醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1478号   白井一道

2020-07-31 12:51:41 | 随筆・小説
 


  資本主義経済はいかに生まれて来たのか 9



 イギリスで綿布生産が始まった

 18世紀までヨーロッパの人々の基本的な衣類の素材は毛織物であった。イギリスやアルプス以北のドイツやフランスは寒冷な地域であった。この寒い地域に住む人々の衣類は暖かい毛織物であった。ジョン・ケイが発明した飛び杼も毛織物を織る道具の一種として発明された機器であった。
 17世紀のイギリスは、身分制社会であった。一般庶民は貴族が身に着けるような服を身にまとうことが許されなかった。服装によって身分の違いが一目瞭然に分かる社会であった。貴族の服装はさまざまな毛織物の布地をふんだんに使ったファッション性の豊かなものであったが、庶民は毛織物や麻の布でできたシンプルな服をボロボロになるまで着まわしていた。平民の商工業者が富を得ても貴族の服装を真似することすら許されなかった。
清教徒革命から名誉革命にいたる一連の市民革命の結果、貴族の服を作っていた職人たちが職を失い、市民の住む街中に洋服屋を開店した。富を得た市民たちは貴族の服装を真似たものを身に着けるようになった。特に市民に人気を得た服がインドから輸入されるようになったキャラコで作った服であった。
キャラコとは、インド産の綿布のことである。それまでの服装によく使われていた毛織物に比べて安価で耐久性も高く、洗濯もしやすいキャラコは、庶民にとって理想的な布であった。さらにインド独特の染色技法によるカラーとデザインは鮮やかで、民衆の心を奪うには十分すぎるほど魅力的でした。このキャラコの普及によって、民衆の服装は劇的に変わる。それはまさに従来の服飾概念を「解体」し、ファッション革命となるような衝撃的な出来事であった。
 この市民の味方ともいえるキャラコに対して、イギリス国内では反発も起こる。従来の毛織物業者にしてみれば、キャラコは強力な競合相手であった。
キャラコ輸入の反対デモなどが行われ社会問題になった結果、1700年にキャラコ輸入禁止法、1720年にはキャラコ使用禁止法が制定されるが、しかし、このときにはすでに後戻りできないほど、キャラコはイギリス民衆に深く根付いていた。キャラコの輸入が国内の製造業者を圧迫するなら、国内でより安く大量に生産すればいい。そう考えた人々が、キャラコの国産化に向けて綿織物の生産技術を研究し始める。
 1733年にジョン・ケイは、織物の横糸を通すときに用いる道具であるシャトルを飛ばすことで効率化させた「飛び杼(とびひ)」を発明した。手でシャトルを動かす必要がなくなり、よりスピーディに布を織ることができるようになった。この発明を皮切りに、織り機や紡績機の技術が格段に進んでいく。
 昔から、植物の繊維や動物の毛から糸を作り、布を作るという作業が行われてきた。それら天然繊維は、採取したまま布を作れるほど長くは無く、太くも無い。そのため、人々は天然繊維を撚って(=細長くねじって)糸にした。この作業が紡績である。後に糸車を使うようになった。
 1767年、ジェームズ・ハーグリーブスは複数の糸を同時に撚ることができる装置、ジェニー紡績機を発明した。効率は大きく向上し、細い糸を作るのにも適した装置だったが、太い糸を作るのには不向きだった。また、ジェニー紡績機は手動であり、仕組みも手作業の手順をそのまま装置化したようなものだった。18世紀中頃、リチャード・アークライトは、馬力を利用した馬力紡績機を発明し、次いで馬力カード機を使って毛の方向を揃える仕組みを開発した。これは動力源を人力から変えた画期的なもので、設置費用も安かった。カード機のアイディアは優れていたが、紡績部分が複数の滑車を使って糸を強く引っ張る仕組みだったので、太い糸を作ることはできたが細い糸は切れてしまい作れなかった。当時の織機は強い縦糸と細い横糸の両方が必要であり、ジェニー紡績機、アークライトの紡績機共に不完全だった。また、アークライトは1766年には水車を動力とする水力紡績機を作った。
この織物の技術発達は多方面にも大きな影響を及ぼし、社会全体が工業化への道へ進んでいく。19世紀に入るとイギリス国産の綿織物は、従来の毛織物を上回り重要な輸出品にすらなっていました。
このようにキャラコ国産化への動きが、織物生産技術の進歩と工業化に繋がり、イギリス産業革命の「創造」へ向けた大きな原動力になった。
インドからイギリスに輸入されたキャラコは、従来の服飾文化を「解体」し、一般庶民にファッション革命を起こした。その服装の変化や民衆の欲求が織物技術の向上を促し、産業革命になっていく。

