醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1367号   白井一道

2020-03-31 11:50:29 | 随筆・小説


  徒然草第191段夜に入りて、物の映えなし



原文
 「夜に入りて、物の映えなし」といふ人、いと口をし。万のものの綺羅(きら)・飾り・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすけたる姿にてもありなん。夜は、きらゝかに、花やかなる装束、いとよし。人の気色も、夜の火影(ほかげ)ぞ、よきはよく、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂ひも、ものの音も、たゞ、夜ぞひときはめでたき。
さして殊なる事なき夜、うち更けて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。若きどち、心止めて見る人は、時をも分かぬものならば、殊に、うち解けぬべき折節ぞ、褻・晴なくひきつくろはまほしき。よき男の、日暮れてゆするし、女も、夜更くる程に、すべりつゝ、鏡取りて、顔などつくろひて出づるこそ、をかしけれ。

現代語訳
 「夜になると物の精彩さが薄れる」という人は実に情けない。万のものの美しさや飾り、彩りも夜だからこそ引き立つのだ。昼間は簡素であって地味なものでも良かろう。夜はきらびやかで華やかに改まった服装がいい。人の容姿も夜の灯火に照らされてよきものは更によく見え、物をいう声も暗い所で聞く心配りは心憎いばかりだ。
 それほど特別な催しもない夜更けに訪れる人の清楚な様子はとてもいいものだ。若い者の仲間を注意深く見ている人は時の区別なくいつも見ているものだから、殊に気を許してしまいそうな時は特に普段の時と畏まった時であっても同じように、身だしなみは良くしてほしいものだ。身分のある立派な男は日が暮れてから髪の乱れを直すため鬢みずをつけてなでつけ、女も夜が更けるほどそっと退席して鏡を取り、顔などお化粧して出直してくることほど興趣深いものは無い。

 191段について  白井一道
谷崎潤一郎の著した『陰影礼賛』が表現していることを兼好法師は800年前に書いている。谷崎が著した『陰影礼賛』の一部を紹介したい。
 「私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つく/″\日本建築の有難みを感じる。茶の間もいゝにはいゝけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。私はそう云う厠にあって、しと/\と降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたゝり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつゝ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おり/\の物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。総べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。これを西洋人が頭から不浄扱いにし、公衆の前で口にすることをさえ忌むのに比べれば、我等の方が遙かに賢明であり、真に風雅の骨髄を得ている。強いて缺点を云うならば、母屋から離れているために、夜中に通うには便利が悪く、冬は殊に風邪を引く憂いがあることだけれども、「風流は寒きものなり」と云う斎藤緑雨の言の如く、あゝ云う場所は外気と同じ冷たさの方が気持がよい。ホテルの西洋便所で、スチームの温気がして来るなどは、まことにイヤなものである。ところで、数寄屋普請を好む人は、誰しもこう云う日本流の厠を理想とするであろうが、寺院のように家の廣い割りに人数が少く、しかも掃除の手が揃っている所はいゝが、普通の住宅で、あゝ云う風に常に清潔を保つことは容易でない。取り分け床を板張りや畳にすると、礼儀作法をやかましく云い、雑巾がけを励行しても、つい汚れが目立つのである。で、これも結局はタイルを張り詰め、水洗式のタンクや便器を取り附けて、浄化装置にするのが、衛生的でもあれば、手数も省けると云うことになるが、その代り「風雅」や「花鳥風月」とは全く縁が切れてしまう。彼処がそんな風にぱっと明るくて、おまけに四方が真っ白な壁だらけでは、漱石先生のいわゆる生理的快感を、心ゆく限り享楽する気分になりにくい。なるほど、隅から隅まで純白に見え渡るのだから確かに清潔には違いないが、自分の体から出る物の落ち着き先について、そうまで念を押さずとものことである。いくら美人の玉の肌でも、お臀や足を人前へ出しては失礼であると同じように、あゝムキ出しに明るくするのはあまりと云えば無躾千万、見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想を挑発させるようにもなる。やはりあゝ云う場所は、もや/\とした薄暗がりの光線で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧とぼかして置いた方がよい。まあそんな訳で、私も自分の家を建てる時、浄化装置にはしたものの、タイルだけは一切使わぬようにして、床には楠の板を張り詰め、日本風の感じを出すようにしてみたが、さて困ったのは便器であった。と云うのは、御承知の如く、水洗式のものは皆真っ白な磁器で出来ていて、ピカピカ光る金属製の把手などが附いている。ぜんたい私の注文を云えば、あの器は、男子用のも、女子用のも、木製の奴が一番いゝ。蝋塗りにしたのは最も結構だが、木地のまゝでも、年月を経るうちには適当に黒ずんで来て、木目が魅力を持つようになり、不思議に神経を落ち着かせる。分けてもあの、木製の朝顔に青々とした杉の葉を詰めたのは、眼に快いばかりでなく些の音響をも立てない点で理想的と云うべきである。私はあゝ云う贅沢な真似は出来ないまでも、せめて自分の好みに叶った器を造り、それへ水洗式を応用するようにしてみたいと思ったのだが、そう云うものを特別に誂えると、よほどの手間と費用が懸るのであきらめるより外はなかった。そしてその時に感じたのは、照明にしろ、煖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのに勿論異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少しわれ/\の習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか、と云う一事であった。」   青空文庫より

醸楽庵だより   1366号   白井一道

2020-03-29 11:39:56 | 随筆・小説


   
 徒然草第190段妻といふものこそ



原文
 妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住(ず)みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿(むこ)に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据(す)ゑて、相住(あいす)む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。殊(こと)なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟(いや)しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜(くちを)し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
 いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし。

