醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   67号   聖海

2015-01-21 11:18:48 | 随筆・小説

 桜より松は二木(ふたき)を三月越シ   芭蕉

華女 「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ」という芭蕉の句、何を表現しているのか、ぜんぜん分からない句ね。
句郎 確かにこの句を読んだだけでは、分からない。
華女 読んだだけですっきり入ってくる句でなければ、読者はいなくなっていくのじゃないかと思うわ。
句郎 三百年前の人には読んだだけですぐ読者に分かってもらえた句だったかもしれない。
華女 そうかしら。
句郎 この句は歌枕「武隈の松」として知られている処で芭蕉が詠んだ句だ。
華女 芭蕉は歌枕を巡礼しているのね。歌枕「武隈の松」はどこにある松なのかしら。
句郎 阿武隈川を渡ると岩沼市がある。仙台松前街道の宿場町、岩沼宿に武隈の松といわれる幹が根元から二またにわかれた二本の松がある。この松のことをいう。
華女 その二本の松が有名になった理由は何なの。
句郎 「武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ」と能因法師が詠んだ歌がある。能因法師は陸奥に二度下向した。陸奥へ二回目下向した時に武隈の松は跡形もない。千年後にまた来てみよう。「後拾遺和歌集」にこの歌がある。
華女 芭蕉はいろいろな歌を覚えていたのね。
句郎 芭蕉は能因法師の歌を偲んで読んだ句が「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ」という句ではなかった。芭蕉が江戸を立ち、陸奥へ旅立ったときに門弟の挙白(きょはく)が「陸奥の遅桜(おそざくら)よ、師の芭蕉翁が陸奥に見えたら、武隈の松をお見せしなさいよ」と「武隈の松みせ申せ遅桜(おそざくら)」の餞別の句を詠んでくれた。この餞別の句に答えた句が「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ」という句だ。
華女 そんなことがあったとどうしてわかるの。
句郎 「おくのほそ道」に書いてあるんだ。
華女 なーんだ。そうなの。
句郎 元禄時代、俳諧を楽しむ人々にとって岩沼宿にある武隈の松は誰でも知っている名所だったのかもしれない。
華女 元禄時代の名所の常識は今に伝わっていない訳ね。
句郎 そんなことはないよ。今でも武隈の松は幹から二本にわかれたどこにでもありそうな松が岩沼市の名所になっているらしいよ。
華女 じゃー、今でも芭蕉の句に親しむ人はここが武隈の松なのねと尋ねる人がいるわけね。
句郎 そうなんじゃないかな。インターネットに写真が載せられている。
華女 おぼろげに「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ」と句の意味が分かってきたような気がするわ。
句郎 岩沼宿で私を待っていてくれたのは桜の花ではなく幹から二本の松になっている武隈の松でした。三月を経て私は武隈の松に会うことができました。武隈の松を見ることが喜びを門弟の挙白に伝えた句がこの句ではないかと思う。
華女 平安時代の末期、能因法師が岩沼を通った時には跡形もなかった武隈の松が元禄時代には昔と同じような幹が二本に分かれた松が植えられていたのね。
句郎 岩沼に住む人々は千年前の武隈の松を枯れては幹から二本に分かれた新しい松を植え、守り通している。
華女 能因法師が歌に詠み、芭蕉が句を詠む。その歌や句が後の人に読み継がれていく。詩歌の力は人々を動かし、名所を作り続けていくのね。
句郎 歌枕が人々の心に生き続けていく。それは地域社会を作っていく力なのかもしれない。
華女 それが文学というものなのかしら。
句郎 社会が存続していくには文学は必要なものなのだろうね。

醸楽庵だより   66号   聖海

2015-01-20 11:34:52 | 随筆・小説

   笠島はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

句郎 西行が歌を詠んだ所を探し求めた芭蕉の旅が「おくのほそ道」なのかな。
華女 歌枕を求めて旅をする。歌枕で句を詠む。そんな印象が「おくのほそ道」を読んでいくと感じるわね。
句郎 笠島の郡(こおり)に入ると村人に藤中条実方(とうのちゅうじょうさねかた)のお墓はどこにありますかと芭蕉は尋ねている。
華女 小倉百人一首に実方の歌があるわね。
句郎 うん。「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」という歌だったかな。
華女 そうよ。イケメンだったそうじゃない。清少納言とも恋をしたと言われているみたいよ。
句郎 ヤッカミがあったのかもしれないね。陸奥の受領に左遷されたという話がある。確かに笠島の郡に実方のお墓がある。しかし陸奥・笠島で詠んだ歌はないみたいだよ。
華女 あっ、そうなの。私も知らないわ。実方が陸奥、笠島を詠んだ歌。
句郎 西行は実方の歌に感じるものを持っていたのじゃないかと思う。例えば「桜がり雨はふりきぬおなじくは濡るとも花のかげにやどらむ」。実方が詠んだ歌ではないかと云われている。花見をしているときに雨が降ってきた。花を眺めたまま花びらをつたって落ちてくる雨に濡れたままでいると桜を詠む。西行の心に通じるものがあるように感じる。
華女 うーん。わかるような気がするわ。
句郎 そうでしょ。西行は実方のお墓に詣でている。その処で「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞみる」。実方の名前は朽ちることなく今に伝わっている。がしかし、このお墓には実方を偲ぶものが何もない。ただ枯れたすすきだけが残っている。この枯れたすすきをを実方の形見として心に刻んでおこう。西行は実方の歌を認めていた。
華女 無一物で放浪した西行の心が表現されていると思うわ。
句郎 芭蕉は西行の歌に憧れている。西行の足跡を慕い、旅をした芭蕉は実方の墓を詣でなかったが句を詠んだ。その句が「笠島はいづこさ月のぬかり道」だと思う。五月雨で道がぬかるんでいた。おおよそ実方のお墓がある方角は分かった。ぬかる道をおしてまで実方の墓を詣でようという意欲が湧かなかった。五月雨に濡れた笠島の杜を見ただけで満足した。
華女 本当に芭蕉は実方のお墓の傍まで行きながら詣でることはしなかったのかしら。芭蕉が笠島を通った日は本当に雨が降っていたのかしら。
句郎 曾良旅日記によると笠島を通ったのは旧暦の五月七日、新暦の六月二十三日じゃないかと思う。その日は快晴、のち曇となっている。雨は降っていなかった。が道がぬかっていたのは間違いない。その前毎日のように雨が降っていたようだから。
華女 天気の記載が曾良旅日記にはあるの。
句郎 天気の記載もあるし、宿泊した処も記している。
華女 凄いわ。三百年前の天気が分かるなんて、凄いわ。記録というものには力があるのね。
句郎 書くという営みは凄い力があると思う。ペンは力よりも強し、と言うからね。
華女 「笠島はいづこ」と詠んではいるが、実際は実方の墓に詣でていたのかもしれないわね。
句郎 確かに実方の墓に詣でたかもしれないけれども曾良旅日記には実方の墓に詣でたという記録はないんだ。
華女 じゃ、やっぱり、道がぬかって見つけることができなかったのかもしれないわね。
句郎 長谷川櫂は実方の墓を詣でたと「おくのほそ道」に書いてしまうと文学にならない。「笠島はいづこ」、「さ月のぬかる道」と表現するから文学になっているというような解釈をしている。
華女 なるほど、分かるような気がするな。