醸楽庵だより   1477号   白井一道

2020-07-30 15:44:29 | 随筆・小説


 資本主義経済はいかに生まれて来たのか 8 
 


 古くて新しい問題・機械破壊運動

 1733年毛織の布地を織る横糸を通す機器「飛び杼」が発明されると手織りの職人がケイの発明で職を失うことを恐れ、国王にジョン・ケイが発明した機器を毛織物生産事業に利用しないよう請願したという。
 しかし毛織物を織る手間が一人分減らすことができ、作業能率を4倍に上げることが実現した。ジョン・ケイは飛び杼を発明しても大きな富を得ることなく、生涯を終えた。飛び杼の発明によって被害を受ける人々からの妨害があったからであろう。ジョン・ケイの生涯は不遇なものではあったが、産業革命の始まりを告げる「飛び杼」の発明は世界史的な出来事として全世界の人々の記憶に残る出来事であった。
 産業革命の始まりは同時に機械破壊運動(ラッダイト運動)の始まりでもあった。この問題は極めて現代社会の問題でもある。AIの普及が職を奪う。このような問題がある。
 AIは人間の仕事を奪うのか?  朝岡 崇史
 「1990年代以降、IT技術の導入がもたらす技術的失業を懸念し、テクノロジーの発達と普及に対して反対を唱える「ネオ・ラッダイト運動」が起き、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるデール・モーテンセンとクリストファー・ピサリデスのような主流派の著名経済学者によって研究されるようになった。
「ネオ・ラッダイト運動」自体は「銀行にATMが導入されると窓口係が職を失う」「Amazonが普及すると街中の書店は廃業に追い込まれる」といった近視眼的なものだが、「シンギュラリティ」への道筋が明確になっていくに連れて、今後、似たような形で技術的失業に対するノイズが上がっていく可能性がないとは言えないだろう。
 デジタル化の急速な進展により、新聞や雑誌などのアナログのマスメディアが衰退する一方、インターネット関連のメディア(ウエブマガジン、企業のオウンドメディア、SNS、ネット通販サイトなど)が誕生し、ウエブマガジンの記者、ITエンジニア、ウエブデザイナー、ウエブ解析士など次々に新しい雇用を創出している。
 この変化は今後の企業経営者の取るべき戦略、つまり「ヒト・モノ・カネ」のリソース配分をどう考えるかという点で、具体的な方向性を示唆していると言えるだろう。
 それは、とりもなおさず、お客さまの気持ちの変化に寄り添う形で、コンピュータと人間との役割分担を考えることである。
 AIの導入で余剰になった人材リソースや資金をそこに重点投入して、お客さまとの接点で機能させて行くことが必要だ。
 銀行の窓口係、保険の営業職員や代理店の事務職員、携帯電話のショップの店員などはAIに仕事を奪われるのではなく、AIの導入によりその立ち位置がよりお客さまに近い場所へと変わり、AIができない「人間ならではの発想や価値の提案」をお客さま主語で専門的に担うことが求められるはずだ。
『白い巨塔』で描かれるアナログな医療の現場
「さすがに君だ、たった2枚のフィルムで、こんな早期の癌を発見できるとは、君の読影力の高さには頭が下がるよ」
 素直に感服すると、財前の顔に得意げな笑いがうかんだ。
「うん、まあ、これが僕の誇るに足るところだ、噴門癌の微妙な陰影の読影は、いうなれば科学ではなく、一種の芸術なんだよ、どこがどうだとか、どういう陰影はどう読影するかなどという定義は、あってないようなもので、何回も自分の目で見ているうちに会得し、解って来るものだよ、但し、それにはもちろん、非常に優れた勘と鋭い洞察力が必要だがね」 (『白い巨塔』 新潮社 山崎豊子)
 『白い巨塔』で描かれる財前教授と里見助教授のこのやり取りには、最先端の大学病院で勤務する医師にとってさえ、レントゲン写真の読影が科学ではなく芸術の領域のスキルであることを如実に語っている。」  
 資本主義経済は産業革命によって成立する。なぜなら産業資本が成立することによって資本主義経済は確立するからである。重商主義経済は新しい産業を生み出すことがなかった。アジアやアメリカからヨーロッパでは決して手にすることのできない特産物を持ち帰り、ヨーロッパで売りさばき、富を得ただけのことである。だからポルトガルもスペイン・オランダも一時期、日の沈むことのない帝国を築くことはできたが、継続して繁栄することはできなかった。イギリスのみが大英帝国を築いた。

