醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1201号   白井一道

2019-09-30 11:38:48 | 随筆・小説



    徒然草29段『静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき』



 「静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき」。

 静かに思うと、何事につけても、過ぎ去った方々のことが恋しくてしかたがない。

 「人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたゝめ、残し置かじと思ふ反古(ほうご)など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、たゞ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手馴れし具足なども、心もなくて、変らず、久しき、いとかなし」。

 寝静まった後の長い夜の慰めに何とはなしに道具などを片付け、死んだ後まで残すまいと思い書き損じたものや破り捨てたものの中に今は亡き人の手習いしたものや絵が古びてしまっているものを見つけることほど、その折の気持ちがよみがえってくることはない。このごろある人の手紙を見つけ久しぶりにいかなる折の事だったのかなと思うことほど無常を感じることはない。手に馴染んだ道具類などにも気を付けることもなく相も変わらず、長い年月が過ぎ去ってしまったことに後悔のような哀しさがある。

 『徒然草第29段』を読み、どうした訳か、分からないが、森鴎外の短編小説『じいさんばあさん』を思い出した。十代の頃、胸に染みた出来事は将来にわたって強い影響力があるということを感じている。
 森鴎外の短編小説『じいさんばあさん』は江戸末期の話である。「文化六年の春が暮れて行く頃であった」と鴎外は『じいさんばあさん』を書き出している。11代将軍家斉の時代の頃の話として老いらくの恋を表現した短編小説が『じいさんばあさん』である。
 身分制社会の中にあっても幕末の頃になると好き合った者同士が一緒に生活し始める事態があったということをこの小説を読み、知った。19世紀になると近代社会の萌芽が江戸幕府下に生まれていたと言うことのように思う。現役を退いた者には厳しい社会的制約が緩和されていたのかもしれない。社会的制約の緩んだ所に近代社会の萌芽が芽吹いていたのかもしれない。
 「四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云うのに、果して見知らぬ爺じいさんが小さい荷物を持って、宮重方に著ついて、すぐに隠居所に這入った。久右衛門は胡麻塩頭ごましおあたまをしているのに、この爺いさんは髪が真白である。それでも腰などは少しも曲がっていない。結構な拵こしらえの両刀を挿さした姿がなかなか立派である。どう見ても田舎者らしくはない。
 爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆ばあさんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷まるまげに結いっていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。それまでは久右衛門方の勝手から膳を運んでいたのに、婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった」。
 髪の毛が真っ白なじいさんの腰などは少しも曲がっていない。結構な拵こしらえの両刀を挿さした姿がなかなか立派なじいさんと真っ白な髪を小さい丸髷に結いっていて、爺いさんに負けぬように品格が好いばあさんがこじんまりとした隠居所に入り仲良く生活し始める。このような状況になぜなったのかを鴎外は説明している。
 自分の夫として受け入れた女と自分の妻として受け入れた男は年月を経ても変わることがないということをこの鴎外の小説は表現している。あぁー、人間にはこういうことがあるのだと納得する。男にとっても女にとっても自分の相手になる伴侶は一人と決まっているのかもしれない。自分の伴侶だと感じた人は永遠に変わらないのかもしけない。そのようなところが人間にはあるということを鴎外は表現したかったのかもしれないと年を経てジジィになり短編小説『じいさんばあさん』を感じた。
 そう云えば、サマセット・モームの短編小説にも年老いた爺さんと婆さんが仲良く生活する話を書いたものがあったのを思い出したが何という題名の小説であったのかを思い出すことができなかった。印象に残っているのは礼を正した爺さんと婆さんが仲良く言葉少なく生活している様子が表現されていたことのみ印象にある。

醸楽庵だより   1200号   白井一道

2019-09-29 11:14:30 | 随筆・小説



  徒然草二八段  『諒闇(りやうあん)の年ばかり、あはれなることはあらじ』



 「諒闇(りやうあん)の年ばかり、あはれなることはあらじ」。

 天皇が父母の喪に服する年ほど哀感が深くなることはない。

 「倚廬(いろ)の御所(ごしょ)のさまなど、板敷を下げ、葦(あし)の御簾(みす)を掛けて、布の帽額(もこう)あらあらしく、御調度(みてうど)どもおろそかに、皆人の装束・太刀・平緒(ひらを)まで、異様なるぞゆゝしき」。

