吉田修一 作 『ウォーターゲーム』中日新聞朝刊連載から・・・鷹野一彦・リーヨンソン(柳勇次)・風間・富美子・・・

2016-08-30 | 本/演劇…など

〈来栖の独白2016.8.30.Tue.〉
 吉田修一という作家を、新聞連載を読むまで、私は全く知らなかった。連載が始まってすぐ、異様な才能に圧倒された。読後、毎日、切り抜いてファイルしている。この作家に魅せられ、『怒り』(文庫本)を読んだ。これがまた、堪らなかった。子供の頃から新聞小説を読んできたが、こんな作家を私は知らない。
 そして、218回(2016/8/29 Mon.)。命を顧みない富美子の動きに、私は完膚なきまでにやられた。クリスチャンか。
 すごい。すごい作家だ。物語中、この部屋の一部始終はネットで配信されているという。AN通信の幹部も見ているはずだ。鷹野の起爆装置は、リセットされているのではないか。であれば、胸は爆発しない。AN通信の冷酷を世界に喧伝しようとしたリーの試みは頓挫する。自滅する、そういうことではないのか。

吉田修一 作 『ウォーターゲーム』中日新聞朝刊連載

217回(2016/8/27 Sat.)
 ロープに吊るされた鷹野の姿を見て、富美子は血の気を失っていた。(略)
「なあ、鷹野、お前、何か肝心なことを忘れてないか?」
 ふいにリー・ヨンソンが口を開いた。
「俺が忘れると思うか?十八の時からずっと付き合ってきてんだよ」と鷹野は答えた。
「なるほど、胸に仕込まれた爆弾は、お前の最愛の彼女ってことか?」
 リーの笑い声に、車椅子で風間が苦しげに顔を上げ、何か言葉を発しようとするが声にならない。
「お前の胸に埋め込まれた爆弾は、二十四時間ごとに起爆装置がリセットされる。そうだな?」
 リーの質問を、「知ってるなら、訊くなよ」と、鷹野は吐き捨てた。
「二十四時間が経過する前に本部と連絡を取らなかった場合、どんな任務についていようと、組織を裏切ったものとして起爆装置が作動する。そうだな?」
「だから知ってるなら訊くなって」
「その二十四時間に、そろそろなろうとしていることには気づいているか?」
 リーの質問に、鷹野はゆっくりと顔を上げた。
「だから、さっきも言ったろ。十八のころから付き合ってきてんだよ。そんなもん、もう体に染みついているよ」
「じゃあ、あと何分くらいだと思う?」
 挑戦的なリーに、「ぴったり当ててやろうか?あと十三分だ」と鷹野は答えた。
 リーが声を上げて笑いだす。
「呑気な男だな。あと四分だよ。あと四分でお前の胸の爆弾は爆発する」
 リーの言葉に悲鳴を上げたのは、実の母だという女だった。咄嗟に逃げ出そうとするが、すでにドアは閉まっており、そのまま腰を抜かしてしまう。

218(2016/8/29 Mon.)
「お前は、この人たちの前で死ぬことになる」とリーが言う。
「・・・そして、その様子はAN通信という組織の実態として全世界に配信される」
 鷹野は幻想的に青く染まった室内を見渡した。
 リー・ヨンソン。実の母親。風間。富美子。諜報員になり損ねた若い男。他にリー・ヨンソンの部下たちが数名。
 これはいったいどんな景色なんだ?と、鷹野は可笑しくなってくる。
 自分が死ぬという感覚がまったく湧かない。湧かないどころか、どんどん死から遠ざかっていくように思える。
 自分でも上手く説明できない。でも、本当にそうだ。どんどん死から遠ざかる。遠ざかり、自分はどこへ向かっているのか。
 鷹野は目を閉じた。
 閉じた瞬間、自分の向かっている先が見える。時間をどんどん遡っていく。向かっているのはあの部屋だ。弟と二人で閉じ込められた、あの部屋だ。
 鷹野は思わず歯を食いしばった。そうでもしないと、悲鳴を上げそうだった。
 リーが腕時計を見る。
「一度、死んでみると、世界が違って見えるもんだよ」
 ふとこぼしたリーの言葉に、鷹野は頭を上げた。
「お前は一度死んだのか」
「ああ、死んだよ」
 爆発の時間が近づき、リーの部下たちが爆発を恐れて、徐々に後ずさっていく。
 腰を抜かした実の母だという女も、蹴るように足を伸ばし、その足を滑らせる。
 もう時間はないはずだった。鷹野は目を閉じなかった。目を閉じれば、またあの部屋に引きずり込まれる。
 次の瞬間、部屋に動きがあった。一瞬、実の母だという女が立ち上がったのかと思った。しかし、その傍らをすり抜けて鷹野に近づいてきたのは富美子だった。
 富美子が吊るされた鷹野の体を抱きしめる。「爆発します。離れてください」と、鷹野は首を横に振った。しかし、富美子は離れない。離れないどころか、もっと強い力で鷹野を抱きしめてくる。
「離れてください」と、鷹野はもう一度言った。
「ありがとう」
 しかし返ってきたのは、そんな富美子の言葉だった。