現代語訳
 妻と言うものを男は持ってはならないものであろう。「いつも独り住まいで」などと聞く事ほど快いことはない。「誰々が婿になった」とも、また「これこれという女を連れ込み一緒に住んでいる」などと聞くと、やたらに見劣りさせられてしまう。特に優れたところもない女を良いなと思い決めた上で連れ添っているのだろうと、曲がりなりにも思われ、良い女ならば、それをかわいがり護り本尊のように大切にしているのであろう。まず、その程度のことなのでろうと思われる。更に家をきちんと取り仕切っている女ほどくだらないものはない。子供が生れ、大事に育てているのを見ると嫌になる。男が亡くなった後、尼になり年寄になるありさまを見ると興ざめするものだ。
 どのような女であっても朝晩添い合ってみるとやたらに気に食わなくなり、嫌になるであろう。女にとっても、夫には嫌わるし、別れることもできずに、どっちつかずになるであろう。別居のままで、時々女のもとに通い、泊まるということが長い年月を経ても切れることのない仲というものだ。ふいに男がやって来て泊っていくということほど、新鮮なものはなかろう。

 男と女の在り方について  白井一道
 兼好法師が生きた時代は13世紀末から14世紀前半である。鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱の時代を経て、室町幕府が成立していく時代を兼好法師は生きた。この時代の男女関係はいかなるものであったのかということが分からなければ、兼好法師の主張の意味が分からない。兼好法師は妻問婚が良いと主張している。がしかし、時代は妻の元に夫が通う社会から夫婦同居の社会へと変わろうとしていた。そのような時代背景の中で兼好法師は従来からの妻問婚の在り方が男女の新鮮な関係が持続するのではないかと主張している。夫婦同居の一夫一妻制に男女関係が生成する時代にあって、兼好法師は保守的な男女関係の在り方を主張している。
 いつの時代にあっても保守的な人の主張は男のわがままを肯定的に受け入れる主張をする。女性の立場に立って主張することがない。相対的に男は女に対して有利である状況がある。現代にあっても基本的に男は女に対して有利な状況がある。その男の有利さが少しずつ失われていく状況が現在のようだ。社会は完全な男女平等が実現するように変わり続けて行く。その動きを止めることはできない。今の時代は、いや、兼好法師の頃から「男はつらいよ」の時代が続き、それは完全な男女平等が実現するまで続くのであろう。その間、男女の違いを主張することによって区別されることが差別に変わっていくことが絶えず起きて来ては問題となり、是正されていくことが繰り返されていくことであろう。
 最近、航空会社に勤務する客室乗務員の服装規定について、国会で質問する議員のビデオを見た。女性職員にのみ、パンプス着用を義務付ける服務規定は憲法の男女平等の原則に反するものではないかと野党議員が政府を追及していた。制服というものは人を区別するものであり、着ることを強制する。生徒に決まった体操服を指定する。高校生に制服の着用を強制する。女性にスカートを穿くことを強制する。これは生徒を、女性を区別するものであると同時にこの区別は差別へと変わっていく。絶えず上にいる人間は下にいる人間を区別したがる。この区別は絶えず差別へと変わっていく。

醸楽庵だより   1365号   白井一道

2020-03-29 11:39:56 | 随筆・小説



   
 徒然草第189段今日はその事をなさんと思へど



原文
 今日(けふ)はその事をなさんと思へど、あらぬ急ぎ先づ出で来て紛(まぎ)れ暮し、待つ人は障(さは)りありて、頼めぬ人は来たり。頼みたる方の事は違ひて、思ひ寄らぬ道ばかりは叶ひぬ。煩(わずら)はしかりつる事はことなくて、易かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎ行くさま、予(かね)て思ひつるには似ず。一年の中もかくの如し。一生の間もしかなり。
予てのあらまし、皆違ひ行くかと思ふに、おのづから、違はぬ事もあれば、いよいよ、物は定め難し。不定(ふぢやう)と心得ぬるのみ、実にて違はず。

現代語訳
 今日はその事をしようと思っていたけれど、思いもしなかった急ぎの用事に紛れてしまい、日が暮れてしまった。待っていた人は事情があって来てもらえず、用事の頼めない人がやって来た。頼みにしていた事とは違って、思いもよらぬ事ばかリがかなう。煩わしく思っていたことは特に問題もなく、簡単な事と思っていた事が心苦しい。日々、月日の過ぎ行くさまは、かねて思っていた事のようではない。一年もまたこのようなものだ。人の一生もまた同じようなものだ。
 かねて思っていたことのあらましは皆違っているのかと思っていたが、間違いなく違わないこともあるということは、いよいよ物事いうものは定め難いものだ。定まったものはないという事を心得る事だけが真実のようだ。