醸楽庵だより   65号   聖海

2015-01-19 11:08:00 | 随筆・小説

 ブログ65号原稿早苗とる
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)   芭蕉

句郎 「しのぶもみ摺(ず)り石」は歌枕になっているんだ。
華女 石自体が歌枕になっているの。
句郎 その「もみ摺(ず)り石」のある信夫の里が歌枕になっているようだよ。
華女 どうして「しのぶもみ摺(ず)り石」が歌枕になったのかしら。
句郎 藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだ小倉百人一首に「しのぶもみ摺(ず)り石」を詠んだ歌があるんだ。
華女 知っているわよ。「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに」でしよう。誰が詠んだ歌だっ   たかしら。
句郎 源融(みなもとのとおる)だ。古今集にもう一首、源融(みなもとのとおる)の歌が入集している。「ぬしやたれ問へどしら玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ」。圧倒的に「陸奥のしのぶもぢずり」の歌の方が有名になった。「陸奥のしのぶもぢずり」の歌によって「もみ摺(ず)り石」のある「しのぶの里」は歌枕になったと言っていいと思う。
華女 多くの人に慕われた歌には不思議な力が宿るのね。
句郎 確かにそうだ。源融(みなもとのとおる)が詠んだ「もみ摺(ず)り石」のある「信夫の里」が歌枕になるんだからね。「しのぶもみ摺(ず)り石」は芭蕉を引き付ける不思議な力、呪力を持っている。
華女 芭蕉は「「しのぶもみ摺(ず)り石」を見て、「早苗とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)」と詠んだのね。
句郎 芭蕉は「早苗とる手もと」に目を集中している。その手は若い女性の手でなくちゃならない。若い男の手では句にならないよね。
華女 私は何も女の子の手でなくてもいいと思うけど。
句郎 信夫もみ摺り石でずっと昔の女性が布を染めていたんだから、早苗とる手は若い女性だよ。
華女 「もみ摺(ず)り石」というのは布を染める石だったのね。
句郎 土がなくても木の幹に生えるシダを忍ぶ草と言ったらしい。そのシダを石で押しつぶし、出て来る草の露で布を染めると色が乱れて染まる。「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れ初めにし」という歌が生まれた。恋をした男が美しいあなたのせいで私の心が乱れてしまったと嘆いている。
華女 平安時代に生きた男はよくも恥ずかしげもなくこんな歌を詠んだものね。
句郎 もともと男はナイーブで繊細なんじゃないかね。
華女 当時の女はもっとナイーブで繊細で、生きる哀しみを背負っていたようにも思うけどね。
句郎 「早苗とる」だから苗代から早苗を取っているのかな。田植えの準備をしている健気な女性に芭蕉は思いを寄せている。
華女 芭蕉は女性に優しい男だったのかもしれないわね。
句郎 そうなんじゃないかな。昔、信夫の里の女性たちは「もみ摺(ず)り石」の上でシダの草をすり潰し、石の上に布を乗せ、力を込めて布を染めた。そんな働き者の女性の手を想像していたのじゃないかと思う。
華女 「しのぶ」は「信夫の里」と昔を「偲ぶ」の掛詞になっているのね。
句郎 そうだ。だから「早苗とる」今の女性の手に昔、もじ摺り石で布を染めている女性の手が元気よく動いている姿を偲んでいる。
華女 芭蕉は働いている女性、それも農民の働く姿を詠んでいるのね。
句郎 そうなんだ。古今集の作者たちが詠んだ世界に田で働く農民を詠んだ歌はない。士農工商といった厳しい身分制の社会の中で農民が田で働く姿を芭蕉は詠んでいる。ここに新しい時代の到来を告げる兆しがあるように思うんだ。
華女 読む対象が変わると文芸のあり方も変わっていくのかもしれないわね。

醸楽庵だより   64号   聖海

2015-01-18 12:23:03 | 随筆・小説

 「おくのほそ道」途上、安積山(あさかやま)にまつわる逸話

小汚く蒸した郡山の宿を芭蕉と曾良は日の出と共に福島を目指し旅立った。一里半ばかり行くと屋根を桧皮で葺いた家々が見えてきた。庭先で立働きをしていた女に井戸水を曾良は乞うた。升を渡された芭蕉と曾良は喉を潤した。道行く人に尋ねるとあれが安積山(あさかやま)だと教えてくれた。この山が安積山(あさかやま)か。芭蕉は物思いに耽った。同道する村人が話し始めた。
「昔な、次郎と春姫と云う若者が好きおうておった。このあたりはな、山背という冷たい風が稲に穂がつくころ吹くんじゃ。山背が吹くと米が獲れん。朝廷に租が払えんのじゃ。奈良の都から葛城王が租の徴収に来たのじゃ。里人は村の窮状を訴えるが受け入れてもらえん。里長の娘、春姫がその時に詠んだ歌が今も私らに伝わっているんじゃ。『安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに』というんじゃ。安積山の影が山の麓にある沼の水面に映っているじゃろ。あの沼は浅いように見えるがなかなか深いんじゃぞ。我々里人の都の王さまへの思いは浅いように思っておられるかもしれませんが、都の王さまをお慕いしている気持ちはとても深いものございますと。すると王さきはお喜びになり、春姫を都にお連れすると同時に租を三年免除してくれたのじゃ。春姫を失った次郎は笛を吹いて春姫への変わらぬ気持ちを歌ったが哀しみに耐えきれず、沼に身を投げた。春姫もまた王から寵愛を受けていたが次郎を忘れることができず、猿沢の池に身を投げたふりをして都を逃れ、安積の里への道を駆け続け、ふる里に戻ったが次郎が身を投げた後だったんじゃ。春姫もまた次郎が身を投げた沼に身をなげての。やがて雪がとけ、安積の里にいよいよ春が来たと思われたころじゃ、沼の清水のまわり一面に、名も知れぬ薄紫の可憐な花が咲き乱れたのじゃ。この花を誰言うともなく『次郎と春姫の永久の愛が土の下で結ばれて咲いたじゃの』という話が広がっての、それ以来、里の人たちはこの花を『安積の花かつみ』と呼んでいるんじゃ」
「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」。この歌にはこのような逸話があったのかと芭蕉は思った。どの花が「安積の花かつみ」と云われる花なのか、訪ねてみたが、知る人はいなかった。この日、芭蕉と曾良は福島に宿をとった。

