醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1425号   白井一道

2020-05-31 10:36:05 | 随筆・小説



   『徒然草』を読み終えて



 読み終えて感じたことは、こんなものかという特に感じたものは何もなかった。感動した文章は一つもなかった。これが率直な感想である。このような文章が日本古典の三大随筆の一つにあげられていることに違和感さえ感じた。何が凄いのかが全然分からない。私には分からないということなのかもしれない。
建築家の安藤忠雄さんがテレビで次のような発言をしていたことを思い出した。安藤さんは若かったころ、ヨーロッパ旅行をした。ギリシア・アテネのパルテノン神殿は凄い建築だと聞いていたが実際のものを見て、こんなものかと何も感じなかったと話していた。建築家として大成してのち、再びパルテノン神殿を見た時には圧倒されるような建築に深い感動を覚えたとも発言していた。建築の教養を積み上げて後に再び見た時には全然感想が違っていたという話だった。
私にも日本古典の教養は何もない。強いて言うなら高校生の頃古典の授業を受けた記憶がある程度である。勉強した記憶もなく、その成績はどちらかと言うととても悪かったというのが実際である。私は定年退職後、芭蕉について勉強を始めた。芭蕉は独学で『徒然草』を読んでいるということを知り、私も読んでみようと思い、読み始めた。芭蕉はきっと貪るように大事に一字一字を食い入るようにして読み進めていたに違いない。手に入れる事すら難しかったに違いない。今のような注釈書も十分でない時代に時間をかけ、少しづつ読み進めていったのであろう。
貞享4年芭蕉は江戸深川の芭蕉庵にいた。遠く聞こえる鰹売りの声が聞こえた。あぁー、今じゃ初鰹は高嶺の花だなぁー。『徒然草』第119段の文章を思い浮かべ「鰹売りいかなる人を酔はすらん」と詠んだのかもしれない。「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と『徒然草』119段にある。もともと庶民が好んで食べていた魚が今や庶民にとっては手の届かない高価な魚になってしまったと、芭蕉は鰹売りの声に俳諧を発見し、詠んだ句のようだ。芭蕉は間違いなく『徒然草』119段を読み、その上でこの句を詠んでいる。『徒然草』の教養があって初めて芭蕉の句に奥行きと深さが滲み出てきているのであろう。江戸の町人文化が花咲こうとしている時代を表現する句になっている。芭蕉の俳諧の裏には日本古典文学の教養があって初めて生れ出てきたものなのであろう。
世の中は移り変わっていくものだ。そのような無常なものだと「もののあはれ」を「鰹売りの声」に発見し、芭蕉は詠んだ。芭蕉の俳諧が文学にまでなった背景には日本古典文学を学んだ結果なのであろう。芭蕉にとって日本古典文学としての『徒然草』と現代に生きる私にとっての『徒然草』は大きく違っている。私にとっては芭蕉理解のための史料的意味以上のものを『徒然草』に見出すことができない。
人間の意識は時代に制約されたものであるということを私は『徒然草』を読み、確認した。兼好法師は第190段で次のように述べている。
「妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし」。
妻通婚が理想的な婚姻関係であった時代、保守的な男は妻との同居を煩わしいもとして受け止めていた。男にとって通う女が数人いても問題になることは基本的にない時代社会であった。そのような時代に生きた男の気持ちが表現されている。

醸楽庵だより   1424号   白井一道

2020-05-30 10:54:50 | 随筆・小説



    方丈記 予(われ)物の心を知れりしより


原文
予(われ)物の心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。去(いんじ)安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、舞人(病人)を宿せる仮屋(かりや)より出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近き辺たりはひたすら焔(ほのお)を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつし心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳(しつちんまんぽう)、さながら灰燼となりにき。その費(つひ)えいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。

現代語訳
 私はもの心が付いてから四十年余りの年月をおくった間に世の中の不思議を見る事が度々あった。去る安元三年四月二八日であったろうか。激しい風の吹き静かではなかった夜、午後八時頃、都の東南から出火し西北に燃え広がった。果ては朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで燃え移り、一日で塵灰になった。火元は樋口富(ひぐちとみ)の小路であったとか。病人が寝泊まりする仮屋から出火したようだ。縦横に吹く風に火足が移り行きほどに扇を広げたように末広がりに燃え広がった。遠くの家は煙にむせび、近くではひたすら焔が地に吹きついた。空には灰が吹き上がり、火の明りに照らされてそこら中が紅に染まる中を風に勢いに吹き切られた焔は飛んでいくかのように一、二町を越えて燃え広がっていく。その中の人はまさに生きた心地はしなかったであろう。或いは煙にむせび、倒れ、或いは焔に目が眩み、たちまち死ぬ。或いは身一つ辛うじて逃れたとしても、資財を取り出すことができない。あらゆる宝物がすべて灰燼に帰した。その費用は幾らになることだろう。この度、公卿の家が一六軒が焼けた。ましてその他は数が分からないほどだ。すべて都の中の三分の一に及んでいる。男女死んだ人が数千人、馬牛の類はどのくらいになるのかが分からないほどだ。人の営みは愚かなものであるが、そんなにも危険な都の中に家を造るため宝を費やし心を悩ますことは実につまらないことのように思われる。


