事犯のような犯罪であれば、「反道徳的」「非倫理的」という社会の評価はもう定着している、あらかじめ決まっているわけですから、検察官は価値判断をする必要がありません。とにかく証拠があれば、起訴をすればいい。その証拠が不十分であれば裁判所が無罪にする、それだけのことです。
 ところが、例えばライブドア事件、村上ファンド事件のような経済分野の犯罪現象、今回問題になっているような政治資金規正法違反などの犯罪。こういった違法行為は、案件数としては限りない数、世の中に存在しています。その中からどの事件を選んで処罰の対象にするのかということに関しては、処罰する側、摘発する側の価値判断が求められています。
 ですから、そういう社会的、経済的、政治的に大きな影響を及ぼす事件については、検察官はそういう犯罪に対してどういう基準で悪質性や重大性を判断し、どういったものを摘発の対象にしていくのかについて明確な基準をあらかじめ示す、最低限検察の内部では明確にしておく必要があります。
 ところがそういった基準が明確にされないまま、一般の殺人や強盗のような事件と同じように、「犯罪がある限り、それを処罰するのは当たり前だ。検察は何をやってもいい」という考え方で、全面的に検察のアクションが容認されてしまうという、そこに最大の問題があります。
政治資金規正法は何のためにあるのか?
 先ほど魚住さんが言われたように、西松建設事件までは1億円以上の裏献金事件、献金自体が隠されたような事件が、政治家の政治資金規制法違反による摘発の対象にされていた。ところが西松建設事件では、それよりもまったくレベルの低い、悪質重大とは到底思えないようなことを摘発の対象にしました。しかも、それが政治的に非常に大きな影響を生じさせました。
 陸山会の事件で最終的に検察が起訴した事実というのは、先ほど魚住さんが言った、不動産の取得時期のズレの問題、それとその不動産の取得の際に小沢氏が一時的に立て替えたお金の流れが収支報告書に記載されていなかったという、極めて形式的な問題でしかありません。
 政治資金規正法というのは、政治の世界のルールを定める法律です。それが「どのような趣旨・目的で定められているのか」ということを明確にし、「どのようなことを国民に対して開示することが求めているのか」ということをしっかり理解すれば、「どのような行為が悪質重大であるか」「どのような行為が軽微なものか」ということの判断は可能なはずです。
 このように日本の社会、そして国民が政治や経済、社会に関する重要な価値判断の部分まで“検察の正義”というところに全面的に委ねてしまっている。魚住さんが先ほど言われたように、これが日本の社会に危機的な状況が発生している根本的な原因になっています。
 まず今、必要なことは日本人全体がこの検察の正義というマインドコントロールから脱することです。人が集まってできている組織なので、そこでは必ず間違いが起きる可能性があります。そして、とりわけ検察の場合は、一度判断したことを後で訂正することが難しいわけです。大きな影響を生じさせてしまうと、「それが間違いだった」ということを後で言いにくい。その分、一度犯した間違いがもっと大きな間違いになってしまう可能性があります。そういう検察の間違いが社会にとって致命的な間違いにならないように、検察にも一定の説明責任、そしてその判断の根拠に関する資料の開示責任というものを常にきちんと負わせていく必要があります。
 ところが先ほど言いましたように、日本の刑事司法というのは、殺人や強盗のような価値判断不要な伝統的な犯罪を前提に作られています。検察官にはほとんどと言っていいほど、説明責任も、そして資料については透明性も求められていないわけです。
 そういう検察に対しては、マスメディアと政治とが権力バランスをうまく保っていくことが不可欠だと私は思います。ところが先ほど魚住さんが言われたように、日本のマスメディアは基本的に検察と一心同体の関係であり、検察に対する批判的な報道や検察のアクションを疑うということをまったくしません。「それはなぜか」というと、検察が“いい”事件をやることが基本的にマスメディアにとって利益になることだからです。利益共同体のような存在です。
 そして、日本では歴史的に、「政治は検察の正義に対して介入してはならない」とされてきました。「検察が判断する通りに事件をやることが正義であり、それに政治的に介入すること自体が悪だ」という風にされてきました。ですから、政治は検察に対するチェック機能をほとんど果たしてきませんでした。
 自民党中心の政権がずっと続いていた時代には、そのこと自体はあまり問題ありませんでした。なぜかというと、検察も政治的に大きな影響を及ぼさないように自制的に権限行使をしてきたからです。しかし現在の日本は、国民の主体的な選択によって政権が選択され、それがまだ不安定な状況です。こういう状況において検察は、「検察の権限が政治的に不当な影響を及ぼすことについての危機感というものを、もっと強く持つ必要があるのではないか」と思います。
検察とメディアが一心同体となる理由
 会見後に行われた質疑応答では、検察と政治の関係や検察とマスメディアの関係などについての質問が投げかけられた。
――小沢氏に対する捜査はまだ続けられると思いますか?
郷原 「まだやりたい」という意欲は検察に残っていると思います。しかし、さすがに小沢関連事件の摘発を2回試みて、両方とも大失敗に終わって、3回も試みるということは検察の常識としては考えられません。そこまでいくと、もう常識を超えた異次元の世界になってしまう。ちょっと私は想像したくありません。
――検察が政治に与える影響についてどのように考えていますか?
郷原 私が最近思うのは、民主党政権側が検察に対して非常に萎縮しているような感じを受けます。官邸サイドもそうですし、党サイドもそうなんです。ここまで検察のアクションがでたらめで、しかも大きな政治的影響が生じているわけですから、「どこが間違っているのか」ということを堂々と言って、検察を批判してもいいはずなのですが、それがまったくできない。