 我が闘病記19  白井一道
 早朝歩き始めて行き交う人の数の多さに驚いた。2、30人ぐらいのものだろうと思っていたが、数え始めた。およそ一時間、7000歩のウォーキングで行き交う人の数が100人を超えたことにびっくりした。数えてみると人の数の多さに驚いていた。五月、この季節がこの人の数の多さだったのかもしれない。女性と男性、どちらが多いのだろうと注意しているとやや女性の数が多いことに気付いた。特に老齢の女性が多いことに気が付いた。中には腰の曲がった女性が杖をもつかずに歩いている。行き交ったとき、私は「お元気ですね」と声をかけた。「歩かないと、腰が痛くなるんですよ。歩かないと駄目ですよ。歩くことです」と話し始める。いつ終わるのかと私は心配になった。立ち止まって話しかけたことを私は後悔していた。いつまで続くのだろう。心配になった私は「そうですか。失礼します」と言うと足早に彼女から離れ、歩き始めた。腰の曲がった老女が歩いているのは彼女だけである。きっと厳しい農作業、寒い西風の吹く中、だだぴろい耕地の草取りを一日中、若かったころはしていたのかなと想像した。私が子供だった頃は腰の曲がった老人をよく見かけたものだが、最近はほとんど見かけることのない腰の曲がった老婦人が一人、誰の助けもなく歩いている姿に人間の生きる力のようなものを感じていた。歩いている歩数は一万歩をもしかしたら越えているのかもしれない。
私が歩き始めたころはおよそ7000歩ほどだった。徐々に歩く距離を少しずつ伸ばして私の歩く歩数は一万一千五百歩になった。これ以上歩こうと思ったこともないし、歩いたこともない。私は一万一千歩で満足していた。腰を曲げ、歩いている老夫人から元気を頂き、私は気持ちよく歩いていた。ある時偶然、一緒に歩いた人がいた。彼は一万歩歩くのは大変だと言っていた。なかなか一万歩は歩けないとも言っていた。暑くて暑くて歩けないとも言っていた。しかし継続することが大事なんだよねと、言っていた。一万歩歩けなくとも毎日飽きることなく、八〇〇〇歩ぐらいであっても歩いていることが大事なんだとも言っていた。彼のような人がいる一方、朝も夕方も歩いている。朝も夕方も一万歩以上、二万歩以上歩いていると豪語した人もいる。彼は長い髪の毛にパーマをかけ、色とりどりのシャツを着て歩いていた。私は彼らとの挨拶に元気をもらい、歩いていた。歩いている最中は自分が脳梗塞を患った病人であることを意識することはなかった。確かに視野欠損しているのかどうか、意識することもなかった。ただ右目の右隅が暗くなってはいるが日常生活に不便することはなかった。歩くと元気になるような気持ちになっていた。歩くことが生きることのような気持ちになっていた。歩きながら古利根川の川沿いに俳句の句碑が立っていることに気が付いた。どのような句が詠まれているか気になりだした。

醸楽庵だより   1364号   白井一道

2020-03-28 07:22:34 | 随筆・小説



   
徒然草第188段或者、子を法師になして



原文 
 或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のまゝに、説経師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿(こし)・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説経習うべき隙なくて、年寄りにけり。

現代語訳
 或る者が子を法師にして、「学問をして因果応報の理を学び、説経などをして生活の糧にしてはどうか」と言われたので、教えのままに説経師になるため、まず馬に乗る事を習った。輿(こし)や牛車を持つ身ではなかったので、導師に招かれた時、馬などが迎えに使われることもあるやに思い、馬に乗るのが下手で落ちるようなことがあってはならないと考えた結果だった。次に仏事の後、酒などが勧められることもあるであろうと、その際、法師が何の芸もない下戸であっては旦那様が心寂しく思うであろうと、流行り歌を習った。この二つの技がようやく身に着いたので、いよいよ準備が整ったと思った頃になると説経を習う時を失い、年老いてしまったという。

原文
この法師のみにもあらず、世間の人、なべて、この事あり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をも附き、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心には懸けながら、世を長閑に思ひて打ち怠りつゝ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。終に、物の上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さるゝ齢ならねば、走りて坂を下る輪の如くに衰へ行く。

現代語訳
 この法師ばかりではなく、世間の人には皆、このようなことがある。若い時ほど、いろいろなことにつけて、身を立て、大きな事をも成し遂げ、能力も着き、学問をもしようと、しばらくの間、計画することの数々を心中に持ってはいるものの、毎日を平穏に過ごし怠りがちになり、まず差し当たり目の前のことに紛れて、月日を送っていると事々を成し遂げることなく身は老いてしまう。ついに物の上手になることもなく、思い描いたような身にもならずに、後悔はしても取り還されるような年齢ではないので、走って坂を下る輪のように衰えて行くだけだ。

原文
 されば、一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中、一時の中にも、数多の事の来らん中に、少しも益の勝らん事を営みて、その外をば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。

現代語訳
 であるから、一生の中で何より大事な事の中で何が一番大事なものかと思い比べ、第一の事を決め、その他のことは考えることをやめて、第一の事に励むべきだ。一日の中、一時も数多の事が頭に思い浮かぶことのないうちに少しでも役に立つことに励み、その他の事は打ち捨てて大事な事に集中すべきだ。何もかも捨てられずに心に残っていては一事をも成し遂げることはできない。

原文
例へば、碁を打つ人、一手も徒らにせず、人に先立ちて、小を捨て大に就くが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石に就くことは易し。十を捨てて、十一に就くことは難し。一つなりとも勝らん方へこそ就くべきを、十まで成りぬれば、惜しく覚えて、多く勝(まさ)らぬ石には換へ難し。これをも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。

現代語訳
 例えば、囲碁を打つ人は、一手も緩めることなく、相手より先に小を捨て大を大事にすることだ。そのことについて、三つの石を捨て、十の石を取ることは易しい。十を捨てて十一の石を取ることは難しい。一つの石であっても勝ちになる方をとるべきなのに十もの石になると惜しくなり、数多くの石には換え難いものがある。これをも捨てず、かれをも得ようとする気持ちににり、かれをも得ず、これをも失うことになる。

原文
京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてその益勝るべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山へ行くべきなり。「此所まで来着きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠(けたい)、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。

現代語訳
 京に住む人が急ぎの用が東山にあり、既に東山に行き着いていたとしても、西山に行った方が良かったと思い立ったなら、東山より引き返し西山に行くべきだ。「ここまで来てしまったからには、この事をまずやっておこう。何日までにと決められた事ではないから、西山の事は帰ってまたそこで思い立ったことでいいや」と思うから、一時の怠けが即ち一生の怠けになる。この事を恐れるべきだ。