 耐火材としての木材  白井一道
 「燃焼」とは、一般的に炎やそれによる発光を伴う。木材を加熱すると、初めは水分が空気中に飛び散る。その後可燃性の分解ガスが発生して、熱分解が盛んとなると、着火源がある場合には引火し、そうでない場合でも表面温度が高くなると発火する。火炎は空気中に生じており、対して木材表面では熱分解によって炭化層が形成される。こういった現象が三次元的に拡張し火炎が伝播することで「燃えている」状態となる。このことは有機質材料では同様に生じる現象であり、自身が熱源となって周囲へ燃焼が拡大する性質は、無機質材料(構造材料で言えば鋼材・コンクリート)との差異である。しかし、外的な加熱を要因とする、構造部材としての木材の強度低下に関する性能は、鋼材に勝っていると言える。高温下における機械的性質については有機・無機質材料でも、その性能は低下するのが一般的である。その温度と機械的性質に対する性能曲線に差はあるものの、特に鋼材については350度程度で弾性限界荷重が約半分になることが知られており、高温に弱い材料である。木材でも熱分解が盛んとなると健常状態の2割程度の強度となるものの、熱伝導率が鋼材に比して1/1000倍もの倍率であるために、同様の加熱条件であれば木材の方が強い。このことは木材表面からの炭化層の形成にも関係があり、形成された炭化層の熱伝導率は木材の1/2~1/3であることから、木材の内部方向への燃焼速度は比較的緩慢であり、この効果によって木材は急激な強度低下を抑制される。木材は鋼材より耐火性がある。

醸楽庵だより   1423号   白井一道

2020-05-29 10:30:49 | 随筆・小説



   前黒川弘高等検察庁長官辞任について 


 
 前黒川検事長が麻雀好きであり、賭け麻雀の常習者であることを政府官邸首脳は知っていた。評論家の佐高信氏は早野透氏、平野貞夫氏との『3ジジ放談』で述べていた。さもありなんと、『3ジシ放談』を聞いて思った。前文科省事務次官であった前川喜平氏が新宿歌舞伎町の風俗店に通っていたことを政府官邸官僚に呼び出され注意されたことを話していた。この事は後に新聞に出た。この事を思い起こすと前黒川検事長が賭け麻雀をして検察情報を産経新聞記者と朝日新聞記者に漏らしていたことを政府官邸は知りぬいていた。検察庁の高官が新聞記者と賭け麻雀をするということは、新聞記者たちが麻雀に負け続け、金を支払い続け、黒川氏との雑談を通して検察情報を得ていたということだ。それで良いと政府官邸は思っていた。警察官僚出身の政府官邸官僚は前川氏を呼び出し、注意したように黒川氏も呼び出され、注意をされたのかもしれない。こうして黒川氏は政府の意向に沿った検察を行った。
 例えば、国会で、甘利明前経済再生担当相の秘書らが都市再生機構(UR)に対して口利きをした問題が取り上げられ、高級自動車「レクサス」を“おねだり”していた音声データが公開されるなど、大物政治家とその秘書の「権力をカネにする」という出来事があった。「口利きの有無」というあっせん利得処罰法など、犯罪に関わる部分と無関係なことから、ほとんど取り上げられなかった。
 又、小渕優子前経済産業相(41)の関連団体の政治資金収支報告書に嘘の記載をしたとして、政治資金規正法違反(虚偽記載・不記載)の事件について東京地検特捜部は嫌疑不十分として小渕氏を不起訴とした。
 森友学園に国有地を8憶円値引きして売却するに当たって公文書を改竄したと訴えられた元佐川理財局長は起訴されることなく、退職し、退職金もほぼ満額貰っている。
 愛媛県今治市に加計学園グループの岡山理科大学獣医学部新設計画をめぐって問題が起きたがいつのまにか雲散霧消してしまっている。
 「桜を見る会」に安倍後援会員を多数招き、公費で接待した問題もいつのまにか誰も問題にしなくなってしまっている。
 東京検察庁は特に動くことがなかった。動くに値しない問題であったのだろう。特に東京検察庁が動く必要がないという法的論理を創ったのが前黒川高等検事長だったのかもしれない。
 このようなことから前黒川検事長は安倍内閣の守護神と拝められるようになった。私は法の精神に則って前黒川検事長は検察業務をこなしていたのだと思っていたが実はそうではなかったのかもしれないと思うようになった。賭け麻雀をしていることを前黒川検事長は政府官邸に知られていることを承知の上で今回も五月一日と十三日に麻雀をした。にもかかわらず今回に限ってなぜ週刊誌に漏れたのか。政府官邸がリークするはずがない。どこから漏れたのか。週刊文春記者に情報をリークしたのはもしかしたら、新聞記者なのかもしれない。
 産経新聞記者の中には高級官僚とずぶずぶの関係を持って記事を書く記者に対して快く思っていない記者がいて、この記者が文春記者に情報を漏らしたのではないかと想像する。否、そうではなく、朝日新聞記者の誰かがリークしたのではないかという憶測もあるようだ。検事総長は黒川ではないと予想し、そちらを主な取材対象にしていたのが朝日新聞だという。この朝日の記者がリークしたという。
 週刊文春記事が出て以降、官邸内には黒川氏を続投させることも可能だという主張もあったようだ。しかし黒川氏は辞任する意向を直ちに表明したので、官邸も慰留させることはできなかった。世論の大きな反発が予想されたからかもしれない。結果的には現稲田伸夫氏が後任の検事総長に推薦していた林真琴氏が東京検事長に就任することになり、行く行くは林氏が検事総長になるのかもしれない。安倍官邸の意図は挫けてしまった。
 この人事の成り行きによって現在広島で行われている2019年夏の参院選・広島選挙区(改選数2)での公職選挙法違反事件で、関与を疑われている自民党の河井案里氏(同区選出)と夫の克行氏(前法相、衆院広島3区選出)が、「国会議員として絶体絶命の窮地」に立たされることになった。広島地検が案里氏の公設秘書らを買収罪などで起訴、その後も河井夫妻や周辺関係者の捜査を集中的に進めているからだ。河井氏の事件が安倍晋三氏の政治生命にどのような影響が出て来るのか。大きな政治ドラマが今起ころうとしている。