醸楽庵だより   63号   聖海

2015-01-17 12:03:12 | 随筆・小説
 
 猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに  芭蕉

 芭蕉にとって旅をすることは俳諧の真実を極める修行であった。旅をすることは芭蕉にとって命を懸けることである。俳諧修行に命を懸けさせた人生観の土台に仏教思想がある。仏教思想に支えられていたからこそ、厳しい旅の生活に喜びを見いだせたのだ。芭蕉の仏教思想を表現した句が「猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに」だと私は考えている。この句は、芭蕉最初の紀行文「野ざらし紀行」にある。
「冨士川のほとりを行(ゆく)に、三つ計(ばかり)なる捨子の、哀氣(あはれげ)に泣(なく)有(あり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたへず。露計(つゆばかり)の命待まと、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとほるに、
 猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに
 いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる欤(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
 この文章に芭蕉の仏教観が反映している。仏教は世界を苦の世界とみる。生きることが苦、老いることが苦、病を持つことが苦、死ぬることが苦である。これを四苦八苦の四苦である。この苦を受け入れることなしに人間は生きることができない。生きるとは苦を受け入れることである。「三つばかりなる捨子」にさえ、「汝の性(さが)のつたなきをなけ」と、芭蕉は自分を、苦を受け入れろと言っている。
 苦をうけいれるなんて嫌だ。この嫌なことをどうしたら苦を受け入れることができるのか。芭蕉は苦を受け入れて生きた。芭蕉は苦を否定的にではなく肯定的に受け入れて生きた。ここに仏教に帰依して生きた芭蕉の人生があった。
 大乗仏教のたくさんある経典の中で仏教の教えの本質を述べた経典の一つが般若心経である。この中の有名な言葉が「色即是空、空即是色」である。色とはこの世の目に見えるも、空とは無いということである。この言葉の意味することは見えるもの、この苦の世界は空だというのだ。無いと言っている。飢えて泣く捨子の苦は無い。この「無い」ということはこの世の真実ではない。真実の世界が飢えて泣く捨子がいるような世界であるはずがない。今、目の前にいる捨子の存在は真実の世界の存在ではない。このようなことを言っている。
 この真実の世界にワープすることは現実にはできない。この真実の世界にワープする方法の一つが座禅することであり、念仏を唱えることである。大乗仏教では座禅することも念仏を唱えることも同じ修行である。
 人間の心の世界には意識下にある世界と無意識の世界がある。この無意識の世界を経験することを西田幾多郎は純粋経験といった。この純粋経験がこの世を「色即是空、空即是色」と認識する。このような認識を得たときに現実の苦の世界を肯定的に受け入れることができると仏教は教えている。念仏を唱え、座禅を組み、純粋経験によって真実の世界を認識する。
 真実の世界は「色即是空、空即是色」である。これは西田幾多郎が言うように「絶対矛盾の自己同一」なのだ。「色」は「空」、」空」は「色」なのだ、と言っているのだから。
 「色即是空、空即是色」を実感することは座禅を組み、念仏を唱え、現実世界からワープすることでもある。ワープした世界が西方極楽浄土、阿弥陀様のいる真実の世界なのだ。
 猿の鳴き声を聴き、その声に哀れを聴く歌人のみなさん、余命いくばくもない三歳ぐらいにになる捨て子に秋風が吹きつけている。この捨て子をいかが思いますか、と芭蕉は問うています。現実の芭蕉は袂からいくばくかの食い物を投げ与え、すたすたとその場を立ち去っていく。この苦しみを芭蕉は受け入れ、句を詠んだ。芭蕉にとって句を読むことは念仏を唱えることでもあった。

醸楽庵だより   62号   聖海

2015-01-16 11:38:36 | 随筆・小説
 
 世の人の見付ぬ花や軒の栗   芭蕉

句郎 「世の人の見付ぬ花や軒の栗」という「奥の細道」にある句の季語は「栗の花」、夏だよね。
華女 そう、夏ね。でもなんだか、この句には夏の季節感が乏しくない。
句郎 ホントにそうだね。有名な「古池や」の句も季節感がないと正岡子規が言っているよ。
華女 何と言っているの。
句郎 「古池ノ句ニ春季ノ感情ナシ」と「俳諧大要」という著書の中で述べている。
華女 そうなの。子規の句というと誰でも知っている「柿食えば鐘が鳴るな
り法隆寺」ね。この句には季節感が充満しているわね。そんな感じがしない。私は晩秋の斑鳩の里の風景が浮かんでくるけど。
句郎 確かにそうだね。僕も季節感をこの句に感じるね。季節感は感じるけれどもどこがいいのか、いまいち分からない。
華女 季節感が表現できていれば、それで十分だと子規は思っていたのかもよ。きっとそうだと思うわ。だから季節感の乏しい芭蕉の句を好まなかったのじゃないかしらね。
句郎 芭蕉は季語をそれほ
ど重視していなかったのかもしれない。「見付けぬ花や軒の栗」と詠んでいる。「栗の花」と直接、表現していない。
華女 一句全体としては夏の季節感が表現されているようにも感じるわ。
句郎 確かにそうだね。僕もそう思うよ。子規の「柿食えば」の句は季語の「柿」が大きな役割を果たしている。この季語「柿」が無ければ句として成立しないように感じる。そう思はない。
華女 そうね。芭蕉は季語というものをどのように考えていたのかしら。
句郎 山本健吉という文芸評論家がいるでしよう。
華女 知っているわ。俳句を始めた人がよく読む本に山本健吉の「現代俳句」があるわ。私も昔読んだ記憶があるわ。
句郎 山本健吉が昭和二一、二年ごろだから、今から七十年くらい前に「挨拶と滑稽」という論文を書いている。この中で「芭蕉の最高級の作品には、季語によることさらな季的情趣の強調は全然認められない」と書き、例句として、「閑さや岩にしみ入蝉の声」をあげている。季語としての蝉があるが、この蝉は何も誇示していない。他の言葉と同等な言葉としてその句に存在している。このようなことを述べている。
華女 文芸評論家という人は易しいことを難しくいう人なのかしらね。あ、そうですか、としてしか言えないわね。
句郎 芭蕉は現代につながる俳句の原型のようなものを作った人だから、俳句になぜ季語が必要なのか、その理由を芭蕉自身分かっていなかったんじないかね。
華女 俳句に季語というのは単なる約束事なのじゃないの。そう思っていたけど。
句郎 芭蕉の時代にはまだそのような約束事が形成されつつあったのじゃないかな。
華女 だから、芭蕉が推敲し推敲して作った句には季語の存在が希薄なのかもしれないのね。
句郎 芭蕉は連歌の伝統を踏襲し、俳諧の発句には季節感を表現する言葉を入れて詠むようにしていた。客として呼ばれ、歌仙を編む場合、亭主への挨拶、その即興の証しとして季語を詠んだ。


