醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   61号   聖海

2015-01-15 11:09:08 | 随筆・小説

 
  市振の一夜   
                  聖海
 1 古池や蛙飛びこむ水のおと
 貞享三年弥生(一六八六年四月二〇日前後)の名残、冷たい風に小雨が混じる。小名木川の堤には蕗(ふき)の薹(とう)が頭をだし、タラの芽を青葉がおおい、雨に濡れた鼓(つづみ)草(ぐさ)が生い茂っている。その中に人が踏みならした道が続いていた。その道は大川と呼びならわす隅田川に合流するところまで続いている。
小名木川の堤の道に笠を被り、蓑を着た一人の男が急いでいるのか、左右の肩を大きく揺らし、速足で歩いていく姿があった。顔に受ける雨が心地よいのか、胸弾む気持ちが蓑に被われた体全体に漂っている。雨に煙る芭蕉の大きな葉と葉の間から藁屋根の小さな庵が見える。大川に小名木川が流れ込む手前に藁屋根の小さな庵はあった。その庵に蓑を被った男は入って行った。
「ごめん下さい」
「あー、仙化さん。雨の中、よく来てくれましたね。ありがとう。みなさん、もう集まっていますよ。そろそろ仙化さんが訪ねてくるころかなとみなさんと話し合っていたところです」
仙化に庵の主、芭蕉は微笑んだ。
「師匠から蛙を兼題にして『蛙合(かわずあわせ)』をしませんかと
のお誘いをうけ、喜んで参りました」
「どうもありがとう。蛙が鳴き始めましたから」
「小名木川の畔(ほとり)をきましたら蛙の鳴き声がうるさい
くらいでした。今日はよろしくお願いします」
「そうですか。もう早い人は田をうない始めました。
農民にとって春は一刻を争う時節ですから」
仙化が座敷に通されるとすでに其角は胡坐をかき、筆を持ったまま思案しているところだった。曾良は水屋で茶の支度をしていた。芭蕉は床の間を背に座った。仙化は水屋に向い、
「遅くなりました。手伝いましょう」と曾良に声をかけた。
「仙化さん、もうおわりました。座敷に行っていて下さい」
「すみません。ありがとうございます」
と頭を下げて、仙化は座敷に入った。
「其角さん、遅くなりました。今日はよろしくお願いします」
と下座についた仙化が座布団をはずして手をつき、挨拶をした。
「やぁー、仙化さん。しばらくでした」
「今日はよろしくお願いします」
そこに曾良がお盆に四つの茶碗をのせ、座敷に茶を運んできた。座布団に座った仙化を見て芭蕉はお茶を一口飲みこむと微笑んでいった。
「古今集もいっているように『花になく鶯、水にすむ
蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌を
よまざりける』ですからな」
「私ども俳諧に楽しみを求める者は蛙が鳴き始めたら、蛙を詠まないわけにはまいりません」
芭蕉の言葉に仙化は応じた。
「確かに、曾良さんはもう一句詠んでしまいましたよ。『うき時は蟇(ひき)の遠音(とほね)も雨夜哉』と、しかし私はなかなか上五が決まらなく、もがいているところです。上五に苦吟しています」
 芭蕉の話を聞いていた其角がおもむろに発言した。
「師匠が先ほど苦吟しているとおっしゃっていた『蛙飛びこむ水のおと』の上五に『山吹や』ではいかがでしょうか」
 其角の発言を聞いた芭蕉は頭をゆっくり振りながら黙っていたが、間をおいて話し始めた。
「山吹と蛙、古今集以来の慣わしですな。山吹では私の俳諧にはならない。みなさん、いかがでしよう」
芭蕉の発言を聞いた仙化は物思いにふけった。芭蕉は仙化に話しかけた。
「仙化さん、何を思い出そうとしているのですか」
「古今集にあった山吹と蛙を詠んだ句を思い出そうとしているのです」
「京の井出の玉川で鳴く河鹿(かじか)蛙(かわず)を詠んだ歌ですか」「そうです。中七の言葉、『ゐでの山吹』は思い出したのですが」