 天皇が服喪のためお籠りになる仮御所のご様子など、板張りの床を他の宮殿より、地面に低くつけて造り、竹で作るのではなく、葦で造った粗末な簾を掛け、簾の上部を濃い鼠色の布で作ったものでぞんざいに被い、道具類が粗末で、皆人の装束・太刀・太刀に付ける飾りの紐までが異様なほど粗末なものであるので、不吉ですらある。

 自社さ連立政権が成立したことがあった。その内閣が村山富市政権だった。日本社会党衆議院議員であった村山富市氏が第81代内閣総理大臣に任命され、1994年(平成6年)から1995年(平成7年)まで続いた日本の社会党政権であった。
 村山富市氏は大分市市議会議員を経て大分県会議員になり、大分県から衆議院議員に当選して国政を担当する政治家になった。その後、村山富市氏は政権を失い、国会議員を引退し、大分に帰った。
 私はテレビを見ていた。往年の総理大臣を尋ね、インタヴューする番組を放映していた。村山富市氏はママチャリのような自転車に乗ってインヴュー会場にやってくるところをテレビは放映していた。日本中、どこにでもいるごく平凡な老人がスーパーに買い物に行くような普段着の格好をして村山富市氏は現れた。ここに元社会党国会議員だった証を見るようだった。元社会党議員では黒塗りの自動車に乗ることができないのだと村山富市氏の姿を見て思った。私らと変わらない年金のみの生活者であることを自転車に乗った村山富市氏の姿に見た。
 権力を取った者も権力を失えば、普通の老人になるということが当たり前になる社会が真っ当な社会にならなければならない。一度でも権力を握った者は豊かな生活、黒塗りの自動車を乗り回すような生活ができる社会であってはならないだろう。
 兼好法師が生きた時代は公家たちの豊かな生活が保証されている社会ではなかった。
1185年に鎌倉幕府が成立すると、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が滅亡した。その1219年以降、鎌倉は将軍の代理人である執権の北条氏が実権を握り、幕府を実質的に手中に収めるに至った。日本を統治するのは朝廷であり、朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きたのが承久の乱である。
1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)によって、最終的に朝廷は権力を鎌倉幕府に奪われ、以後武家政権が明治維新まで続くことになる。鎌倉幕府に反旗を翻した後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北条義時に敗れ、隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。
承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも影響力を持つようになっていった。
朝廷が権力を失った時代に朝廷側の世界に生きた兼好法師は財政的にも窮乏化していく朝廷社会の無常を実感せざるを得なかった。『徒然草第28段』に出てくる天皇とは『建武の中興』で有名な後醍醐天皇のようだ。後醍醐天皇の時代に兼好法師は生きていた。後醍醐天皇の父母が亡くなった時、昔のような華やかな法事が営まれることはなかった。廃れいく朝廷社会の無常を表現したのが第28段のようだ。確かに後醍醐天皇は北条政権に反旗を翻し、蜂起するが失敗している。
徳川幕府の成立によって最終的に武家政権の絶対的な権力が確立する。

醸楽庵だより   1199号   白井一道

2019-09-28 11:01:05 | 随筆・小説



   徒然草二七段  『御国(みくに)譲りの節会行はれて、剣・璽(じ)・内侍所(ないしどころ)渡し奉らるゝほどこそ、限りなう心ぼそけれ』



 「御国(みくに)譲りの節会行はれて、剣・璽(じ)・内侍所(ないしどころ)渡し奉らるゝほどこそ、限りなう心ぼそけれ」。

 国譲りの儀式が行われて、三種の神器、草薙剣・八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)を新天皇に譲り渡されることほど旧天皇にとってこれほど寂しいことはなかろう。

 「新院の、おりゐさせ給ひての春、詠ませ給ひけるとかや。
殿守(とのもり)のとものみやつこよそにして掃(はら)はぬ庭に花ぞ散りしく
 今の世のこと繁きにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。かゝる折にぞ、人の心もあらはれぬべき」。

