朝日新聞販売所が我が街に無くなった
定年退職後、私は37年間読み続けて来た朝日新聞を取るのを止めた。家内がどこの家でも新聞を取っているのだからと言って、勝手に数か月後又朝日新聞が配達されるようになった。がまた私は三ヶ月ほど朝日新聞を読んでいたが、新聞屋に出向き、取るのを止めた。新聞が配達されなくなると、何か清々とした気持ちになった。新聞をゴミ出しに行かなくて済む開放感のようなものがあった。「どうして、新聞を止めるの」と、家内が言う。「君が新聞を読んでいるのを見たことがないね。君は新聞を読みたいのかな」。「ぜんぜん新聞も読まないのかと、世間の人に思われるのではないかと思って」と家内は言った。家内は世間体を気にしている。だから私は言った。「最近の新聞は広告ばかりで、読むところが少ないよ。こんな広告を見るために新聞代はすごく高いよ。だから朝日新聞を読むのを止めたんだ」と私は言った。「仕事がなくなったから、新聞を読む必要がなくなったというわけなの」。「確かに新聞は仕事上、必要だったという点はあるけどね。『天声人語』など、若かったころのものなど、心に沁みる名文があったように思うな。でも最近は心に沁みるような文章に出会うことがほとんどなくなってしまったように感じている。そけだけ私自身の感性が鈍くなってしまったのかもしれないけどね」と、このような会話を家内とした。
ニ、三週間後のことである。朝日新聞販売店主が自ら訪ねて来た。「今度はどこの新聞をとられる予定ですか」と問われた。私はどの新聞も読むのを止めましたと答えた。私は高校生の頃、新聞を読む楽しみを覚えた。部分的核実験停止条約を巡って、中ソ論争が行われた時など、中国の主張とソ連の主張の違いに胸をときめかして読んだ記憶が残っている。それから五十年近く、私は毎日新聞を読んできた。それでも新聞がなくても読みたいと感じることがない。それには理由がある。インターネットを通じていくらでも好きな文章が読め、好みの動画を見る事ができる。新聞より豊かな世界がそこにはあるように思う。
ネットで情報を検索すると新聞やテレビで報道されている事とは異なった情報がそこにはあるように思う。私は山本太郎前参議院議員の「れいわ新選組」の街宣をyou tubeで見ている。テレビの報道番組やNHKのニュース番組で山本太郎氏の「れいわ新選組」の報道を見たことがない。山本太郎氏は述べている。テレビが私を報道しないのは当たり前のことだ。なぜなら民放が私を報道して何かいいことがあるのかと。民放は広告費として企業からお金を貰っている。広告主の主張を報道してこそ、広告代の請求ができると。NHKもまた同様である。国民からの受信料によって経営しているが、国に予算等を報告させられている。国の政策に反することなど報道できないと発言している。前回の参議院選挙中も「令和新選組」の選挙運動をテレビカメラに収めていたが、選挙前には一切報道されることはなかった。しかし選挙後、民放でもNHKでも報道してくれたと。
私自身、朝日新聞を取るのを止めた直接的な出来事は、朝日の記事内容について、読者担当に電話したことである。朝日新聞社説の内容についてであった。日本独自の対中国政策を持つべきだという主張が今の朝日新聞にはないのかというような質問に対する回答が政府寄りであった。このことに落胆し、私は朝日新聞を読むことを止めた。
山本太郎氏が言うように新聞も民放もすべて国と企業の言い分を主張し、国民のためになるようなことを一切報道しないのが、今の新聞とNHK、民放の現実なのかもしれない。
世論はマスコミがつくっている。だから与党の支持率は高い。現実の生活の中で国民はNHKや民放が報道しているようなことが実感できない以上、政府与党の支持率はほぼ全有権者の四分の一程度を超えることはないようだ。全有権者の17%の得票で自民党政権はできている。
小沢一郎氏が述べているように小選挙区制度のもとでは、自公政権は盤石なものではなく、野党が連合し、選挙に臨むならば、政権を自公から奪うことは可能なのであろう。野党連合政権が成立した暁には、今度は反対にNHKも民放も新聞も野党連合政権のプロパガンダ機関になるのだろうか。いやその時はそのようにはならないのが前回の民主党政権の時のように厳しい批判にさらされることになるのではないかと危惧している。官僚が野党連合政権に積極的に協力することはないように思うし、またマスコミも非協力的かもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます