草の戸も住み替る代ぞひなの家 芭蕉
句郎 華女さん、「おくのほそ道」に出てくる最初の句「草の戸も住み替る代ぞ
ひなの家」をどのように鑑賞するのかな。
華女 私の持っている「おくのほそ道」では著者の堀切実は「天地の流転の理
法そのままに、わびしい自分の草庵も、次の人がもう代わりに住んでお
り、あたかも雛祭のころなので、自分のような世捨人の住まいとは異な
り、雛を飾った普通の人の家になっていることだ」。このように鑑賞して
いるわよ。
句郎 なるほどね。堀切実のようなのような鑑賞に対して俳人の長谷川櫂は
異論を唱えているんだ。
華女 どこに問題があるの。
句郎 だってそうだろう。芭蕉は自分の住んでいた草庵を他人に譲り、その他
人の家族が移り住み、雛段を飾っているのを見て、詠んでいるという解
釈だよね。そうだとすると他人がすでに住み、その部屋の中に芭蕉は入
り「面(おもて)八句を庵の柱に懸置」ことをしたことになるでしよ。そんな
こと実際にはしないし、できないと思わない。
華女 言われてみると、確かにそうね。それじゃ、あまりにも図々しすぎるわね。
句郎 そうでしょ。だから、この句を芭蕉が詠んだのは草庵を引き払う直前に詠
んでいるということになるでしょ。芭蕉の草庵に引っ越してきた人は草庵
の柱に懸けてあった八句を見たのじゃないかな。
華女 そうすると芭蕉は雛段を飾り、雛祭を祝っている家族を見ないでこの句を
詠んでいるのかな。
句郎 多分、そうなんじゃないかな。
華女 そうすると、解釈というか、鑑賞はどのように変わってくるの。
句郎 芭蕉は自分が住み慣れた庵をいよいよ立ち退くときがきたと感慨にふけ
った。住替る代が巡ってきた。新しい主には家族があるのでやがて雛祭
には雛人形が飾られ、今までの独り者のわび住まいと打って変わり華や
ぐことだろう。
華女 芭蕉は「ひなの家」を見ず、ただ想像しただけなの。
句郎 長谷川櫂はそう主張しているんだ。
華女 立ち退く草庵を想い、変わり行く草庵の幻影を見たという句なのね。
句郎 長谷川櫂は蕉風俳諧の特徴を実際に見たものと想像したものとの取り
合わせにあると主張している。
華女 それを蕉風というの。
句郎 そのように思うけど。
華女 よく蕉風俳諧の代表的な句に「古池や蛙飛び込む水の音」があるでしょ。
この句も実際のものと想像したものとの取り合わせなの。
句郎 そのように長谷川櫂は主張しているよ。
華女 それじゃ、古池に蛙が飛び込む水の音を聞いたという句じゃないの。
句郎 芭蕉は庵の中で蛙が水に飛び込む音を聞いた。その音に刺激されて芭
蕉の心の中に古池のイメージが浮き上がった。このように長谷川櫂は「古
池」の句を理解しているようなんだけれどね。華女さんはどう思うかな。
華女 長谷川櫂は「草の戸も」の句も「古池や」の句も句の成り立ちは同じだと
主張しているわけなのね。
句郎 そうなんだよ。「おくのほそ道」の行脚に出る前に「古池」の句を芭蕉は詠
んでいるんだ。