原文
一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをも傷(いた)むべからず、人の嘲(あざけ)りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。人の数多ありける中にて、或者、「ますほの薄、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺の聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮(とうれん)法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゝしく、有難う覚ゆれ。「敏き時は、則ち功あり」とぞ、論語と云ふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。

現代語訳
 一つの事を成し遂げようと思うなら、他のことが思うようにできなくとも気にせずに、他人から嘲られようとも恥じることはない。万事の事より一事の事を大事にすることなしには一事を成し遂げることはできない。数多くの人の中で、或る者が「ますほの薄をまそほの薄などと言う事がある。渡辺に住む法師がこの事を伝え知っている」と語ったことを登蓮(とうれん)法師はその場所にいて、聞いて、雨が降っていたので「蓑や笠があったら、貸してくれないか。かの薄の事を習いに、渡辺の法師のところに聞きに行きましょう」と言ったので「とんでもない。せっかちだ。雨が止んでからのことだ」と誰かが言われたので「お前こそとんでもないことをおしゃられることだ。人の命は雨の晴れ間を待つようなことはあるか。私も死に、法師も亡くなられれば誰に尋ね聞くことができるのだろうか」と言って、走り出て行って習った事でありますと申し伝えたことこそ、恐れ多くも有難く思われた。「機敏に行えば、仕事の成功がある」と、論語という文書にもある。この薄を登蓮(とうれん)法師が不審な所を知りたいと思ったように一大事の因縁を考えるべきだった。


 我が闘病記18  白井一道
 朝、五時には歩き始める気持ちになった。このような気持ちになったのも初めての経験であった。ただ歩きたいのだ。季節は五月、朝の空気が美味しいのだ。私は脳梗塞の病を持つ病人だという意識が無くなっていた。朝の空気が気持ちいいのだ。古利根川に出ると毎日のように川沿いで出会う女性に出会った。私は「おはようございます」と挨拶していた。女性は黙って私の脇を通り過ぎて行った。翌日もまた古利根川のウォーキングロードで出会った。私が挨拶をするとその女性もまた挨拶をしてくれるようになった。それが嬉しかった。挨拶を交わす。一言の挨拶が人と人の距離感が縮まっていく。そのような気持ちになった。早朝ウォーキングには仲間がいる。そのような仲間意識が生れて行くことを私は感じていた。

醸楽庵だより   1363号   白井一道

2020-03-26 10:20:15 | 随筆・小説



   
徒然草第186段吉田と申す馬乗りの申し侍りしは



原文
 吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、先づよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に、轡(くつわ)・鞍(くら)の具に危(あやふ)き事やあると見て、心に懸る事あらば、その馬を馳(は)すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵の事なり」と申しき。

現代語訳
 吉田という馬乗りが言っていることによると「馬にはそれぞれ怖いものがある。馬と人の力で争ってはならないということを知らなければならない。乗らなければならない馬の場合は、まずよく見て、強い所と弱い所を知るべきだ。次に轡・鞍の具に危険な所を見つけ、不安に思う所があるならば、その馬に乗って走らせることをしてはならない。この用意を決して忘れることがない人を馬乗りと言う。これ、秘訣のことだ」と言っている。

 我が闘病記16  白井一道
 歩くことが良いこと、女性の医師に言われていた。体重を落とすね、とも言われた。今までも何回も医師に言われ続けて来たことだ。40代の中ごろのことだった。私は意を決して、ダイエットに取れ汲んだことがあった。その時の方法は油を食べないという方法を取った。体重計を買い求め、毎日体重計に乗り続けた。三ヶ月ぐらいすると体重が減り、体が軽くなったような気がした。一年もすると10キロぐらいの減量に成功した。それで安心したのか、お酒を飲むと食欲が刺激され、食べ始めた。食べ物が美味しくて止められない。仕事の帰り道、馴染みの居酒屋もできた。居酒屋で知り合った仲間との話に息がつく。さらに家に帰り着いては夕食もとった。見る間に体重は徐々に増え始め、半年もすると元の木阿弥80キロに迫る体重になっていた。ダイエットに取り組んだことの鬱陶しさから解放され、好きな物を好きなだけ食べられる楽しさを我慢するアホらしさが身に沁みて感じられた。この間、特に体に異常が感じられる訳でもなかったからである。その後、ダイエットに取り組むことなく、退職を迎えた。
 脳梗塞という病を得て、米の飯は150グラム。みそ汁の塩分は少なくする。肉は基本的に食べない。魚は青魚、野菜中心のおかず、海苔やワカメの海藻類など中心の食事、これらの食事を美味しく食べられる。ダイエットした時のような苦しみを感じることが少しもない。入院中も退院間近の頃、看護師さんが来て、体重を測られたことがあった。75キロぐらいで特に体重が軽くなることもなかった。しかし退院後、みるみる体重が減っていく。ダイエットしているわけでもないのに、体重が軽くなっていく。この間、体重計に乗る事はなかった。それにもかかわらず、私の体重は減っていった。
 150グラムの米の飯、一日一回、朝食だけ、いただく味の薄い味噌汁、漬物は一切食べない。漬物は食べたいと思わない。もともとそれほど好きな食べ物でもなかった。焼きのり、納豆、大根と人参の紅葉下ろし、トマトなどが朝食である。それらを美味しくいただくことができる。身長も一センチぐらい、縮んだようだ。
 これらの食事の用意を自分ものは自分で用意するようになった。私の職務はみそ汁の出汁取りから具の準備まで、みそ汁作りは私の職務である。米砥ぎは退職後、いつの間にか私の職務として定着してしまっている。家内は毎朝、薄塩の塩鮭を食べる。この魚焼きも私の仕事として定着している。妻はそれが当然であるかのような顔をしている。少し焦付きがあろうものなら、不服そうな顔をして今日はこんがり焼きネなとど口にする。脳梗塞を患った夫に対する労いのようなものは何もない。
 昼食は、食パン4枚、牛乳をカップに一杯半ぐらいとバナナを一本の半分だけである。それ以上食べたいとも思わなくなったし、空腹を感じることもない。夕食は鰤の切り身を焼く。この仕事も私がする。二週間に一回ぐらい、豚肉を食べ、三、四週間に一回ぐらい牛肉を食べる。お酒は一切飲むことが無くなった。病を得る前までは毎日、日本酒を一合から二合ぐらい飲んでいた。特に日本酒にこだわって私は飲んでいた。お酒は百薬の長であると今でも思っているが飲みたいという気持ちにならない。医者の言う所によると一合ぐらいはいいのではないかと言っているが飲みたいという気持ちが湧いてこない。不思議なものだ。酔いの楽しみはなぜか遠い昔の思い出になってしまっている。