「「『かはづ鳴くゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを』でしょうかね」
「あっ、そうです。きちんと覚えていなければいけませんね」
 仙化はこの歌を小さな声で復唱していった。
「一度、覚えたことがあれば、それでいいのです。はっはり思い出そうと思えば本を開けばいいのですから」
と芭蕉は応えると同時に京のゐでの玉川を思い起こした。山間(やまあい)に流れる川だった。山吹が川の上におおいかぶさり、透き通った流れの速い水の中で細い体を長く伸ばし泳ぐ河鹿(かじか)蛙(かわず)が思い出された。川に突き出た石の上で鈴虫のように鳴く姿を思うと芭蕉は仙化を諭すように続けた。
「そうですね。だからこの歌以来、山吹に蛙の鳴き声を詠むという慣わしのようなものができたのでしょう」
「確かに、師匠がおっしゃる通り『山吹に蛙』を取り合わせて詠んだのでは俳諧じゃなく、和歌の世界でしょうか」
 仙化の言葉に芭蕉はうなずいた。
「和歌が詠う蛙は河鹿(かじか)蛙(かわず)の鈴虫のような鳴き声です。わしが詠む蛙はどこにでもいる蛙です。その蛙が水に飛びこむ音を詠んでいるわけです」
 すると其角もまた師匠の言葉にうなずき、納得した表情をみせると同時に筆を走らせ句を書き始めた。
「『こゝかしこ蛙鳴ク 江の星の数』。芭蕉庵は水路に囲まれているからなぁー。こゝかしこで蛙が鳴いている。これを詠まず何を詠むのか。蛙しかありません」
と、其角はニヤリとして独り言のように手前の句を読んだ。蛙と星、才気がほとばしる。これが其角の句だと芭蕉は味わっていた。仙化はまだ句が詠めていないようだと芭蕉は見て、静かに決まった言葉を発見したかのように言うと同時に懐紙に筆を走らせた。
「古池や、この言葉は動かない。『古池や蛙飛びこむ水のおと』」
 仙化は芭蕉の言葉に耳を傾けている。仙化の様子を見ていた芭蕉はわかってもらえたかなと不安げだった。この句は古池に蛙が飛びとびこみ水の音がしたという句ではない、ということが通じていないようだと思っていると仙化がおずおずと尋ねてきた。
「『古池』と『水』、同じような言葉を重ねているのには何か、わけがあるのでしょうか」
 芭蕉は目をつぶり、しばらく思案していたが、静かに言った。
「『や』は切字です」
仙化は何を言われたのか、ポカンとしていた。芭蕉は切字について去来に話したことを思い出した。「…切字のことは…深く秘す。…猥(みだり)に人に語るべからず」
といったように覚えている。弟子たちは自分自身の力で身につけなければならない。
仙化の顔が紅潮している。芭蕉は仙化に問うた。
「仙化さん、できましたか」
「はい、『いたいけに蝦(ひき)つくばふ浮葉哉』です。ご指導いただければと思います。師匠の句を聞いていまして、突然、睡蓮の浮葉に大きな体を小さくして畏(かしこ)まっている蝦(ひき)蛙(かえる)の姿が浮かんだものですから、こんな句になりました。師匠の句の前に畏まる蝦(ひき)蛙(かえる)は私です。図体は大きいのですが、気の弱い小さな存在の私です」
「仙化さん、そんなことはありません」
と芭蕉はにっこりした。仙化は芭蕉の前で小さく畏まっていた。小さく畏まった仙化を見て芭蕉は切字の働きについて考えているのだろうと推し量った。仙化は其角の顔を見てぼんやりしている。芭蕉は其角を見て、「古池の」句がわかってもらえたと確信した。一方ぼんやりした仙化の顔は其角の発言を待っている顔でもあった。その顔に応えるように誰にというわけでもなく其角がしゃべりだした。
「『古池』と『蛙飛びこむ水のおと』、この二つの言葉の間には一拍の間(ま)が、この間に気が付きました」
 其角の言葉を聞いた仙化は、ハッとした表情になった。
「仙化さん、何か感じることが其角さんの言葉にありましたか」
