醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   62号   聖海

2015-01-16 11:38:36 | 随筆・小説
 
 世の人の見付ぬ花や軒の栗   芭蕉

句郎 「世の人の見付ぬ花や軒の栗」という「奥の細道」にある句の季語は「栗の花」、夏だよね。
華女 そう、夏ね。でもなんだか、この句には夏の季節感が乏しくない。
句郎 ホントにそうだね。有名な「古池や」の句も季節感がないと正岡子規が言っているよ。
華女 何と言っているの。
句郎 「古池ノ句ニ春季ノ感情ナシ」と「俳諧大要」という著書の中で述べている。
華女 そうなの。子規の句というと誰でも知っている「柿食えば鐘が鳴るな
り法隆寺」ね。この句には季節感が充満しているわね。そんな感じがしない。私は晩秋の斑鳩の里の風景が浮かんでくるけど。
句郎 確かにそうだね。僕も季節感をこの句に感じるね。季節感は感じるけれどもどこがいいのか、いまいち分からない。
華女 季節感が表現できていれば、それで十分だと子規は思っていたのかもよ。きっとそうだと思うわ。だから季節感の乏しい芭蕉の句を好まなかったのじゃないかしらね。
句郎 芭蕉は季語をそれほ
ど重視していなかったのかもしれない。「見付けぬ花や軒の栗」と詠んでいる。「栗の花」と直接、表現していない。
華女 一句全体としては夏の季節感が表現されているようにも感じるわ。
句郎 確かにそうだね。僕もそう思うよ。子規の「柿食えば」の句は季語の「柿」が大きな役割を果たしている。この季語「柿」が無ければ句として成立しないように感じる。そう思はない。
華女 そうね。芭蕉は季語というものをどのように考えていたのかしら。
句郎 山本健吉という文芸評論家がいるでしよう。
華女 知っているわ。俳句を始めた人がよく読む本に山本健吉の「現代俳句」があるわ。私も昔読んだ記憶があるわ。
句郎 山本健吉が昭和二一、二年ごろだから、今から七十年くらい前に「挨拶と滑稽」という論文を書いている。この中で「芭蕉の最高級の作品には、季語によることさらな季的情趣の強調は全然認められない」と書き、例句として、「閑さや岩にしみ入蝉の声」をあげている。季語としての蝉があるが、この蝉は何も誇示していない。他の言葉と同等な言葉としてその句に存在している。このようなことを述べている。
華女 文芸評論家という人は易しいことを難しくいう人なのかしらね。あ、そうですか、としてしか言えないわね。
句郎 芭蕉は現代につながる俳句の原型のようなものを作った人だから、俳句になぜ季語が必要なのか、その理由を芭蕉自身分かっていなかったんじないかね。
華女 俳句に季語というのは単なる約束事なのじゃないの。そう思っていたけど。
句郎 芭蕉の時代にはまだそのような約束事が形成されつつあったのじゃないかな。
華女 だから、芭蕉が推敲し推敲して作った句には季語の存在が希薄なのかもしれないのね。
句郎 芭蕉は連歌の伝統を踏襲し、俳諧の発句には季節感を表現する言葉を入れて詠むようにしていた。客として呼ばれ、歌仙を編む場合、亭主への挨拶、その即興の証しとして季語を詠んだ。