醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   67号   聖海

2015-01-21 11:18:48 | 随筆・小説

 桜より松は二木(ふたき)を三月越シ   芭蕉

華女 「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ」という芭蕉の句、何を表現しているのか、ぜんぜん分からない句ね。
句郎 確かにこの句を読んだだけでは、分からない。
華女 読んだだけですっきり入ってくる句でなければ、読者はいなくなっていくのじゃないかと思うわ。
句郎 三百年前の人には読んだだけですぐ読者に分かってもらえた句だったかもしれない。
華女 そうかしら。
句郎 この句は歌枕「武隈の松」として知られている処で芭蕉が詠んだ句だ。
華女 芭蕉は歌枕を巡礼しているのね。歌枕「武隈の松」はどこにある松なのかしら。
句郎 阿武隈川を渡ると岩沼市がある。仙台松前街道の宿場町、岩沼宿に武隈の松といわれる幹が根元から二またにわかれた二本の松がある。この松のことをいう。
華女 その二本の松が有名になった理由は何なの。
句郎 「武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ」と能因法師が詠んだ歌がある。能因法師は陸奥に二度下向した。陸奥へ二回目下向した時に武隈の松は跡形もない。千年後にまた来てみよう。「後拾遺和歌集」にこの歌がある。
華女 芭蕉はいろいろな歌を覚えていたのね。
句郎 芭蕉は能因法師の歌を偲んで読んだ句が「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ」という句ではなかった。芭蕉が江戸を立ち、陸奥へ旅立ったときに門弟の挙白(きょはく)が「陸奥の遅桜(おそざくら)よ、師の芭蕉翁が陸奥に見えたら、武隈の松をお見せしなさいよ」と「武隈の松みせ申せ遅桜(おそざくら)」の餞別の句を詠んでくれた。この餞別の句に答えた句が「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ」という句だ。
華女 そんなことがあったとどうしてわかるの。
句郎 「おくのほそ道」に書いてあるんだ。
華女 なーんだ。そうなの。
句郎 元禄時代、俳諧を楽しむ人々にとって岩沼宿にある武隈の松は誰でも知っている名所だったのかもしれない。
華女 元禄時代の名所の常識は今に伝わっていない訳ね。
句郎 そんなことはないよ。今でも武隈の松は幹から二本にわかれたどこにでもありそうな松が岩沼市の名所になっているらしいよ。
華女 じゃー、今でも芭蕉の句に親しむ人はここが武隈の松なのねと尋ねる人がいるわけね。
句郎 そうなんじゃないかな。インターネットに写真が載せられている。
華女 おぼろげに「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ」と句の意味が分かってきたような気がするわ。
句郎 岩沼宿で私を待っていてくれたのは桜の花ではなく幹から二本の松になっている武隈の松でした。三月を経て私は武隈の松に会うことができました。武隈の松を見ることが喜びを門弟の挙白に伝えた句がこの句ではないかと思う。
華女 平安時代の末期、能因法師が岩沼を通った時には跡形もなかった武隈の松が元禄時代には昔と同じような幹が二本に分かれた松が植えられていたのね。
句郎 岩沼に住む人々は千年前の武隈の松を枯れては幹から二本に分かれた新しい松を植え、守り通している。
華女 能因法師が歌に詠み、芭蕉が句を詠む。その歌や句が後の人に読み継がれていく。詩歌の力は人々を動かし、名所を作り続けていくのね。
句郎 歌枕が人々の心に生き続けていく。それは地域社会を作っていく力なのかもしれない。
華女 それが文学というものなのかしら。
句郎 社会が存続していくには文学は必要なものなのだろうね。