読書人×honto
あなたはもう読んだだろうか。そして、あの謎は解けただろうか。吉田修一氏の『怒り 上下』は、読売新聞朝刊の連載から加筆修正され、2014年1月、中央公論新社より上梓された。李相日監督による映画化(2016年全国公開)も決定している。吉田氏と言えば、山本周五郎賞と芥川賞を受賞し、純文学と大衆小説の枠組みを超える作家と目されるが、確かに、紡ぎだされる小説のその深みと醍醐味に、読者は寝食を忘れぬよう注意が必要である。吉田氏に、『怒り』を中心に小説について、またその結末の謎についても語ってもらった。
——『怒り』、面白かったです。一度目はもちろん、何度読んでも引き込まれる作品でした。読売新聞で一年間連載されていた本作ですが、この作品を書こうと思われたきっかけをお聞かせいただけますか。
吉田: そもそものきっかけは、千葉の市川で起こった市橋達也の事件です。
——市橋の事件と本書の容疑者・山神の犯行や逃走、捜査過程などに、重なる部分がありましたよね。
吉田: ええ。ただ、事件自体に注目したわけではありませんでした。市橋の逃走中に目撃情報がたくさん出てきましたよね。「もしかしたら市橋を見たかもしれない」「自分の知人かもしれない」と警察に電話をしてくる人たちに、僕は興味がありました。有力な目撃証言ばかりではなかったはずです。彼らは、なぜ殺人犯と会ったかもしれないなどと思ったのだろう、どういう人生を送ってきている人々なのか、と……そこから始まったんです。
——描きたかったのは、容疑者や事件そのものではなく、事件報道に反応する人々についてだった、と。
吉田: ええ。殺人犯の心理が分かる、というのは変だけど、市橋という人物については、なんとなくイメージすることができたんですよね。でも犯人を目撃したかもしれない、と通報する人々は、あまりにぼんやりとした不思議な存在だった。だからこそ書いてみたかったんです。
——吉田さんの中で市橋に対する印象は明確だったのに、本書の容疑者・山神一也という人物は、謎に包まれた描かれ方でしたね。
吉田: そうですね。分からないように書こうとしたわけではなくて、結局分からなかったのですが。きっかけは、市橋達也でしたが、書いているときに市橋と山神を重ねて考えることはありませんでした。
——物語は、八王子郊外の新興住宅地に住む夫婦の惨殺と、被害者の血を使って書いた「怒」の一文字から始まります。本書のタイトルも、ズバリ『怒り』、ですが、これはどのように決まっていったのですか。
吉田: 今回の作品では、逃走した犯人を追う刑事の視点とは別に、三地点に前歴不詳の三人の男を登場させ、彼らと関わる人々の話を、群像劇のかたちで書いています。もともと候補地は十数ヵ所あったのですが、その中から絞り込んで舞台としたのが、千葉の房総、都内の新宿周辺、沖縄の波留間島でした。そして、この三地点を象徴するようなタイトルにしたい、と考えたときに、浮かんできたのが「怒り」だったんです。
——もともと「怒り」というテーマがあったわけではなく、場所を絞っていくことで表れてきたのですね。
吉田: そうです。今作に限らず、僕の中では、場所が決まらないと何も動き出さないというのが昔からなんですよ。場所を決めるとそこに居そうな人々が浮かんできて、その人々を巡って物語が生まれてくる。他の作家さんに聞くと、まずストーリーがあって、そこに登場人物が決まり、それをどこで展開しようか、と考える方が多いらしいですね。
今回は三地点が決まり、その場所に立ち現われてきた登場人物たちがいて、彼らから滲みでてきたものが、「怒り」だった。だから山神の残した「怒」という血文字から物語を始めはしましたが、もともと山神という男の怒りというよりは、三組の人々の怒りを描いていくというイメージがありました。
——この三地点、本当に絶妙なチョイスですよね。房総は東京からそう遠くない場所ですが、羨望と諦念がないまぜとなった距離感が生まれていた気がします。また、新宿周辺には繁華な反面翳りがあり、特に歌舞伎町や発展場、加えてホスピスという、ある種日常から孤絶した場所が描かれていました。そしてもう一つは、首都から遠く離れた沖縄の島。この三地点に絞るのに、取材などをされたのですか。
吉田: それぞれの場所には実際に訪れたことがありますが、小説を書くために場所を探しに行くということはないんですよ。房総にしろ沖縄にしろ、過去にプライベートで遊びに行った場所です。なぜこの三地域に絞られたのかは……なぜでしょうね(笑)。今、全日空の機内誌でエッセイの連載をさせてもらっていますが、その中で取り上げる場所も含めて、僕が書く舞台には、何か共通点があるのだと思うのですが……。
以前、指摘されたのは、湿度が高い場所や、海抜が低い場所をよく描く、と。
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◎上記事は[honto]からの転載・引用です *強調(太字・着色)は来栖
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【書評】吉田修一『怒り』 人は何をもって他人を信用するのか、また、信用を失うのか
2015/2/25
*あらすじ
東京郊外で夫婦二人が惨殺される凄惨な事件が起こる。現場となった夫婦宅には、被害者の血で書かれた文字が遺されていた。「怒」という、一文字が。
多く残された遺留品を元に、加害者は山神一也という人物であると特定された。しかし警察は足取りをつかめないまま、1年が経過した。そして、テレビで情報提供を呼びかけたことをきっかけに、日本全国に3名の山神と思われる人物が特定される。3名はいずれも身元不明だった。
彼らはそれぞれ事情を抱えていたが、うまく生きられないながらに周囲の人たちとコミュニケーションをとり、少しずつ自分なりの生活を営んでいた。働き口を見つけ、恋人を見つけ、それぞれが新しい生活を始めようとしていた。
そんなとき、テレビで全国に指名手配されている山神一也という男についての情報を知った彼らの周りの人たちは、身元不明でどこか山神一也と共通点のある彼らを疑い始める。「ひょっとするとあいつは殺人犯なのかもしれない。」
果たして山神一也はこの中にいるのだろうか?そもそも、山神一也などという人物は存在するのだろうか・・・?
