醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  328号  白井一道

2017-02-28 10:56:28 | 随筆・小説

  谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま 杉田久女

 久女の有名な句ね。私は三十年も前から知っているわよ。
 華女(はなこ)さんは昔、俳句をしていたからね。句労は最近知ったんだ。
 句会に入って知ったのね。
 そうなんだ。
 その句がどうしたというの。
 この間、読んだ久女について書いた本の最後に「この句は文学になっている」と述べてあった。これを読んで気づいたんだ。俳句にも文学になっている俳句と文学とはいえないような俳句があるということにね。
 そんなこと当たり前じゃないの。句労君の俳句が文学だって自信をもっていえないでしょ。
 そりゃそうだね。
 隣のA子ちゃんがショパンのピアノ曲を弾いていたけど、その演奏が音楽だといえるかどうか、疑問でしょ。A子ちゃんのショパン演奏は練習であってそれ以上のものではないでしょ。句労君言っていたじゃない。テレビで森進一の歌を聴いて胸に沁みるねと、けれどこれが音楽だと言われるとちょっと抵抗があると。
 確かにね、演歌だって立派な音楽だとは思うけれどもモーツアルトやベートーベンの音楽とは比べられないよね。
 俳句は大衆文芸だと朝日カルチャーセンターの先生が言ってたけど、そうなんじゃないの。
 俳句は演歌と同じようなものだと言うの。
 そうは思わないけれども俳句は上品なものだと取り澄ますほどのものではないとは思うの。
 なるほどね。
 俳句もお茶や生け花の世界と同じみたいで私はやめちゃったのよ。
 それで華女さんは辞めちゃったの。
 そうよ。一度、茶会に行って嫌だと感じたのよ。その雰囲気を俳句にも感じたのよね。だから俳句を作るのは楽しいんだけれども、先生の所に習いに行くのは嫌なのよね。
 お茶を飲むのは好きだけれども茶会は嫌なんだ。俳句を文学まで高めるには大きな障害が立ちはだかっているようだね。
 芭蕉の時代だって同じようなものだったと思うわよ。商売としての俳句があったというじゃない。
 そうだね。正岡子規の頃も月並み俳諧では文学ではないと考え新しい俳句観を打ち立てて行く中で蕪村を再発見したらしいからね。
 蕪村の句は本当に素晴らしいと思う。立派な文学になっていると私は思うわ。
 君あしたに去りぬ ゆうべの心千々に 何ぞ遙かなる
 君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ岡の辺なんぞかく悲しき
 この詩、誰の詩か、知っている。
 島崎藤村のような詩だね。
 そう思うでしょ。この詩は蕪村の詩なのよ。萩原朔太郎が「郷愁の詩人・与謝蕪村」で紹介しているのよ。この詩を読んだだけで蕪村が如何に近代的な詩人だったがわかるでしょ。
 だから正岡子規は近代文学の基礎を築いたと言えるのかな。たしかに正岡子規の文章は今読んでみても古くなっていないよね。永遠に新しい。不易流行ということなんだろうね。




醸楽庵だより  327号  白井一道

2017-02-27 10:25:37 | 随筆・小説

 俳句は第二芸術 ?
 