醸楽庵だより   61号   聖海

2015-01-15 11:09:08 | 随筆・小説

 
  市振の一夜   
                  聖海
 1 古池や蛙飛びこむ水のおと
 貞享三年弥生(一六八六年四月二〇日前後)の名残、冷たい風に小雨が混じる。小名木川の堤には蕗(ふき)の薹(とう)が頭をだし、タラの芽を青葉がおおい、雨に濡れた鼓(つづみ)草(ぐさ)が生い茂っている。その中に人が踏みならした道が続いていた。その道は大川と呼びならわす隅田川に合流するところまで続いている。
小名木川の堤の道に笠を被り、蓑を着た一人の男が急いでいるのか、左右の肩を大きく揺らし、速足で歩いていく姿があった。顔に受ける雨が心地よいのか、胸弾む気持ちが蓑に被われた体全体に漂っている。雨に煙る芭蕉の大きな葉と葉の間から藁屋根の小さな庵が見える。大川に小名木川が流れ込む手前に藁屋根の小さな庵はあった。その庵に蓑を被った男は入って行った。
「ごめん下さい」
「あー、仙化さん。雨の中、よく来てくれましたね。ありがとう。みなさん、もう集まっていますよ。そろそろ仙化さんが訪ねてくるころかなとみなさんと話し合っていたところです」
仙化に庵の主、芭蕉は微笑んだ。
「師匠から蛙を兼題にして『蛙合(かわずあわせ)』をしませんかと
のお誘いをうけ、喜んで参りました」
「どうもありがとう。蛙が鳴き始めましたから」
「小名木川の畔(ほとり)をきましたら蛙の鳴き声がうるさい
くらいでした。今日はよろしくお願いします」
「そうですか。もう早い人は田をうない始めました。
農民にとって春は一刻を争う時節ですから」
仙化が座敷に通されるとすでに其角は胡坐をかき、筆を持ったまま思案しているところだった。曾良は水屋で茶の支度をしていた。芭蕉は床の間を背に座った。仙化は水屋に向い、
「遅くなりました。手伝いましょう」と曾良に声をかけた。
「仙化さん、もうおわりました。座敷に行っていて下さい」
「すみません。ありがとうございます」
と頭を下げて、仙化は座敷に入った。
「其角さん、遅くなりました。今日はよろしくお願いします」
と下座についた仙化が座布団をはずして手をつき、挨拶をした。
「やぁー、仙化さん。しばらくでした」
「今日はよろしくお願いします」
そこに曾良がお盆に四つの茶碗をのせ、座敷に茶を運んできた。座布団に座った仙化を見て芭蕉はお茶を一口飲みこむと微笑んでいった。
「古今集もいっているように『花になく鶯、水にすむ
蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌を
よまざりける』ですからな」
「私ども俳諧に楽しみを求める者は蛙が鳴き始めたら、蛙を詠まないわけにはまいりません」
芭蕉の言葉に仙化は応じた。
「確かに、曾良さんはもう一句詠んでしまいましたよ。『うき時は蟇(ひき)の遠音(とほね)も雨夜哉』と、しかし私はなかなか上五が決まらなく、もがいているところです。上五に苦吟しています」
 芭蕉の話を聞いていた其角がおもむろに発言した。
「師匠が先ほど苦吟しているとおっしゃっていた『蛙飛びこむ水のおと』の上五に『山吹や』ではいかがでしょうか」
 其角の発言を聞いた芭蕉は頭をゆっくり振りながら黙っていたが、間をおいて話し始めた。
「山吹と蛙、古今集以来の慣わしですな。山吹では私の俳諧にはならない。みなさん、いかがでしよう」
芭蕉の発言を聞いた仙化は物思いにふけった。芭蕉は仙化に話しかけた。
「仙化さん、何を思い出そうとしているのですか」
「古今集にあった山吹と蛙を詠んだ句を思い出そうとしているのです」
「京の井出の玉川で鳴く河鹿(かじか)蛙(かわず)を詠んだ歌ですか」「そうです。中七の言葉、『ゐでの山吹』は思い出したのですが」
「「『かはづ鳴くゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを』でしょうかね」
「あっ、そうです。きちんと覚えていなければいけませんね」
 仙化はこの歌を小さな声で復唱していった。
「一度、覚えたことがあれば、それでいいのです。はっはり思い出そうと思えば本を開けばいいのですから」
と芭蕉は応えると同時に京のゐでの玉川を思い起こした。山間(やまあい)に流れる川だった。山吹が川の上におおいかぶさり、透き通った流れの速い水の中で細い体を長く伸ばし泳ぐ河鹿(かじか)蛙(かわず)が思い出された。川に突き出た石の上で鈴虫のように鳴く姿を思うと芭蕉は仙化を諭すように続けた。
「そうですね。だからこの歌以来、山吹に蛙の鳴き声を詠むという慣わしのようなものができたのでしょう」
「確かに、師匠がおっしゃる通り『山吹に蛙』を取り合わせて詠んだのでは俳諧じゃなく、和歌の世界でしょうか」
 仙化の言葉に芭蕉はうなずいた。
「和歌が詠う蛙は河鹿(かじか)蛙(かわず)の鈴虫のような鳴き声です。わしが詠む蛙はどこにでもいる蛙です。その蛙が水に飛びこむ音を詠んでいるわけです」
 すると其角もまた師匠の言葉にうなずき、納得した表情をみせると同時に筆を走らせ句を書き始めた。
「『こゝかしこ蛙鳴ク 江の星の数』。芭蕉庵は水路に囲まれているからなぁー。こゝかしこで蛙が鳴いている。これを詠まず何を詠むのか。蛙しかありません」
と、其角はニヤリとして独り言のように手前の句を読んだ。蛙と星、才気がほとばしる。これが其角の句だと芭蕉は味わっていた。仙化はまだ句が詠めていないようだと芭蕉は見て、静かに決まった言葉を発見したかのように言うと同時に懐紙に筆を走らせた。
「古池や、この言葉は動かない。『古池や蛙飛びこむ水のおと』」
 仙化は芭蕉の言葉に耳を傾けている。仙化の様子を見ていた芭蕉はわかってもらえたかなと不安げだった。この句は古池に蛙が飛びとびこみ水の音がしたという句ではない、ということが通じていないようだと思っていると仙化がおずおずと尋ねてきた。