醸楽庵だより   1476号   白井一道

2020-07-29 12:06:37 | 随筆・小説



 資本主義経済はいかに生まれて来たのか7



 重商主義時代
 冨とは金銀、貨幣の事である。金銀、貨幣を獲得するために積極的に国内で生産した物を輸出し、金銀、貨幣を獲得するべきだという考え方が重商主義である。重商主義の考えによって経済運営した会社がイギリス東インド会社である。産業革命以前の絶対王政期の経済政策が重商主義である。重商主義の代表的な思想家がトマス・マンであろう。「わが国には財宝を産出する鉱山がないのだから、外国貿易以外に財宝を獲得する手段がないことは思慮ある人なら誰も否定しないであろう」という言葉を残している。イギリスの重商主義には、・重金主義、・貿易差額主義という2つの考え方の発展がある。「重金主義」というのは、金銀を獲得する事が国力を増強する手段だと考えられた。国内の鉱山開発や海外からの金銀を獲得することであった。国内の金銀を外国に流失させない事も重要視した。「貿易差額主義」というのは輸入よりも輸出を多くしてその差額で金銀を獲得しようとする政策である。そのためには国際競争で優位を持てる産業を国内保護して輸出を増加させ。株式会社の起源となったオランダ東インド会社の係官トマス・マンが貿易差額主義を主張した。
 大航海時代の主役だったスペインやポルトガルが重金主義にもとづく政策を採用したのに対し、出遅れたイギリスで主流となっていたのが、重商主義のなかの貿易差額主義です。1648年にオランダが独立すると、イギリスは貿易面でオランダにも圧倒されるようになります。そこでこの状況を打破するために、1651年に「航海法」が成立。イギリスとその植民地への輸入品は、イギリス船、またはヨーロッパであれば現地の船で輸送するよう制限をしたのです。これによって、中継貿易を担っていたオランダを排除した。1652年、航海法に反発したオランダとの間に「第一次英蘭戦争」が勃発した。イギリスはこれに勝利し、貿易を通じて富を蓄積していく。「イギリス商業革命」と呼ばれる大きな成長へと繋がり、帝国の拡大に寄与した。
 フランスにおける重商主義の担い手は、ルイ144世の側近として財務総監を20年以上務めたジャン・バティスト・コルベールです。このことから、フランスの重商主義を「コルベール主義」ともいう。
フランスの財政を再建するために、国内の産業を保護、育成し、輸出を奨励しました。具体的には、中心産業だった毛織物や絹織物、絨毯、ゴブラン織などの産業を保護。また国立工場を設立して兵器やガラス、レース、陶器など新しい産業の育成に努めた。
さらに、フランス東インド会社、フランス西インド会社、ルヴァン会社、セネガル会社などを相次いで設立。市場の開拓と植民政策を推進し、新たな植民地を開発した。コルベールの重商主義によって蓄積された富は、王立科学アカデミーの設立やヴェルサイユ宮殿の建設費にあてられ、フランスの全盛期を支えた。
 商工業者たちは「外国製品が入ってくると、自分たちの作った物が売れなくなる」と、輸入品を規制する政策を求める。これを「国内産業の保護政策」という。しかし、そうは言っても国内のマーケットにも限界がある。国外にマーケットを求めるようになったのが海外の植民地獲得だ。17世紀の後半移行、イングランドやフランスがこぞって海外に植民地を求めるようになっていく。すると、これまでなら考えられなかったことだけれど、アジア、北アメリカやカリブ海などを主戦場に、イングランドやフランスが植民地の取り合いのために戦争を繰り返す時代がやってくる。かつての百年戦争を第一次と見て、この時代の英仏間の戦争は「第二次」英仏百年戦争と呼ぶことがある。第二次英仏百年戦争は世界的な規模の戦争になった。北アメリカ、インド、ヨーロッパで英仏は戦った。
 1757年、インドのベンガル地方で起こった、クライヴ指揮のイギリス東インド会社軍とフランス東インド会社軍の支援を受けたベンガル太守軍との戦争。このとき、イギリス・フランス両国は、南インドでも第3次カーナティック戦争を戦い、ヨーロッパでも七年戦争で対立関係にあり、アメリカ新大陸ではフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)を戦っていた。つまり、イギリスとフランスの英仏植民地戦争は、世界的な規模で展開されていたということになる。
 ベンガル地方は豊かな農業生産力を有し、イギリス東インド会社はその地への進出を狙い、フランスの進出に備えるためと称して太守の許可無くカルカッタの要塞を増強した。ベンガル太守は工事中止を命じ、フランス軍の援助を求めた。英仏はプラッシーで戦い、英軍か勝利し、フランスは撤退した。

醸楽庵だより   1475号   白井一道

2020-07-27 12:33:55 | 随筆・小説


   
   資本主義経済はいかに生まれて来たのか6



 商業革命
 16世紀、大航海時代はヨーロッパ経済の中心を地中海岸から大西洋岸に換えた。
 大航海時代にポルトガルがインド航路を発見し、モルッカ諸島の香辛料貿易を独占し、繁栄した。スペインはアメリカ新大陸を征服し、インディオをほぼ絶滅させ、大量の銀を奪いヨーロッパに銀をもたらし田結果、貿易・商業のありかたのが大きく変わった。この大きな変化を商業革命と言われている。その要点は、 一つ、商業圏が世界的規模に拡大し、アジア・新大陸におよんだ。二つ、世界経済の中心地域が、従来の地中海周辺から、大西洋沿岸に移った。三つ、地中海交易で繁栄した高利貸し的な金融業者が没落した結果、ベェニスやジェノア、フィレンツェが衰退した。その結果新しい金融システムが形成された。四つ、.銀の大量流通によって物価が上昇し、地代に依存する領主階級の没落を決定的にした。
ヴェネツィアやフィレンツェに変わってリスボンとアントウェルペンが繁栄するようになった。ヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達(1498年)、カブラルによる香辛料貿易の開始(1501年)によって、インドからの香辛料が直接リスボンに運ばれ、そこからアントウェルペンを経てヨーロッパで商品化されるようになったことによって、従来の東方貿易の利益を独占していた北イタリアのヴェネツィアなどの商業都市国家の繁栄は終わった。同時に北イタリアと結びついていた、内陸の南ドイツやシャンパーニュ大市などの地位も低下し、かわってヨーロッパ経済の新たな中心地はリスボンとアントウェルペンなどの大西洋岸に面した港市に移動した。また、中世以来のフッガー家やメディチ家など旧来型の金融財閥は没落した。このような変化は政治的には、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の支配のもとで展開された。
 しかし、ポルトガルとスペインは、この段階では経済の発展に対して国家機構が十分に対応することができず、資本を蓄積することはなかったため、17世紀にはいると両国は没落し、かわって主権国家としての体制をつくりあげたオランダとイギリスが台頭し、世界経済の中心もアムステルダムとロンドンに移り、リスボン、アントウェルペンは衰退する。
 イギリスにおける生活革命
 17~18世紀のイギリスでは新大陸やインド、東南アジア、アフリカなどから綿織物、コーヒー、茶、砂糖などの物資がもたらされることによって衣服、食事、住居、その他生活全般が大きく変わった。
 17世紀のイギリスは、ピューリタン革命を経て名誉革命に至るイギリス革命によって政治体制が変革され、ジェントリと言われる中間層の経済力が高まっていった。並行して英蘭戦争や英仏植民地戦争で海外発展をとげ、海外に多くの植民地を支配するようになった。特にイギリス東インド会社によるアジア貿易と、イギリスとアフリカ・新大陸を結ぶ三角貿易によって、イギリスには急速に新しい物資が商品としてもたらされるようになり、人々を生活の面から変化させていった。
 特にインドからもたらされた綿織物は急速に普及し、国内でもその生産が始まり、従来の毛織物中心のイギリス産業のあり方と共に、その服装を一変させた。また西インド諸島などからもたらされたタバコ・コーヒー・砂糖はイギリス人の嗜好品の大きな部分を占めることとなり、ロンドンなどの都市にはコーヒーハウスが出現し、あらたな情報交換や商取引の場となっていった。また、中国からもたらされた茶も急速に庶民に広がり、インドやスリランカでも栽培されるようになり、新たな紅茶の文化が形成された。イギリスにはドイツのビールやフランスのワインに匹敵する国民的飲み物がなかった。イギリス民衆の飲み物として紅茶が定着していった。中でも「誇示的消費」と『有閑階級の理論』を書いたソースタイン=ウェブレンが述べたような消費者がイギリスに出現してきた。それらの人々の嗜好品の一つが煙草である。ラス=カサスの『インディアス史』では、「この草は乾いた葉につつんであって、紙鉄砲のような形に作られており、その一端に火をつけ、反対の端を吸って、息と共にその煙を吸うと、肉体が眠ったようになり、ほとんど酔っぱらったようになる。それで疲れが治るのだという。この紙鉄砲を、彼らはタバコと呼んでいる」と述べている。タバコの原産は南米アンデス山脈である。ヨーロッパ人渡来以前から先住民が用いていた。ニコチンが喫煙や噛みタバコや嗅ぎタバコにより体内に吸収される。紙巻タバコがもっとも吸収速度が速い。、人類は「禁断の快楽」に身を委ねることになる。

醸楽庵だより   1474号   白井一道

2020-07-26 14:44:59 | 随筆・小説



  資本主義経済はいかに生まれて来たのか5 
 


 1623年モルッカ諸島の一つ、セラム島アンボイナでイギリス東インド会社はオランダ東インド会社に敗北し、モルッカ諸島からインドへと向かった。セラム島は香辛料の中の丁子とナツメグの唯一の産地として重要であった。丁子はハムなどの保存食造りに必要不可欠なものであった。丁子はまたクローブとも言われている。スパイスとしては、このクローブのつぼみを乾燥させたものである。クローブのつぼみが「釘」のような形をしていることから、フランス語の釘「Clou」と同じ言葉を語源とする英語「Clove」と呼ばれるようになった。中国語でも、クローブの見た目から、釘の意味を持つ「丁」が当てられ、「丁子(ちょうじ)」や「丁香(ちょうこう)」などと呼ばれている。日本では、中国式の丁子や丁香、西洋式のクローブなどが用いられている。クローブは紀元前から各地で利用されてきた。インドの古代医術アーユルヴェーダでも消化器官の治療に使われている。ヨーロッパにも2世紀頃には伝わり始め、6世紀頃には貴族たちの間に広まった。日本の正倉院の帳外品のリストにも丁香(クローブ)の名が載っているが、仏教と深く関わっていることから、やはり料理用ではなく、お香や邪気払いとして使われたのではないかと推測されている。その後、クローブがスパイスとしての価値が高まったのは大航海時代である。16世紀には長らく不明とされていた原産地を特定したポルトガル人によって、クローブ取引は管理されていた。その後、世界一周を成し遂げたマゼラン隊のビクトリア号がマゼラン死後に香料諸島に到達し、大量のクローブを積みスペインに持ち帰り、高価な香料として益々需要は高まった。マゼラン隊には、もう一方のトリニダード号がクローブを積みすぎて浸水し、修理をしている間にポルトガルに捕まった逸話が残っている。17世紀に入るとクローブの生産管理はオランダ人の手に移り、18世紀の終わり頃にフランスがモーリシャスなどでクローブ栽培を盛んに行うようになり、各地で大農園を開いた。現在でも、モルッカ諸島のあるインドネシアがクローブの最大生産国である。『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』に登場する船乗りシンドバッドがいる。シンドバッドは単に船乗りということではなく、インドからクローブなどの香辛料を運ぶ交易商人だった。
 17世紀のヨーロッパで富を築く物産は香辛料だった。この香辛料をヨーロッパ各国は奪い合った。その勝利者であったのはオランダであったが、産業革命後イギリスに追い抜かれ、イギリスの支配下に甘んじるようになる。その分水嶺にある出来事が1623年のアンボイナ事件である。オランダ商館は、イギリス商人が日本人傭兵らを利用してアンボイナのオランダ商館を襲撃しようとしているという容疑で、島内のイギリス人、日本人、ポルトガル人を捕らえ、拷問の末に自白させ、20名(イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名)を処刑するという事件が起こった。余談になるが1623年というと日本では江戸初期である。この時、日本人傭兵がアンボイナに居たことに驚いた経験が高校生の頃ある。日本の戦国時代の大名たちは敗戦国の敗残兵を捕まえ、東南アジアの国々に奴隷として販売していた歴史があることを後に知った。そうした歴史の上に江戸幕府が成立した時に出た多くの浪人武士たちの一部が東南アジアの国々の傭兵になった。日本国内に居場所を失った人々が東南アジアの国々に流れていった歴史が日本にはあるようだ。この歴史は戦前の日本にもあった。「カラユキさん」である。
からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ぴんぷ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際的に人身売買に対する批判が高まり、日本国内でも彼女らの存在は「国家の恥」として非難されるようになった。英領マラヤの日本領事館は1920年に日本人娼婦の追放を宣言し、やがて海外における日本人娼館は姿を消していった。からゆきさんの多くは日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。
 世界の歴史とは強者に苦しめられる弱者の歴史のようである。その歴史はまた強者と弱者とが少しづつ対等になっていく歴史でもあるようだ。17世紀の東南アジアではオランダが覇権国として君臨したが長く続くことがなく、イギリスに追い抜かれ、世界史の舞台からオランダは退いていく。こうして強者であったものが弱くなり、歴史から消えていく。イギリスもまたアジア全域から退場していく。