 華女(はなこ)さん、桑原武夫という人知っている。
 知らないわ。何をした人なの。
 ぼくが初めて知ったのは、高校生の頃、スタンダールの「赤と黒」を読んだときだ。その本の翻訳者が桑原武夫だった。
 翻訳者なの。
 もちろん翻訳者でもあるけれども京都大学人文科学研究所の所長さんとして日本の言論界に大きな影響を与えた人なんだ。
 その桑原武夫がどうかしたの。
 うん、この間、句会が終わってから宗匠さんと話していて桑原武夫のことを思い出したんだ。
 何か、桑原武夫が俳句について言っていたの。
 桑原武夫は昭和二十年代の初めころ、岩波が出している雑誌「世界」に俳句を貶めるような論文を書いたんだ。もう六十年も昔の話だけれどもね。
 そんな昔の話、どうでもいいじゃないの。俳句は作る楽しみを味わうことができて、読む楽しみを味わうことができればそれでいいじゃないの。それ以上のものじゃないわ。 
確かに、句労もそう思うけどね。
 俳句を貶めるとは、どんな事を桑原武夫は言ったの。
 文学には一級品のものと二級品のものがあるというようなことを言ったたんだ。
 なるほどね。それで俳句は二級品の文学だとでも言ったわけね。
 そうなんだ。「赤と黒」のような小説は一級品の文学だけれども俳句は「第二芸術」だと言ったんだ。
 どうして桑原武夫はそんなことを言ったのかしら。何か、俳句について面白くないと感じることがあったのかしらね。
 当時、俳句界の頂点に君臨していた高浜虚子のあり方について批判したいと思うことがあったのじゃないかと思うんだ。
 それは高浜虚子が俳句を「お俳句」、習い事、お稽古ごとにしていることに文学の堕落を感じたからではないかと思うんだけどね。
 そんなことを言っても俳句は習わなくちゃ、上達しないじゃないの。絵だって、歌うのだって、習って初めて人前に出られるようになるのじゃないの。
 確かにそうだよね。問題はそこにあると思う。俳句が商売になっているような状況があったのかもしれない。俳句を金儲けの手段にしている。これは文学を堕落させると警告したのが「第二芸術論」だったのかもしれない。
 生け花・お茶・踊り・ピアノ。みんなお稽古ごとね。音楽大学のピアノ科を出ても、ピアノ奏者になれる人なんて極々少数でしょうよ。句労君が言っていたじゃない。東京芸大の入学式に学長が三・四年に一人作家がでたら万々歳だと言ったと言うじゃない。
 日本画科に入ったA君の話かな。
 もう、昔の話ね。
 習うにはお金がかかるよね。だからお金を取ることが当たり前になる。だからお金儲けをしようとする商売人が出てくる。当然といえば当然の話だね。
 それで桑原武夫は高浜虚子を俳句の商売人だと断罪したの。
 そうじゃないんだ。俳句という文芸そのものに一級の芸術になり得ない制約があるのではないかと、指摘したんだ。
 ふぅーん。そんなこと、どうでもいいことよ。

醸楽庵だより  326号  白井一道

2017-02-26 12:18:14 | 随筆・小説

 老いて病の話とは、ねー

 年取ると病気の自慢をするという。私たちもそのような歳になったのかもしれない。
 今でもケーブルテレビの人気番組「必殺」に出ている俳優の藤田まことが大動脈瘤破裂で亡くなって久しい。私とほぼ同世代といってもいい立松和平も亡くなって久しい。当時の新聞に発表された死因は多臓器不全であったが、本当の死因は大動脈瘤破裂であったという。昨日まで元気に動き回っていた人が突然亡くなる。そのような激烈な死因となる病が大動脈瘤破裂というものである。古くは司馬遼太郎、河野一郎の死因が大動脈瘤破裂であった。
 友人のNさんは同じ疾患を持っていた。Nさんは七・八年位前健康診断で動脈に小さな瘤ができていることを医者から告げられた。当分特に治療の必要はないが、経過を見てくださいと言われた。半年にいっぺん通院し、瘤の経過を観察した。瘤は年々大きくなった。一年で数ミリ大きくなる。瘤の直径が5センチ以上の大きさになると破裂の危険性があるといわれている。Nさんの大動脈の瘤の大きさが去年の暮れに危険域に達した。手術が必要だと忠告された。現在手術の成功確立は100%だという。手術の心配はないが、いつ破裂しても不思議はない状態だといわれた時は幾分嫌な気持ちがしたという。痛くも痒くもない。何の自覚症状もない。突然ある日、爆発が起きる。そのような病なのだ。「沈黙の殺人者、サイレントキラー」といわれる所以である。動脈からの大量出血が死に至る。藤田まことは体型から見るとメタボじゃなかった。体の動きは若々しかった。しかし体の中は老いていたのかもしれない。この病の原因は動脈の血管が硬くなり、伸び縮みしなくなる。血管が血圧に耐え切れなくなりからの出血が直接的な死因である。
 立松和平は六二歳で亡くなった。元気そのもののように見えた。腹部の動脈に瘤ができていた。それに気がつかなかった。それが命取りになった。年を取り血管の中にゴミがたまる。そのゴミが堅くなる。血管が細くなる。血液を体の隅々まで送り出すためには血液を送り出す圧力を強くしなければならない。血液が体の途中で詰まってしまうと手が痺れたり、足の先が痺れたりする。すぐまた血が流れてきて痺れは瞬間的なもので終わる。すぐ治まる。だから気にしない。そのようなちょっとした体からの情報に重大な情報があるのかもしれない。Nさんは体に気をつけ、注意を払っていたので、無事だった。手術も今は足の付け根にある動脈から道具を入れ瘤の根本を切り、そこに蓋をする。カテーテルとおなじような手術のようだ。このような治療をステントグラフト療法という。Nさんはこのような手術をした。切り取った瘤はそのまま放置する。数日間の入院で退院できる。野手さんは無事退院し、数日間傷口が痛んだが、元気を回復した。Nさんは自分の体の中の状況を知っていた。だから助かった。私たちは病気の自慢をするよりも自分の体からの情報を受け取る能力を身につけることが元気・長生き・ポックリの人生を送ることができるのかもしれない。自分の体を知ることによって残された人生を知ることができればきっと命は輝くに違いない。
 余命を健康に過ごすためには精神的に元気であることが体の健康をもたらすという。それには適度なお酒を楽しむことが一番ではないかと思うがいかが。


