手づくり漆器 ~うるし うるおい うるわし~

鳥取の漆職人がお届けします。

市民不在の市政

2011-08-18 07:15:58 | Weblog
臨時議会が始まった。しかし、有権者の1/3の5万304人の署名の数は、議会では小さいようだ。

新築移転ありきの計画は、どんなことがあっても実現しなければならないようだ。

市長も議員も、背後に次期選挙のことがしきりに脳裏を横切らせているようだ。

市民は、移転新築より耐震の方が良いのでは?もっと市民を交えて納得いくやり方をしてはどうかと提案している。

不透明な密室に近い中で議論が進められてきたのではないかと、市民は不信に思っているわけだ。

なぜそれが理解できないのだろうか?

平井鳥取県知事も、「受けてたったらどうですか」と竹内市長に進言している。


とにかく、この計画の不透明さと市民無き運営は、政治家という特別な世界の人たちが
特別な何かをめぐって、利用しようとしているような気がしてならない。


数の論理を引き出して採決するが、5万304人というとんでもなく大きい数は、どうも
目に入らぬようだ。

否決の公算が大きいようだが、市民との間に出来た溝は深まるばかりで、鳥取市における

政治不信は、震災で命がけで復興している被災地の方々に見せられない、恥ずかしい姿で

ある。



  旧市立病院跡地で行なわれているボーリング調査 7月30日撮影



 震災で被災し執務不可能といっている郡山市役所 まだ十分に使えるように見えた

 現在の対策本部は、郡山市役所から歩いて5分の位置にある。周辺は開成山公園として
 避難場所になっている。鳥取で言えば、久松山公園に位置する。


  福島県いわき市豊間地区 犠牲者約170人


臨時議会開会

2011-08-17 07:42:10 | Weblog
鳥取市庁舎移転新築の賛否を問う住民投票条例を審議する臨時議会が17日から23日まで
7日間の日程で開会する。

以下8月17日付け読売新聞掲載を抜粋

条例案に署名した有権者の1/3に近い5万304人の意思をどう判断するのか!!

市民の会などが指摘した疑問点と、竹内市長と鳥取市の説明をまとめてみると

◆ マニフェスト

 庁舎の大地震で倒壊する危険性が高いとする耐震診断は、2010年4月の市長選の前に出ていたが、市長のマニフェストには挙がっておらず、選挙戦でも論議されなかった

 鳥取市の説明(竹内市長)

「耐震対策など防災体制の充実化を図る」と記されおり、市庁舎を含む市有施設の耐震
政策を指している。

◆ 耐震診断の疑問点

専門家は、本庁舎の耐震診断は荷重を減らす対策が反映されていなく、耐震性を高める対策も荷重としてしかみなされていない。地盤や建物の振動を測る「常時微動測定」を行い
正確かどうか確認すべき

 鳥取市の説明

設計事務所に委託して専門家による耐震診断を行い、県耐震診断評議会も「適切に審査されている」と判定している。鳥取市も適切と判断している。

◆ 耐用年数

庁舎の耐用年数60年に対し鳥取市庁舎は耐震改築をしても20年後には立替が必要としている。 鳥取市庁舎より2年古い鳥取県庁本庁は、昨年秋改修したが50年使う方針。

鳥取市の説明(竹内市長)

日本建築学会の「建築工事標準仕様書」で、鉄筋コンクリート造の建造物の計画供用期間は65年。 耐震改築してもコンクリートや設備配管は劣化が進み、建物自体の寿命は延びない。対応年数は建物で異なり県庁と単純に比較できない。

◆ 耐震改築費

鳥取市が試算する耐震改築費は約28億円(1平方メートル当たり30万8000円)だが、十数億円で可能。県庁本庁舎や議会棟などの改築費用は約25億円(1平方メートル当たり10万円)。

 鳥取市の説明(竹内市長)

他市の事例を参考に業者が試算した。

◆ アンケート

鳥取市が昨年冬行なった市民アンケートには、耐震改修の選択肢がなく、「新しい庁舎を建設するとすればどこが良いか」など新築が前提の内容だった。


  鳥取市の説明(竹内市長)

有識者による検討委員会と市議会特別委員会が新築を求める報告をまとめており、それに基づくアンケートだった。

◆ 市財政

疑問点
一般会計 特別会計 公営企業会計を合せた鳥取市の借金は、2010年度決算見通しで約
2240億円。新市庁舎を建てた場合、更に借金が加算され財政が不安だ。


鳥取市の説明(竹内市長)

新市庁舎を含めた長期財政見通しをたて借金を減らすので財政の健全さは維持できる。
雇用や経済波及効果も考えれば、新築のほうが財政に寄与する。

◆防災拠点

疑問点
庁舎を統合して新庁舎建設することは、災害時のリスク分散の観点から疑問だ。
移転候補地の旧市立病院跡地は昔から農地で洪水の頻繁にあった地で、現在地より地盤が弱い。 鳥取市の「防災マップ」では大震災の際、現在地の揺れは震度6弱の予定だが、
病院跡地は震度6強だ。


鳥取市の説明(竹内市長)

東日本大震災では多くの自治体の庁舎が被災し、対応が遅れた。避難場所への人や物を輸送する拠点を確保するのは、現庁舎では困難。今後30年間に震度6弱以上の地震が発生する確率は、市立病院跡地より現庁舎の方が高い。


◆ 合併特例債

 疑問点
 駅南庁舎買収についで2回庁舎に使う事は、片山総務大臣は「疑問の声がある」と発言。特例債も借金だが巨額の復興財源が必要で、国の交付税での支援が目算通り得られるか不透明。 総務省は、震災の被災地以外も発行期限を(市は2014年)延長する法案を秋の臨時国会に提出する予定。論議する時間はあるのでは。


鳥取市の説明(竹内市長)

新たに建設するので同じものに当たらない。特例債は法律で定められた国と自治体の約束なので破られることはない。復興財源を交付税削減で賄う議論は国にはない。期限延長は
確定した話ではない


このように、読売新聞がまとめたように、市民にわかりづらい多くの矛盾点と疑問点が
含まれる新市庁舎移転新築問題だ。

このブログでも、ずっと追っかけてきたが、市議会の対応や鳥取市長の対応がどうなされるか興味があるところだ。

有権者の1/3にあたる5万人以上の住民投票条例制定の為の署名を、どう受け止めてどう結論づけるか・。

市民はこの7日間 鳥取市臨時市議会に目を離すことが出来ない。














































  

みちのく子供疎開プロジェクト

2011-08-11 07:51:05 | Weblog
面白いプロジェクトが始まっている。私も知らなかったが、ペシャワール会鳥取支部責任者の濱本先生が来られて、この説明をされた。

みちのく応援隊主催で、鳥取県に福島で放射能で苦しんで生活している子供達に、原発から遠く離れた地域で、夏休みの短い期間でも有意義に過ごしてもらおうと立ち上げたプロジェクトである。

「鳥取に行こう。ポニー牧場・海・森・自然に遊ぼう」というテーマである。

みちのく応援隊とは、3.11の東日本大震災の後東京電力福島第一原子力発電所周辺の地域へ食糧、物資供給のため救援支援団体として立ち上げた。

以後現地のニーズに合せて福島県及び栃木県北部で活動。主な活動として、「放射能不検

出有機野菜の提供」となり、全国の農家や支援者の協力によって、週1回程度仮設住宅に

移住されている住民に重点的には配給している。また、放射能の正しい知識や情報を提供

する為、放射能の勉強会・講演会も継続的に開催している。


鳥取県では、社団法人ハーモニーカレッジ(八頭郡八頭町福井)で受け入れる予定

期間 8/15~22まで

              ◆ お願い ◆  

       この事業をするにあたり金銭物資の両面で不足しています。

       皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます


     ※ 米が欲しいようです。来た子供たちに、5kづつの米をお土産に

       持たせてあげたいといってました。

      
  連絡先  小林浩子 八頭郡八頭町福井130-1 TEL 080-3006-8165

       みちのく応援隊 山口敦史  090-6660-4239



被災地児童を応援

2011-08-10 06:51:28 | Weblog
福島県郡山市と姉妹都市を提携している鳥取市は、東日本大震災などの影響で中止になった両市の小学校の交流事業に変わり、市内の小学校で被災地の児童に思いをはせる「応援プロジェクト」を実施する。
 8月22日から郡山市を鳥取市内の小学校校長が訪問して、児童からの応援メッセージを届けるなど、被災地児童を支援する取り組みを計画している。

  (日本海新聞 8/9)