醸楽庵だより   1473号   白井一道

2020-07-25 12:45:01 | 随筆・小説


 
 資本主義経済はいかに生まれて来たのか4



 イギリスの植民地獲得を担ったのはイギリス東インド会社である。東インドとは現在の南アジアのインドではなく、喜望峰から東の東南アジア、中国・日本までを意味していた。西インドが南アメリカ、カリブ海地域である。東インド会社とは国王の作った国営会社ではなく、商人が組織した会社であり、国王の特許状によって貿易独占権を持っていた。会社の目的は香辛料などのヨーロッパでは手に入れることのできない希少価値のあるものを獲得することが目的であり、当初は領土的侵略をすることではなかった。
 1600年、ロンドンの商人がインド以西のアジア各地との貿易を独占するため、エリザベス1世の特許を得て設立した。1601年からアジア貿易を開始したが1航海ごとに資金を集め、東南アジアの特産品、香辛料を獲得し、販売した富を出資者に分配した。
 イギリス絶対王政の最盛期、テューダー朝のエリザベス1世は、1600年12月、正式に「イギリス東インド会社」、つまり「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総裁とその会社」を法人と認める特許状を下付した。最初の東インド会社船4隻がロンドンを発ったのは1601年3月であった。500人以上が乗り組み、大砲を110門備えた武装船団である。翌年10月にスマトラのアチェに到着、さらにジャワ島のバンテンに立ち寄り、マラッカ海峡ではポルトガル船を襲い、積荷の胡椒などを略奪、1603年9月に無事イギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。
 イギリス東インド会社は、国王から貿易の特権を与えられた特許会社であり、それ以後、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデンといった西ヨーロッパ諸国が競って設立した東インド会社の最初のものである。その手本となったのは、すでに存在していたロンドン商人による地中海での東方貿易のためのレヴァント会社であった。それは一航海ごとに資金(株)を集め、船が帰国した後にその輸入品またはその販売代金を、投資額に比例して利益を分配するという株式会社の形態を採っていた。しかし、航海ごとに利益は分配されたため、恒常的・組織的な株式会社としては不十分なものであった。イギリスより遅れたが1602年に発足したオランダ東インド会社は、1回の航海ごとではなく、永続的に資金を集め、組織的な会社を組織し、利益を配当する形式をとったので、実質的な最初の株式会社と言うことができ、イギリスの東インド会社はその競争では後れをとることになる。
 モルッカ諸島は香料諸島とも言われ、香辛料の中の丁子とナツメグの唯一の産地として重要だった。1511年にマラッカを占領して東南アジアに進出したポルトガルがこの地に進出したが、次いでスペインのマゼラン艦隊が西回りで太平洋を横断してこの地をめざし、両国がこの地で争うようになった。初めはポルトガルが優位に立ってその香辛料を独占していたが、17世紀にはネーデルラント連邦共和国(オランダ)の東インド会社が進出してポルトガル勢力を駆逐し、アンボイナ島に要塞を築いた。それに対してやや遅れて進出してきたイギリスのイギリス東インド会社が、モルッカの香料貿易に割りこんできた。両国の東インド会社が激しく争ったが、本国ではその対立を回避しようとして、1619年に両社を合同させ、共同で経営させることを決定した。そのため、オランダ東インド会社のアンボイナ要塞の一部にイギリスも商館を設けることになった。
 本国では両社の合同は合意されたが、現地では依然としてオランダ人、イギリス人の対立が続いており、両社は対抗心を燃やしていた。そんなとき、1623年にオランダ商館は、イギリス商人が日本人傭兵らを利用してアンボイナのオランダ商館を襲撃しようとしているという容疑で、島内のイギリス人、日本人、ポルトガル人を捕らえ、拷問の末に自白させ、20名(イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名)を処刑するという事件が起こった。イギリス人と日本人の共謀した襲撃計画とは事実ではなかったらしく、オランダがイギリス勢力を排除し、モルッカの香辛料の独占をねらったものと考えられている。
 オランダのもくろみどおり、イギリスは事件に反撃することができず、東南アジアでの香辛料への進出をあきらめ、その後はインド方面への植民地進出をはかることとなる。この事件はイギリス国内の世論を刺激し、後の英蘭戦争の一因ともなった。
 重商主義経済政策による東南アジアの香辛料獲得にイギリスは敗北し、インドへの領土的侵略をする。