醸楽庵だより  325号  白井一道

2017-02-25 12:00:51 | 随筆・小説

  浅川マキを偲ぶ

 かもめ、かもめ、さよなら、あばよ。浅川マキの歌声が耳に残っている。
 何年か前のことである。浅川マキの死亡記事が新聞の三面記事に小さく載った。まだ歌っていたんだ。
「夜が明けたら、一番早い電車に乗るから、切符をちょうだい」。私が学生だった頃、心に沁みた歌だった。窓を開けたまま着替えする女に胸の内を明かすことができない。その女の部屋のドアを叩いた男がいた。成り上がりの男は胸いっぱいのバラを抱えて女の部屋のドアを叩いた。嫉妬に狂った男は女の胸に真っ赤な血の薔薇を咲かせた。かもめ、かもめ、さよなら、あばよ。石川県白山市近傍の漁師町で実際にあった話を浅川マキは歌ったのかもしれない。歌を聴いたとき、私はカルメンのような妖艶な浮気な女に恋をした悲しい男を想像した。その男の哀しみが胸に沁みたのかもしれない。
そんな人間の哀しみを黒い服をまとい黒い帽子を被りハスキーな声で軽く歌った。軽快な低い声に心がこもっていた。
 夜が明けたら、この街を出て行こう。一番早い電車に乗って、あの街はいい街だから。
こんな日本にいたくない。ヨーロッパに行こう。そこは良いところだから、船に乗って日本を出て行こう。こんな気持ちが当時の若者にはあったように思う。一九六八年、七〇年安保闘争が燃え上がっていた頃、浅川マキは「かもめ」「夜が明けたら」という歌でレコードデビューした。
 その頃「書を捨て街に出よう」という本を書いた人がいる。寺山修司である。この本が私の仲間たちの間で評判だった。私は読まなかったが友人の批評が心に残った。「寺山は書を捨て街に出よう、と云っているけど街で何をしたらいいのか、何も言っていない」。勉強を止して街で何して遊んだらいいのか分からない。大学解体を叫んだ学生たちがいた。大学を解体して何をしようというのか、分からなかった。寺山修司もその流れの人だと感じた。だから私は興味も関心も寺山修司に抱かなかった。がしかし、この寺山修司に浅川マキは見出され、歌手になった。
 私は職を得て、しばらくたって、新聞の「折々の歌」欄で寺山修司の短歌を知った。「マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つる祖国はありや」。このを読み、寺山氏への印象が変わった。「祖国」という言葉に権力を私は感じた。祖国」を自分のものにしたいと思ってもその「祖国」は海の霧が深くてつかの間見えてもすぐ見えなくなってしまう。そうだ。まったくそうだ、と感じた。寺山修司と浅川マキ、私が学生だった頃、若者の心を捉えた人だった。浅川マキは享年六七歳だった。前日まで名古屋で演奏会に出演し、最終日の前日、投宿していたホテルで心不全のため亡くなった。湯船に顔半分つけたままだったという。
  みんな夢木枯し吹いた独りの夜
 七〇年安保、全共闘が暴れまわった時代はすべて夢のような出来事だった。本当に馬鹿なことをしたもんだ。私は一人、哲学書を毎日、毎日少しづつ読み進め、論文を書く準備をしていた。その頃、独りっきりだった。浅川マキの死はその頃のことを思い出させた。暗闇の思い出だ。