「切字とは句の中に間を設けること。間が言葉と言葉を切っている。こんな当たり前のことがどうして今までわからなかったのか、不思議な気がしています」
「そうですか。言葉にするとわかるということがあります。そりゃ、良かった」
 芭蕉は仙化を励ました。仙化の嬉しそうな顔を見て、其角に芭蕉は問うた。
「其角さん、『古池や』の句をどのように読んでもらえましたか」
「師匠は因襲の呪縛から抜け出だしたということでしょうか」
「そうです。蛙の鳴き声でなく、水に飛びこむ音を詠んでいるのですから。そういうことになりましょう」
と芭蕉は微笑んでいる。さらに其角はしゃべり続けた。
「水に飛びこむ蛙(かわず)はどこにでもいる蛙(かえる)ですね。蛙(かえる)を詠む。なんと師匠は大胆なのでしよう。自分は先ほど『山吹や』では、いかがと提案したことが恥ずかしい。まだまだ和歌の因襲に縛られていると感じました」
 其角は頭を掻いている。芭蕉は目を見開いていた。
「私はね、普段われわれが見たり、聞いたりするものを詠むのが俳諧だと考えているのです」
 其角が黙っていると芭蕉は続けた。
「蛙を詠んで風雅が言い表せるか、どうか、ずっと迷っていたのです。わしは決断をしたのです。ただちにこの句の心が分かってもらえなくともいつかは必ずわかってもらえるときが来るだろうと」
 師匠の言葉に其角は応えた。
「師匠の気持ち、わかります。和歌の縛りの強さを日々感じているものにとってはなかなか抜け出せるものではありません」
 芭蕉の顔は紅潮し、声がひときわ大きくなった。
「『古池や』の句が古池に蛙が飛びこみ、水の音がしたというように読まれたらつまらない句になってしまいましょう。わしは笑われることを覚悟し、この句で勝負をしたのです」
 其角は頭を垂れ、芭蕉の言葉を聞いていた。芭蕉の声が途絶えて沈黙が部屋に広がった。沈黙はいくらでもなかったが、長い沈黙だと誰もが感じた。其角が沈黙を破った。
「切字とは師匠がおっしゃるように言葉と言葉が切れることによってその言葉がもつ余韻と余韻が共鳴し、響きあう。響きあうことによって一つの俳諧の発句ができるということでしょうか」
 芭蕉は嬉しげだった。
「そうです。切るとは結びつけることでもあるとわしは考えています」
 其角は続けて問うた。
「切字『や』は大きな意味を表す言葉だということがわかったような気がします」
 芭蕉の顔が急に険しくなった。
「其角さん、古池に飛びこんだ蛙は何匹だと思いますか」
其角は思案していたが、思いついたようだった。
「師匠が聞いた蛙の水に飛びこむ音は何匹もの音だったに違いありませんが、古池『や』と句を切ったことによって水に飛びこんだ蛙は一匹になったと思いますが……」
 芭蕉は安心した顔になった。
「そうですか。それでいいと思います。一匹だと読んでもらわなければ、この句は失敗です」
 芭蕉の言葉を聞いた其角は穏やかな顔になった。
「師匠、切字『や』は素晴らしい働きをする言葉ですね」
 と同意を芭蕉に求めると、芭蕉はさらに其角に問うた。
「切字『や』にはさらにどのような働きがあると考えていますか」
 其角は自信なげに応えた。
「師匠は障子の閉まった庵にいて蛙が飛びこむ水の音を聞いた。その音に触発されて師匠の心に古池の像が浮かび上がった。切字『や』は漢文の返り点読みのような働きをしているように自分には思えます。『蛙飛びこむ水の音』が心に『古池』を思わせる。漢詩のの空間が広がっていくように思います。それは師匠の閑寂な心の在り様です。このような働きをする言葉が切字『や』」ではないかと思ったのですが、これでよいのでしょうか」
 芭蕉は其角の手を取ると強く握りしめた。