醸楽庵だより   1472号   白井一道

2020-07-24 12:31:04 | 随筆・小説



  資本主義経済はいかに生まれて来たのか3



 古代ローマの市民たちは中国人女性が紡いだ絹のドレスに魅了されたが、イギリス人たちはインド人女性がその指先でせっせと300番もの細い糸を早朝の湿気の中、手で紡いだ木綿のドレスの美しさに魅了された。マルクスは資本論で書いている。英国帝国主義者たちは、インド手紡ぎ職人の白骨でインド高原を白く染めたと。アフリカ奴隷貿易に使用されていたインドダッカモスリンに替わって、英国産業革命は機械製綿製品を奴隷買収商品として活用、リバプール港に歴史的繁栄をもたらした。
 インド、西アフリカを衰退・貧困化することによってイギリスに繁栄をもたらした。
 イギリス絶対主義王朝の全盛時代の女王エリザベス1世に「わたしの海賊」とまで言われナイトの称号も与えられた国家の英雄が「悪魔の権化」と言われた海賊であり、イギリス海軍提督でもあったフランシス・ドレイクである。彼はまたイギリス人として最初に世界一周を実現した人物としても知られている。人類の歴史上2番目の世界一周達成者は海賊ではあったがイギリスの貴族でもあった。
 フランシス・ドレイクには奴隷貿易で莫大な利益をあげたジョン・ホーキンスと言う親戚がいた。幼いころから水夫として働いていたドレイクは1567年、親戚のホーキンスに同行し10隻の船で奴隷貿易の旅に出発した。ところが航海の途中、海上で味方を装ったスペイン船の奇襲を受け、命からがら逃げ出せたのはたったの2隻で残りの船は沈められてしまったが、その2隻のうちの1隻がドレイクの船だった。20歳代の半ばだった若いドレイクにとってこの出来事は衝撃的で、この時の体験がスペインへの激しい敵対心を生み、スペイン船に対する残虐な掠奪行為をさせたのではないかと言われている。
1570年になると彼は西インド諸島でスペインの船やスペイン人の住む村を次々と襲い始めた。その後、サンブラス湾を根城に定め、カリブ海で海賊行為を繰り返し海賊として名前を上げていくが、そんな彼に転機が訪れる。当時イギリスは新興国で、海の王者スペインに対しては国を上げて対抗意識をもやしており、スペイン船やスペインの村を襲って蓄えた大量の財宝を持ってイギリスに帰還した彼は、エリザベス女王におおいに気にいられ女王専属の海賊となった。1577年エリザベス女王の許可を得て5隻の船団を組んで世界一周の旅に出た。出発当初は船員達には世界一周の事を伝えておらず、海賊行為のための出航と思っていた船員達も南米マゼラン海峡のあたりまで来るとさすがに船員たちにも不安をおぼえ始め不満も募ってくる。やがて反逆を企てる部下も出はじめるが、ドレイクは毅然とした態度でその部下を処刑し、先に進む強い意志を見せつけた。こうしてドレイクは南米西海岸の村々を襲撃しつつ北上し、ペルー付近ではスペインの大型帆船を襲って大量の宝石と18万ポンド(現在の価値で50億円以上)の金銀を手に入れる事にも成功した。
その後ドレイクは太平洋を横断し、フィリピン沖を通過しアフリカ喜望峰を廻って北上しイギリスのプリマスへと寄港し、1580年9月、ドレイクによる世界一周は達成された。ドレイクは海賊行為を繰り返しながらの航海で莫大な財宝を手にしていたが、それに加えて東南アジアでは丁字という香料を大量に仕入れて来たので、ドレイクが持っていた財産総額は60万ポンドを超えていた。ドレイクの船に投資した人達への配当はなんと4700%だった。一説には当時のイギリスの国庫金額を上回る額だったといわれている。とくに一番の出資者だったエリザベス女王は30万ポンドの配当金がはいり、女王はドレイクに「ナイト」の称号を与え「私の海賊」と言ってドレイクをねぎらった。
 一方、ドレイクによって莫大な被害を受けていたスペインはイギリスにドレイクに対する処分と損害賠償をたびたび求めたが、女王がこれに従う事は無く、その後も両国は互いに海賊行為の応酬を続けることになる。ドレイクもイギリスの主力としてカリブ海を舞台に次々にスペイン船を襲撃し、スペインの無敵艦隊をも撃破し、イギリスに多大なる利益をもたらした彼はついにイギリス海軍のトップにまでのぼりつめた。このころドレイクがスペインから奪った金銀は後にかの有名な「東インド会社」の資金に繋がって行く事になる。つまり、海賊だったドレイクがイギリスの植民地政策と世界支配の根幹を作ったと言っても過言ではないのだ。
 1600年植民地経営をする「東インド会社」をイギリスは設置する。17世紀のヨーッロッバ人にとって最も注目を集めた物というとそれは香辛料であった。この香辛料獲得に敗北したイギリスはインドに進出し、インドを植民地化していくことになる。