美保南小学校校長藤井健先生が、昨日ご丁寧にこの事をわざわざ報告に来られた。

藤井校長は、現在鳥取市小学校校長会会長をなされている。

何事にも熱く積極的な行動力で、愛情深い先生である。

どこよりも早く被災地児童への応援プロジェクトを立ち上げたことはすばらしい。

言うだけで何もしないというのが一番もどかしい。

しかし、”何か出来るのでは?”という思いが何よりも大事なことだと思う。

姉妹都市を締結したあと、両市の小学校同士が交流し続けていることもすばらしい。

間違いなく、この交流に参加した児童は、被災した東北のあの悲惨な実態を、人事でとして受け止めてはいないだろう。

この児童たちが成長した時、このプロジェクトがどれだけのものとして影響しているかを
思うと、すばらしい取り組みであると敬意を表したい。


心が通い合い いつまでも友達でいることができる交流・・・。


苦しみ 悲しみ そして喜びを分かち合うことが出来る 姉妹都市交流はすばらしい・・。




  会津の起き上がり小法師(こぼし) 無病息災 家庭円満 



  三春の 三春駒(みはるこま)福島県二本松市 無病息災 家庭円満













誠実な市政を望む

2011-08-09 07:40:34 | Weblog
昨日、鳥取市庁舎移転問題で、「市民の会」は、5万304人分の署名簿を添え、竹内鳥取市長に住民投票条例制定を本請求をした。

提出したのは、署名簿・条例案・請求書。

しかし、竹内市長は5万304人と言う署名に対して、「賛否は明確に示さず、議会の判断を仰ぐ」としている。また、「移転新築以外にどんな選択肢があるのか、市民が判断しやすい形が示されていない。」
「住民投票するかしないかは私が判断することではない。議会が判断すること。」

「5万人という数が一人歩きしている」

合併特例債の期限の延長に対して、時間を掛けた議論が出来ないのか?
「可能性は認識しているが、確定ではない」

駅南庁舎取得で合併特例債を使っている。2度使うことは総務省内でも疑問の声があるが?
「新たな建設に使うので同じものには当てはまらない・。」

以上竹内功鳥取市長の答弁。

鳥取市議会の反応は。

新築移転を賛成してきた与党議員の中にも、5万人を超えた署名数を重く受け止めている
動きも出ている。

8月17日臨時議会が召集される。

竹内市長は、その中で条例案の問題点や移転建設計画の必要性を指摘するとしている。


本日の読売新聞の内容を抜粋。

市民の会が集めた5万304人分の署名は、前回の市長選挙で竹内氏が獲得した票を上回っていると言うところに大きなポイントがある。

4万7千票で圧勝ムードで当選したように目に映った当選光景だったが、この度の5万票はそれをはるかに超えたもので、これをどう説明するのだろうか?