「『古池』と『水』、同じような言葉を重ねているのには何か、わけがあるのでしょうか」
 芭蕉は目をつぶり、しばらく思案していたが、静かに言った。
「『や』は切字です」
仙化は何を言われたのか、ポカンとしていた。芭蕉は切字について去来に話したことを思い出した。「…切字のことは…深く秘す。…猥(みだり)に人に語るべからず」
といったように覚えている。弟子たちは自分自身の力で身につけなければならない。
仙化の顔が紅潮している。芭蕉は仙化に問うた。
「仙化さん、できましたか」
「はい、『いたいけに蝦(ひき)つくばふ浮葉哉』です。ご指導いただければと思います。師匠の句を聞いていまして、突然、睡蓮の浮葉に大きな体を小さくして畏(かしこ)まっている蝦(ひき)蛙(かえる)の姿が浮かんだものですから、こんな句になりました。師匠の句の前に畏まる蝦(ひき)蛙(かえる)は私です。図体は大きいのですが、気の弱い小さな存在の私です」
「仙化さん、そんなことはありません」
と芭蕉はにっこりした。仙化は芭蕉の前で小さく畏まっていた。小さく畏まった仙化を見て芭蕉は切字の働きについて考えているのだろうと推し量った。仙化は其角の顔を見てぼんやりしている。芭蕉は其角を見て、「古池の」句がわかってもらえたと確信した。一方ぼんやりした仙化の顔は其角の発言を待っている顔でもあった。その顔に応えるように誰にというわけでもなく其角がしゃべりだした。
「『古池』と『蛙飛びこむ水のおと』、この二つの言葉の間には一拍の間(ま)が、この間に気が付きました」
 其角の言葉を聞いた仙化は、ハッとした表情になった。
「仙化さん、何か感じることが其角さんの言葉にありましたか」
「切字とは句の中に間を設けること。間が言葉と言葉を切っている。こんな当たり前のことがどうして今までわからなかったのか、不思議な気がしています」
「そうですか。言葉にするとわかるということがあります。そりゃ、良かった」
 芭蕉は仙化を励ました。仙化の嬉しそうな顔を見て、其角に芭蕉は問うた。
「其角さん、『古池や』の句をどのように読んでもらえましたか」
「師匠は因襲の呪縛から抜け出だしたということでしょうか」
「そうです。蛙の鳴き声でなく、水に飛びこむ音を詠んでいるのですから。そういうことになりましょう」
と芭蕉は微笑んでいる。さらに其角はしゃべり続けた。
「水に飛びこむ蛙(かわず)はどこにでもいる蛙(かえる)ですね。蛙(かえる)を詠む。なんと師匠は大胆なのでしよう。自分は先ほど『山吹や』では、いかがと提案したことが恥ずかしい。まだまだ和歌の因襲に縛られていると感じました」
 其角は頭を掻いている。芭蕉は目を見開いていた。
「私はね、普段われわれが見たり、聞いたりするものを詠むのが俳諧だと考えているのです」
 其角が黙っていると芭蕉は続けた。
「蛙を詠んで風雅が言い表せるか、どうか、ずっと迷っていたのです。わしは決断をしたのです。ただちにこの句の心が分かってもらえなくともいつかは必ずわかってもらえるときが来るだろうと」
 師匠の言葉に其角は応えた。
「師匠の気持ち、わかります。和歌の縛りの強さを日々感じているものにとってはなかなか抜け出せるものではありません」
 芭蕉の顔は紅潮し、声がひときわ大きくなった。
「『古池や』の句が古池に蛙が飛びこみ、水の音がしたというように読まれたらつまらない句になってしまいましょう。わしは笑われることを覚悟し、この句で勝負をしたのです」
 其角は頭を垂れ、芭蕉の言葉を聞いていた。芭蕉の声が途絶えて沈黙が部屋に広がった。沈黙はいくらでもなかったが、長い沈黙だと誰もが感じた。其角が沈黙を破った。
「切字とは師匠がおっしゃるように言葉と言葉が切れることによってその言葉がもつ余韻と余韻が共鳴し、響きあう。響きあうことによって一つの俳諧の発句ができるということでしょうか」
 芭蕉は嬉しげだった。
「そうです。切るとは結びつけることでもあるとわしは考えています」
 其角は続けて問うた。
「切字『や』は大きな意味を表す言葉だということがわかったような気がします」
 芭蕉の顔が急に険しくなった。
「其角さん、古池に飛びこんだ蛙は何匹だと思いますか」
其角は思案していたが、思いついたようだった。
「師匠が聞いた蛙の水に飛びこむ音は何匹もの音だったに違いありませんが、古池『や』と句を切ったことによって水に飛びこんだ蛙は一匹になったと思いますが……」
 芭蕉は安心した顔になった。
「そうですか。それでいいと思います。一匹だと読んでもらわなければ、この句は失敗です」
 芭蕉の言葉を聞いた其角は穏やかな顔になった。
「師匠、切字『や』は素晴らしい働きをする言葉ですね」
 と同意を芭蕉に求めると、芭蕉はさらに其角に問うた。
「切字『や』にはさらにどのような働きがあると考えていますか」
 其角は自信なげに応えた。
「師匠は障子の閉まった庵にいて蛙が飛びこむ水の音を聞いた。その音に触発されて師匠の心に古池の像が浮かび上がった。切字『や』は漢文の返り点読みのような働きをしているように自分には思えます。『蛙飛びこむ水の音』が心に『古池』を思わせる。漢詩のの空間が広がっていくように思います。それは師匠の閑寂な心の在り様です。このような働きをする言葉が切字『や』」ではないかと思ったのですが、これでよいのでしょうか」
 芭蕉は其角の手を取ると強く握りしめた。
「そうです。其角さんに『古池』の句をこのように読んでもらえれば、私の勝負は決しました。いつか誰でもが其角さんのように読む日が来ると思います。ありがとう。『蛙飛びこむ水の音』は私が直接聞いた音です。この音によって私の心に昔、どこかで見かけた今では使われなくなった古い池が思い浮かんできたのです。切字『や』は現実と心とを言い表す働きをします。現実と心とが響きあい、わしの気持ちが詠めるのです。わしの句を読む人は必ず切字『や』の働きに気付くことだろうと思います。さすが、其角さんです。この『古池や』の句に漢詩の世界を読み取るとは、ありがとう」