醸楽庵だより   1471号   白井一道

2020-07-23 13:03:25 | 随筆・小説


  
   資本主義経済はいかに生まれて来たのか2



 アフリカ黒人奴隷貿易が生んだ巨大な富が資本主義経済を育んだ。リヴァプールが黒人奴隷貿易で栄えた港街である。
 「大西洋三角貿易のお蔭で、18世紀のヨーロッパには二つの新しい港湾都市が彗星の如く台頭した。すなわち、イギリスのリヴァプールとフランスのナントである。17世紀にすでに成長を開始していたブリストルやボルドーも、この貿易の拡大に伴っていっそう発展した。リヴァプールの最初の奴隷貿易船は、1709年にアフリカに向かった30トンの小型船であった。1783年になるとこの港は、奴隷貿易のために85隻、1万2294トンの船を保有するに至った。1709年から1783年までに、延べ2249隻、24万657トンの船がリヴァプールからアフリカに赴いた。年平均にすれば30隻、3200トンである。全船舶に対する奴隷船の比率は------。1771年には3隻に1隻が奴隷貿易船となった。1752年には88隻のリヴァプール船がアフリカから運び出した奴隷は2万4730人を数えた。
 リヴァプールが1770年にアフリカへ輸出した商品は、豆類、真鍮、ビール、繊維品、銅、ロウソク、椅子、サイダー、索具、陶器、火薬、ガラス、小間物類、鉄、船、双眼鏡、しろめ、パイプ、紙、ストッキング、銀、砂糖、食塩、やかん。まるでイギリス物産の一覧表の感がある。当時、リヴァプール市民の人口に膾炙した常套句にこんなのがあった。すなわち、わが町の大通りを区切るのはアフリカ人の奴隷をつないだ鉄鎖、家々の壁に塗り込められたのは奴隷の血潮、というのである。実際、1783年までにリヴァプールは、商業の分野では世界一有名なというか不名誉な、というかは立場の問題だが都市のひとつとなった。赤レンガ造りの同市の税関が採用しているニグロの頭部を象った紋章こそは、このリヴァプールが何を踏み台として発展したかを無言のうちに、しかしきわめて雄弁に物語っている。エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 「資本主義と奴隷制」より
  リヴァプールの奴隷商人は西アフリカで奴隷狩りをしていた部族から奴隷を仕入れ、奴隷を船に積み込み大西洋を渡って西インド諸島の島々の砂糖プランテーションで砂糖と黒人奴隷とを交換した。
 「ニグロ(黒人)奴隷貿易とニグロ奴隷制、それにカリブ海地方における砂糖生産の結合は三角貿易の名で知られている。本国の商品を積んで出港した船は、アフリカ西岸でこの商品を奴隷と交換する。これが三角の第一辺である。第二辺はいわゆる「中間航路」、つまり西アフリカから西インド諸島への奴隷の移送である。最後に、奴隷と交換に受けとった砂糖その他のカリブ海地方の物産を西インド諸島から本国へ持ち帰る航路によって、三角形が完成される。奴隷船貿易だけでは西インド諸島の物産の運搬には不十分だったので、三角貿易の最後の一辺は、本国と西インド諸島間の直接貿易によって補完されていた。
 三角貿易は、本国の物産に西アフリカと西インド諸島の市場を与えた。この市場のお陰で本国の輸出が増え、本国における完全雇用の達成が容易になった。アフリカ西岸で奴隷を購入し、西インド諸島で彼らを使役したことによって、本国の製造業も農業も測り知れないほどの刺激を受けた。たとえば、イギリスの毛織物工業にしてもこの三角貿易に大きく依存していたのである。議会内に設置された1695年の一委員会は、奴隷貿易がイギリス毛織物工業の刺激になっていることを強調している。それに、西インド諸島では毛布用としても羊毛が需要され、プランテーションの奴隷用衣服としても毛織物が需要された。エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書
 大西洋三角貿易によって西インド諸島からイギリスにもたらされた砂糖は、イギリス人の生活を大きく変えた。インドからもたらされる紅茶の飲用に欠くことができなくなり、イギリスの全階層にその消費が広がっていった。特にマニュファクチャーで働く労働者にとって甘い紅茶は栄養価も高く必要不可欠なものになった。その一方で、西インド諸島の黒人奴隷労働によるプランテーション経営やインドのモノカルチャー化によるその社会の破壊など、深刻すぎる変化をもたらしたことも忘れてはならない。また西インド諸島の砂糖プランテーション、後にアメリカ南部の綿花プランテーションに西アフリカから大量の黒人奴隷が供給された。西アフリカの黒人社会の破壊の上にイギリスでは産業革命が進んでいったのである。

醸楽庵だより   1470号   白井一道

2020-07-22 13:16:43 | 随筆・小説


   
 資本主義経済はいかに生まれて来たのか1



 資本主義経済は産業資本の成立をもって初めて成立するものである。商業資本が活発に動き回っていたとしても確実に資本主義経済が生れたとは言えない。
 産業資本は産業革命の結果、生まれたものである。産業革命とは如何なるものであったのかを理解することが資本主義経済を理解することになると私は考えている。マルクスの『資本論』とは、産業革命の本質を解明した著作である。マルクスは産業革命を研究し、産業革命の結果生まれて来た経済の仕組みを「資本主義」と名付けたのである。
 産業革命はイギリスで最初に始まった。産業革命の始まりは16世紀のことである。オランダで毛織物手工業が隆盛する。毛織物の原料供給地としてイギリスで牧羊業がはやる。この出来事をイギリスの人文学者のトマス・モアが『ユートピア』の中で次のように述べている。「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、その上荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに食い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。そのわけは、もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない、その土地の貴族や紳士やその上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害毒を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲い込んでしまうからです。家屋は壊す、町は取り壊す、後にぽつんと残るのはただ教会堂だけという有様、その教会堂も羊小屋にしようという魂胆からなのです。林地・猟場・荘園、そういったものをつくるのに相当土地を潰したにもかかわらず、まだ潰したりないとでもいうのか、この敬虔な人たちは住宅地や教会付属地までも、みなたたきこわし、廃墟にしてしまいます」。このことを「羊が人間を食べている」と言っている。牧羊業の普及が土地を「囲い込み」牧場が増えていった。土地を奪われた農民たちは羊毛を原料にした毛織物を作る手工業の工場に吸収されていった。農民が工場労働者になった。このことをマルクスは「資本の原始的蓄積」と説明している。自分の労働力を売ることによって生計を立てる人々が労働者である。農民が土地を奪われ、自分の労働力を売ることによってしか、生活する術を持たない人間が労働者である。この労働者の出現が資本の誕生なのだとマルクスは述べている。生活手段であった農地を奪われ、農村から追い出されていった農民たちが労働者になった。だからこのことを血と涙の中から資本は生れてくるとマルクスは述べている。
 エンクロージャー(囲い込み)によって農民が労働者になった。この新しく生まれて来た労働者を雇い入れることによって新たに誕生したのが毛織物を織る工場制手工業(マニュファクチャー)である。このマニュファクチャーの成立が産業革命のはじまりであると同時に資本主義経済の誕生である。このようなマニュファクチャーがイギリスのどこで生まれて来たのかというと、その場所はヨークシャーの小高い山の間を流れる川沿いに毛織物を織る手工業の工場が建てられていった。
 更に18世紀末に大麦↓クローバー↓小麦↓蕪(かぶ)を四年周期で植える四輪作農法、ノーフォーク農法が発明されると、それまでの休耕地がなくなったことで、家畜の飼育が可能になり、イギリス政府や議会が土地の囲い込みを奨励した。この農業革命により新たに土地の囲い込みが行われ、土地から追い出された農民が生れ、毛織物マニュファクチャーに労働者を供給した。政府の目的は食料増産をして、18世紀末に、イギリスはフランスとの戦争に備えたのである。
 一方17世紀末~19世紀初頭、イギリスとフランスは、ヨーロッパ本土において戦争を繰り返しただけでなく、世界的規模でアメリカ植民地・インド植民地においても激しく奪い合った。その長期にわたって断続的に繰り返された両国の戦争を、14~15世紀の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも言われている。
 北インドにおけるプラッシーの戦いにおいてクライブ率いるイギリス東インド会社軍がフランス軍に勝利すると北インドはほぼイギリス東インド会社が支配する地域になった。こうしてインドがイギリスの支配する地域になることによってインドの手織りの綿布がイギリスに流入することになる。この綿布がイギリス本土で大流行することになる。

