行春や鳥啼(な)き魚(うお)の目は泪(なみだ) 芭蕉
句郎 「行春や鳥啼き魚の目は泪」この句を華女さんはどのように鑑賞する。
華女 インターネットで調べてみたら、こんな風に書いてあったわよ。「過ぎ去
っていく春との別れを悲しんでいるのであろうか、鳥は悲しそうな声で
鳴き、魚の目にはなみだがたまっているようだ。見送る人たちは、いつ
までもいつまでも芭蕉を見送りました」とね。
句郎 なるほどね。春を惜しむ気持ちに芭蕉は親しい門弟たちとの別れを惜
しむ気持ちを重ねているということかな。
華女 そうなんじゃないしからね。
句郎 そうするとこの句は留別の句、別れを惜しむ句ということになるかな。
華女 違うの。句郎君がよく引用する長谷川櫂も「見送りに来た人々が別れ
を惜しむようすを、鳥や魚の姿を借りて描く。比喩を用いた現実の描
写である」とこのように言っているわよ。
句郎 別れを惜しむ句だと読む人が多数のようだね。でも僕はちょっと違う
ように感じているんだけど。
華女 どこが違うの。
句郎 俳句とは季語を詠む。季語を表現する文芸だと教わったような気が
するんだ。この句の場合「行春」が季語だよね。この季語に春を惜し
むというイメージもあるようには思うけど、「惜春」という春を惜しむ季
語が別にあるでしょ。だから「行春」と「惜春」とは違うと思う。「行く道
なをすゝまず」と書いているから後ろ髪をひかれる気持ちは同時に別
れを惜しむ気持ちではあるかもしれないけれども、芭蕉は見送りに来
た人々に振り返り、頭を下げたりはしなかったのではないかと思う。一
心に前を向いたまま、一歩一歩、歩いたのではないかと思う。
華女 どうして芭蕉は見送りに来てくれた人々に振り返らなかったと思うの。
句郎 放浪の俳人、山頭火も見送りの人に絶対振り返らなかったというよ。
もう二度と会うことはないかと思うと辛くて辛くてしかたがなかったの
で振り返れなかったと山頭火は言っている。きっと芭蕉もそうだった
のではないかと思う。
華女 へぇー、そうなの。その気持ち、分からないでもないけれど。
句郎 この句は別れを惜しむ句ではない。淡々と行く春を受け入れている。
そのような気持ちを詠んだ句ではないかと思う。
華女 季語「行春」のイメージとはどのようなものなの。
句郎 古今集に小野小町の歌「花の色はうつりにけりな いたづらに 我が
身世にふるながめせしまに」という歌があるでしょ。この歌に「行春」と
いう言葉はないけれども行く春、暮れていく春が表現されていると思う。
華女 小野小町は自分の容色が衰えていくことを淡々と受け入れている。こ
こにこの歌の魅力があると私は思うわ。
句郎 そうでしよ。だから別れを惜しむというのは、引きずっているでしょ、そ
のような人情を引きずることなく、芭蕉は前を向いて歩いて行ったので
はないかと思う。
華女 だったら句郎君はこの句をどのように読むの。
句郎 春が暮れていくように人と人との情もまた暮れていく。その哀しみに鳥
は鳴き、魚の目には泪が溜まっている。その泪に耐え、私は旅立つ。