醸楽庵だより   1422号   白井一道

2020-05-28 10:36:08 | 随筆・小説


 ほぼ一年をかけて『徒然草』を読んだ。定年退職後の楽しみとして取り組んだ。どうにか、毎日古文を眺め、読み、味わって読んだ。いつしか同時代の人が書いた文章として読んでいる自分に気付くことがあった。読み終わって見るとあっけないものであった。次に『方丈記』を読んでみようと思う。これからも宜しくお付き合い下さい。

    方丈記 1
原文
 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は去年(こぞ)焼けてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

現代語訳
 流れていく川の流れは絶えることなく、しかも本の水ではない。川の淀みに浮かぶ泡はすぐ消えるかと思うと新しい泡が生れ、決して留まっていることはない。世の中に生きる人と住まいもまた同じようなものだ。玉(ぎょく)を敷き詰めた都の中に家を構え、競って甍を葺いた身分の高い方の住まいも身分の低い人の家も長い年月の間、無くなる事はないが、この事実を調べてみると昔から続いている家は稀なことだ。或いは去年火事に合い、今年になって新築され、或いは大家であった方の家は亡びて小さくなる。そこに住む人も同じことだ。場所は変わることなく、人も多く行き交っているが、昔見知った人は二、三十人のうち僅かに一人、二人に過ぎない。朝亡くなったかと思うと夕方に生まれる人がいるようにまるで水に出来る泡に似ている。知らないうちに人が生れ、死ぬ人はどこからきてどこかへと去っていく。またわからない。この世に仮に宿り、誰のために心を悩まし、何かによっては目を細めることがある。この世の主と住まいとが無常を争い去っていくさまは、云わば朝顔の露と異なることはない。或いは露は落ち、花は残る。残ったとしても朝日に照らされ枯れていく。或いは花は萎み、露はなお消えぬことがある。消えぬことがあったとしても夕べを待つことはない。