 新院の花園上皇が天皇の位をお譲りになった年の春、次のような歌を詠まれたとか。
 殿守寮の下役人たちは上皇のいる新院のことをよそ事として掃除をしない庭には散った花がそのままになっている
 新天皇のことが忙しいことにかまけて上皇のいる新院には参る人もなく、実に寂しそうだ。このような時にこそ、人の心は現れるのだ。


 権威と権力とを併せ持った天皇が新天皇にその位を譲る。この出来事は呪術であった。三種の神器を譲り渡すことによって新天皇は権威と権力とを得る。三種の神器には呪力がある。三種の神器が有する呪力を得ることによって新天皇は新たに権威と権力とを獲得する。これは将に呪術以外のなにものでもない。このような呪術が支配した社会に当時の人々は生きていた。
 呪力を失った元天皇はただの人になった。ただの人になった元天皇のところにやって来る人はいない。それは今も同じようだ。鳩山由紀夫氏は旧民主党が政権を取った時の総理大臣であった。総理の職を辞した鳩山由紀夫氏を批判する元民主党政権幹部たちがいる。鳩山由紀夫氏がクリミヤに行ったことを元民主党時代外務大臣や副総理をしていた岡田克也氏は批判していた。鳩山由紀夫氏の真意を知ることなく、ただ表面的な理解だけで鳩山由紀夫氏を批判していた。実に情けないことだ。
 兼好法師がおよそ七〇〇年前に述べていることは、現代社会にあっても通じることだ。ここには人間世界の普遍的な真実があるように思う。
 私も昔、先輩から言われた言葉がある。「お前に頭を下げる」のはお前の机、席に頭を下げているのであって、お前自身にではないということを肝に銘じておけと言われた言葉を今もありありと覚えている。しかし私はそれほどの地位につくこともなく、極々平凡な人生をおくった。

醸楽庵だより   1198号   白井一道

2019-09-27 11:08:30 | 随筆・小説



    徒然草二六段  『風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に』



 「風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ」。

 風が吹き散らす前に早くも散ってしまう花のように移り変わってしまう人の心に馴れてしまった年月のことを思うと、心に沁み入るように聞いた一言、一言すべてが忘れられようもないが、私から離れて行った。あの人との二人の世界がなくなることは亡き人との別れよりも強く悲しいもののようだ。

 「されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分れんことを嘆く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、
  昔見し妹が墻根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして
さびしきけしき、さる事侍りけん」。

 だから、白い糸が何かの色に染まっていくことを哀しみ、道路が岐路で別れてしまうことを嘆く人がいるという。堀川院の百首の歌の中に、
  昔見し妹が墻根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして
 この歌の哀しみ、しみじみと感じ入る。

 『徒然草第二六段』を初めて読んだ時、これは男の話だと理解した。男女の恋の話ではない。なぜなら兼好法師は男だからだ。男が女のような話を書くはずがないと思っていたからである。しかし、永井路子の『徒然草』を読み、永井路子氏は男女関係の話だと解釈して現代語訳をしていることを知った。
 『徒然草第二六段』は男の話として理解した方がより深く社会を理解することができるように思う。この話は上司と部下の話として理解すると現代社会になる。部下は上司の関心を買おうと必死である。サラリーマン社会に生きる男たちは皆出世を願っている。部下は上司に認められようと日々励んでいる。
 「いい仕事してくれたね」。この上司の言葉が忘れられない部下がいる。一方、上司の気持ちは日々移ろっていく。上司はまた別の部下に対して「よく気が付いてくれたな。君のお陰で助かったよ」などと言う。それを聞いた部下は上司の気持ちが移り変わっていくことを心配する。上司に声をかけられている同僚に嫉妬する。
 サラリーマン社会に生きる男にとって部下は男女関係の女のような気持ちにさせられている。哀しい現実のようだ。
 ポストを得ることは激しい競争がある。有能な人がその人に適したポストを得るとは限らない。このような競争が企業を発展させるとは限らない。場合によってはこのようなポスト争いが企業の経済成長を疎外している状況もあるようだ。

醸楽庵だより   1197号   白井一道

2019-09-26 11:08:15 | 随筆・小説



   徒然草二五段 『飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび、悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ』 



 「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび、悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき」。