醸楽庵だより  324号  白井一道

2017-02-24 11:12:32 | 随筆・小説

  酒飲みは何かにつけて理屈(わけ)をいい  詠み人知らず

 酒を飲むには理由が必要のようだ。理由無く酒を飲むことができない。とかく憂き世は住みづらい。憂き世だからこそ浮き世の夢でも見てみようとする酒飲みの気持ちを分かってくれる人が少なくなった、。
 「五割の金を借りても朝酒を飲め」と昔の酒飲みは言ったという。仲間と一泊の旅に行き、朝湯に入り、湯上がりに飲んだ酒の旨さは格別だった。小原庄助さんも朝寝、朝酒、朝湯が大好きだったという。職員旅行の楽しみは年に一回、小原庄助になることだったのかもしれない。
 今頃、職場じゃ、しかめっ面が働いているよ、言い合っては笑いあった。それは今でも同じかもしれない。しかし、今の若い人はお酒を飲まなくなってきているようだ。「酒なくて何のおのれが桜かな」とは、親爺世代の文化なのかもしれない。若かったころ、仕事が終わるとダルマストーブを囲み、酒を飲んだものだった。それがいつしか職員室では酒を飲むことが窮屈になった。仕事が終わっておしゃべりする人もいなくなった。仕事が終わり、気がついてみると誰もいないということが普通のこととなった。職員レクレーションの後、職場で酒を楽しむことが恒例となっていたことが飲酒は厳禁だという通達が来た。
 教員が学校内で酒を飲むことが禁止された。県民の信頼を失わないためにそのような通達があった。酒を飲む行為は県民の信頼を失う事のようだ。だから昔かったようです。江戸の町人ら「酒飲みは何かにつけて理屈(わけ)をいい」というようになったのかもしれない。
 もう勘弁してくださいよ。などといいながらお酒を注がれるとニコニコしながら何杯でも飲む人がいた。「いいや三杯一三杯」際限がなかった。そのような飲み助がいたのも事実のようだ。
「下戸の建てたる蔵はない、御神酒あがらぬ神はなし」などと言っては、酒を勧め、勧められては酒を楽しんだ。そんなことは昔のことになったようだ。忘年会といっても酌をすることは少なくなった。隣の人が気を遣ってくれることがなくなったのである。だから独酌である。宴会であっても独酌が普通のことになった。お酒の飲めない人に無理強いして飲ませるようなこともなくなった。今、飲酒の文化が変わろうとしている。この新しい飲酒文化に対応する新しい酒が生まれようとしているのかもしれない。
 「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」 若山牧水は独酌の楽しみを詠っている。「白玉」とは酒の異名だそうだ。酒が歯に染みる。牧水は虫歯だったのではなく、酒の旨さが心に染みると詠ったのではないかと思う。心に染みるということを歯に染みると表現したのではないかと思う。一人静かに酒を酌み、明月を迎え、月と月に照らされた自分の影と三人で酒を楽しんだ古代中国の酒仙李白のように今、独酌の文化が築かれつつあるように思う。その独酌の文化に対応する酒が特定名称酒、吟醸の酒や無濾過の酒、火入れをしない原酒なのではないか思う。私たちは今新しい文化を築く営みをしている。そう私は思っています。