「蛙合」をした数日後のことである。仙化が其角の庵を訪ねた。仙化は其角に申し出をした。
「先日、芭蕉庵で蛙の鳴き声を聞きながら詠んだ蛙の句の句合(くあわせ)をして世に出すという企ては、其角さん、いかがでしょう」
「それは面白い案ですね」
と、其角は応えると同時に仙化に問うた。
「『蛙合』に参加した四人だけの句では『句合』は成り立たないでしょう」
「そうです。そこで蛙を詠んでいる蕉門の方々の句も入れさせていただくというのはどうでしょうか」
「あー、それはいいでしよう」
 と、其角は仙化の提案に同意すると同時に一番句合せを発案した。
「一番句合せは師匠の句『古池や蛙飛びこむ水の音』を左に右には仙化さんの句『いたいけに蝦(ひき)つくばふ浮葉哉』。師匠の句の勝ち、というのはいかがですか」
「わかりました。僭越ながら新参者として光栄です。一番句合に私の句を取っていただきありがとうございました」
芭蕉はこのような「句合」が仙化の提案によって編まれたことを知らされていなかった。

2 一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月  芭蕉

 芭蕉庵で蛙合(かわずあわせ)をしてから三年後の元禄二年の弥生になると芭蕉は塩釜の桜、松島の朧月を見る旅に出たい気持ちにかられていた。この旅のために去年から芭蕉は魚、葷(くん)酒(しゅ)をつつしみ、身を清め、一鉢境涯、乞食の身となり、菰かぶる覚悟をしてこそ古人の跡を慕い行くことができると考えていた。
弥生も末の七日(一六八九年五月一六日)、芭蕉と曾良は千住から「おくのほそ道」への旅に出た。旅立ちの日からおよそ百日後、芭蕉と曾良は越中路にさしかかっていた。七月十二日(一六八九年八月二六日)、芭蕉と曾良は能生(のう)の玉や五良兵衛方を朝早く出て、市振を目指した。青空が広がり、空は高く澄んできている。うっすらと浮かぶ鰯雲に秋の気配が漂い始めた。黙って二人はすたすた歩き出した。間もなく能(の)生川(うかわ)に至った。能(の)生川(うかわ)は徒歩(かち)渡りの川である。水量は多く、水勢が強い。川に架けられた一本の丸太につかまり渡る。難なく芭蕉と曾良は能生川を渡り切った。歩いているうちに濡れた袈裟の裾は乾いた。袈裟の裾が乾いたのも束の間、また徒歩(かち)渡りの早川が間近に迫ってきた。山間(やまあい)から迸(ほとばし)ってくる早川の水勢は強い。渡り始めて中程を過ぎ、もう少しで渡りきるというところで芭蕉は声を上げてつまずき、川の浅瀬に転んでしまった。早川を上がり、河原で濡れた衣類を干し、休みをとった。
「わしの不注意で暇を取らせてしまったね」
芭蕉は曾良に詫びた。
「いや、ちょうどいい、一服になりました」
曾良のこの言葉に応えるように芭蕉はいった。
「わしは心が何かここにあらずというか。気持ちがうわの空なのですよ。だから小石につまずいてしまうようなことになってしまった」
「何か、新しい風雅があるように感じておられるのですか」
「何か、生まれてきているように思うのです。それが何なのか。わしにもまだはっきりしませんが…」
「師匠はよく『高くこゝろをさとりて俗に帰るべし』とおっしゃっていますね。それは雅(みやび)な言葉を使わなくとも風雅を詠うことはできる。我々が日常使っている平易な言葉を用いて風雅の誠を詠むことが俳諧だという教えだと、手前は考えているのですが」
「曾良さん、そうです。日常の平易な言葉で詠んだ風雅が寂びの心であり、侘びの心なのです」
 芭蕉は曾良に「侘び・寂び」の風雅を説いた。
「その侘び、寂びの風雅からさらに高い心というか、風雅の誠があるということなのでしょうか」
 曾良は興味深げな顔をした。その顔に芭蕉は応えた。
「何か、そのような風雅の誠があるように感じているのです」
 曾良はさらに問うた。
「古池やの句で詠まれた「侘び・寂び」を越える風雅、蕉風がさらに新しくされるということでしょうか」
 曾良の発言に芭蕉は相槌を打った。
「そうだといいのですが。なにしろ越後路の蒸し暑さにはほとほと参ったから」
「本当に蒸し暑かったですね」
「この蒸し暑さの中で、わかってくるものがあったように感じているのです。直江津で詠んだ句、『文月や六日も常の夜には似ず』、この句を詠んでから、何か、心が浮き立つような気持ちになっているのです」
「なるほど。市振では何か、心弾む何かが起こりそうな気配を感じるわけですか」
「曾良さん、実はそんな気がしてならないのです」
 芭蕉は曾良と話しながら、天和(てんな)二年十二月二十八日(一六八三年一月二十五日)に起きた江戸の大火を思い出すと同時に西鶴の浮世草子「好色五人女」(貞享三年、一六八六年)のうちの一つ「恋草からげし八百屋物語」、いわゆる「八百屋お七」の物語を一気に読み通したことを思っていた。実話だという。恋する男に会いたい一心で我が家に火を付け、鈴ヶ森で火炙りになった女の哀れを思い起こしていた。
芭蕉は弟子たちの勧進で出来上がった芭蕉庵を天和二年の「お七の火事」で焼失した。十二月二八日の大火であった。芭蕉は真冬の小名木川に飛びこみ、難を逃れた。真冬の日々、焼け残った弟子たちの住まいに世話になり、どうにか酷寒の日々を乗り越えた。芭蕉はこの大火に焼け出された江戸の町人たちの中で生活していくうちにこの大火にへこたれない町人たちに励まされていた。大工町を中心に活気づく町人たちの生活そのものを詠めば俳諧になると芭蕉は確信した。大火で受けた悲しみ、辛さを町人たちは胸深く仕舞い、不自由な生活を笑った。類焼を防ぐため、火傷や怪我をものともせず家並みを壊した者を称え、腰を抜かし歩けなくなった者を助けた。臆病者を笑い、共に火事の恐ろしさを語り合った。町人たちは哀しみを胸の奥にしまい、その辛さを引きずっていない。芭蕉は町人たちの心意気に新しい風雅があることを見抜いた。町人たちの生きている姿を芭蕉は心深くに焼き付けていた。
 芭蕉と曾良は昼ごろ糸魚川についた。荒や町の左五左衛門で休み、握り飯を食べた。そこで加賀国の大聖寺ソテツ師からの言伝が来ているという連絡を受けた。加賀の国に行くには北国一の難所、親不知・子不知をこれから越えなければならない。芭蕉は身が引き締まるのを感じた。「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」。平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、二歳の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった。この悲しみを詠んだ歌が親不知という地名になったと、越後路で聞いてきた。今日は市振に宿をとる予定だ。
 断崖の下、波が引くのを待って走った。土地の人がいうマイの風が強く吹く。四、五枚の波が来るとその次には小さな波がくる。その時が走るときだ。打ち上げられた海草が草鞋に絡まる。その海草を取り除く暇はない。波が寄せてくる。崖下の壺に砂がたまっている。その上に身を乗せ、小さな波が来るのを待つ。波が引くと走る。その繰り返しである。こうして親不知・子不知を越え、犬もどり・駒返しの難所を越えた。夕刻、旅籠「桔梗屋」に宿をとった。疲れ切っていた芭蕉と曾良は夕飯も早々に枕を並べて床についた。疲れているのに目が冴える。間もなく曾良の寝息が聞こえてきた。真っ暗闇が広がる中に静けさが満ちてくる。寝返りをうった芭蕉に隣の部屋から若い女二人のすすり泣くような声がかすかに聞こえてきた。何を話しているのかわからないが、若い女二人の声に誘われて、尾花沢で詠んだ句が芭蕉の脳裏に甦(よみがえ)った。
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
京の遊郭でのことだった。朝、目覚めてみると女は鏡に向かっていた。薄目をあけて見ていると眉についた白粉を眉はきで履いている。その真剣な眼差しに声をかけることができなかった。お化粧中の女に声をかけるほど芭蕉は野暮じゃなかった。尾花沢で栽培されている紅の花を見て、眉はきが思い出された。この思いが詠ませた句だった。目を瞑(つぶ)っていると昔、詠んだ句が次々と思い出された。あれはいつのことだったろうか。凡兆が「さまざまに品かはりたる恋をして」と詠んだ句に「浮世の果は皆小町なり」と付けた句を芭蕉は思い返した。隣の部屋の女二人のひそひそ声を聞いていると、襟足の白い女二人の姿が瞼に浮かんだ。
突然、年老いた男の声が女たちの声に交じって聞こえてくる。耳を澄ましていると、女二人は越後新潟の遊女のようだ。お伊勢参りに行く二人の遊女を年老いた男は市振まで見送ってきたようだ。男は女二人の北国一の難所越えを見届け、明日は故郷・新潟に帰る予定のようだ。新潟に戻る男に、女たちは言伝を頼み、手紙を書いて渡している。芭蕉は気が付いてみると起き出し、隣の部屋の前に立っていた。象潟以来、芭蕉は女に交わっていない。夕飯に一杯飲んだ濁り酒が体を火照らせていた。振り返ると曾良の寝息が廊下にまで聞こえてきた。芭蕉は足音を忍ばせていた。
「おばんです」
芭蕉が静かに障子越しに声をかけると、
「なんでますか」