「そうです。其角さんに『古池』の句をこのように読んでもらえれば、私の勝負は決しました。いつか誰でもが其角さんのように読む日が来ると思います。ありがとう。『蛙飛びこむ水の音』は私が直接聞いた音です。この音によって私の心に昔、どこかで見かけた今では使われなくなった古い池が思い浮かんできたのです。切字『や』は現実と心とを言い表す働きをします。現実と心とが響きあい、わしの気持ちが詠めるのです。わしの句を読む人は必ず切字『や』の働きに気付くことだろうと思います。さすが、其角さんです。この『古池や』の句に漢詩の世界を読み取るとは、ありがとう」

「蛙合」をした数日後のことである。仙化が其角の庵を訪ねた。仙化は其角に申し出をした。
「先日、芭蕉庵で蛙の鳴き声を聞きながら詠んだ蛙の句の句合(くあわせ)をして世に出すという企ては、其角さん、いかがでしょう」
「それは面白い案ですね」
と、其角は応えると同時に仙化に問うた。
「『蛙合』に参加した四人だけの句では『句合』は成り立たないでしょう」
「そうです。そこで蛙を詠んでいる蕉門の方々の句も入れさせていただくというのはどうでしょうか」
「あー、それはいいでしよう」
 と、其角は仙化の提案に同意すると同時に一番句合せを発案した。
「一番句合せは師匠の句『古池や蛙飛びこむ水の音』を左に右には仙化さんの句『いたいけに蝦(ひき)つくばふ浮葉哉』。師匠の句の勝ち、というのはいかがですか」
「わかりました。僭越ながら新参者として光栄です。一番句合に私の句を取っていただきありがとうございました」
芭蕉はこのような「句合」が仙化の提案によって編まれたことを知らされていなかった。

2 一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月  芭蕉

 芭蕉庵で蛙合(かわずあわせ)をしてから三年後の元禄二年の弥生になると芭蕉は塩釜の桜、松島の朧月を見る旅に出たい気持ちにかられていた。この旅のために去年から芭蕉は魚、葷(くん)酒(しゅ)をつつしみ、身を清め、一鉢境涯、乞食の身となり、菰かぶる覚悟をしてこそ古人の跡を慕い行くことができると考えていた。
弥生も末の七日(一六八九年五月一六日)、芭蕉と曾良は千住から「おくのほそ道」への旅に出た。旅立ちの日からおよそ百日後、芭蕉と曾良は越中路にさしかかっていた。七月十二日(一六八九年八月二六日)、芭蕉と曾良は能生(のう)の玉や五良兵衛方を朝早く出て、市振を目指した。青空が広がり、空は高く澄んできている。うっすらと浮かぶ鰯雲に秋の気配が漂い始めた。黙って二人はすたすた歩き出した。間もなく能(の)生川(うかわ)に至った。能(の)生川(うかわ)は徒歩(かち)渡りの川である。水量は多く、水勢が強い。川に架けられた一本の丸太につかまり渡る。難なく芭蕉と曾良は能生川を渡り切った。歩いているうちに濡れた袈裟の裾は乾いた。袈裟の裾が乾いたのも束の間、また徒歩(かち)渡りの早川が間近に迫ってきた。山間(やまあい)から迸(ほとばし)ってくる早川の水勢は強い。渡り始めて中程を過ぎ、もう少しで渡りきるというところで芭蕉は声を上げてつまずき、川の浅瀬に転んでしまった。早川を上がり、河原で濡れた衣類を干し、休みをとった。
「わしの不注意で暇を取らせてしまったね」
芭蕉は曾良に詫びた。
「いや、ちょうどいい、一服になりました」
曾良のこの言葉に応えるように芭蕉はいった。
「わしは心が何かここにあらずというか。気持ちがうわの空なのですよ。だから小石につまずいてしまうようなことになってしまった」
「何か、新しい風雅があるように感じておられるのですか」
「何か、生まれてきているように思うのです。それが何なのか。わしにもまだはっきりしませんが…」
「師匠はよく『高くこゝろをさとりて俗に帰るべし』とおっしゃっていますね。それは雅(みやび)な言葉を使わなくとも風雅を詠うことはできる。我々が日常使っている平易な言葉を用いて風雅の誠を詠むことが俳諧だという教えだと、手前は考えているのですが」