 末法の世を愁う    白井一道
 世の中の無常を鴨長明は実感していた。いつまでも存続していくものだと思っていた天皇支配の体制がこんなにも脆く亡びていくのを実感していた。今あるものは必ず亡びていくものである。永遠なものなどは何もない。天皇の権威が失われていく。どんなに天皇の権威を惜しんでみても武家の力の前にはなす術がない。
 月みれば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
大江千里の詠んだ歌が鴨長明の心に鳴り響いていた。天皇の権威が薄れていくのはやむを得ないものなのだ。受け入れざるを得ないのだ。私一人が嘆いてみてもどうにもならないものなのだ。
ながむれば千々(ちぢ)に物思ふ月に又我が身ひとつの嶺の松風
長明もまた大江千里の歌に刺激され歌を詠んで心を慰めた。天皇の権威は私一人のものではない。その権威が無くなっていく。この無常観に打ちひしがれている。世も末だ。この末法の世の中にひたすら耐えていかなければならない。仏にすがり、極楽への往生を願うばかりだ。念仏を唱えることだ。一刻の猶予もならない。念仏を唱え続けることが心の平安を叶えてくれる。歌を詠むことだ。文章を書くことだ。
松島や潮くむ海人の秋の袖月は物思ふならひのみかは
中秋の明月の夜、松島の、海水を汲んで塩を作る人の袖は、びっしょり濡れ、月の光が照っている。秋の袖に月が宿る。物思う人の慣(なら)いのように私の袖も秋の哀れさに涙で濡れ、悩んでない人の袖にも、哀れが満ちている。
天皇の権威と権力が失われていく世の中の動きに泪を流し、憂いている。哀しみがひたひたと打ち寄せてくる。これはどうにもならない。

醸楽庵だより   1421号   白井一道

2020-05-27 14:57:01 | 随筆・小説



 世界史から三権分立を考える

 
 最近行われた衆議院における国会討論において野党議員がフランス絶対王朝全盛期の国王ルイ14世が述べたという言葉『朕は国家なり』を引用して安倍総理に質問した。検察庁法の改正は「三権分立」を有名無実化するものではないのかと追及する質問内容であった。この野党議員の質問に対して頓珍漢な回答を安倍総理はした。「私は選挙民から選ばれた衆議院議員であり、衆議院議員から選出された総理大臣であり、断じてルイ16世のような存在ではない」と言うような回答をした。『朕は国家なり』、この言葉を発したのはルイ14世あり、ルイ16世はフラン革命で断頭台の露と消えた国王であると安倍総理の発言を野党議員の山尾志桜里氏はインターネットテレビで訂正していた。『朕は国家なり』という言葉が何を意味しているのかと言う事を安倍総理は十分理解した上で頓珍漢な回答をしたのか、それとも全然理解しているわけではなく、やむを得ず頓珍漢な回答になってしまったのか、私には分からない。ルイ14世とルイ16世との違いを充分安倍総理が理解していたとも思えない以上、『朕は国家なり』とフランスブルボン朝絶対王政全盛期の国王ルイ14世が述べた言葉が何を意味しているのかを安倍総理は理解していたとも思えない。
 1655年ルイ14世は親政開始前、最高司法機関高等法院を王権に服従させるために発言した言葉の一節だと云われている。後にこの言葉はフランス絶対王政を象徴する言葉となった。共産党の宮本徹衆議院議員は検察官に対して国家公務員法を適用することは従来の検察庁法の解釈の変更であり、「フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる『朕は国家である』との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせる姿勢だ」と批判したのである。司法権を王権に服従させた言葉が『朕は国家なり』という言葉の由来なのだ。行政権が司法権を服従させようとしていると安倍内閣を批判したのが共産党宮本徹議員の発言であった。この発言に対して真っ向から反論するなら、黒川高等検察庁長官の定年延長を閣議決定で行ったことは、行政権が司法権を服従させる意図を持ったものではないということを安倍総理は説明し、反論すべきであった。
 立法、行政、司法が権力を形成している。ブルボン王朝の国王たちは絶対権力者たちであった。17世紀はフランスの世紀だと言われた。絶対権力を保持した代表的な国王が太陽王と言われたルイ14世であった。このフランスブルボン朝の絶対王朝が1789年から始まるフランス革命によって倒されて共和制が確立していく。絶対王政に変わる民主政が形成されていく過程で第一に創られたものが憲法であった。国王という人間が王権は神から授けられたものだと主張し、正当化し国を統治したのが絶対王政であった。だから明治天皇の神権政には西洋の絶対王政と似通ったところがあるように思う。明治憲法第一条には「大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する」と。第3条には「天皇は神聖にして侵すべからず」とある。憲法とうたっているところに近代性がある一方内容に前近代性が交じり合っている。憲法はフランス革命の成果として生まれたものである。人間が支配する社会から法が支配する社会に変わった。法の支配の中心にあるものが憲法のようだ。法の支配を実現していくものが行政であり、立法であり、司法である。権力とは立法であり、行政であり、司法なのだ。
 18世紀啓蒙思想家モンテスキュウのような人が出て来て『法の精神』を表し、その影響のもとにアメリカがイギリスから独立し、基本法として1787年に憲法が制定され、世界最初の共和政原理をかかげ、三権分立、大統領制などが実現した。1791年、憲法修正によって権利章典が加えられた。
 立法、司法、行政に権力を分け、互いに監視し合う関係を作ることによって独裁を防ぎ、民主政を実現する。三権分立は民主政治を実現する政治システムである。日本にあっては1945年に第二次世界大戦に敗戦し、明治憲法が廃止され、新しく日本国憲法が施行され、73年目を迎えている。この間、絶えず行政権を強化拡大しようとする動きがある一方、これを押さえようとする動きが鬩ぎ合ってきたように感じられる。民主政とは多数決という短絡的な主張がある。選挙で多数を獲得した政党が政権を取ると多数決の原理に則って何でもできると思い違いをして行政権を拡大させ、立法権や司法権をないがしろにするような事態が生れてきている。民主政とはきっと時間はかかるかもしれないが、時間をかけて合意形成をする政治なのであろう。