醸楽庵だより  323号  白井一道

2017-02-23 10:50:57 | 随筆・小説

 降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男

 しんしんと降る雪の中を歩いて母校の小学校に向かう。雪に降り込められて小学校の中は暗かった。この俳句は昭和十一年に発表されたものです。昭和十一年二月二十六日大雪が降った。この日、日本陸軍青年将校が首相官邸を襲い、クーデターを起こす。この事件に触発されて草田男は光り輝いていた明治が遠くになっていくと感じた。これから雪におおわれた冬の時代がやってくる。このような気持ちを俳句に詠んだ。
 明治を代表する人物に乃木(のぎ)希(まれ)典(すけ)という日本陸軍の軍人がいます。日露戦争を勝利に導いた軍人として日本国民から尊敬を集めた。乃木は旅(りょ)順(じゅん)要塞(ようさい)陥落後(かんらくご)ロシア軍将軍ステッセルと清国海軍の兵舎・水師営(すいしえい)で会見する。その時、乃木はステッセル将軍を捕虜としてではなく、軍人として遇した。ここに武士道がある。全力を尽くして戦った敗軍の将を讃(たた)える。ここに礼の美しさがあると小学生の頃、教えられた。この世には強い者と弱い者がいる。弱い者は強い者を崇めるのは誰もがする。強い者が弱い者を崇め、讃えることは難しい。強い者が弱い者を敬うことが礼儀本来のあり方なんだと父に教えられたような気がする。そのような礼儀をわきまえた武士道の精神を体現しているのが乃木(のき)希(まれ)典(すけ)将軍だと教えられた。この乃木将軍は明治天皇が亡くなると奥さん共々殉死(じゅんし)した。乃木の殉死とともに明治は終わったといろいろな人が言っているのを聞いた。その後、乃木神社の神様としても奉られるようになる。乃木は神様になった。
 この乃木希典の精神が現代の若者に継承されている。それは昭和五十年代、大衆居酒屋チェーン店が普及していくとともに大学に入学した新入生を迎えるコンパで「一気」「一気」というビールの飲み方が広がった。その結果、急性アルコール中毒になる学生が救急車で運ばれる事態が増えた。中には死者まで出た。中には東大生もいて社会問題にもなった。それ以来、大学では四月当初、酒の飲み方を教える講座が設けられるようにもなった。このビールの一気飲みを普及させたのが乃木希典だった。陸軍将校を集め、ぶっ倒れるまでビールの一気飲みを強制したのが乃木陸軍司令官だった。
 鉄血政治を掲げたプロシアの宰相ビスマルクの薫陶をうけたプロシア陸軍の精神を体現した乃木希典は二〇三高地攻撃戦では、猛爆撃される中、兵士たちに進軍を命じて、多数の兵士を殺した。将軍は兵士や部下の命など木の葉のようなものだと考えていたのだ。その精神がビールの一気飲みに現れているように思うのだ。またビールという飲み物は一気飲みが美味しいお酒のようにも感じる。
ヨーロッパを侵略したノルマン人は勝利の宴にビールで乾杯した。ジョッキは被征服民の骸骨だったという。その乾杯の言葉・スコールは骸骨を意味する。骸骨をジョッキにして飲む酒がビールだった。