*人は何をもって、他人を信用するのか
この物語は、3人の山神一也らしき人物と、彼らを取り巻く人たちとの関係を描く群像劇です。互いに関係性があるのか、そもそも時系列はどうなっているのか、よくわからないままに物語は進んでいきます。
*主な視点は3組。
・病名は不明だが何らかの障害を抱えている不安定な娘と、その娘をどこか信用できないまま一緒に暮らしている父親とその周辺
・仕事、プライベート共に好調に過ごしながらも、自分がゲイであることを公表できないまま生きる会社員とその周辺
・自堕落な母親を持ち、不本意ながら日本中を点々とさせられている女子高生と男友達、そしてその周辺
この3組の前に、身元不明の男が現れたことから物語は動き始めます。
こういったあらすじを読んで思うのは、「山神一也はこの3人の内、一体誰なんだろう?」「ひょっとすると時系列がずれていて、全員が山神一也なんじゃないだろうか?」という謎解きに関してでしょう。ミステリー小説なのですからそう思って然るべきですよね。
*疑惑
しかし本質はそこにありません。さらに言うと冒頭の殺人事件の謎すらも本質ではありません。そもそも犯人探しをすることが目的の物語ではないのです。「誰が犯人なのか」ではなく、「この3人をどうして犯人だと思ったのか」についてが重要なのです。
私たちは、何をもって他人を信用するのでしょうか。
肩書き?役割?見た目?・・・きっとどれも正解です。
明確にこれがOKなら信用するなどという基準は持ち合わせておらず、日々過ごす中で、あいつは挨拶ができるからとかいつも笑顔だからなど、大した理由もなしに信用してしまったりするものなんでしょう。というか、日々「どうすれば信用できるか」なんてことを考えていては頭がパンクしていますね。
その中でも、おそらく一番信用に値するものは、その人の「過去」にあるのではないでしょうか。
*名前も過去も、消して生きることのできない国
3人の山神一也らしき男は、過去を語りたがりません。それどころか名前すら偽っています。話が進むにつれ、なぜ過去を隠しているのか、なぜ名前を偽っているのかについて少しづつ語られてはいきますが、いくら隣人とそれなりに上手くコミュニケーションを取っていても、ふとした瞬間に疑いを向けてしまうことがあります。
それはなぜか。
素性がわからないからです。
「過去を隠しているのは、何か悪いことをしたからに違いない」「名前を偽っているのは、何か悪いことをしたからに違いない」そんな疑いを、真っ向から浴びてしまうのです。
人間生きていればつらいこともある。もう、何もかもが嫌になって逃げ出したくなることもある。生まれ変わって、新しい人生を生きたい。
そう思ったことのある人もいるはずです。
何か言いたくない事情を抱えた人を見たとき、「そういうこともあるよね」という優しく見守ってあげたい気持ちと、「何か悪いことをして逃げているのでは・・・?」という疑いの眼差しを、同時に送ってしまうのが人間なのかもしれません。
*名前も過去も消して生きる・・・
物語の中で、保険証がないから病院に行けないというくだりがあります。
この国では過去や名前を消して生きることは非常に困難です。身分を明らかにしなければ、多くのサービスを享受することはできません。生き方に透明性が求められているのです。
自分で選んだわけでもないのにつらい人生を送らなければならないとき、逃げるのはそんなにいけないことなのでしょうか。生まれが平等でないのだから、普通であることを誰しもに求めるのは間違っているのではないでしょうか。
そんなことを思いつつも、もし自分の周りに身元不明の人間が現れたらどうするだろう。私はきっと、折にふれて疑ってしまうのではないかと思います。
現に私は、山神一也らしきこの3人を、全員疑っていましたから。
人間とは、なんと理解しかねる生き物なのか
山神一也らしき3人に訪れる結末は様々です。幸せを目指せそうな者もいれば、哀しく散っていく者もおり、素性を明かせない生き方のつらさをひしひしと感じます。
おもしろいのは「信じてもらえなかった」のに幸せを得ることができたり、「信じてもらえた」のに散っていくことになったりと、信用の可否が人生を決めているわけでもないところですね。
人を信じるとはなんと難しいことなのか、永遠の命題を著者・吉田修一は残酷に突きつけてきます。思えば「悪人」「さよなら渓谷」といった代表作にも、信用することの難しさが練り込まれていました。
簡単に信用してしまえるクセに、その信用を簡単に反故にしてしまえる人間とは、なんと理解しかねる生き物なのか。吉田修一の本を読むと、いつも人間について考えさせられます。
追記:
この本は、市橋達也によるリンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件にインスピレーションを受けて執筆されたそうです。確かに整形手術や沖縄での離島生活、建設現場での仕事などの逃亡生活は本書にも描かれており、あの事件を彷彿とさせますね。
◎上記事は[HENTENNA PROJEKT]からの転載・引用です
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◇ 市橋達也著『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』幻冬舎文庫
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