醸楽庵だより   1420号   白井一道

2020-05-26 10:35:18 | 随筆・小説



  徒然草第243段 八つになりし年



原文
 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

現代語訳
 私が八つになった年、父に問うた。「仏とは如何なるものなのですか」と尋ねた。父が答えてくれた。「仏とは、人が成ったものだ」と。また父に問うた。「人は何をして仏になったのですか」と。父はまた「仏の教えによって人は仏になった」と。また私は問うた。「教えられた仏を何が仏に教えられたのか」と。また父は答えた。「それもまた先の仏の教えによって仏は仏になられた」と。また問う。「その教えを始めた第一番目の仏は如何なる仏なのでしようか」と言うと、父は「空より下りて来たのだ。土より湧いてきたのだ」と言うと笑いだした。「問い詰められて、満足に答えられなくなった」と、諸人に話しては面白がった。

 子供の成長期における「なぜなぜ期(質問期)」
                   白井一道
大人の都合にかまわず、いつでもどこでも、「なんで?」「どうして?」と答えても答えても質問が続く時期が「なぜなぜ期」。
このなぜなぜ期は子どもの知的好奇心が最も伸びる時期である。なぜなぜ期に子供の質問にきちんと対応してあげると知的好奇心が育って、将来、学ぶことが好きになる。しかし、なぜなぜ期の子供はそんなに甘っちょろいものではありません。子供の成長にちょっと感動することがある一方いつでもどこでも「なんで?どうして」と聞いてくる子供にイラつくことがあるものだ。
子どもの知的好奇心を育てる対応法は三つある。
1、質問されたときに答える(後回しにしない)
2、わからないことがあったら一緒に調べてみる
3、何度でも答える(前にも言ったでしょ!はNG)
子どもの質問には、なるべく質問されたその時に答えることが大事。後回しにしてしまうと、子どもがその質問自体を忘れてしまうからだ。忘れてしまうだけでなく、質問した時に「あとでね!」と言われ対応してもらえなかったというマイナスのイメージが子供に残るからである。子どもの「なんで?」は知的好奇心を育てる絶好のタイミングである。できれば手を止めて会話をしてあげるべきである。ただ、知っておいて欲しいことが一つある。それは、子どもの質問対して正確な答えを提示しなくても良いということ。質問に対する答えの内容よりも、丁寧に対応することが重要だ。ママ(パパ)が手を止めて僕(私)と話をしてくれた一緒に考えてくれたと、「ちゃんとあなたのことを見ているよ」ということが子供に伝わる対応が大切だ。四六時中の質問攻撃に適当にあしらってしまいたくなる時もあるが、ぐっとこらえて言葉のキャッチボールすることが大事だ。4才~6才になるとある程度記憶力もつき、質問自体も高度になる。忙しい時などは正直に「今は手が離せないから、後で一緒に調べてみよう(考えてみよう)」と言う。調べるまでに、どんなことを調べたいか、自分はどう思うか考えてもらう。
子どもに「なんで?」と聞かれたことが、パッとわからなかった場合や、調べたらわかりそうな内容だったら、一緒に調べてみる。図書館へ行って、いつもよく通る絵本の書架ではなく、小学生や中学生が調べ学習などで使うような本が並んでいる書架へ行く。その中からできるだけ写真や絵の多い本を選んで、お家で一緒に読んでみる。内容が難しい場合は、かみ砕いて幼児でもわかるようにして話す。
調べたことは、子ども自身がその場にいなかった誰かに話をするようになる。そうすると、次の二つの良いことが起こる。1、自分の言葉で話す練習になる。解が深まる。2、話した相手から受け入れられる。その結果、自己肯定感がアップする。
毎日子供からたくさん湧き上がってくる「なんで?」という疑問。挙げられた「なんで?」の中に、具体的な疑問があったら親子で調べてみることだ。「ハハトコtime」より