醸楽庵だより   1362号   白井一道

2020-03-25 07:35:29 | 随筆・小説



   
徒然草第186段吉田と申す馬乗りの申し侍りしは



原文
 吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、先づよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に、轡(くつわ)・鞍(くら)の具に危(あやふ)き事やあると見て、心に懸る事あらば、その馬を馳(は)すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵の事なり」と申しき。

現代語訳
 吉田という馬乗りが言っていることによると「馬にはそれぞれ怖いものがある。馬と人の力で争ってはならないということを知らなければならない。乗らなければならない馬の場合は、まずよく見て、強い所と弱い所を知るべきだ。次に轡・鞍の具に危険な所を見つけ、不安に思う所があるならば、その馬に乗って走らせることをしてはならない。この用意を決して忘れることがない人を馬乗りと言う。これ、秘訣のことだ」と言っている。

 我が闘病記16  白井一道
 歩くことが良いこと、女性の医師に言われていた。体重を落とすね、とも言われた。今までも何回も医師に言われ続けて来たことだ。40代の中ごろのことだった。私は意を決して、ダイエットに取れ汲んだことがあった。その時の方法は油を食べないという方法を取った。体重計を買い求め、毎日体重計に乗り続けた。三ヶ月ぐらいすると体重が減り、体が軽くなったような気がした。一年もすると10キロぐらいの減量に成功した。それで安心したのか、お酒を飲むと食欲が刺激され、食べ始めた。食べ物が美味しくて止められない。仕事の帰り道、馴染みの居酒屋もできた。居酒屋で知り合った仲間との話に息がつく。さらに家に帰り着いては夕食もとった。見る間に体重は徐々に増え始め、半年もすると元の木阿弥80キロに迫る体重になっていた。ダイエットに取り組んだことの鬱陶しさから解放され、好きな物を好きなだけ食べられる楽しさを我慢するアホらしさが身に沁みて感じられた。この間、特に体に異常が感じられる訳でもなかったからである。その後、ダイエットに取り組むことなく、退職を迎えた。
 脳梗塞という病を得て、米の飯は150グラム。みそ汁の塩分は少なくする。肉は基本的に食べない。魚は青魚、野菜中心のおかず、海苔やワカメの海藻類など中心の食事、これらの食事を美味しく食べられる。ダイエットした時のような苦しみを感じることが少しもない。入院中も退院間近の頃、看護師さんが来て、体重を測られたことがあった。75キロぐらいで特に体重が軽くなることもなかった。しかし退院後、みるみる体重が減っていく。ダイエットしているわけでもないのに、体重が軽くなっていく。この間、体重計に乗る事はなかった。それにもかかわらず、私の体重は減っていった。
 150グラムの米の飯、一日一回、朝食だけ、いただく味の薄い味噌汁、漬物は一切食べない。漬物は食べたいと思わない。もともとそれほど好きな食べ物でもなかった。焼きのり、納豆、大根と人参の紅葉下ろし、トマトなどが朝食である。それらを美味しくいただくことができる。身長も一センチぐらい、縮んだようだ。
 これらの食事の用意を自分ものは自分で用意するようになった。私の職務はみそ汁の出汁取りから具の準備まで、みそ汁作りは私の職務である。米砥ぎは退職後、いつの間にか私の職務として定着してしまっている。家内は毎朝、薄塩の塩鮭を食べる。この魚焼きも私の仕事として定着している。妻はそれが当然であるかのような顔をしている。少し焦付きがあろうものなら、不服そうな顔をして今日はこんがり焼きネなとど口にする。脳梗塞を患った夫に対する労いのようなものは何もない。
 昼食は、食パン4枚、牛乳をカップに一杯半ぐらいとバナナを一本の半分だけである。それ以上食べたいとも思わなくなったし、空腹を感じることもない。夕食は鰤の切り身を焼く。この仕事も私がする。二週間に一回ぐらい、豚肉を食べ、三、四週間に一回ぐらい牛肉を食べる。お酒は一切飲むことが無くなった。病を得る前までは毎日、日本酒を一合から二合ぐらい飲んでいた。特に日本酒にこだわって私は飲んでいた。お酒は百薬の長であると今でも思っているが飲みたいという気持ちにならない。医者の言う所によると一合ぐらいはいいのではないかと言っているが飲みたいという気持ちが湧いてこない。不思議なものだ。酔いの楽しみはなぜか遠い昔の思い出になってしまっている。