醸楽庵だより  322号  白井一道

2017-02-22 11:19:16 | 随筆・小説

 宝石の国 スリランカ

 私は船橋国際外語学院のマネージャーをしているラリー・ジャヤセカラです。理事長の岩井先生の知遇を得てスリランカから来ました。速いもので、もう七年にもなりました。
 皆さんはスリランカという国を知っていますか。インド半島先端に浮かぶ日本の北海道を一回り小さくした島国です。そんな小さな国ではありますが、日本以上に長い歴史を持つ国です。今から二千年前中国に漢帝国が成立し、地中海周辺地域にローマ帝国が成立すると東西の交易が始まりました。その交易路が皆さんも知っているシルクロードです。そのシルクロードは大きく陸上の道と海の道がありました。その海のシルクロードの中継地がスリランカ共和国のあるセイロン島でした。セイロンティーで有名なセイロン島はもちろん茶の栽培が盛んでありますが、それほど歴史があるわけではありません。今から二百年ほど前イギリス東インド会社が持ち込んだものです。古くから世界的に有名であったのは宝石の島として、海のシルクロードの中継地として有名だったのです。今でもいろいろな宝石がでます。キャッツアイという宝石は世界的に有名です。サファイアも有名ですよ。交通事故で亡くなったイギリスのダイアナ妃がチャールズ皇太子から贈られたサファイアの婚約指輪はスリランカ産のものでした
 島の中央には高い山があります。その山頂付近では雪も降ります。ですから高原地域は気温も低くしのぎやすいです。日本に来て感じたことは、四季があることです。春や秋があることに季節の素晴しさを感じました。日本の夏はスリランカと比べて蒸し蒸しするように思います。スリランカではいつも爽やかな風が吹いています。だらかもしれません。日本はまた平和な国だと思いました。スリランカは小さな島国ですが、シンハラ人とタミル人という言語も宗教も異なった人々が住んでいます。シンハラ人が多数派で九十パーセントです。タミル人は少数ですが、インドにシンハラ人の何倍ものタミル人がいます。シンハラ人は仏教徒ですが、タミル人はヒンドゥー教徒です。イギリスによる植民地支配の負の遺産が残っています。それが新聞を賑わしているテロの問題です。日本にはこのような問題がありません。アジアの若者にとって日本は憧れの国です。日本はヨーロッパ諸国の植民地になることなく、独立を守り通し、ヨーロッパ諸国と肩を並べる先進国工業国になったからです。
 日本製の電気製品を持つことはアジアの若者にとってステイタスシンボルです。日本に来て日本語を学びたいと思っているアジアの若者は数多くいます。しかしいろいろ困難な問題があり、誰でも希望すれば日本留学が実現する状況ではありません。それが残念に思います。
 スリランカとは、シンハラ語で光り輝くという意味です。宝石の島ですから。その宝石の島がアジアの若者にとっては日本なのです。日本は光り輝いています。
 スリランカは赤道直下の国ですから沿海地域の低地では一年中暑い。ほぼ平均気温が三十度前後です。日本のような四季がありません。気候は乾季と雨季にわけられます。雨が降り出すと毎日のように雨が降ります。日本の何倍も降ります。


醸楽庵だより  321号  白井一道

2017-02-21 12:09:06 | 随筆・小説

 発酵道を読んで

 冬の芽やめぐみ孕みてふくらみぬ  一道

 自然の摂理を受け入れたら自然のめぐみを得ることができた。
寺田啓佐著「発酵道」を読み、このような感想をもった。寺田啓佐さんは、千葉県神崎町の酒蔵の蔵本である。「五人娘」という銘柄の酒を醸している。十四・五年前になるだろうか、近所の酒販店でなんとなく手に取り買い求めたことがある。飲んでみてとてもおいしかったという印象が残った。それ以来、「五人娘」というお酒は脳裏からはなれたことがない。だからといっていつも買い求め、飲み続けてきたのかというとそうでもない。千葉県のお酒というと、「岩の井」「腰古井」「東薫」、なかでも特に「腰古井」は、軽快でのどごしがよく、買い求めては飲んだお酒である。
 先日、「朝日ニユースター」のテレビ番組を見ていたら寺田啓佐さんが、出演していた。寺田さんは私と同世代の方である。ソフトな優しい話しぶりに好感がもてた。その番組で紹介されていた本が「発酵道」である。興味をもち、買い求めめ読んでみた。
 この本の最後は「ありがとうございます」という日常生活で使い古された平凡な言葉で終わっている。私はこの言葉を読み終わったときに落涙してしまった。「ありがとうございます」という手垢のついた言葉が胸に沁みたのである。きっと寺田さんの気持ちがこの言葉にこもっていたから寺田さんの気持ちが私に伝わったのかなと思う。
 酒造会社が競争をしては、いいお酒は醸せない、と寺田さんは言う。凄い主張だ。競争することが安価で良い製品を消費者に提供すると世の人はみな言う。学校でもそう教える。神の見えざる手が働いて人々の生活を豊かにする、と政経や現代社会の授業で講義する。この中にあって、寺田さんは競争しないという。助け合うことが大事だという。微生物は助け合っている。微生物は自分が好き。自分の役割を心得ている。自分の役割を終えると、次の微生物にバトンタッチしていく。そうして微生物が恵んでくれるのがお酒なのだという。
 お酒を腐らせてしまう火落ち菌にも何か役割があるのではないかという。肯ける話だ。徹底的な消毒は良い菌も殺してしまう。徹底的な消毒に疑問を投げかけている。納得する話だ。
 学校にあっても徹底的な消毒をすることに私は疑問をもつ。一人一人の生徒が学校のなかにあって自分を好きになれる場をつくらなければならない。一人一人の生徒が学校の中に居場所があり、役割がなければならない。生徒間の競争を煽るようなことをすれば、生徒たちは孤立し、心を閉じてしまう。これは学校が腐っていくということだ。生徒同士は協力し、助け合い、礼儀をわきまえるなら学校は発酵を始めるにちがいない。しかし、現実は悪いとみなした生徒を他の生徒から隔離し、徹底的に生徒の非を責める。最終的には排除する。これは酒造りにおける消毒のように思う。消毒しなければ、悪い菌が蔓延し、学校が腐ると恐れている。
 勇気をもって自然に任せる。自然の摂理にしたがって、自然の恵みをいただくという精神は生徒を信頼するということだと思う。勇気をもつということは自然を信じる事でもある。


醸楽庵だより  320号  白井一道

2017-02-20 11:04:35 | 随筆・小説

 地域の外国人支を支援する人

  冬の芽や耐えて大きな花となれ  一道

 日曜の朝、庭に出てハナミズキを見上げました。葉の半分が落ち、残った半分がまだらに紅葉していました。朝の青空にハナミズキの樹形を眺めました。樹形をじっと見ていると枝の先端に丸い小さな蕾を見つけました。この小さな蕾は厳しい冬の寒さに耐え、春になると花を咲かせてくれるるのだなとハナミズキの命の息吹を感じました。
 Kさんは一人で野田在住の外国人をサポートするボランティアをしていると聞き、同行しました。Kさんが運転する小さな車は居酒屋やスナックが並ぶ四階建てのビルの前に駐車しました。居酒屋にでも入っていくのかなと思っているとビルの裏側に回り手すりの付いた鉄の階段を上り始めました。最上階まで元気にのぼっていきます。いくらか私の方が若いのに息が切れそうなくらい急な階段です。最上階に着くとここに段差があります。気をつけて下さいとアドバイスをいただきました。廊下に設置された洗濯機が夕暮れの
中で音をたてていました。すると左側の一番奥の部屋のドアが開きました。
 「遅くなってごめんね。今日は友人を連れてきました。」と言うと玄関が台所になっているアパートの中の一室にKさんは入っていきます。私も後についています。二畳ぐらいの台所兼入り口を抜けると三畳ぐらいと感じられる畳の部屋にテレビとソファーが置いてありました。そこに大脇さんと私、四十前後のフィリピン人女性が座りました。小太りの女性には少し窮屈そうに見えました。
 Kさんは早速書類を取り出し、本人に確認をしながら記入し始めました。これでは振り込めないと言われましてね、とフィリピン人に説明しながら仕事をしていきます。何の書類なのかなと思っていると「確定申告は五年さかのぼってできるということなんですがね、まぁーいろいろありまして二年間さかのぼって申告したところ、還付金を柏税務署が振り込んでくれることになりました。これが振込先を記入する署名なんです。銀行名と銀行支店名の記入が無かったため振り込めないという通知があったんです。」と説明してくれました。柏税務署行きという封筒に書類を入れ、のり付けし、裏面に署名してあげていました。この仕事が終わると女性はこの書類が読めないと一枚の紙を出しました。見ると身元保証書とありました。
 ミンダナオ島出身の女性の妹さんが姉さんを頼って日本に来るというようなことらしい。その妹さんの身元保証をお姉さんがする保証書だった。女性には英語が通じるようだ。これはギャランティーだ、と大脇さんが説明すると女性は納得した。これはイヤー、これはマンス、これはデイ。ナショナリティー、アドレス、ネーム、次々と説明しながら日本語を英語に変えて書いていく。「法令を遵守します。」というところでちょっと詰まってしまいました。私も何と言うのかなと思っているとキープ・ザ・ロウとKさんは英語で書きました。さすがだ。
ゴミ分別の方法も英語を日本語の下に書いたところ、ゴミを分別するようになり、コンビニにゴミを捨てなくなったという。Kさんは大きな花を咲かし初めているようだ。