年老いた男の声であった。芭蕉は静かに障子を開け、問うた。
「一晩、ご一緒してもよろしいか」
芭蕉が一夜の同衾を願うと、芭蕉の顔を一瞥し、人柄を見極め、厳かにいった。
「よろしゅうございます」
 年老いた男は微笑みを浮かべ、承知してくれた。芭蕉の目を見た年老いた男は年嵩のいった女を見て、どうかと促した。女は黙って首を縦にふった。芭蕉は部屋に入り、女と衝立障子の裏に消えた。
芭蕉は寝物語に女の話を聞いた。一六のとき、初めて月のものが来ないことがあった。不思議に思い女がおずおず楼主の女将に聞くと、それは身ごもった証しだと教えてくれた。その女将は陰干したホウズキをぬるま湯に入れ、ふやかし、それを膣に入れるようにと教えてくれた。いわれたとおりに毎日行い、二十日ほどすると突然お腹が痛みだし、御不浄にいくと血の塊がぬっと出てきた。十九の時にまた同じような経験をした。それ以来、子を身ごもることはなくなった。一人前の遊女になったと楼主は喜んでくれた。
芭蕉は若い女の肌に触れ、話を聞いた。引いては反す波の間に舟を浮かべて漁をする男のように、あたいたちは男たちの波間に身を横たえて浮世を渡ってきた。白波が岸に打ち寄せてくる。懐に金を入れた男たちが押し寄せてくる。その汀に身を販(ひさ)ぎ浮世を生きる哀しみを話した。この世に生をうけた子を血の塊として御不浄に捨てたことに責められ、咎められ、苦しくてしかたない。これが女の業というものか。独り言のように女は話す。もう子を産めるような体ではなくなってしまった。十三の歳から二十三の歳まで十年、親からもらった体をこんなに痛めつけて神様に罰をあてるような生業(なりわい)をしてきた。お伊勢様に参り、神様に許していただかなければ年季があけても生きていけない。女の話を聞きながら芭蕉は寝入ってしまった。
 朝方、小便に起きた芭蕉は用をたした後、曾良の寝ている部屋に戻り、床にもぐりこんだ。目が覚めると曾良はもう出発の用意を終え、旅日記を書いていた。芭蕉も起き出し、出発の用意を終えると思い浮かんだ句を懐紙にしたためた。
 一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月
 昨夜の出来事は夢幻(ゆめまぼろし)のちまたのことと忘れていた。 朝飯を終え、芭蕉と曾良が出発を急ごうとしていると、昨夜(ゆうべ)の女が宿の出口に立ち、願い事があるという。
「お伊勢様にどのように行ったらよいのか、皆目わか
りません。女二人だけでは心細くてしかたがございま
せん。あなた方お二人の後を慕い、付いて行きとうご
ざいます。どうか、お許しくださいませ」
 芭蕉が思案顔をしていると、女はさらに願った。
「お見受けするところ、墨衣をまとっていらっしゃい
ます。諸国行脚の聖さまかと存じます。昨夜(ゆうべ)は私ども
のような者の嘆きをお聞き下さいましてかたじけの
うございました。聖さま方の慈悲の心にすがりつきと
うございます」
 涙をにじませ、すがるように女はいう。女の願い事を聞いている芭蕉に代って曾良が答えた。
「確かに、心細かろう。だが我々は所どころで人に会い、用をたさなければならない。お前たちの願いに応えることができない。ただ道行く人の後に付いて行きなさい」
曾良が答えると芭蕉もまたいった。
「きっと神様の加護が得られましょう。間違いなく伊勢神宮へと導いてくれることでしよう。天命にすがり、行くがよい」
芭蕉と曾良は女たちを後に残し、旅籠「桔梗屋」を出立し、那古の浦を目指した。
天和二年の大火は芭蕉の俳諧の道を大きく変えた。この世に定住の住まいはない。この世にあっては我が住まいにいつ火が付いてもおかしくはない。大火に焼き出されて実感したことだった。この世は火宅なのだ。すべてのものが日々、生成し流転する。一定不変なものはない。変わることのない安穏な住処(すみか)などもともとないのだと、芭蕉に実感させた大火が天和二年の大火であった。この憂き世を笑い、浮世を生きる江戸町人の気風(きっぷ)に俳諧の心があると芭蕉は思うようになった。新潟の遊女たちよ、江戸町人のように浮世を生きろと、芭蕉は心の中で遊女たちにいっていた。天和二年の大火はまた芭蕉に旅を栖(すみか)とする生き方を強いた。那古の浦に向かう道中、芭蕉は曾良に話しかけた
「曾良さん、野ざらし紀行は読んでもらえましたかな」
「師匠、もちろん、読ませていただきました」
「そうですか。ありがとう。富士川の畔(ほとり)をいく場面を覚えていますか」
「もちろんです」
 こう言った曾良はその一節を諳(そら)んじた。
「富士川のほとりを行に、三つ計(ばかり)なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計(つゆばかり)の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
 猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
「曾良さん、よく覚えてくれました。今朝、遊女たちの願いを断ったとき、野ざらし紀行のこの一節をわしは思い出したのです。猿を聞く人とわしのことです」
「師匠と自分でしょうか」
と、曾良は応えた。
「そうです。私どもです。三つばかりなる幼子が街道に捨てられている。なんとこの世は無慈悲なのかと深く心に刻み込まなければなりません。猿の鳴き声を聞き、哀れを詠んでいる詩人の方々、この無慈悲さを肝に銘じて下さいと、わしは言いたいのです。わしもこの世の無慈悲さを肝に銘じました。曾良さんも肝に銘じてください」
「わかりました」
 曾良は静かに一言一言を噛みしめるようにいった。
「曾良さん、しかしこの世の無慈悲さに引きずられてはいけません。この無慈悲なものを無慈悲なものとして軽く詠む。これが俳諧です」
 重く沈んでいた曾良の顔に明るさが戻ってきた。
「師匠、手前は漠然と遊女たちの願いを受け入れることはできないと思料し断りました。それで良かったわけですね」
「その通り。遊女たちの願いはわかるが、その願いに引きずられてはいけません」
 曾良の心は肝がすわってきたようだった。芭蕉の話は曾良の心にしみいっていった。
「世の人はみなそれぞれ無慈悲な世の中を生きています。この無慈悲さの中を生きていく自分を世の人たちは受け入れているのです」
 曾良は芭蕉の話に黙って頷き、静かに話し始めた。
「僅か三つばかりなる幼子であっても自分を受け入れなければならないということでしょうね」
「わしもそうだと思いますよ」
芭蕉は決然といった。
「師匠にできたことは、その日の自分の昼飯を投げ与えること、それだけしかできないということですね」
「残念だがそうです。それができる精一杯のことです。その上、できることは捨てられた子の天命を信じる。信じている。それしかできない」
「手前もあの捨て子の天命を信じ、手を合わせました。母は子を疎むはずがありません。父は子を憎むはずがありません」
「そうです。仕方なかったのでしょう。無慈悲なこの世に生きる哀しみを味わい尽くした上でのことだったのでしょう」
「師匠は市振の宿で一緒になった女たちの生きる哀しみを肝に銘じ、遊女たちの天命を信じたということでしょうか」
「もちろん、そうです。目の前の無慈悲さを引きずっていくことはできません。それは俳諧の心ではありません」
芭蕉がいう「侘び・寂び」を越える風雅とはどんなものなのだろうと曾良には興味が湧いた。
「師匠、何か、市振の宿でのことが風雅の誠に新風を吹き込みましたか」
「そんな気がしします。浮世とは出会いと別れです」
「たしかに、そうです」
「人に別れを強いる天とはなんと無慈悲かと思います。別れとは生木を裂かれるような痛みがあります」
「本当です」
「天が吾々に与える無慈悲さに平気でいる。ここに俳諧の道があるように思います。曾良さん、どうですか」
「そうですね。別れを引きずると浮世のしがらみに縛られ、身動きが重くてしかたない」
「そうなのです。浮世を軽く生きる。この軽みに俳諧の誠があります」
「師匠のおっしゃりたいことがわかりました」
「『野ざらし紀行』で東海道を下ったとき、雨のため大井川で足止めされ、その時に詠んだ句に、『道のべの木槿は馬に食われけり』があるのです。今思うと、とても軽く詠んでいる。引きづっているものがない。『けり』という言葉に深い切れをいい表すことができたと思っています。曾良さん、どうですか」
「軽いです。師匠。本当に軽いです」
「俳諧は侘びや寂び、ここに風雅の誠があるように感じていたのですが、その上に軽みが大事だと気付いたのが市振の宿だったように思っています」
「『軽み』ですか」
 芭蕉と曾良は流れの小さな川を数知れず渡り、那古の浦にでた。ここで芭蕉は古歌を思い出した。
 たこの浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かん見ぬ人のため 
 有磯海は恋の歌枕だったのだ。市振で出会った女との思いを引きずってはならない。切らなければならない。芭蕉は自分に言い聞かせた。早稲の間につたう道を辿っていくと突然有磯海の海原が広がっていた。
 わせの香や分入(わけいる)右は有磯海