219(2016/8/30 Tue.)
「ありがとう?」
 鷹野は思わず訊き返した。
 鷹野を抱きしめたまま、富美子が何度も頷く。ただ、もう言葉にならない。
 十八の時、この胸に爆弾を埋め込んでから、自分の胸が爆発する様子を想像しなかった日はない。
 恐ろしいのに、それを待っているような日もあった。待っているくせに、恐ろしくて堪らなかった。
「なあ」と、鷹野はリーに声をかけた。
 鷹野と富美子を遠巻きにしている人々の中から、リーが一歩前に出てくる。
「なあ、柳」と、鷹野は呼んだ。
 一瞬、リーの表情が揺れる。
「なあ、柳だよな」と続ける。
 リーは何も答えない。だが、その瞳の奥が笑っている。
 鷹野には確信があった。目の前にいるリー・ヨンソンという男は、南蘭島で高校時代を一緒に過ごした柳勇次だ。卒業の間際、最終試験のミッションでAN通信を裏切り、そのまま逃亡した柳勇次だ。
 リー、いや、柳の、堪え切れないような笑い声が聞こえてきたのはそのときだった。
「いつ、気づいた?」
 さも嬉しそうにリー、いや柳勇次が尋ねてくる。(略)
 もう時間はないはずだった。ふと、自分の人生の幕をおろすのが柳なら、それでもいいかと思う。

220(2016.8.31 Wed.)
「離れてください」
 鷹野は自分を抱いている富美子に改めて声をかけた。
 しかし富美子は鷹野の胸に顔を埋めたまま、離れようとしない。
「今の話、聞いてたでしょ? こいつ、柳勇次っていう俺の兄弟みたいな奴なんですよ。それがいま、俺を殺そうとしている。・・・理由は分かっているんですよ。俺はこいつを裏切った。なあ、そうだろ?」
 鷹野は柳を見つめた。
「…俺は、お前の弟の寛太を守ってやることができなかった。『俺になんかあったら、寛太のこと頼む』ってお前に言われてたのに、あのあと施設に入れられた寛太を、俺は結局、守ってやれなかった。・・・いや、寛太だけじゃない。俺は結局、お前に何もしてやれなかった。だからだろ?だから、俺はここでお前に殺される」
 鷹野の言葉を聞きながら、富美子の体が震えだしていた。
 いよいよ爆発の時間が迫っていることを、室内にいる他の誰もが感じ、徐々に鷹野たちから離れていく。
「離れてください」と、鷹野は繰り返した。
 張りつめた緊張のなか、それでも富美子が激しく頭を横に振る。
 鷹野はなぜか自分を抱きしめる富美子と、遠くで腰を抜かしている実の母だという女を見比べた。
 自分のそばに富美子がいることで、なぜかとても余裕ができた。そのお陰で、とても優しい気持ちにもなれた。
 もしあなたがいなければ、今、自分はここにいなかった。
 そんな当たり前のことに気づく。
 鷹野は体を大きく揺らした。あと数秒で胸の爆弾が爆発する。
 体を揺らし、反動をつけ、富美子を蹴り飛ばすつもりだった。早すぎれば、また富美子は戻ってくる。戻ってくれば、富美子まで死ぬことになる。
 鷹野は体を捩じり、足を上げた。富美子を蹴り離そうとしたその瞬間、柳が富美子の体を抱いて鷹野から引き離す。
 鷹野の足は空を蹴った。
 時間だった。鷹野は奥歯を噛んだ。
 目を背ける者がいる。じっと見つめている者もいる。その目はまっすぐに鷹野の胸に向けられている。

221(2016/9/1)
 1秒、2秒、3秒・・・。
 時間だけが過ぎた。
 鷹野は息を詰めたままだった。まだ爆発していないのに、まるで掻き毟りたくなるほど胸が痛んだ。
 4秒、5秒、6秒・・・。
 更に時間だけが過ぎていく。
 全身から力が抜けた。鷹野は自分の全体重がロープに縛られた手首に集まっていくのを感じた。
 ひどく喉が渇く。渇き切った喉が切られるように痛い。
「いったい、どんな小細工したんだよ?」
 それでも鷹野は口を開いた。自分の声とは思えないほど掠れている。
 柳の腕のなかから富美子が床に崩れ落ちる。ほっとしたというよりも、すでに鷹野と共に死んでしまったような顔だった。
 その時、風間の乗った車椅子が鷹野たちの元へ近づいてきた。
 風間はかなり苦しげで、顔には脂汗が浮かんでいる。
「風間さん・・・」
 思わず声をかけた鷹野を無視して、「どういうことなのか、説明してもらえませんか?これは完全に茶番だ」と、柳に詰めよる。
「・・・鷹野の爆弾はなぜ作動しなかったんです?」
 骨を軋ませるように咳き込み始めた風間の背中を、柳が摩(さす)る。風間は身を捩じろうとするが、激しい咳で体の自由が利かない。
「風間さん、もうあなたはお気づきでしょう? なぜ鷹野の胸の爆弾が作動しなかったか。なぜなら、・・・ええ、そうです、あなたが思っている通りですよ。私とAN通信が手を組んだからですよ。今後、AN通信は、私たちが集める中央アジアの水道工事開発を手助けしてくれることになる。もちろん、あなたが一番知っているでしょうが、その仕事で、AN通信は莫大な利益を上げることになる」