醸楽庵だより   1469号   白井一道

2020-07-21 12:51:51 | 随筆・小説



  
 新自由主義と資本主義の足搔き


 英国病の処方箋が新自由主義の経済政策だった

 1960年代以降のイギリスは他のヨーロッパ諸国から『ヨーロッパの病人(Sick man of Europe)』とも呼ばれていた。充実した社会保障制度や基幹産業の国有化などの政策が、社会保障費の負担を増加させ、国民の勤労意欲を低下させ、国民の既得権益が発生した結果、経済・社会的な問題が発生し、深刻な経済低迷を招いた。この事を『イギリス病』と言った。
イギリス労働党政権が行った「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにした高度な社会福祉政策の実施がイギリス病を生んだという言説が流布している。
その社会福祉政策とは、「国民全員が無料で医療サービスを受けられる国民保健サービス」と「国民全員が加入する国民保険」に代表されるものである。さらに「産業の保護」政策である。
国民全員が無料で受けられる医療サービスを実施するためには多大な政府支出が必要となる。国民全員が加入する国民保険は国民から保険金を集めなければならないが、第二次世界大戦直後の国庫は火の車であり、国民も空爆などの被害によって多大な損失を被っていたので英国経済は厳しい状況にあった。
さらに国有化をはじめとする産業保護政策はイギリス資本による国内製造業への設備投資を減退させることとなり、各産業の技術開発に大幅な遅れをとる事態を招来した。国有企業は国に保護されているので経営改善努力をしなくなっていき、それに比例して製品の品質が劣化していった。この結果、イギリスは国際競争力を失い、輸出が減少、輸入が増加して、国際収支は悪化した。
トドメとばかりにオイルショックが到来。これによってイギリスは経済が停滞しているのに物価が上がり続けるという救いようがない事態にまで追い込まれ、財政赤字が増え、1976年にはとうとう財政破綻してしまった。
 この「イギリス病」の治療をしたのが鉄の女マーガレット・サッチャーである。保護することは成長を妨げる。この思想に基づいた「英国病」の治療が始まった。首相に就任した鉄の女マーガレット・サッチャーは国有企業の民営化、金融引き締めによるインフレの抑制、財政支出の削減、税制改革、規制緩和、労働組合の弱体化などの政策を推し進め、悪化する一方の経済に歯止めをかけることに成功した。この政策の結果、失業者数は増加し、財政支出も減らなかった。さらにサッチャーの反対派を排除する強硬な態度などから少ない数の反感を買い、英国病に歯止めをかけたが、毀誉褒貶が相半ばする存在になった。確かにライオンは「我が子を崖から谷底へ突き落とす」と言われている。谷底にはエサもなく生きる為に一生懸命になる。一度や二度うまく行かないからといって諦めてしまえばそこで死んでしまう。とにかく登らないことには生き延びる事は出来ない。成功とは失敗しないことではなく諦めないことと病弱な国民に対しても福祉は無駄金だと大幅に削減した。弱肉競争が社会を活性化するというのがサッチャーの政策であった。ここに新自由主義経済の本質がある。
 新自由主義経済政策は確かに資本主義経済を担う強い企業は息を吹き返したが国民生活は大きな打撃を受ける結果になった。
「英国病」の治療方法としての新自由主義経済政策は日本にも大きな影響を与えた。1980年代にはじまった臨調「行革」以来、社会保障費は眼の敵にされ、毎年削減の対象にされてきた。中でも医療費は常にその筆頭に上げられ、「医療費亡国論」のもと、さまざまなかたちで削減と圧縮を蒙ってきたことは周知のごとくである。「医療費亡国論」のターゲットにされるのは常に高齢者の医療費である。その中で高齢者の自己負担を正当化する論拠として「老人は若い人の5倍も医療費を使っている」という主張がある。医療利用者1人あたりの医療費に直してみると眼の敵にされる入院医療では逆に若い人より少ないくらいであるにもかかわらずにである。つまり「老人医療費5倍論」とは「老人は若い人の5倍病気をする=病人5倍論」であって、「年をとれば病気がちになる」という、至極常識的な事実をことさら捻じ曲げて表現した卑劣な詭弁に過ぎない。
その結果、医療費削減の結果、新型コロナウイルスが発症すると日本の医療制度の脆弱性が露わになった。いつ医療崩壊が起きてもおかしくない状況が生れてきている。
「英国病」とは、資本主義経済の足掻きなのだ。資本主義経済は衰退し、今のままでは資本主義経済は国民経済を支えることができないのだ。現在は資本主義崩壊の瀬戸際に来ているのだ。