「曾良さん、そうです。日常の平易な言葉で詠んだ風雅が寂びの心であり、侘びの心なのです」
 芭蕉は曾良に「侘び・寂び」の風雅を説いた。
「その侘び、寂びの風雅からさらに高い心というか、風雅の誠があるということなのでしょうか」
 曾良は興味深げな顔をした。その顔に芭蕉は応えた。
「何か、そのような風雅の誠があるように感じているのです」
 曾良はさらに問うた。
「古池やの句で詠まれた「侘び・寂び」を越える風雅、蕉風がさらに新しくされるということでしょうか」
 曾良の発言に芭蕉は相槌を打った。
「そうだといいのですが。なにしろ越後路の蒸し暑さにはほとほと参ったから」
「本当に蒸し暑かったですね」
「この蒸し暑さの中で、わかってくるものがあったように感じているのです。直江津で詠んだ句、『文月や六日も常の夜には似ず』、この句を詠んでから、何か、心が浮き立つような気持ちになっているのです」
「なるほど。市振では何か、心弾む何かが起こりそうな気配を感じるわけですか」
「曾良さん、実はそんな気がしてならないのです」
 芭蕉は曾良と話しながら、天和(てんな)二年十二月二十八日(一六八三年一月二十五日)に起きた江戸の大火を思い出すと同時に西鶴の浮世草子「好色五人女」(貞享三年、一六八六年)のうちの一つ「恋草からげし八百屋物語」、いわゆる「八百屋お七」の物語を一気に読み通したことを思っていた。実話だという。恋する男に会いたい一心で我が家に火を付け、鈴ヶ森で火炙りになった女の哀れを思い起こしていた。
芭蕉は弟子たちの勧進で出来上がった芭蕉庵を天和二年の「お七の火事」で焼失した。十二月二八日の大火であった。芭蕉は真冬の小名木川に飛びこみ、難を逃れた。真冬の日々、焼け残った弟子たちの住まいに世話になり、どうにか酷寒の日々を乗り越えた。芭蕉はこの大火に焼け出された江戸の町人たちの中で生活していくうちにこの大火にへこたれない町人たちに励まされていた。大工町を中心に活気づく町人たちの生活そのものを詠めば俳諧になると芭蕉は確信した。大火で受けた悲しみ、辛さを町人たちは胸深く仕舞い、不自由な生活を笑った。類焼を防ぐため、火傷や怪我をものともせず家並みを壊した者を称え、腰を抜かし歩けなくなった者を助けた。臆病者を笑い、共に火事の恐ろしさを語り合った。町人たちは哀しみを胸の奥にしまい、その辛さを引きずっていない。芭蕉は町人たちの心意気に新しい風雅があることを見抜いた。町人たちの生きている姿を芭蕉は心深くに焼き付けていた。
 芭蕉と曾良は昼ごろ糸魚川についた。荒や町の左五左衛門で休み、握り飯を食べた。そこで加賀国の大聖寺ソテツ師からの言伝が来ているという連絡を受けた。加賀の国に行くには北国一の難所、親不知・子不知をこれから越えなければならない。芭蕉は身が引き締まるのを感じた。「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」。平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、二歳の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった。この悲しみを詠んだ歌が親不知という地名になったと、越後路で聞いてきた。今日は市振に宿をとる予定だ。
 断崖の下、波が引くのを待って走った。土地の人がいうマイの風が強く吹く。四、五枚の波が来るとその次には小さな波がくる。その時が走るときだ。打ち上げられた海草が草鞋に絡まる。その海草を取り除く暇はない。波が寄せてくる。崖下の壺に砂がたまっている。その上に身を乗せ、小さな波が来るのを待つ。波が引くと走る。その繰り返しである。こうして親不知・子不知を越え、犬もどり・駒返しの難所を越えた。夕刻、旅籠「桔梗屋」に宿をとった。疲れ切っていた芭蕉と曾良は夕飯も早々に枕を並べて床についた。疲れているのに目が冴える。間もなく曾良の寝息が聞こえてきた。真っ暗闇が広がる中に静けさが満ちてくる。寝返りをうった芭蕉に隣の部屋から若い女二人のすすり泣くような声がかすかに聞こえてきた。何を話しているのかわからないが、若い女二人の声に誘われて、尾花沢で詠んだ句が芭蕉の脳裏に甦(よみがえ)った。
