緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

田植えをしました。明日は南アフリカでW杯サッカー!

2010年06月11日 22時04分35秒 | 近頃思うこと・政治・経済・時事問題

平成22年6月11日(金)

例年は、5月の終わりか6月のはじめに終わっているのですが、

今年は、天候のせいで、なかなか苗の育ちが手間取っていましたが、

やっと、田植えが出来る程度に稲なえが育ってきました。

年長組の全員は、午後から田植えをしました。

 

明日は、ワールドカップサッカー大会の開幕です。

http://sports.goo.ne.jp/2010/team/group9A/7724/

今年は、南アフリカが、開催地です。

南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく)、通称南アフリカは、

アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家

東にスワジランドモザンビーク、北にジンバブエボツワナ

西にナミビアと国境を接し、レソトを四方から囲んでいる、

首都プレトリア(ツワネ市都市圏)。イギリス連邦加盟国。

IMFの統計によると、2008年の国内総生産(GDP)は2767.64億ドル(約25兆円)

であり、神奈川県の県内総生産(約31兆円)よりやや小さい規模である。

南アフリカといえば、直ぐに思いうかべるのは、人種差別です。 

2007年映画『more than just a game』で

刑務所で 紙を丸めてサッカーをしている場面…

 http://www.youtube.com/watch?v=2CrieyeMffo

 アパルトヘイトで捕らえられていた

アントニオ・スーデさんの想いは、如何ばかりかと

その熱い感慨深い思いを想像しています。 

南アフリカは、かつては有色人種に対する人種差別で知られ、

それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものでした。

また、ダイヤモンドの世界的産地で、民主化後の経済発展も注目されている。

従来のBRICsブラジル (Brazil) 、ロシア (Russia) 、インド (India) 、中国 (China) 、

sは複数形)に加え、BRICSとしてSが南アフリカ (South Africa) を表す用法も

定着しつつあります。

また、BRICsからロシアを除いて南アフリカを加えた

IBSAC(India, Brazil, South Africa, China) という用語が、

G7イギリスによって提唱されたこともある。

しかしエイズの蔓延、教育水準の低い非白人の

貧困、治安の悪化など懸念材料も多い。

医学において、世界で初めて心臓移植を行った国でもある。

1967年12月、ケープタウンにて黒人が事故で重傷を負った際、

黒人に助かる見込みがあったにも拘らず心臓病の白人の男性に移植を行った。

背景には南アフリカに横たわる黒人と白人の差別があったのでした。

国名は11の公用語を採用しており、公用語で正式名称も異なる。

  • アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika
  • 英語: Republic of South Africa
  • ズールー語: IRiphabliki yaseNingizimu Afrika
  • 南ンデベレ語: IRiphabliki yeSewula Afrika
  • 北ソト語: Rephaboliki ya Afrika-Borwa
  • ソト語: Rephaboliki ya Afrika Borwa
  • スワジ語: IRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika
  • ツォンガ語: Riphabliki ra Afrika Dzonga
  • ツワナ語: Rephaboliki ya Aforika Borwa
  • ヴェンダ語: Riphabuḽiki ya Afurika Tshipembe
  • コサ語: IRiphabliki yaseMzantsi Afrika

独立後、イギリス連邦を脱退する1961年迄は「南アフリカ連邦」と呼ばれていた。

歴史の詳細は「南アフリカ共和国の歴史」を参照)

ズールー戦争で南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。

1910年5月31日に、4州からなる南アフリカ連邦として統合され、

アフリカーナーの自治を確立する。

1911年には、鉱山における白人黒人間の職種区分と人数比を

全国的規模で一般化することを目的とした、白人労働者保護のための

最初の人種主義法である「鉱山・労働法」が制定された。

それからも人種主義法の制定は続いた。

1931年にはウェストミンスター憲章が採択され、

南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の主権を獲得。

1934年にはイギリス国会で南アフリカ連邦地位法が可決され、

正式に主権国家として規定された。

南アフリカ連邦は第二次世界大戦にも参戦した。

1961年にイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、

英連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して

新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。

一方で日本人は白人ではないにも関わらず

白人であるかのように扱われる名誉白人として認められ、

日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深い繋がりを持つことになった。

また、世界的に脱植民地化時代に突入していたのにも拘らず、

このように露骨な人種主義政策を採り続けたために、

域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため、

同様に域内で孤立していた白人国家ローデシアや、

アフリカで植民地政策を続けるポルトガル

そして台湾中華民国)やイスラエルとの結び付きを深めた。

1980年にローデシアはローデシア紛争の末に白人政権が崩壊し、
 
新たに黒人国家ジンバブエが成立し、反共のための戦いから脱落。

国際的に経済制裁を受け、南アフリカ内外で反アパルトヘイト運動が高まった。

軍事的敗北により、アパルトヘイト体制は風前の灯火となった。

このような情勢もあり、デ・クラーク大統領は冷戦の終結した1990年代に入ると、

アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。

1994年4月に、全人種参加の総選挙が実施されアフリカ民族会議(ANC)が勝利。

ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。

副大統領に、ANCのターボ・ムベキと国民党党首のデ・クラーク元大統領が就任。

イギリス連邦と国連に復帰し、アフリカ統一機構に加盟した。

白人・黒人間の失業率格差は縮小しつつある。

また政府は、単純労働者からIT技術者の育成など技術労働者へ

教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。

今後、失業率の問題は、人種失業率格差から、

数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、

犯罪率も高く、多くの過激派組織も活動している点は否定できない。

また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、

特に隣国の一つジンバブエからの移民が急増。

国内に住む黒人の失業率が向上する結果になり、

大規模な移民排斥運動も起こり始めている。

2009年5月6日、アフリカ民族会議 (ANC) のジェイコブ・ズマを新大統領に選出した。

アパルトヘイト撤廃後に3度の選挙が実施され、

いずれもアパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)が圧勝。

 

さて、今、スイスで高地トレーニング中のokada JAPAN日本チーム

健闘を祈りましょう。6月14日カメルーンと初戦です。

 http://gyao.yahoo.co.jp/player/00525/v09517/v0951700000000537992/?auto=0

 


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