醸楽庵だより   1419号   白井一道

2020-05-25 10:40:27 | 随筆・小説



    徒然草第242段 とこしなへに違順に使はるゝ事は
原文
 とこしなへに違順(ゐじゆん)に使はるゝ事は、ひとへに苦楽のためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲(げいよく)する所、一つには名なり。名に二種あり。行跡(かうせき)と才芸との誉なり。二つには色欲、三つには味(あじは)ひなり。万の願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒(てんだう)の想より起りて、若干(そこばく)の煩(わづら)ひあり。求めざらんにには如かじ。

現代語訳
 いつになっても変わることなく逆境と順境に人が翻弄されるのは、楽を求め苦から逃れようとするからである。楽と言うものを人は好み愛するからである。この気持ちが止むことはない。人が渇望するものの一つが名を得ることである。名には二つある。一つは品ある行いが讃えられる事、教養と芸で讃えられることである。二つ目が性的欲望を満足させることである。三つ目が食欲を満足させることである。すべての人にとっての願いはこの三つに尽きる。このような欲望は物事を逆に受け取り考えたための煩いである。このよう欲望を求めないに超したことはない。


バートランド・ラッセルの名言

あなたが何を信じようと、 慎みを忘れてはいけない。

愛を受け取る人間は、 愛を与える者である。

道徳は、つねに変化している。

次に起こる戦争は勝利に終わるのではなく、
相互の全滅に終わる。

私は両親の愛にまさる偉大な愛を知らない。

“自制の効用”は、列車における ブレーキの効用に似ている。間違った方向に進んでいる と気づいた時には役に立つが方向が正しい時は、害になるばかりである。

幸福の秘訣は、こういうことだ。
あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなくできるかぎり友好的なものにせよ。

人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、また、ますます運命に左右されることが少なくなる。かりに、一つを失ってももう一つに頼ることができるからである。

最も満足すべき目的とは一つの成功から次の成功へと無限に続いて決して行き詰ることのない目的である。そして、この点で建設は破壊よりも一段と大きな幸福の源であることがわかるだろう。

首尾一貫した目的だけでは人生を幸福にするのに
十分ではない。しかし、それは幸福な人生のほぼ必須の条件である。

私は、どんなに前途が多難であろうとも人類史のもっともよき部分が未来にあって、過去にないことを
確信している。

実際、人類の大半が愚かであるということを考えれば広く受け入れられている意見は、馬鹿げている
可能性のほうが高い。

愛を恐れることは人生を恐れること。そして、人生を恐れる人たちは、ほとんどの部分が死んでいる事と同じなのだ。

賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、
避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。

幸福な生活とは、その大部分が静かな生活であることにかかっている。なぜならその静かな雰囲気のなかでだけ、真の喜びは生き続けられるのだから。
  バートランド・ラッセル『幸福論』より

醸楽庵だより   1418号   白井一道

2020-05-23 11:08:57 | 随筆・小説


   徒然草第241段 望月の円かなる事は



原文
 望月の円(まと)かなる事は、暫(しばら)くも住(ぢゆう)せず、やがて欠けぬ。心止(とど)めぬ人は、一夜(ひとよ)の中(うち)にさまで変る様(さま)の見えぬにやあらん。病の重(おも)るも、住する隙(ひま)なくして、死期(しご)既(すで)に近し。されども、未だ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成(じやう)じて後、閑(しづ)かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門(しもん)に臨む時、所願(しよがん)一事も成(じやう)せず。言ふかひなくて、年月の懈怠(けだい)を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、やがて重(おも)りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類(たぐい)のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。
 所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻(によげん)の生(しやう)の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想(まうざう)なり。所願心に来たらば、妄信迷乱(まうしんめいらん)すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下(はうげ)して道に向ふ時、障りなく、所作なくて、心身(しんじん)永く閑(しづ)かなり。


現代語訳
 望月が真ん丸なのはほんのひとときでやがて欠けていく。気を付けて見ていない人にとって一晩のうちに月が様変わる様子が分からないだろう。病が重篤さも休む間もなく悪くなり、死期が迫ってきている。されども病は重篤化することなく死に向かう程ではない時は常日頃の気持ちになって生きているうちだ思い多くの事を成し遂げた後、落ち着いて仏道の修行をしようと思う程に、病を得て死に臨む時、願った事の一つも実現することはない。何を言っても仕方なく長い年月の怠りを後悔し、この度、もし病が立ち直り、命を全うできるとなれば、夜も日も一所懸命にこの事もかの事もと、怠ることなく成し遂げたいと願いを起すだろうが、やがて病が重くなってくると自分ではないようなほど、取り乱して果てる。このような事になりがちである。このような事がまずあると人々は考えておくことだ。
 願がかなった後、暇をみて仏道修行をしようと思えば、願いを尽くすことはしてはいけない。幻のように実在しないものが実在しているかのように見えるものの中で何かを人間はしようとしている。すべて願いは皆妄想である。願いたいことが心に起こったならば、邪念が心を乱しているのだと思い、何もしてはならない。即座にあらゆることを諦め、仏道修行に向かう時支障なく無用な行為もせず、心も体も長く落ち着くのだ。