 「世の中はなにか常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」と詠われているように飛鳥川の深い所と浅い所が常に変わっていくような世の中であることを思うと、時は移り、大きな出来事も終わり、楽しかったことや悲しかったことが行き交い合って高貴な方々が住んでおられたあたりも人の住まない野原となり、変わらぬ住まいには住む人が変わっている。庭に植えてあるもの言わぬ桃やスモモは誰と昔話をするというのか。まして見たこともない昔の大事な出来事や建物の跡ほど儚いものはない。

 京極殿(きゃうごくどの)・法成寺(ほふじやうじ)など見るこそ、志(こころざし)留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族(おほんぞう)のみ、御門(みかど)の御後見(おほんうしろみ)、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるまゝにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。

 京極殿といわれた藤原道長や道長が建てた法成寺跡などを見ると国の安泰を願ったことは分かるが世の中が大きく変わってしまったことを思うと哀れである。藤原道長が造り磨かせた品々、荘園が多く寄せられ、道長一門のみ、天皇の後見人として、世の中を治め、行く末まで安泰であってほしいと願われた時があったとしても、いずれの世にあってもこのように荒廃してしまうとお思いになることがあったであろうか。大門や金堂などは最近まで健在ではあったが、正和の頃、南門は焼け落ちた。金堂は、その後倒れたまま、再建される見通しもない。無量寿院ばかりがその形だけ取り残されている。丈六の仏さま九体が尊くも並んでおられる。行成大納言の額、兼行が書ける扉は今なお鮮やかに残っている状況が一層哀れである。法華堂なども未だ残っている。これもいつまで残っているのであろう。このように名残すらない状況は、自ずからみすぼらしい礎ばかりが残っているが、さだかに分かっている人はいない。

「されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟(おき)てんこそ、はかなかるべけれ」

 だから、どんなことについても、死んだ後の事まで考えておくことほど虚しいことはない。


 「世の中はなにか常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」『古今集』にあるこの歌は詠み人知らずと伝えられている。この歌によって「飛鳥川」、「淵瀬」と言う言葉は無常を意味する言葉になったという。
 今、日本の政治指導者たち主に与党の政治家たちは韓国を一九六〇年代の韓国と見なし、扱っているようだ。経済発展した韓国を日本の与党政治家たちは自分たちより下の国として扱っていやしないだろうか。韓国の駐日韓国大使に向かってテレビ中継をさせたまま「元外務大臣河野太郎氏は無礼です」と発言した。この尊大な態度は目下の者に対する無礼な発言以外のないものでもないと私には感じられた。河野太郎氏がそれほど偉いのだろうか。父親の河野洋平氏はもっともっと腰の低い政治家だったように思うが。韓国は昔の韓国ではなくなってきている。韓国は東アジア世界の先端を行っているのではないかと感じることがある。米国に対しても堂々と自国の主張を展開している。例えば在韓米軍の駐留経費に対しても言われたら言われたとおりに支払っているのではないようだ。日本と比べて韓国は立派だ。

醸楽庵だより   1196号   白井一道

2019-09-25 11:41:43 | 随筆・小説



    徒然草二四段  『斎宮(さいぐう)の、野宮(ののみや)におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか』



 「斎宮(さいぐう)の、野宮(ののみや)におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経(きょう)」「仏(ほとけ)」など忌みて、「なかご」「染紙(そめがみ)」など言ふなるもをかし」。

 
 「斎宮(さいぐう)、天皇の未婚の皇女が野宮(ののみや)、斎宮(さいぐう)に選ばれた内親王が伊勢に下る前に、一定期間、斎戒される仮宮におられる有様ほど優しく、興味深いこと限りない。伊勢信仰は仏教の経典やお仏さまを嫌い、お経のことを染紙(そめがみ)といい、仏さまを『なかご』などと言っているのも面白いことだ。

 「すべて、神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。もの古りたる森のけしきもたゞならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿懸けたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮」。

  すべて神社のたたづまいは捨て難く、みずみずしく美しいものはない。どことなく古びた森の雰囲気にもただならぬ重々しさしさがある。社は垣根で囲まれ、榊は木綿(ゆう)で飾られているなど、厳かでないはずがなかろう。ことに趣きのある神社は伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮の諸社である。