これを、竹内市長は苦し紛れのように「一人歩きしている・・。」とか言って、真摯に受け止めていない。

そして、究極のところに来ると、「市長の立場で決定すべきものではない。議会でするもの・・。」と自分の責任を逃れ、議会に責任をなすりつけようとしているように見える。

しかし、しっかりと臨時議会の時には「問題点や移転建設計画の必要性を指摘する」といっている。

自分に決定権があると明言している。


いままでも竹内市長の市政に対する姿勢は、自分が責任を持つからという強いアピールが
ほとんど伝わってこなかった。


地方自治体のリーダーには、それだけの権限が与えられているにもかかわらず、竹内市長は一番大事なときに必ず自分を守りその場から逃避する姿勢がある。


この問題も、おそらく責任を議会に擦り付ける格好で進められていくのではないかと危惧する。


震災で、津波で流され庁舎ごと死んでしまった町長も居る。

放射能の中で、命がけで住民の為に粉骨砕身尽力している方々も多く居る。



住民が元気が出て、職員も元気が出て活気あふれる街にすることが、市長の責任と思う。

そのために、給料も市民より並を超えたものをもらっている。


最近の市長の行動は、市民との距離がどんどん離れていっているようだ。



初心忘るべからず



最初に当選した時は、確か市民の味方のようなキャッチフレーズだった。


市民に緑のさわやかな 風通しのよい市政を・・・だったような気がする


3期目の竹内市長は、どうも初心から随分離れた場所にいるようだ。


このままでは、家が建っても中身はゴタゴタ続きの不幸せな結果になることは火を見るより明らかである。


 為政者として、義のある判断と行動をとって欲しいものだ。


THE  SENRYU

   八方 美人が招いた 市庁舎移転

   あの道は いつか来た道 帰れない

   新築の 家が建っても 中身なし

   5万人 人口比率の 3割

   法定の 16倍の 5万人

   この船は 船頭なしで どこへ行く













新島八重子

2011-08-05 08:03:00 | Weblog
2013年NHK大河ドラマの主人公になる女性。

同志社大学創始者新島襄夫人。

悪妻 列婦 皇族以外の女性で初めて明治政府から叙勲を受けた女性。

会津武士の精神を受け継ぎ、新しい時代の荒波にもまれ、女性としての生き様を貫き通した。

1845(弘化2年) 会津藩砲術師範 山本権八・さく夫妻の子として誕生。

1868 戊辰戦争で 会津鶴が城篭城戦で、銃を持って戦う。幕末のジャンヌダルクといわ   れた。 

1868 会津戦争で会津藩滅亡

1871 実兄 山本覚馬が京都府顧問になり兄とともに京都に行く。

1872 京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長となる。

第13代千宗室(円能斎)の母に出会い(茶道教授であった)茶道を親しむようになる。

 兄山本覚馬の元に出入りしていた新島襄と知り合う

1876(明治9年)新島襄と結婚 京都初の日本人同士のキリスト教式結婚式だった。

  八重の男勝りの性格で、襄の同志社の経営を助ける

  (兄山本覚馬は、当時権大参事槙村正直(後京都府令・知事)の顧問として府治を
   指導。政治学・経済学を講義。京都の近代化に大きく寄与した。管見(かんけん)
   は、明治新政府に出した覚馬の建白書。政治・経済・教育22項目にわたり将来の
   日本の姿を論じたもの。 これは、明治新政府の政策の骨格に繋がる)

   また、維新後に購入していた薩摩藩邸の敷地6000坪を新島襄の建学の精神に共鳴、
   学校用地として譲渡する。同志社は、覚馬の命名といわれる。

   覚馬は、京都府議会の初代議長を務め、京都商工会議所会長に就任、新島襄死後、   臨時総長を務める。同志社の発展に尽力する。

  八重は、兄山本覚馬の影響により、多くの周囲との軋轢もあったが、教育に力を注い  だ。

  八重は、会津武士の精神を死ぬまで捨て切れなかった。

   京都に女性向けの茶道教室を開き、自活させ裏千家流を広めることに貢献した。


   日清 日露戦争では篤志看護婦として活躍。昭和3年昭和天皇即位大礼の際に
   銀杯を下賜される。

  1932 86歳没 葬儀は同志社社葬として行なわれ、4000人の参列者があった。











         

郷土を愛する

2011-08-04 10:22:42 | Weblog
野口英世は、日本の医学者。ノーベル賞候補に3度上がった偉人である。

野口英世は、立派に成長しても最後まで猪苗代に住む母シカを慕い続けていた。


錦を飾って猪苗代に帰って来たときは、年老いた母を負ぶって、駅から家まで帰っていった。

涙ながらに故郷を捨てて、医学の道を志した野口青年は、故郷をひと時も忘れたことがなかった。


1876(明治9年4月)福島県耶麻郡猪苗代町(会津地方)の貧しい農家に生まれた。

1877 1歳の時囲炉裏に落ちて、左手に大やけどを負った。

1883(明治16年)
   猪苗代尋常小学校に入学 左手が不自由な為、農作業が出来ないので、
   学問の力で身を立てるよう母から諭される。
1889(明治22年)優秀な成績で猪苗代高等小学校に進学

1891  教師や同級生の同情を受け、手術費の為の募金で、アメリカ帰り医師渡部 鼎氏    の手術を受け、人差し指が動くようになる。
    この手術をきっかけに医師を志す。

1893 渡部 鼎先生の経営する会陽医院の書生となる。3年半医学の基礎を学ぶ。

1896(明治29年)医術開業試験の前期試験合格

1897      多くの人の援助と努力により二次試験も合格

1898  伝染病研究所に勤める(北里柴三郎所長)(現東京大学医科学研究所)

    名を野口清作から英世に変える。

1899(明治32年)清国に行く ペスト研究も一般治療に専念

1900 7月帰国  故郷猪苗代に帰る

   12月 渡米 数々の苦労の末
      ペンシルベニア大学医学部助手 蛇毒の研究始める

1901 ロックフェラー研究所設立
    黄熱病の研究始まる

1903  コペンハーゲン(デンマーク)に血清研究所に留学

1911 病原性梅毒スピロヘーターの純粋培養に成功。

京都帝国大学に論文提出  医学博士の学位をもらう

  アメリカ人 メリーと結婚
1913
進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する

小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表

1914 東京帝国大学 より 理学博士の学位を授与

1915(大正5年)15年ぶりに 帰国。年老いた母と再会。
   2度目のノーベル賞候補となる

   帝国学士院より恩賜賞 授章


1918 ロックフェラー研究所より 黄熱病の病原体発見の為 エクアドルに派遣。

   病原菌の特定に成功 野口ワクチンが出来、南米の黄熱病は収束する。

     3度目のノーベル賞候補になる

     福島県猪苗代町の母シカが亡くなる

       黄熱病病原菌論争が続く

1927年  イギリス領ガーナに赴任

1928(昭和3年) 野口英世 黄熱病にかかる

   5月21日 黄熱病で死去 51歳

     英世は、医学の為に生涯を捧げた。

 遠く離れていても、母を想う思い 故郷を想う思いは永遠に消えることがなかった。





























郷土を愛する

2011-08-04 09:32:38 | Weblog
明治の文豪であり軍医だった森鴎外は、晩年帝国美術院初代院長及び宮内省図書頭として東京で暮らすが、1922(大正11年7月9日に肺結核のため亡くなった。享年60歳。
 遺言は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」であった。

