五月雨の降のこしてや光堂 芭蕉
句郎 「五月雨の降のこしてや光堂」。芭蕉が感動したことは何だと思う。
華女 この句の発案はどんな句だったか。知っている。
句郎 うん、調べたことがあるな。岩波の「芭蕉俳句集」には「五月雨や年々降も五百たび」とある
よ。
華女 五百年という年月の重みに耐えて今も光り輝く金色堂に感動したのじゃないの。
句郎 中尊寺にあるお堂に感動しているんだよね。この金色堂に祭られている仏様は何か、知っている。
華女 光堂という金色堂は知っているわよ。でもお堂に祭られている仏様は知らないわ。何が祀られているの。
句郎 平安時代の末期には末法思想が当時の人々の心をとらえた。末法の世に広がった信仰が阿弥陀仏信仰だったんだ。阿弥陀如来だよ。阿弥陀如来が祀られている有名なお寺というとどこだっけ。
華女 場所は京都よね。宇治の平等院・鳳凰堂かしらね。
句郎 定朝(じょうちょう)が造った阿弥陀様が祀ってある。西の平等院鳳凰堂に対して東の中尊寺金色堂。祀ってある仏様は阿弥陀如来だ。
華女 阿弥陀様と芭蕉の句に何か、関係があるのかしら。
句郎 僕は関係があると思うんだ。芭蕉は五百年という年月そのものに感動しているんだと思う。
華女 光堂を見た感動じゃないというの。
句郎 光堂を見て感動したのは光堂そのものではなく、五百年という年月の重さだと思ううんだ。
華女 五月雨とは今でいう梅雨のことよね。だから黴が生える。木を腐らせる。その五月雨に負けなかった光堂に芭蕉は感動したんだと私は思うわ。
句郎 阿弥陀如来の霊験が五月雨から光堂を救ったんだと阿弥陀如来の奇跡を光堂に芭蕉は感じて感動したんだと思う。芭蕉は阿弥陀仏を光堂の輝きの中に見たんだ思う。
華女 宗教くさい話ね。芭蕉は神秘的な宗教の世界に生きていた人なのかしら。
句郎 現代に生きる我々よりはるかに宗教的な世界に芭蕉は生きていたと思うよ。
華女 私にとって仏様というと父や母の位牌が祀ってある仏壇に手を合わせ、拝むくらいだから、とても信仰心があるとは思えないわ。
句郎 どこの国でも、今も昔も自分たちの先祖様を拝む習慣はあるんじゃないかと思う。先祖様をありがたく思う気持ちが宗教の始まりじゃないかと僕は考えているんだ。だから今より昔の人の方が生活が厳しかったから父母につながる先祖様をありがたく思う気持ちは強かったに違いないんだ。
華女 それはそうかもしれないわ。私の父は毎日のように仏壇の仏様に水をあげ、線香をあげていたものね。
句郎 芭蕉は五百年という年月に仏の奇跡を見た。その奇跡が光堂だった。阿弥陀仏の後光を詠んだ句が「五月雨の降のこしてや光堂」という句ではないかと思うんだけれどね。
華女 句郎君の解釈を聞くとこの句が神々しく感じられるような気もするわ。
句郎 そんな風に感じてもらえるとありがたいな。