222(2016/9/2)
「それでは、この茶番はなんの為ですか?」
 柳の説明を受けた風間が、苛立ちを露わにしながら尋ねる。
 鷹野は完全に全身から力が抜けていた。
 死ぬと思っていた瞬間が、長く続いた。その時には一切考えることができなかったが、死というものを、今になって肌で感じた。
 結局、死は生の側にあるのだ。
「AN通信という組織を、本当に信用していいのかどうか、自分なりに調べてみたかったんですよ」
 柳が風間の質問に答えようとする。
 目を閉じている鷹野に、柳の声は南蘭島の真っ青な海を思い出させる。
「・・・私は、この鷹野という男をよく知っていましてね。この男がどんな風に変わったか、それを見れば、AN通信が信用に値する組織なのかどうか分かるんじゃないかと、ね」「そんなことのために、こんな大掛かりな茶番を?」
 その時、柳の足音が近づいてきた。
 鷹野は顔を上げた。長時間吊られているせいで、首が折れ、鉛のように頭が痛い。
「照れくさかったんですよ。なにせ、十八年ぶりの悪友との再会。どんな状況が一番いいんだろうって考えて、やっと思いついたのが、吊し上げたこいつの姿だったんですよね」
 柳が風間にではなく、鷹野にそう言う。
「それで? AN通信は信用に値するのか?」と、鷹野は訊いた。
 柳から合図を受けた部下が駆け寄ってきて、鷹野を吊るすロープを切断する。
 鷹野はそのまま床に頽(くずお)れ、富美子がその体を支えてくれる。
「ああ、AN通信は信用に値するよ」と、柳が言う。
「・・・そして、そこに残った鷹野、・・・お前のことを、俺は今、初めて羨ましく思っている」
 柳の視線は鷹野を支える富美子に向けられている。
 鷹野はよろよろと立ち上がった。
「柳・・・、お前には何があった? 教えてくれよ。この十八年で、お前に何があったのか」
「何があったか・・・。ただ、一つ言えるのは、俺はお前を恨んでいないってことだ」
 鷹野の言葉に、柳が微笑む。顔は原型を留めていないが、その笑顔は間違いなく鷹野が知る柳だった。

225(2016/9/6)
「それより、私たちの予想より、中尊寺の動きが速くなりそうです」とアヤコは言った。
「みたいね。いいことじゃない」
 マッグローがベーコンを皿の端に避ける。
「最近、日本でダムの連続爆破事件が起こったのをご存知ですか?」
「知らないわ。私、アジアには本当に興味がなくて」
「その黒幕がリー・ヨンソンと中尊寺なんですよ」
 さすがに驚いたらしく、マッグローが握っていたフォークを落とし、大きな音が立つ。
「そこで、中尊寺としては、その首謀者としてリー・ヨンソンを売りたいと」
「でも、リーを売ったら自分も道連れにならない?」
「ええ、ですから、そうならない方法を考えてほしいと。それさえあれば、すぐにでも日本の警察は動かせると」
 (中段 略)
 マッグローをアヤコは見送った。
 結局、一番大事な情報をマッグローには伝えなかった。そのことが、なぜか面白く、口元が綻んでくる。
 実は、リー・ヨンソンには、障碍のある弟がいるんです。リー・ヨンソンにとっては、自分の命よりも大切な存在です。彼は、弟のためならなんでもするはずです。さっきの中尊寺からの提案でも、使えると思います。弟の居場所は分かっています。
 マッグローに伝えなかった情報を、アヤコは心のなかで呟いていた。
 結局、とアヤコは思う。結局、マッグローのように金にしか興味がない人間はつまらない。
 (後段 略)

226(2016/9/7)
 (前段 略)
 そのとき、クラクションが鳴った。視線を転じれば、レンジローバーの運転席の窓にリー・ヨンソン、いや、柳勇次の姿があった。
 鷹野はプールサイドを進み、柳の車に近寄った。
「乗れよ」
 柳が顎をしゃくる。
 (中段 略)
 鷹野が助手席に乗ると、柳は車を急発進させた。
「風間さんは無事にプノンペンの病院に着いたそうだ。もちろん良くはないが、すぐにどうこうという状況でもないらしい。安心しろ。富美子さんという女性も一緒だ」
 (中段 略)
 鷹野は改めて柳の横顔を見つめた。自分の知っている柳とはまったくの別人だが、横にいるのがあの柳勇次だとはっきりわかる。
「なあ、柳・・・、あれから何があった?」
 鷹野は尋ねた。まるで高校生の柳に語りかけているようだった。
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