 「色好み」とは   白井一道
 『古今和歌集』の紀貫之の仮名序に、「今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみいでくれば、色好みの家に埋(うも)れ木の、人知れぬこととなりて」とある。今の世の中は華美になり、人の心が浮薄なものになった。その結果、和歌もまた浮薄なものになり、表立った公の場所に出されるような作品はなくなり、男女の心を通わすためのものになった。「色好みの家に埋(うも)れ木の、人知れぬこととなり」と貫之は表現している。
 「色好み」として公の席に公表できない日常の私的な思いを詠んだ歌が人間の真実を表現するものになった。『古今和歌集』に載せてある歌を詠んだ歌人たちは「色好み」の人々だった。仮名文字の普及が女性に歌を詠む喜びを生んだ。仮名文字で歌を詠むことが「色好み」であった。「色好み」とは、私的な思いを詠むことであった。私的なものであるが故に公的な場所で朗々と読み上げられるもではなかった。秘めたるものであるが故にそっと伝えたいものが仮名文字で書かれた歌であった。「色好み」とは、秘めたるものである。心の底深くに隠し秘めているものをそっと打ち明けたものが「色好み」の歌であった。
 平安時代、かな文字の発明、普及によって女性が歌を詠むようになった結果「色好み」の文化として人間の日常生活の細々したものを通して歌を詠むようになった。
 こうした「色好み」の文化が新しい日本文学を築くことになった。こうした「色好み」の文学を継承したものとして江戸時代の井原西鶴の好色文学が生れた。世之介は「色好み」文化の中に誕生した。

醸楽庵だより   1417号   白井一道

2020-05-22 10:28:45 | 随筆・小説



   徒然草第240段 しのぶの浦の蜑の見る目も所せく



原文
 しのぶの浦の蜑(あま)の見る目も所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、賑はゝしきにつきて、「誘う水あらば」など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、「分(わ)け来(こ)し葉山(はやま)の」なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
 すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくゝ、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。
 梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如かじ。

現代語訳
 人目を忍び女に逢うにも邪魔されることが煩わしく、闇に紛れて女に逢おうとすると女を見張り逢わせないようにする人が多い中、何としても女に逢おうとする男の気持ちには浅からぬ思いがあるように思われ、その折々の忘れ難い事も多いであろうに、女の親や兄弟が許してくれ、どうぞと迎えてくれたなら、どんなにか心躍ることであろう。
世渡りに困っている女が釣り合わない老法師や関東の田舎者であっても、豊かなようなので「妻に迎えて下さるなら」などと言うのを仲人が男女どちら側にも奥ゆかしい人であるかのように言いくるめて相手も知らず、こちらも知らない人を迎え入れることほどくだらないことはない。この男女は何事についての言葉をかけあうのであろうか。気安く逢えなかった年月の辛さをも、「無理をかさねての逢瀬だった」と語り合うことほど尽きぬ言葉なのであろう。
 すべて、他人が取りまとめた結婚は何とはなしに気にくわないことが多かろう。良い女であったにしても、下品で醜く年も取っている男にとってはあれほどの女が身を持ち崩していくと女の人柄も思ったより下らなく思え、男自身にとっても立派な女と向かい合っていると自分自身の醜い容姿が恥ずかしく思われるであろう。これでは本当にあじけないものであろう。
 梅の花の香り漂う夜の朧月に佇み、恋人が住む邸の垣の辺りの露を分けて出てくるころの夜明けの空も我が身のように偲ぶことのない人は本当に恋愛に夢中にならないに越したことはない。