 参考文献
おくのほそ道(萩原恭男校注)、菅菰抄、
俳諧書留(芭蕉)、笈の小文(芭蕉)、去来抄(去来)、三冊子、曾良旅日記(萩原恭男校注)、
「奥の細道」をよむ(長谷川櫂)、古池に蛙は飛びこんだか(長谷川櫂)、芭蕉俳文集上下(堀切実編注)、
芭蕉書簡集(萩原恭男校注)、芭蕉紀行文集(中村俊定校注) 芭蕉はどんな旅をしたのか──「奥の細道」の経済・関所・景観(金森敦子)

○注 萩原恭男は「いちぶり」を「一振」と表現しているが現在は広く「市振」と言い表しているので「市振」とした。


醸楽庵だより   60号   聖海

2015-01-14 11:07:40 | 随筆・小説

   去年注目された酒

侘輔 ノミちゃん、最近、山口の酒、「獺祭」が人気のようだね。
呑助 テレビ番組「カンブリア宮殿」で放送されたからね。
侘助 どんな内容の番組だったの。
呑助 中国山脈の山里の人口三〇〇人くらいの町にある酒蔵の酒が東京で売れまくっている。
侘助 本当なのかな。
呑助 本当らしいよ。東京下町にある地酒屋が仕入れるとすぎ売れて無くなってしまう。最近ではお客様一人に四合瓶一本しか売らないらしい。
侘助 へぇー。そんなに売れているんだ。どうしてまたそんなに売れるようになったのかな。
呑助 そこには聞くも涙、話すも涙の物語があるらしい。
侘助 へぇー、どんな物語があるの。
呑助 今の社長が跡を継いだとき、生産石数が七〇〇石、山口県内では四番目の生産石数の蔵、町の人口は三〇〇人、日本酒全体の生産量は長期低落傾向、右を向いても、左を向いても廃業以外に取る道はないような状況だったようだよ。
侘助 山口県の何という所にある酒蔵なの。
呑助 限界集落のような過疎地の町らしい。JR岩国駅から一~二時間に一本しか走らない岩徳線に乗ること四〇分、周防高森駅下車、車で山中に入ること約一五分。猛烈な過疎にあえぐ山村にあるらしい。山間の小さな集落にへばりついて長い歴史を生きてきた酒蔵らしい。
侘助 人口三〇〇人の町じゃ、酒を売るにも買ってくれる人がいないねぇ。
呑助 そうした逆境の中で売れて売れて売れぬく酒を造ったから評判になったらしい。
侘助 凄いことだね。
呑助 凄いですね。
侘助 今の社長が跡を継いだのは、いつごろのことなのかな。
呑助 一九八四年(昭和五九年)。この頃は焼酎ブームが吹き荒れていた。焼酎は少しぐらい飲んでも翌朝、頭がすっきりしている。日本酒は残る。こんな言葉をよく聞いたように覚えている。
侘助 確かにそうだな。第一次オイルショックが起きた年、昭和四八年(一九七三)が日本酒の生産量が最高だった。おおよそ九八〇万石だと言われている。それが現在は三分の一の三四〇万石のようだからね。
呑助 一石という言葉をよく聞くけど一石というのはどのぐらいの量を言うの。
侘助 一升瓶100本でおおよそ一石かな。
呑助 獺祭の酒蔵は、そうすると今から三〇年前、七〇〇石だったというから一升瓶で七万本の生産量だったんだ。それが今年は五万石の酒を生産するという話ですよ。
侘助 五万石か。一升瓶で五〇〇万本の酒が売れるようになったという訳だな。凄い。凄いね。
呑助 生産量が七〇倍以上に伸びたんですからね。人口三〇〇人の山間の過疎の町に十二階建の蔵を建てているそうですよ。パートを合わせると従業員が一〇〇名だそうですから、町の人ほぼ全員が獺祭を醸す旭酒造の従業員といってもいいぐらいですよ。
侘助 老人、子ども合わせて三〇〇人の町だからね。
呑助 そうですよ。社長は町のお殿様ですね。


醸楽庵だより   59号   聖海

2015-01-13 11:15:41 | 随筆・小説

 


  芭蕉の酒


 


侘輔 「二日酔ひものかは花のあるあいだ」。こんな句が芭蕉にあるのをノミちゃん
知っている。


呑助 へぇー、花見の間は二日酔いなぞ気にしちゃいられない。毎日飲みたい。だっ
てそうでしょ。何時散ってしまうのか分からないんだから、というような意味ですか。


侘助 芭蕉は若いころ、本当の呑助だったんだ。


呑助 この句を読むとそのようですね。女も勿論好きだったんですよね。


侘助 そうらしい。


呑助 俳句というのはお金持ちの庶民のお遊びだったようだかね。


侘助 芭蕉は当時、そうしたお金持ちのお相手をする遊びのプロだったんじゃないかね。


呑助 清く貧しい生活に生きた詩人というイメージと遠くかけ離れた人だったんですね。


侘助 「花にうき世わが酒白く飯黒し」。俳諧師としての生活が滲み出てくる。遊び人
の侘しさが年を重ねるにしたがい分かってくる。


呑助 この句も芭蕉さんの句ですか。


侘助 芭蕉、四十歳の時の句のようだ。この句の前書きに惨めな思いをして初めて酒の
味が分かってくる。貧しさを味わって銭のありがたさが分かる。このようなことを書いているんだ。


呑助 酒が白いというのはどうしてなんですか。


侘助 清(す)み酒でなく、どぶろくだったんじゃないかな。だから当時、元禄時代には澄ん
だ酒、清酒が出回っていた。貧しい庶民が飲める酒は水で薄めた白いどぶろくだ。


呑助 飯が黒いというのは麦が半分くらい入ったご飯ということですか。


侘助 玄米飯ということかもしれない。花に浮かれるお金持ちを見て、貧しい自分を省みてい
る句だと思う。


呑助 三百年前の四十歳にして今まで自分が花に浮かれていたと分かったんですね。


侘助 気付くのが四十歳じゃ、遅いね。


呑助 そうですね。


侘助 「月花もなくて酒飲む独りかな」。芭蕉、四六歳の時の句のようだ。


呑助 いよいよ一人酒ですね。仲間と飲んで騒ぐ酒じゃないんですね。


侘助 芭蕉は四十六歳の時、「奥の細道」に旅立つ。旅立つ前だから、桜の花が咲く前
に詠んでいる。芭蕉庵で一人、「奥の細道」に旅立つ思いに耽っていたのかもしれない。


呑助 もう一人の自分が酒を飲んでいる自分を見ているような句ですね。


侘助 確かにそんな気がするね。自分を突き放して生きる。そんな生き方をするように
なっていた証しかもしれない。


呑助 俳諧師というのは、今でいうとゴルフのレッスンプロのような者なんですか。


侘助 いいこと言うね。その通りかも。カラオケの師匠というところかな。


呑助 芭蕉は芸能人として一流だったんですよね。


侘助 そうなんだ。一流とはいえ、豊かな生活ができたわけではなさそうだ。商売人
としても一流だったけれども、商売としての俳諧を辞めた。商売としての俳諧には生きる真実がないと考えるようになった。だから一人酒を楽しむように
なる。その一人酒を惨めだとは思わない。遊びとしての俳諧から文学としての俳諧へ、商売としての俳諧から人間の真実を見つめる俳諧へと進み始めたと
きは独り酒になった。


 


 


醸楽庵だより   58号   聖海

2015-01-12 10:27:55 | 随筆・小説

 

 

風流の初(はじめ)やおくの田植うた   芭蕉

 

 芭蕉は芦野で「田一枚植えて立去る柳かな」を詠んだ後、白河の関を越え、須賀川に至る。

須賀川の相楽伊左衛門亭に招かれた芭蕉は等窮と挨拶を交わした。等窮は芭蕉に話しかけた。

「白河の関越えの折にどんな句を詠まれましたか」

芭蕉は腰を折り、目を輝かした。

「長旅のせいでしようか。足や腰の痛みに体も心も疲れ果ててしまいました。あー、ここが白河かと思うと風景に心が奪われ、古人が詠んだ歌が思い出されて句を詠むことができませんでした。でも無下にも白川の関を越えることもできませんでしたので一句ひねりました。『風流の初やおくの田植えうた』。陸奥の田植え歌を聞き、風流を知りました。世俗を離れ、自然の中に生きる歓びを知ることが風流だと考えていた私は思い違いをしていました。陸奥の自然の中で生きることに風流はあるのだと気付いたようなことです」

 芭蕉に耳を傾けていた等窮はニコニコして芭蕉を見返した。

「それはそれはありがとうございます。何もない田舎でありますが、自然の中で心ゆくまでゆっくりくつろいで下さい」

等窮は「風流の初やおくの田植えうた」を発句に脇をつけた。

「『覆盆子(いちご)を折て我まうけ草』、あぜ道の端にはちょうど今、野イチゴが実りはじめました。野のイチゴを摘む楽しみもまた風流のうちじゃないでしようか」

 等窮は端然としていた。曾良は真剣な面持ちでいた。どう俳諧を展開しようか考えていた。等窮の話が終わるのを待ち、さらさらと懐紙に書いた。

「『水せきて昼寝の石やなをすらん』、野イチゴを摘み、傍らで昼寝をしていたら水嵩が増してきた。驚いてまくらにしていた石の位置を直しました」

 曾良の句を読んだ芭蕉は微笑みを浮かべた。

「籮(びく)に鮇(かじか)の声生かす也」

川でとったカジカを籠に入れる陸奥の風景を芭蕉は思い浮かべていた。 

都での生活があって初めて風流が分かる。室町時代、世阿弥によって普及した美意識、風流を芭蕉は継承している。芭蕉は都・江戸での生活体験があったればこそ、陸奥に赴き、風流を体得したのであろう。芭蕉にとって侘びや寂びが世阿弥から継承した風流であった。