 21世紀になった今になっても斑鳩、法隆寺に行くと伽藍の在り方に浸っていると中国に来ているのではないかという不思議な感覚に襲われることがある。特に金堂内の暗い所に安置されている釈迦三尊像などを拝観しているとその感が深い。また回廊の色に中国的なものを感じるのだ。
 また宝物殿の百済観音を見ているとこの仏さんは日本人とかけ離れているなと眺めている時間を忘れてしまう。日本の古代社会にはまだ日本の文化が成り立っていないことを実感する。百済観音は日本文化の中から生まれた仏さんではないと感じてしまう。ただ当時の日本人は百済観音を見てひたすら拝み、国の安泰と幸福を願ったのだろうと想像する。
 薬師寺の薬師三尊像や聖観音像を拝観してもそこに日本的なものを発見することはできない。白鳳時代を代表する薬師寺の諸仏像に日本人を発見することはできない。圧倒的に中国文化の影響下に仏像が造られていることを感じる。
 天平時代を代表する諸仏像が安置されている唐招提寺の諸仏像を拝観してもそこに日本文化のようなものの形跡を発見することはできない。昔、講堂に安置されていた仏頭はヘレニズム文化の影響が表れている。『如来形立像(にょらいぎょうりゅうぞう)』を拝観した人の言葉が今も忘れられない。この仏さんの前に来るとこの場所から離れられなくなる。マイヨールの『イル・ド・フランス』を思わせると言っていた。この仏さんは当時の日本文化の中で創作されたものではない。圧倒的に中国文化の影響下にこれらの諸仏像は創作されている。飛鳥・白鳳・天平時代に創作された仏像は当時の日本で創作されたものに違いはないが、日本のものではない。
 では平安時代になると日本のものが創作されるようになるのかというと、そこに難しさのようなものがあるように感じる。確かに平安時代に国風文化が花開いたと高校時代に日本史の時間に教わったような記憶が残っているが、果たしてそうなのだろうか。確かに国風文化を代表するものとして「かな文字」がつくられた。その結果として紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』が生れたと言われているが中国から輸入した宗教文化としての仏教が日本化し、日本民衆の宗教として日本人の心を捉えているのかというとまだそうではないように感じる。『徒然草』を書いた兼好法師が生きた14世紀前半の時代になってもまだ仏教が日本化していく過程になっている。仏教が日本人の魂を捉えたのは一向宗ではなかったかと私は考えている。15世紀後半、一向宗徒が越中や加賀において根強く戦国大名と戦い抜く中で親鸞の唱えた浄土真宗の教えが蓮如の指導の下に日本民衆の魂を捉えたのではないかと考えている。
 古代日本に仏教が朝鮮から、そして中国から伝えられ、戦国時代の末期に織田信長の支配に頑強に戦った一向宗において仏教は日本人の宗教になった。

醸楽庵だより   1195号   白井一道

2019-09-24 12:41:46 | 随筆・小説



  徒然草二三段  『衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ』



 「衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ」。

 衰えた末法の世とは言うが、今でさえ、九重に造られた皇居の門構えの神々しい有様には少しも世俗化することなく、立派なものだ。

 「露台(ろだい)・朝餉(あさがれひ)・何殿(なにでん)・何門(なにもん)などは、いみじとも聞ゆべし。あやしの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)・小板敷(こいたじき)・高遣戸(たかやりど)なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設(もうけ)せよ」と言ふこそいみじけれ。夜の御殿(おとど)のをば、「かいともしとうよ」など言ふ、まためでたし。上卿(しょうけい)の、陣にて事行へるさまはさらなり、諸司の下人(しもうど)どもの、したり顔に馴れたるも、をかし。さばかり寒き夜もすがら、こゝ・かしこに睡り居たるこそをかしけれ」。

 露台(ろだい)・朝餉(あさがれひ)・何殿(なにでん)・何門(なにもん)などは、立派なものだ。庶民の家にもある格子造りの小さな窓や板敷きの廊下、高い所にある引き戸など、結構なものだ。諸卿の詰め所に夜間の灯火を準備せよと言うことはまた重要なことだ。夜の御殿にある灯火を早く灯しなさいという。また結構なことだ。上卿(しょうけい)が詰め所で公務をしている様子は更に身が引き締まる。諸役所の下役人たちの得意顔に場慣れしていることがわかるのも興味深い。さように寒い夜であるにもかかわらずここ、かしこで居眠りしていることも面白いじゃないか。