醸楽庵だより   1361号   白井一道

2020-03-22 10:38:13 | 随筆・小説



   
 徒然草第185段 城陸奥守泰盛は



原文
 城陸奥守泰盛(じやうのむつのかみやすもり)は、双なき馬乗りなりけり。馬を引き出させけるに、足を揃へて閾をゆらりと越ゆるを見ては、「これは勇める馬なり」とて、鞍を置き換へさせけり。また、足を伸べて閾に蹴当てぬれば、「これは鈍くして、過ちあるべし」とて、乗らざりけり。
 道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。

現代語訳
 城陸奥守泰盛(じやうのむつのかみやすもり)は二人といない馬乗りである。馬を厩舎から引き出させ、足を揃えて柵をひらりと越えるのを見ては、「これは気の立っている馬だ」と言って、鞍を別の馬に置き換えさせた。また、足を伸ばし、厩舎の柵に蹴り当てると「これは神経が鈍く事故を起こすかもしれない」と思って乗ることはなかった。
 馬乗りの道理をわきまえていない人は、このような小さなことに恐れないようだ。

 我が闘病記15  白井一道
 病院を退院して罹りつけ医に行った。病院で渡されたものを罹りつけ医に渡した。その中にCDロムが入っていることを私は知っていた。私はそこで病状について、詳しく説明を受けた。
 私の脳梗塞はアテローム血栓性の病のようだ。私の入院中の食事には高脂血症食というカードが乗せられていた。私はネットで調べていた。「脳梗塞」とは、脳の血管が細くなったり、血管に血栓(血のかたまり)が詰まったりして、脳に酸素や栄養が送られなくなるために、脳の細胞が障害を受ける病気のようだ。脳梗塞は詰まる血管の太さやその詰まり方によって3つのタイプに分けられている。
一つがラクナ梗塞である。脳の細い血管が詰まって起こる脳梗塞【小梗塞】である。脳に入った太い血管は、次第に細い血管へと枝分かれしていきます。この細かい血管が狭くなり、詰まるのがラクナ梗塞である。日本人に最も多いタイプの脳梗塞で、主に高血圧によって起こるようだ。ラクナとは「小さなくぼみ」という意味のようだ。
二つめが脳の太い血管が詰まって起こる脳梗塞【中梗塞】である。アテローム血栓性脳梗塞というようだ。動脈硬化(アテローム硬化)で狭くなった太い血管に血栓ができ、血管が詰まるタイプの脳梗塞である。動脈硬化を発症・進展させる高血圧、高脂血症、糖尿病など生活習慣病が主因であると説明している。私の脳梗塞は中梗塞のようだ。
三つ目が心原性脳塞栓症と言われているものである。脳の太い血管が詰まって起こる脳梗塞【大梗塞】である。心臓にできた血栓が血流に乗って脳まで運ばれ、脳の太い血管を詰まらせるものです。原因として最も多いのは、不整脈の1つである心房細動。ミスターG・長嶋茂雄氏を襲ったのも、このタイプの脳梗塞のようだ。
脳梗塞という病にも後遺症の軽いものから重いものへといろいろあるようだ。更に脳のどの部分の血管が詰まったのかによって病状はいろいろと変わってくるようだ。病院で仲良くなった新井さんの場合はラリルレロの発音だけができなくなっただけだった。実に軽症な脳梗塞だ。きっとラクナ梗塞症だったのではないかと私は思った。最近知り合った方は数字の引き算足し算が難しくなったという話を聞いた。やはり脳梗塞だと言っていた。この脳梗塞もラクナ梗塞というものなのかもしれない。
脳梗塞は生活習慣病の代表的なものの一つのようだ。日本人の食生活が欧米化することによって脳梗塞という生活習慣病の一つが老齢者に発症するようになったと罹りつけ医は手垢のついた言葉で説明した。脳梗塞は生活習慣病なのだから、食生活を変えなければならない。生活習慣病であるが故に再発しやすい病なのであろう。
私は病院を退院するに当たって、看護師さんに毎日配膳されるご飯は何グラムなのかを聞いてもらった。米の飯は一回、150グラムだと教えられた。退院後、私は毎回茶碗の重さが100グラム。飯の重さが150グラム、測って食べるようになった。基本的に牛肉、豚肉、鶏肉は食べない。魚は青魚が良いと罹りつけ医が説明していた。秋刀魚や鰯、サバがいいと聞いたが妻が嫌いだと言う。私は止む無く、鰤に何もふることなく、何かを付けることもなく、ただ焼くだけのものを妻の分をも一緒に私が焼き、夕食でだけ、食べるようになった。それ以外の魚を食べることはなくなった。勿論肉類は一切、食べなくなったが月に一度、ステーキを食べるようになった。特に旨いとも思わないが食べている。

醸楽庵だより   1360号   白井一道

2020-03-21 15:19:03 | 随筆・小説



  徒然草第184段 相模守時頼の母は



原文
 
 相模守時頼(さがみのかみときより)の母は、松下禅尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。守(かみ)を入れ申さるゝ事ありけるに、煤(すす)けたる明り障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り廻しつゝ張られければ、兄(せうと)の城介義景(じやうのすけよしかげ)、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、某男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ、一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑らに候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、「尼も、後は、さはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申されける、いと有難かりけり。
 世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、たゞ人にはあらざりけるとぞ。

現代語訳
 執権北条時頼の母は、松下禅尼(まつしたのぜんに)と言われた。執権時頼を家に迎え入れることがあったところ、煤すけた明り取りの障子が破れているところだけを禅尼自身が自ら小刀を使いまわして張られたので禅尼の兄の城介義景(じやうのすけよしかげ)は、その日の準備に努めていたところ、「伺っております。何某の男に張らせましょう。そのような事でございます」と申されたので、「その男の方が松下禅尼より上手に張り上げることでしよう」と、なお一間づつ張っていくより、義景は「全部を張り替えた方が遥かに容易いようです。斑に張り替えていくのは見苦しくはないかと」重ねて申されたので、「尼もその後はすっきりと張り替えようと思ったけれども、今日ばかりはわざとこうしているのだ。物は破れている所だけを修理して用いることを若い人に見習わせて、注意させるためだ」と申されていることはとても有難いことだ。
 世を治める道は倹約を基本とする。女性であっても聖人の心が通っている。天下を治めるほどの人を子に持つ、誠にただの人ではないのだ。