森鴎外は、島根県津和野出身である。1962年生まれ。津和野は、小さな山間のこじんまりした津和野亀井藩4万3千石の外様大名の城下町である。

家柄は亀井家のご典医の家系であった。10歳まで津和野に暮らすが、廃藩置県の激動を
機に父と上京する。

官立医学校に入学、ドイツ語を学ぶ。11歳で第一大学区医学校(現東京大学医学部)予科に入学。ドイツ人教官に講義を受け、漢方医書及び漢詩漢文に傾倒、和歌を作っていた。

19歳で本科卒業、その後陸軍省に入省、軍医になる。

ドイツ留学。(1884-1888)多くのことを学ぶ。

1889 「舞姫」発表

1894 日清戦争勃発 清に出征。

日清講和条約調印 後 従軍記者だった正岡子規と会う

台湾勤務が命じられ、初代台湾総督樺山資紀(白州正子の父)のもとで勤務。

4ヵ月後帰国 

文筆活動

1899 小倉へ左遷(軍医監(少将) → 第12師団軍医部長)

1904 日露戦争勃発 第2軍軍医部長として出征。

1907 陸軍軍医総督(中将)に昇進 陸軍省医務局長(軍医のトップ)就任

第1回文部省美術展覧会(初期文展)の西洋画部門審査主査を勤める

1909 スバル創刊 ヰタ・セクスアリス 掲載

東京帝国大学より 文学博士の学位を授与される

多忙な執筆活動に入る

1912 乃木希典の殉死を機に 歴史小説を書く
   「興津弥五右衛門の遺書」 「羽鳥千尋」
    「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」など

1918 帝室博物館(現東京国立博物館)総長

   帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任

   昭和の元号にも 大きく影響をなした

軍医であり更に文学者であり更に歴史家でもあり、芸術論者でもあった森鴎外。

しかし、生まれた故郷 石見の国(島根県)津和野をひと時も忘れたことがなかった。

文豪鴎外の墓は、津和野町の永明寺に葬られている。

         森林太郎墓 

  
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス(中略)墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス」と刻まれている




















松江市が合併20万都市誕生!!

2011-08-01 18:33:58 | Weblog
本日松江市と東出雲町が合併し、山陰一の20万都市になった。

60万の中海経済圏が磐石に出来つつある。

大山王国より  http://web.sanin.jp/p/daisenking/1/23/37/ 

北前船が青森からやってきた。

最初の寄港先となる美保関は大フィーバー。
出発先となる青森県、そして地元島根県の両県知事などが出席する式典の後、美保神社までの500mを、武士の姿をした来賓者やホーライエッチャを踊る地元住民ら総勢200人が大パレード。細い路地にはこのお祭り限定のカフェやギャラリーなども登場し、また美保神社では、航海の安全だけでなく、今年3月に発生した東日本大震災の被災地復興を祈願、北前船の寄港を祝うと同時に、被災地へ向けてのエールをここ神々のふるさとより発信することになりました。
 (山陰sacca 代表柄木孝志(からきたかし)さんからのメールを引用)

 いいですね~~。歴史の重みを実感します。

 ホーライエンヤにしても、みごとであり、歴史のストーリーが出来上がっている、
 松江です。

 何度でも行ってみたい気になりますね・・。




 ストーリーのないまま、さ迷っている鳥取市は、大いに参考にすべきでは??

 
 旧市民病院跡地をボーリング調査開始 7/30撮影

 鳥取駅周辺に12階建ての市庁舎が、鳥取のシンボルになるのでしょうか?

 松江とは考え方がえらい違うので、がっかりしています・・。

 この建物が、観光都市の起爆剤になるのか、違和感がありすぎて回答がでません。









大きな訪問者

2011-08-01 12:54:24 | Weblog
大きな訪問者が、朝早くやってきた。

奈良から、大きな車に乗ってやってきた。

マウンティン ドック 岳ちゃん 2歳 貫禄たっぷり 体重50KG


 記念撮影 


砂丘に行って キャンプ場でキャンプをする予定・・。