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
京の遊郭でのことだった。朝、目覚めてみると女は鏡に向かっていた。薄目をあけて見ていると眉についた白粉を眉はきで履いている。その真剣な眼差しに声をかけることができなかった。お化粧中の女に声をかけるほど芭蕉は野暮じゃなかった。尾花沢で栽培されている紅の花を見て、眉はきが思い出された。この思いが詠ませた句だった。目を瞑(つぶ)っていると昔、詠んだ句が次々と思い出された。あれはいつのことだったろうか。凡兆が「さまざまに品かはりたる恋をして」と詠んだ句に「浮世の果は皆小町なり」と付けた句を芭蕉は思い返した。隣の部屋の女二人のひそひそ声を聞いていると、襟足の白い女二人の姿が瞼に浮かんだ。
突然、年老いた男の声が女たちの声に交じって聞こえてくる。耳を澄ましていると、女二人は越後新潟の遊女のようだ。お伊勢参りに行く二人の遊女を年老いた男は市振まで見送ってきたようだ。男は女二人の北国一の難所越えを見届け、明日は故郷・新潟に帰る予定のようだ。新潟に戻る男に、女たちは言伝を頼み、手紙を書いて渡している。芭蕉は気が付いてみると起き出し、隣の部屋の前に立っていた。象潟以来、芭蕉は女に交わっていない。夕飯に一杯飲んだ濁り酒が体を火照らせていた。振り返ると曾良の寝息が廊下にまで聞こえてきた。芭蕉は足音を忍ばせていた。
「おばんです」
芭蕉が静かに障子越しに声をかけると、
「なんでますか」
年老いた男の声であった。芭蕉は静かに障子を開け、問うた。
「一晩、ご一緒してもよろしいか」
芭蕉が一夜の同衾を願うと、芭蕉の顔を一瞥し、人柄を見極め、厳かにいった。
「よろしゅうございます」
 年老いた男は微笑みを浮かべ、承知してくれた。芭蕉の目を見た年老いた男は年嵩のいった女を見て、どうかと促した。女は黙って首を縦にふった。芭蕉は部屋に入り、女と衝立障子の裏に消えた。
芭蕉は寝物語に女の話を聞いた。一六のとき、初めて月のものが来ないことがあった。不思議に思い女がおずおず楼主の女将に聞くと、それは身ごもった証しだと教えてくれた。その女将は陰干したホウズキをぬるま湯に入れ、ふやかし、それを膣に入れるようにと教えてくれた。いわれたとおりに毎日行い、二十日ほどすると突然お腹が痛みだし、御不浄にいくと血の塊がぬっと出てきた。十九の時にまた同じような経験をした。それ以来、子を身ごもることはなくなった。一人前の遊女になったと楼主は喜んでくれた。
芭蕉は若い女の肌に触れ、話を聞いた。引いては反す波の間に舟を浮かべて漁をする男のように、あたいたちは男たちの波間に身を横たえて浮世を渡ってきた。白波が岸に打ち寄せてくる。懐に金を入れた男たちが押し寄せてくる。その汀に身を販(ひさ)ぎ浮世を生きる哀しみを話した。この世に生をうけた子を血の塊として御不浄に捨てたことに責められ、咎められ、苦しくてしかたない。これが女の業というものか。独り言のように女は話す。もう子を産めるような体ではなくなってしまった。十三の歳から二十三の歳まで十年、親からもらった体をこんなに痛めつけて神様に罰をあてるような生業(なりわい)をしてきた。お伊勢様に参り、神様に許していただかなければ年季があけても生きていけない。女の話を聞きながら芭蕉は寝入ってしまった。
 朝方、小便に起きた芭蕉は用をたした後、曾良の寝ている部屋に戻り、床にもぐりこんだ。目が覚めると曾良はもう出発の用意を終え、旅日記を書いていた。芭蕉も起き出し、出発の用意を終えると思い浮かんだ句を懐紙にしたためた。