 わが闘病記14  白井一道
 包括支援センターの職員から審査結果の報告を受けた。私が要支援1、妻が要支援2という判定であった。次はケアマネージャーを決めて下さいという。我が家から一番近い所にある介護事業所とケアマネージャーを紹介して下さいとお願いした。できれば女性の方がいいかなと要望を伝えた。
 数日後、我が家から最も近い介護事業所を包括支援センターの職員から紹介された。了解すると数日後、包括支援センターの職員と一緒に介護事業所にいるケアマネージャーと職員がやって来た。契約をすることになった。何枚もの紙に印を押し、契約することになった。更に包括支援センターとも契約するという。包括支援センターとは、市の組織の一部だとてっきり思っていたがそうではなかった。私の住む地域は市の第二包括支援センターがカバァーする地域であった。市内を八つの地域に区分し、それぞれの地域に包括支援センターがある。その地域に住む住民の介護支援を必要とする住民に介護支援の供給をする役割を果たしているのが包括支援センターという組織であった。この組織は市からこの職務を請け負っている民間の組織が包括支援センターであった。
 なぜ市の職務として介護事業を取り組まないのかと私は疑問に思った。「小さな政府論」が具体的に始まっていることを実感した。1980年代頃から「小さな政府論」が言われ始めていた。その頃、福祉はムダ金だ。ドブに金を捨てるようなものだと主張する経済学者がNHKのテレビに出ては発言していた。福祉は新しい富を創り出さない。豊かな富を創り出すものにお金を投資することが豊かな社会を創り出すと主張していた。この主張に私は疑問を持った。そもそも税とは、お金儲けに適さないものであるにもかかわらず社会が存続していくためには絶対に必要なものを提供していく資金になるのが税だと昔、教わった。富の追求を第一義的なものとしているが資本主義経済ではあるがこの原則から除外されたものが財政というものであると教わった。消防署は利益を生まないから廃止と言うわけにはいかないのだ。学校だってそうだ。

醸楽庵だより   1359号   白井一道

2020-03-20 12:30:16 | 随筆・小説



   
 徒然草第183段人觝く牛をば角を截り



原文
  人觝(つ)く牛をば角を截〈き〉り、人喰ふ馬をば耳を截りて、その標(しるし)とす。標を附けずして人を傷(やぶ)らせぬるは、主(ぬし)の咎(とが)なり。人喰ふ犬をば養ひ飼ふべからず。これ皆、咎あり。律の禁(いましめ)なり。

現代語訳
 人を突く牛は角を切り、人を食う馬は耳を切って、その印にする。印を付けずに人を傷つけた場合は、飼い主に咎めがある。人に咬みつく犬を養い飼ってはならない。これには皆、罰がある。仏教の戒律の戒めである。

 わが闘病記13  白井一道
 入院中、元市会議員であった友人が見舞いに来てくれた。彼からアドバイスを受けていた。「介護保険の申請をした方がいいよ」と。私は早速、知り合いの地元の市会議員に連絡をとった。「脳梗塞、視野欠損」という病を得た。「介護保険の申請は可能かな」と言うと「分かった。包括支援センターに連絡しておくよ。職員が訪ねるよう手配しておくよ」という。翌日、早速包括支援センターの職員から連絡があった。病状の確認をしたいということだった。数日後、包括支援センターの職員が一人、尋ねて来た。少し時間をおいてもう一人年かさのいった職員がやって来た。玄関で病状を話した。年の行った職員が医者と同じような振る舞いをして、私が脳梗塞、視野欠損であることを確認するような事をした。日常生活の状態について、まず、食事の準備、後片付け、出た生ごみの処理の現状、生ゴミは火、木、土、市のごみ収集車が回って来る。そのため可燃ごみ置き場まで朝、8時頃までに出さなくてはならないということ、私が入院中、妻はシルバーに頼って、可燃ごみをゴミ置き場まで出していたこと、私が退院後、ゴミ出しは私の役割になっている事、部屋の掃除はほとんどしていないこと、洗濯はベランダの物干し場に私かしている事、買い物は生協の宅配に頼っている事などを説明した。
 ほぼ二時間近く、微に入り際に渡り日常生活の現状を説明した。若い方の職員が私たちの話を聞き、ノートしているようだった。私たち夫婦の話を聞き、包括支援センターの職員は介護保険申請の手続きをしておきますと言って帰って行った。その日の午前中はすべて介護保険申請の現状説明で終わった。妻は草臥れて休まなければ昼食の準備ができなかった。
しばらくすると包括支援センターの職員から電話があった。市の介護保険課から検査のための職員が派遣されていくことになった。その日時をあけて置いてくれということだった。その検査の前日、初めて聞く女性の声の電話があった。「私は市の介護保険課の者です。翌日、午前9時に伺います。家の前に車を置くことは可能ですか」というような電話であった。一切の無駄を省いた事務連絡だった。
 翌日、私たち夫婦は食事を済ませ、玄関の広間に座布団を用意し、待っていた。市から派遣された検査職員は午前9時丁度、我が家のチャイムが鳴った。てきぱきとした化粧気のない女性がそそくさと靴音高く、やって来た。彼女は私に名刺を出し、介護保険申請を受け、検査に来たことを説明し、私の病状を聞き、脳梗塞視野欠損の状況は医者の方から診断書が出ているのか特に詳しく聞かれることはなかった。ただ日常生活で今までできていたことでできなくなったことはないかということを聞かれた。私は特に困っていることはないが、以前と比べてとても疲れやすくなったという事を説明した。手を広げて下さいと言われ、手を広げ、握る事を確認され、足の指の爪を自分で切ることができるかと問われた。確かに足の小指の爪を切ることに難儀していることを説明した。同じような事を妻にも質問していた。
 検査員からの質問を受けていると包括支援センターの職員がやって来た。特に市から派遣されて来た検査職員と知り合いの仲ではないかと思っていたがそうではなかった。包括支援センターの職員と市から派遣されてきた検査職員は初対面であったようだ。検査員がいろいろ私たち夫婦に質問している間中
一言も発することはなかった。
 小一時間近く、質問を受け、検査員がノートし終わるとこの後、審査があります。今度の審査は一ケ月後だからその後、連絡しますと言って帰って行った。その後、包括支援センターの職員は二人とも居残り、介護保険適用を受けた後の事について説明があった。ケアマネージャーを決め、介護支援の業者にお願いすることになると説明であった。

