徒然草114段『今出川の大殿』
原文
今出川(いまでがわ)の大殿(おおいとの)、嵯峨へおはしけるに、有栖川(ありすがわ)のわたりに、水の流れたる所にて、賽王丸(さいわうまる)、御牛を追ひたりければ、あがきの水、前板までさゝとかゝりけるを、為則、御車のしりに候ひけるが、「希有の童かな。かゝる所にて御牛をば追ふものか」と言ひたりければ、大殿、御気色悪しくなりて、「おのれ、車やらん事、賽王丸にまさりてえ知らじ。希有の男なり」とて、御車に頭を打ち当てられにけり。この高名の賽王丸は、太秦殿の男、料の御牛飼ぞかし。
現代語訳
今出川(いまでがわ)の大殿(おおいとの)と呼ばれた太政大臣西園寺公相(だじょうだいじんさいおんじきんすけ)が嵯峨へおいでになられた時、有栖川のわたり辺りの水の流れている所で、牛飼いの賽王丸(さいわうまる)が牛を追っていたので、牛の跳ね飛ばした水が前板にまでざざーっとかかったのを従者の為則は牛車の後ろについていたので「珍しい小僧だ。そのような所で牛を追うのか」と言ったので大殿(おおいとの)は気分を害して「おまえ、牛車の御し方、賽王丸より勝っているとでも思っているのか。珍しい男だ」と、車に頭を大殿(おおいとの)は打ち付けてしまわれた。この名だたる賽王丸は太秦殿の下男、後嵯峨院の牛飼いだ。
原文
この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと付けられけり。
現代語訳
太秦殿に仕えた女房の名前、一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと付けられていた。
人間が人間でなかった時代と社会 白井一道
兼好法師が生きた社会では牛飼いは牛飼い以外の何ものでもなかった。一年中どこに行っても牛飼いは牛飼いでしかなかった。その姿・格好によって当時の、その地域に暮らす人であれば、誰でもが牛飼いは牛飼いだと分かった。人間が姿・格好によって身分や職業が明確に明らかになっている社会であった。そういう点においては日本の中世社会もヨーロッパの中世社会も変わることはない。
ホイジンガの著書『中世の秋』第一章は次のような言葉で始まっている。「はげしい生活の基調」
「世界がまだ若く、五世紀ほどもまえのころには、人生の出来事は、いまよりももっとくっきりとしたかたちをみせていた。悲しみと喜びのあいだの、幸と不幸のあいだのへだたりは、わたしたちの場合よりも大きかったようだ。すべて、ひとの体験には、喜び悲しむ子供の心にいまなおうかがえる、あの直接性、絶対性が、まだ失われてはいなかった。」
「すべてが、多彩なかたちをとり、たえまない対照をみせて、ひとの心にのしかかる。それゆえに、日常生活はちくちくさすような情熱の暗示に満たされ、心の動きは、あるいは野放図な喜び、むごい残忍さ、また静かな心のなごみへと移り変わる。このような不安定な気分のうちに、中世都市の生活はゆれうごいていたのである。」堀越孝一訳より 中央公論社
子供に見られる単純さ、残酷さ、明暗の明確さのようなものが赤裸々に表現される社会であった。日本の中世社会も同じような社会であった。太政大臣になる貴族と言われる人々と牛飼いをする人々は生まれが違っていた。この違いに疑問を抱く人間が一人もいないのが当然である社会であった。
貴族に仕える女房たちも貴族に生まれた女性とは差別された存在であった。そのようなことに疑問を抱くことはなかった。そのような社会の一面を兼好法師はこの段で書いている。