醸楽庵だより  319号  白井一道

2017-02-19 12:28:55 | 随筆・小説

 居酒屋探訪 北千住の小さな居酒屋

 夕暮れて狭い路地に赤提灯が灯ると仕事を終えた男たちがそぞろ歩き始める。目的地がはっきりしている男たちは自宅の玄関の戸を開けるがごとくに居酒屋に消えていく。夕暮れ時の飲み屋街は男たちのオアシスである。
 日光街道筋の宿場町として繁盛した北千住には、往事の庶民の俤を偲ぶよすがが残っている。狭い路地、赤提灯を灯した小さな居酒屋の数々、猥雑な賑やかさ昔は小便の匂いが漂っていたのかもしれない。
 北千住駅前でOさんと待ち合わせをした私たちは、Oさん馴染みの居酒屋にむかった。その居酒屋「いっちゃん」は細い路地の行き止まりにあった。暖簾をくぐると口開けだった。七人が腰掛けるといっぱいになってしまうカウンターだけのそれはそれは狭く小さな居酒屋だった。Oさんは、生ビールの中ジョッキを手に持つと勝手知ったるがごとくに樽からビールを注ぎ始めた。私も中生を一杯お願いした。午後六時までに入った客は、中生一杯三百円なんだ。そうそう、馴染みさんへの出血サービスですよ、と主人がのべた。
 客が入ってきた。Oさんが挨拶をかわした。主人は黙って下を向いて包丁を動かしていた。その客もまた自分で生ビールの中ジョッキを取ると独りで生ビールを注いだ。「台風は直撃をまぬがれそうだな。雨もそれほどでないよ。」「そりゃ、よかった。」
 男たちは、自宅にいるような気安さで話し始めた。職場の人間関係から解放され、父親から解放され、夫からも解放された男たちは、ただ一人の男としてここにいる。この空間に居心地の良さを発見した男たちが集まってくる。一人で行くことができる。そこにはそこだけの仲間がいる。日常の会話を楽しむことができる。酒はその話の潤滑油である。
 一人づつ、客が入ってくる。Oさん、今日はそっちに座っているの。うん、 今日は連れがいるんでね。Oさんには指定席があるようだ。常連の客にはそれぞれの指定席があるようだ。夕方六時、間際になると店は客でいっぱいになった。それでも七人である。その中の二人が地図を取り出し、話しこみはじめた。温泉旅行の話のようだ。この居酒屋の客だけでいく温泉と酒と蕎麦を楽しむ会のようだ。候補地を酒を飲みながら探すことが楽しくてしょうがない様子だ。これが酒のつまみになっている。
 私はOさんと同じく生ビールを飲んだあと、獺祭(だっさい)の大吟醸を頂いた。なんと一杯五百八十円だった。安い。他の店だったら千円はするかもしれない。山口県岩国市にある小さな酒蔵の酒である。獺祭をいただいたあと、高千代の巻機をいただいた。つまみを一品注文し、熟年を迎えた男たちの話を聞く楽しみをもった。
 Oさんは、冷やのコップ酒を二杯飲むと終わりのようだ。それ以上飲むと翌日に残るといっていた。切れのいい酒飲みだ。電車を乗り過ごすこともないだろう。このような酒飲みでなくてはならない。こう思った。中生一杯とおいしいお酒を二合弱。居酒屋「いっちゃん」は、
人肌のぬくもりを求めて東京・下町のロケーションの中に男が集まる居酒屋だった。