醸楽庵だより   1358号   白井一道

2020-03-19 11:51:06 | 随筆・小説


徒然草第182段 四条大納言隆親卿



原文
 四条大納言隆親卿、乾鮭と言ふものを供御に参らせられたりけるを、「かくあやしき物、参る様あらじ」と人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚、参らぬ事にてあらんにこそあれ、鮭の白乾し、何条事かあらん。鮎の白乾しは参らぬかは」と申されけり。

現代語訳
 四条大納言隆親卿は、乾鮭を天皇のご膳にお出ししたところ、「このような下品なものを天皇のご膳にお出しするものではない」と人に話しているのを聞いて、大納言は「鮭という魚はお出ししてはならないものではなく、鮎の白乾ししたものなど、天皇のご膳に出せないものなのだろうか」と申された。

 わが闘病記12  白井一道
 会計に行く前にお金を下ろさなくてはならない。下にコンビニがあると聞いていた。私はてっきり病院の外にあるものとばかり思っていた。病院の外に出て余りの光に目が眩むようだった。このような光を初めて味わう気分だった。病院の外に出てみてもどこにもコンビニを見つけることができない。二、三分のことだったが、私にはとても長い時間のように感じられた。止む無く私は病院に戻り、妻の友人にコンビニはどこにあるのかなと、聞いてみた。妻の友人は私を誘い、病院内のコンビニに案内してくれた。私はコンビニの中に入り、現金を引き出す機械の前に来て、私にはできるだろうかという不安が起きた。このような不安を今まで感じた事はないにもかかわらず、私は胸がドキドキしている。これはどうしたことだ。決断してカードを差し入れ、金額を入力し、引き出しの決定ボタンを押した。お金が吐き出されてきた。できた。良かった。現実社会の営みに付いて行くことが結構大変な事なのだということを噛みしめていた。私はお金を持って会計に行き、入院費用を支払った。会計課の職員が二か月以内にまた入院するようになった場合は、このカードをお持ち下さいと言われた。この会計課の職員の発言に私は不安を覚えた。脳梗塞は再発しやすい病なのだ。再発する人が数多くいるということなのだと、私は自覚した。この事を妻には言わなかったが私は一人恐れていた。妻の友人が運転する車に妻と一緒に乗せていただき、自宅に帰った。
 四十年以上、住み慣れた自宅の天井が低いのに改めて感じた。今まで自宅の天井がこれほど低いと感じたことがないにもかかわらず、天井は低く、部屋の狭さが身に沁みた。この家の部屋の天井の高さは私が大工さんと話し合い決めたものだ。普通より20センチほど高くしてもらっているはずである。にもかかわらず部屋の天井が低く感じる。この部屋は十畳間である。にもかかわらず部屋が狭く感じられる。人間の感覚というものは病院で感覚していたものと自宅で感じるものとの落差というものがあるのだと自分を納得させた。
 台所の食卓に妻と妻の友人、私が座り、お茶を飲んだ。妻が言った。「Nさんにお礼してよ。本当にあんたが入院していた間、いろいろお世話になったのよ。Nさんがいなかったら、私一人でこの家にいることはできなかったわ」と言った。妻は腰痛持ちである。一人で生ゴミ出しに行くことができない。買い物にも行けない。一人で風呂に入ることもできない。買い物は生協の宅配に頼っている。生ゴミ出しはシルバーセンターにお願いしたということのようだ。自立した生活が不可能になっている。私が入院すると他人の助けなしには生活が成り立たない状況だ。私たちには子供がいない。私たちが若かったころ、妻は不妊治療で入院治療を受けたことがある。私も男子不妊治療として市立病院の泌尿器科に通ったことがある。看護婦さんからここにトイレで精液を採って来て下さいといわれたことがある。当時三十代であった私は病院のトイレの中で一人、マスタベーションする侘しさを味わった。精液を医者の所に持っていくと医者は顕微鏡をのぞき込み、数を数え始める。「いるいる。君、子供を産む能力があるよ」と言われた。それ以来、私は泌尿器科に通うのを止めた。妻は東京の有名な大病院に通い、不妊治療を受けていた。しかし、妻の方にもこれといった理由はなく、妊娠できない理由があるわけではなかった。岳父の協力も得て、遠くの不妊治療専門の病院に妻は入院し、治療を受けたことがある。それでもとうとう妻は妊娠することはなかった。妻もまた、妊娠しない身体的理由はないという結論だった。つまり相性が悪いということで妻は納得した。私も特に何が何でもという気持ちはなかった。