 「
「内侍所(ないしどころ)の御鈴(みすず)の音は、めでたく、優なるものなり」とぞ、徳大寺太政大臣(とくだいじのおほきおとど)は仰せられける」。

 三種の神器の一つ、八咫(やた)の鏡を安置している内侍所(ないしどころ)の女官の鳴らす御鈴(みすず)の音は美しく優雅なものだと徳大寺太政大臣(とくだいじのおほきおとど)はおっしゃっておられる。


 古代天皇制の支配体制が崩れ、武家政権に取って代わっていく時代に兼好法師は生きていた。この時代に人々の心を捉えた思想が末法思想であった。兼好法師もまた末法思想に染まっていたのかもしれない。法然を開祖とする浄土宗は末法思想に立脚し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとする称名念仏による救済を広めていた。
 現代日本もまた大きな時代の変わり目にきているようだ。それは世界的な大きな潮流のようでもある。その底には資本主義経済では、これ以上の経済発展が見込めないような状況が生れてきているようだ。
 元ハーバード大学教授スティーブン・ハイマーが次のようなことを言っているという話を聞いた。一八四八年にマルクスが発表した『共産党宣言』の中にある「ブルジュアジー」という言葉を「多国籍企業」に変えるならば、まったくそのまま『共産党宣言』は現代世界に当てはめることができるという。
 1991年にソヴィエト政権が崩壊すると社会主義理論は崩壊した。マルクス主義は間違っていたという主張がその後30年間続いて来た。しかし『資本論』にある経済恐慌論なしには現代世界の経済恐慌を正しく分析し、理解することは難しいのではないかと横浜国立大学名誉教授萩原伸次郎さんが述べていた。
 私も高校生の頃、初めて物を生産するという行為は誰かが必要としているから社会的なものであるということを学んだ。しかし生産は無政府的に行われる。需要の予測に基づいて勝手に生産されていく。この生産の社会性と無政府性の矛盾が景気変動を生み、場合によっては恐慌が起きるということを学んだ。この資本主義経済の矛盾を解明したのが『資本論』であり、その著者がマルクスであるということを知った。
 経済恐慌のようなことは起きないと言われていたが2008年、「リーマンショック」という世界的な金融恐慌が起きた。日本にも大きな影響があった。その時、よく耳にした言葉が「Too big to fail」であった。大きすぎて倒せない。公的資金を私的銀行に注入することによって危機を凌いだ。これは国民の富を強奪するものだとマルクスは言っている。

醸楽庵だより   1194号   白井一道

2019-09-23 12:12:15 | 随筆・小説



    徒然草二二段   『何事も、古き世のみぞ慕はしき』



 「何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ」。

 どのような物も昔のものほど慕わしいものはない。今の物はやたらと卑しいものになっていくようだ。昔の指物師や漆芸師が造った美しい器物の形ほど美しいものはないようだ。

 「文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数(とのもりょうにんじゅ)立て」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ、最勝講(さいしょうこう)の御聴聞所(みちょうもんじょ)なるをば「御講(ごこう)の廬(ろ)」とこそ言ふを、「講廬(こうろ)」と言ふ。口をしとぞ、古き人は仰せられし」。

 手紙の文章などは特に昔の書き損じたものに貴重なものがある。ただ話す言葉も残念なものになってきているようだ。昔は、牛車に牛をつけることを「車もたげよ」と言い、灯火の灯心を掻き立てることを「火をかかげよ」と言ったものだが、今では「もてあげよ」とか「かきあげよ」などと言う。「主殿寮人数(とのもりょうにんじゅ)立て」と言ふべきところを「松明で明るくせよ」と言い、学問に名声ある僧を迎え、五月中の五日間、清涼殿において『金光明最勝王経』を天皇が聴かれるところが御聴聞所(みちょうもんじょ)であるから「「御講(ごこう)の廬(ろ)」と言うべきところを単に「講廬(こうろ)」と言う。昔を知っている古老の方が残念なことだとおっしゃっている。

 言葉の乱れを嘆く女流作家の文章がある。その中心の一つが「ら」抜き言葉である。
 東京語では、大正の末から昭和の初めにかけて使われ始め、戦後は特によく使われるようになったという。「見られる」と言うべきことを「見れる」と言う。何か、だらしないなぁーという印象を私なども感じてしまう。若い職員と一緒に泊を伴う出張をした時など「もう寝れる時間ですか」などと聞かれると言葉を直したくなるような気持ちが起きる。
 私より幾分上の世代の職員が「ら」抜き言葉は一般化するのではないかと趣味で小説を書いている職員が言っていたのを思い出す。
 不変のように思われる言語も変化して行くものなのかもしれないが私は矯正したいと切に思うものである。
「見れる」「起きれる」「寝れる」「食べれる」「来これる」など、「~れる」の形で可能の意味を表す下一段活用の動詞に変化が起きている。「見られる(ミルの未然形ミ+助動詞ラレル)」「起きられる(オキルの未然形オキ+助動詞ラレル)」「寝られる(ネルの未然形ネ+助動詞ラレル)」「食べられる(タベルの未然形タベ+助動詞ラレル)」「来こられる(クルの未然形コ+助動詞ラレル)」などのように、「~られる」の形が本来の正しい言い方である。これらの動詞に対して「乗る」「釣る」「登る」など五段活用の動詞から生じる下一段活用の可能動詞「乗れる」「釣れる」「登れる」などの影響が可能の意味を表す下一段活用の動詞に与えた結果、変化が起きたのではないかと言われているようだ。
今までは「見る」「寝る」「来くる」など、主として語幹が一音節の動詞から「ら」抜き言葉は生じたものであろうと考えられてきたが、近年は、「どんな大学でも〈受けれる〉成績」「朝早くはなかなか〈起きれ〉ない」などのように、語幹が二音節またはそれ以上の音節の動詞にも及んできているようだ。
一四世紀に生きた吉田兼好法師の時代から現代にいたるまで言語は絶えず変化してきている。その時代、その時代の日本語の美しい言葉を綴ったものが文学のようだ。現代のわれわれが『徒然草』を読み、大変な名文なんだと私も年を経て感じられるようになった。確かに現代日本語は乱れているのかもしれないが、この乱れた現代の日本語を用いて美しい文章を編み出している文学者がいる。例えば小説『笹まくら』を書いた丸谷才一がいる。徴兵忌避し、逃げ回った男の気持ちが私の胸に染みた。こんな文章が書けるなんて凄いなと心底感じたものだ。それ以来、私は丸谷才一の読者になった。彼の食べ歩きの文章など『笹まくら』の文章と同じような印象を受けたものだった。

醸楽庵だより   1193号   白井一道

2019-09-22 11:49:28 | 随筆・小説



    徒然草二一段 『万のことは、月見るにこそ、慰むものなれ』



 「万のことは、月見るにこそ、慰むものなれ。ある人の、『月ばかり面白きものはあらじ』と言ひしに、またひとり、『露こそなほあはれなれ』と争ひしこそ、をかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん」。

 いろいろな心配事は、月見をすると慰められるものだ。ある人が、月見ほど楽しいものはないと言ったことに対して、また一人の人が露ほど趣きあるものはないと言い争いをしたことは面白い。折にふれ、その時々に興趣というものは現れてくるものだ。

 「月・花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。『げん・湘、日夜、東に流れ去る。愁人のために止まること少時もせず』といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康(けいこう)も、『山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶ山沢』と言へり。人遠く、水草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。

 月や花はさらにそうだ。「おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風」と詠われてるように風ほど、人にいろいろ気持ちを起させるものはない。岩に砕けて流れていく川の様子こそ四季を通じて美しいものはない。沅水(げんすい)や湘水(しょうすい)は日夜、東にある都、長安の方に流れ去る。流れ去っていく川の流れを愁う人の気持ちを思って留まることをしないという詩を読むことほど無常観を感じることはない。竹林の七賢人の一人、嵆康(けいこう)も山や川の流れる沢に遊び、魚や鳥を見ると心から楽しめると言っている。人里から遠く離れ、川や草の生える水辺を散策することほど、心慰むことはない。