 「夜這い「について     白井一道
赤松啓介の『夜這いの民俗学』によると、夜這いは、時代や地域、各社会層により多様な状況がある。夜這い相手の選択や、または女性側からの拒絶など、性的には自由であり、祭りともなれば堂の中で多人数による「ザコネ」が行われ、隠すでもなく恥じるでもなく、奔放に性行為が行われていた。ただし、その共同体の掟に従わねば、制裁が行われることもあった。赤松によれば戦争その他などで男の数が女に比して少なかったことからも、この風習が重宝された可能性があるという。
また明治以降、夜這いの風習が廃れたことを、夜這いと言う経済に寄与しない風俗を廃して、各種性風俗産業に目を向けさせ、税収を確保しようとする政府の意図が有ったのではないか、とみている。
なお、日本の共同体においては、少女は初潮を迎えた13歳、または陰毛の生えそろった15 - 16歳から夜這いの対象とされる。その際に儀式として性交が行われた。少年は13歳でフンドシ祝いが行われ、13歳または15歳で若衆となるが、そのいずれかの時に、年上の女性から性交を教わるのが儀式である。その後は夜這いで夜の生活の鍛練を積む。
赤松は明治42年(1909年)兵庫県の出身である。この当時はまだフンドシ祝いが残っていた。日本の共同体では夜這いの前に以上の如くの性教育があった。夜這いが認められていたので、赤ん坊が誰の子であるのかよく解らない、などと言った例がよく見られたが、共同体の一員として、あまり気にすることなく育てられた。 ウィキペディアより

醸楽庵だより   1416号   白井一道

2020-05-21 10:22:31 | 随筆・小説



    徒然草第239段 八月十五日・九月十三日は

原文
 八月十五日・九月十三日は、婁宿(ろうしゆく)なり。この宿、清明なる故に、月を翫(もてあそ)ぶに良夜とす。

現代語訳
 八月十五日・九月十三日は、婁宿(ろうしゆく)である。この日は曇りなくはっきりしているので月を愛でるには良い夜である。

 婁宿(ろうしゆく)とは    白井一道

婁宿(ろうしゆく)とは月28宿の内の一つの星座である現在、星座といえば太陽の通り道に当たる黄道を12等分した12星座ですが,古代の中国では月を基準に考え、月が毎晩どの星座を宿とするかで二十八宿が定められていた。
月が天球を1周する約27.5日分(月の満ち欠けの日数ではありません)で28宿です。
月が現在、天球上の土の星座にいるかで、物事の吉凶を判断した。
暦の歴史
暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わりました。大和朝廷は百済(くだら)から暦を作成するための暦法や天文地理を学ぶために僧を招き、飛鳥時代の推古12年(604)に日本最初の暦が作られたと伝えられています。
日本最古の歴史書である「日本書紀」の欽明天皇14年(553)6月の条に、百済から「暦博士」を招き、「暦本」を入手しようとした記事がある。これが、日本の記録の中で最初に現れた暦の記事である。
暦は朝廷が制定し、大化の改新(645)で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務にあたっていました。陰陽寮は暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所であり、暦と占いは分かちがたい関係にありました。平安時代からは、暦は賀茂氏が、天文は陰陽師として名高い安倍清明(あべのせいめい 921-1005)を祖先とする安倍氏が専門家として受け継いでいくことになります。
当時の暦は、「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」または「太陰暦」、「陰暦」と呼ばれる暦でした。
1ヶ月を天体の月(太陰)が満ち欠けする周期に合わせます。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいました。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.25日で、季節はそれによって移り変わります。大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなってきます。そのため、2~3年に1度は閏月(うるうづき)を設けて13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節しました。大小の月の並び方も毎年替わりました。
暦の制定は、月の配列が変わることのない現在の太陽暦(たいようれき)とは違って非常に重要な意味をもち、朝廷や後の江戸時代には幕府の監督のもとにありました。 太陰太陽暦は、明治時代に太陽暦に改められるまで続きます。
陰陽寮が定める暦は「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、季節や年中行事、また毎日の吉凶などを示すさまざまな言葉が、すべて漢字で記入されていました。これらの記入事項は「暦注(れきちゅう)」と呼ばれています。また、「具注暦」は、「注」が具(つぶさ=詳細)に記入されているのでこの名があります。
「具注暦」は、奈良時代から江戸時代まで使われましたが、特に平安時代の貴族は毎日暦に従って行動し、その余白に自分の日記を記すことが多く、古代から中世にかけての歴史学の重要な史料となっています。
江戸時代に入り天文学の知識が高まってくると、暦と日蝕や月蝕などの天の動きが合わないことが問題となり、江戸幕府のもとで暦を改めようとする動きが起こりました。それまでは、平安時代の貞観4年(862)から中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦を作成してきましたが、800年以上もの長い間同じ暦法を使っていたので、実態と合わなくなってきていたのです。
貞享2年(1685)、渋川春海(しぶかわはるみ 1639~1715)によって初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められました。これを「貞享の改暦」といいます。江戸時代には、そのあと「宝暦の改暦」(1755)、「寛政の改暦」(1798)そして「天保の改暦」(1844)の全部で4回の改暦が行われました。