 一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月
 昨夜の出来事は夢幻(ゆめまぼろし)のちまたのことと忘れていた。 朝飯を終え、芭蕉と曾良が出発を急ごうとしていると、昨夜(ゆうべ)の女が宿の出口に立ち、願い事があるという。
「お伊勢様にどのように行ったらよいのか、皆目わか
りません。女二人だけでは心細くてしかたがございま
せん。あなた方お二人の後を慕い、付いて行きとうご
ざいます。どうか、お許しくださいませ」
 芭蕉が思案顔をしていると、女はさらに願った。
「お見受けするところ、墨衣をまとっていらっしゃい
ます。諸国行脚の聖さまかと存じます。昨夜(ゆうべ)は私ども
のような者の嘆きをお聞き下さいましてかたじけの
うございました。聖さま方の慈悲の心にすがりつきと
うございます」
 涙をにじませ、すがるように女はいう。女の願い事を聞いている芭蕉に代って曾良が答えた。
「確かに、心細かろう。だが我々は所どころで人に会い、用をたさなければならない。お前たちの願いに応えることができない。ただ道行く人の後に付いて行きなさい」
曾良が答えると芭蕉もまたいった。
「きっと神様の加護が得られましょう。間違いなく伊勢神宮へと導いてくれることでしよう。天命にすがり、行くがよい」
芭蕉と曾良は女たちを後に残し、旅籠「桔梗屋」を出立し、那古の浦を目指した。
天和二年の大火は芭蕉の俳諧の道を大きく変えた。この世に定住の住まいはない。この世にあっては我が住まいにいつ火が付いてもおかしくはない。大火に焼き出されて実感したことだった。この世は火宅なのだ。すべてのものが日々、生成し流転する。一定不変なものはない。変わることのない安穏な住処(すみか)などもともとないのだと、芭蕉に実感させた大火が天和二年の大火であった。この憂き世を笑い、浮世を生きる江戸町人の気風(きっぷ)に俳諧の心があると芭蕉は思うようになった。新潟の遊女たちよ、江戸町人のように浮世を生きろと、芭蕉は心の中で遊女たちにいっていた。天和二年の大火はまた芭蕉に旅を栖(すみか)とする生き方を強いた。那古の浦に向かう道中、芭蕉は曾良に話しかけた
「曾良さん、野ざらし紀行は読んでもらえましたかな」
「師匠、もちろん、読ませていただきました」
「そうですか。ありがとう。富士川の畔(ほとり)をいく場面を覚えていますか」
「もちろんです」
 こう言った曾良はその一節を諳(そら)んじた。
「富士川のほとりを行に、三つ計(ばかり)なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計(つゆばかり)の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
 猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
「曾良さん、よく覚えてくれました。今朝、遊女たちの願いを断ったとき、野ざらし紀行のこの一節をわしは思い出したのです。猿を聞く人とわしのことです」
「師匠と自分でしょうか」
と、曾良は応えた。
「そうです。私どもです。三つばかりなる幼子が街道に捨てられている。なんとこの世は無慈悲なのかと深く心に刻み込まなければなりません。猿の鳴き声を聞き、哀れを詠んでいる詩人の方々、この無慈悲さを肝に銘じて下さいと、わしは言いたいのです。わしもこの世の無慈悲さを肝に銘じました。曾良さんも肝に銘じてください」
「わかりました」
 曾良は静かに一言一言を噛みしめるようにいった。
「曾良さん、しかしこの世の無慈悲さに引きずられてはいけません。この無慈悲なものを無慈悲なものとして軽く詠む。これが俳諧です」
 重く沈んでいた曾良の顔に明るさが戻ってきた。