 
 若者のグループに紛れ込み、日曜日、奥多摩の渓流に遊びに行った。酒が飲めるのかなと思って参加したが酒を飲む機会はなかった。電車を乗り継ぎ、歩いて川辺まで行った。現地に着くと自動車で来たものが大きな鍋を持ってきていた。河原の石を運び、竈を作った。里芋を洗い、皮を剥く。長ネギを切る。蒟蒻を千切る。牛肉のばら肉を切り、大鍋に入れる。川から汲んできた水を鍋に入れる。
 私は二、三人の仲間と一緒に山の中に薪を拾いに行った。竈に戻ると火を付けるところだった。河原で竈を作り、火を燃やし、鍋を煮る。ただそれだけの遊びである。
 山形出身の者が芋煮会だと言った。ただ十数人の仲間を募り、山の中の川辺でそこに吹く風に当たりながら、鍋を作り、食べるだけのために荷物を自動車の載せ、時間をかけて運び、協力して鍋を作り、食べるだけの会であった。それでもその思い出は残っている。酒を飲む会でもなかった。女性職員も参加していた。しかし調理は男が中心になって行っていた。女性職員は鍋のまわりに座り、丼によそっていた。
 山形の芋煮は醤油の味だという話をしている者から故郷の話を聞く会でもあったように思う。実にさわやかな会であったような印象が今も残っている。

醸楽庵だより   1192号   白井一道

2019-09-21 12:34:08 | 随筆・小説



    徒然草二十段  『某とかやいひし世捨人の』



 「某とかやいひし世捨人の、『この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき』と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ」。

 何某とかいう出家して山野に閑居し、仏道に精進した者が「俗世間の束縛を持たぬ者にとって、ただ空の名残だけは捨てられない」と言っていることはまったく、その通りだ。


 美しいものに人は憧れる、美しい人に人は心惹かれる。美しい酒器で酒を飲みたい。美しい歌声に包まれていたい。美しい音が鳴る中にいたい。美しい数式に心惹かれる。美しい将棋の駒組に心震える。
 「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と西行は秋の夕暮れの景色を詠んでいる。 出家した西行にとって俗世間の柵(しがらみ)を捨てているにもかかわらず、「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」の景色の美しさは胸に染みてくると西行は詠っている。
出家し、「心なき身にもあはれは知られけり」と美しい景色を見ると人間的な感情に心が満たされてしまう。
 また西行は次のような歌を詠んでいる。「嵐のみ時々窓におとづれて明けぬる空の名残をぞ思う」と。『山家集』に収録されている歌である。嵐が吹き抜けた後、空の塵がすべて強い風、嵐によって吹き飛ばされた後の空の美しさは忘れることができないものだ。美しい空は空の名残としていつまでも私の心の奥底に残っているものだ。世俗の世にいることを拒否し、仏道に精進する道を歩もうとしている者にとってもこの世の美しいものとして嵐の後の澄み切った空は捨てがたいものだ。
 「花に染む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふわが身に」。『山家集』の中にはこのような歌も詠まれている。桜の花を見ると何と美しいのかと感じてしまう。その気持ちを打ち消すことはできない。私の心に焼き付いて放すことができない。あぁー、桜の花ほど美しい花はない。世俗的な感情を捨て果ててきた思いになっていたが春になると咲く、桜の花を見ると美しいと感じてしまうこの気持ちを捨てきることができないと詠っている。
「いつか我この世の空をへだたらんあはれあはれと月を思ひて」。『山家集』に載せてある歌である。西行はまた、月を見て、美しいと感じている。私は夜空にまたたく月を見て美しいと思っているがいつかこの世の空に昇る月を真実美しいと感じているが、その気持ちを捨て去ろうと思っていると。
 西行は自然界の美しさに責められて責められてその苦しみにもがいていた。その苦しみが歌となって現れ出た。言葉に表現することによって西行はその苦しみからの解放を願っていた。西行にとって歌を詠むことは解脱への道でもあり、修行でもあった。
 兼好法師は世捨て人の修行の苦しみを思ってこの文章を書いた。