 それは1つには、マスメディアが戦前の統帥権干犯※のように、検察に対する介入を徹底的に批判するということが原因だと思います。もう1つは、ここまで検察によるアクションのレベルが落ちてくると、みんな胸に手を当てて考えてみると、「自分もやられるかもしれない」と思い始めます。それがベースになって、「検察が怖い」と思う原因になっているのではないでしょうか。これはある意味で恐ろしい現象じゃないかと思います。
※統帥権干犯……1930年にロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対して、「統帥権の独立を犯すもの」として野党や軍部などが反発した事件のこと。以後、政府が軍部に介入しにくくなり、政党政治が弱まるきっかけとなった。
――報道にたずさわる人間と検察とがクローズドな形でコミュニケーションをとっていることについてどう考えますか?
魚住 記者クラブについて申し上げます。記者クラブ自体が特殊なのですが、検察庁を担当している司法記者クラブというのはさらに特殊な記者クラブです。どこが特殊かというと、検察庁という行政機関の方が記者クラブより圧倒的に力を持っていて、検察庁の気に入らないことをしたら出入り禁止になるという規則があります。それから、テレビカメラが入れません。司法記者クラブの力が検察庁より圧倒的に弱いがために、そういう特殊な慣行がいまだに続けられている。
 なぜ圧倒的に弱いかというと、検察庁がものすごく貴重な情報を持っているからです。「自分の会社だけでもその情報をもらいたい」という気持ちがあって、1つにまとまれないんですね。これは逆に言うと「検察庁の分割統治が成功している」ということです。
郷原 本当の問題は今、司法記者クラブに所属している記者の問題ではないと思うんですね。むしろ、司法記者クラブ出身のもっと上の遊軍と言われる人たちにあると思います。そういう人たちは検察幹部や法務省幹部と個人的なつながりを持っていて、むしろそういったところが(司法記者クラブ所属の記者より)貴重な情報をつかんできます。
 その人脈は彼らにとって財産です。「自分が貴重なつながりを持っている相手が常に正義であって、正しい」という前提が維持されると、その情報源が生きてくるわけですね。ですから、もしその前提が崩れてしまうと、長年にわたって築き上げてきた記者としての財産が失われてしまいます。そのため、検察と司法記者クラブ系メディアの一心同体的な関係ができあがる、というところに最大の問題があると思っています。
――先ほど魚住さんは10年前くらいから検察の劣化・暴走が目立つようになったとお話しされましたが、その具体的な例を教えてください。
魚住 いちいち挙げていったらキリがないのですが、例えば1997年前後に行われた不良債権の処理に絡む捜査ですね。最終的に最高裁で無罪になった、日本長期信用銀行の特別背任事件が特徴的です。要するに長銀の経営破たんの責任者を処罰することが時効でできなかったので、経営破たんの後始末に入った人を逮捕して、スケープゴートとして国民の前に差し出したというような事件でした。
郷原 2009年9月に出した『検察の正義』という本の中で詳しく書いていますが、私は2000年前後以降、特捜検察がやった事件でまともな事件は1つもないと思います。やればやるほど、どんどんやることのレベルが落ちている。それが実情だと思います。
 普通なら、企業であればいいものを作らなければどんどん売れなくなる、どんどん組織が衰退していくんですね。ところが検察の場合は、その商品が消費者に評価されるのではなくて、ほとんどマスメディアを通じてしか評価されません。そのため、悪質性や重大性という面ではレベルの低いものしか摘発できないわけですが、それをマスメディアが評価してしまう。評価されると、「この程度でもいい」という話になって、やることがもっと落ちていく。それが能力低下を招いていった1つの負のスパイラルなのかなと考えています。
――日本には検察の捜査に対して、民主的な手段で介入できるようなシステムはありますか?
郷原 日本の法律では検察庁法14条で法務大臣の指揮権として、そのことに関する規定があります。これは検察の権限行使に対する唯一の民主的コントロールを定めた規定です。
 ですから、今、考えるべきことは「法務大臣の指揮権をいかに適切に行使するシステムを作るか」ということです。検察の権限行使を政治的に利用するような方向で、法務大臣の指揮権を不当に使うというようなことは確かに問題です。しかし、「検察の権限行使が本当に正しいのかどうか」ということを専門的な見地、第3者的な見地からチェックできるようなシステムを作ることが今、日本にとって非常に重要なのではないかと思います。

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1 コメント

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本名に類する名前はやめ、あつしとだけにします (谷本改めあつし)
2011-09-28 08:36:01
友人の忠告を受け、本名に類するHNはやめて、今後はあつしとだけ名乗ります。

取り上げて下さった文章は一字一句真実だと思います。
まともに国民の目が審査すれば検察など民間企業では99%通用しない低レベルです。
こんな連中が高給を食んでいるかと思うと地道に汚れ仕事で低賃金でつましく暮らしている人々がまったく報われません。
かつて二宮尊徳は、木の根を取ることしかできぬが地道に働く老人に高い給料を与え、一見働き者に見え実は人の見ているところでしか働かない若者を咎めました。
小沢一郎先生が目指すのは、弱きを助け強きをくじき、二宮尊徳のように本当に地道に社会のためになる仕事をしている方が報われ、検察のようなマスメディアの評価するところでしか働かず楽して高給をふんだくっている輩を排斥する社会です。
小沢一郎先生が復権すれば、地道に汚れ仕事で低賃金でつましく暮らしている人々が報われる社会に代わることを信じています。

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