「師匠、手前は漠然と遊女たちの願いを受け入れることはできないと思料し断りました。それで良かったわけですね」
「その通り。遊女たちの願いはわかるが、その願いに引きずられてはいけません」
 曾良の心は肝がすわってきたようだった。芭蕉の話は曾良の心にしみいっていった。
「世の人はみなそれぞれ無慈悲な世の中を生きています。この無慈悲さの中を生きていく自分を世の人たちは受け入れているのです」
 曾良は芭蕉の話に黙って頷き、静かに話し始めた。
「僅か三つばかりなる幼子であっても自分を受け入れなければならないということでしょうね」
「わしもそうだと思いますよ」
芭蕉は決然といった。
「師匠にできたことは、その日の自分の昼飯を投げ与えること、それだけしかできないということですね」
「残念だがそうです。それができる精一杯のことです。その上、できることは捨てられた子の天命を信じる。信じている。それしかできない」
「手前もあの捨て子の天命を信じ、手を合わせました。母は子を疎むはずがありません。父は子を憎むはずがありません」
「そうです。仕方なかったのでしょう。無慈悲なこの世に生きる哀しみを味わい尽くした上でのことだったのでしょう」
「師匠は市振の宿で一緒になった女たちの生きる哀しみを肝に銘じ、遊女たちの天命を信じたということでしょうか」
「もちろん、そうです。目の前の無慈悲さを引きずっていくことはできません。それは俳諧の心ではありません」
芭蕉がいう「侘び・寂び」を越える風雅とはどんなものなのだろうと曾良には興味が湧いた。
「師匠、何か、市振の宿でのことが風雅の誠に新風を吹き込みましたか」
「そんな気がしします。浮世とは出会いと別れです」
「たしかに、そうです」
「人に別れを強いる天とはなんと無慈悲かと思います。別れとは生木を裂かれるような痛みがあります」
「本当です」
「天が吾々に与える無慈悲さに平気でいる。ここに俳諧の道があるように思います。曾良さん、どうですか」
「そうですね。別れを引きずると浮世のしがらみに縛られ、身動きが重くてしかたない」
「そうなのです。浮世を軽く生きる。この軽みに俳諧の誠があります」
「師匠のおっしゃりたいことがわかりました」
「『野ざらし紀行』で東海道を下ったとき、雨のため大井川で足止めされ、その時に詠んだ句に、『道のべの木槿は馬に食われけり』があるのです。今思うと、とても軽く詠んでいる。引きづっているものがない。『けり』という言葉に深い切れをいい表すことができたと思っています。曾良さん、どうですか」
「軽いです。師匠。本当に軽いです」
「俳諧は侘びや寂び、ここに風雅の誠があるように感じていたのですが、その上に軽みが大事だと気付いたのが市振の宿だったように思っています」
「『軽み』ですか」
 芭蕉と曾良は流れの小さな川を数知れず渡り、那古の浦にでた。ここで芭蕉は古歌を思い出した。
 たこの浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かん見ぬ人のため 
 有磯海は恋の歌枕だったのだ。市振で出会った女との思いを引きずってはならない。切らなければならない。芭蕉は自分に言い聞かせた。早稲の間につたう道を辿っていくと突然有磯海の海原が広がっていた。
 わせの香や分入(わけいる)右は有磯海

 参考文献
おくのほそ道(萩原恭男校注)、菅菰抄、
俳諧書留(芭蕉)、笈の小文(芭蕉)、去来抄(去来)、三冊子、曾良旅日記(萩原恭男校注)、
「奥の細道」をよむ(長谷川櫂)、古池に蛙は飛びこんだか(長谷川櫂)、芭蕉俳文集上下(堀切実編注)、
芭蕉書簡集(萩原恭男校注)、芭蕉紀行文集(中村俊定校注) 芭蕉はどんな旅をしたのか──「奥の細道」の経済・関所・景観(金森敦子)

○注 萩原恭男は「いちぶり」を「一振」と表現しているが現在は広く「市振」と言い表しているので「市振」とした。