本の感想

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富岡鉄斎展(京都国立現代美術館)

2024-05-23 23:18:37 | 日記

富岡鉄斎展(京都国立現代美術館)

 私はむかし、自分の保身と出世のためにヒトを踏みつけにして何ら痛痒を感じない厚顔無恥な上司同僚と、自分の利益を引き出すためにどんなにヒトを利用しても平気な顧客にうんざりしたことがなんどもある。そういう時、ブックオフで贖った富岡鉄斎の画集の中ののんびりした人物を見るのを常にしていた。それは少年少女が贔屓の美女美男俳優のブロマイドを見て、今に自分もこのような華やかな世界にという思いを抱くのと同様である。今に自分もこのあほらしい連中と縁を切って自然の中でのんびりした生活を送ってやるの決意表明である。いまだにあのあほらしい連中にむかっ腹が立つので、本物の鉄斎を見に行って腹の虫をおさめようと京都まで出かけた。

 中国の山水画とは全く異なる描き方である。また大観のように朦朧とした空気を描かない。山や岩や森はそのままに写さないで、よく自分の頭の中に納めておいて十分発酵したところでやっと思い出して描いたという印象の絵画である。(だからこの世のどこにもないような岩山や森を描いている。)しかも大きな画面に細密に描くので迫力がある。人物画はほとんどないが、あるとすると寒山拾得風の欲のない風情である。鉄斎の岩山と森と欲のない人物を見るとホッとする。

 それなら鉄斎は欲のないヒトであったかと言うとそうではないだろう。攘夷の志士梅田雲浜と交際したというから激情型のヒトであったとみられる。(ミケランジェロも政治運動にかかわったというから、芸術家の中にはこのタイプのヒトも多くいそうである。)激情型のヒトの絵を見てホッとするのは道理に合わない、ホッとしたいなら直接自然を見に行く方が合理的なような気もするが、やはり鉄斎のクネクネと曲がったような岩山を見てホッとしたのである。激情型のストロングマンの描いた絵を見て一緒に強くなりたい気分がこちらにあるのだと推量する。ホットするだけではなく、信念を持った強く生きるヒトからパワーを貰いたいのである。

 自分の絵はまず「賛」から読んでくれと発言したらしいが、観客の中に「賛」を読んでいる人はまずいなかった。旧字体の漢字の意味を我々はもう取れなくなっている。意味は遺憾ながら分からないが、鉄斎が画家である前に詩人であったことは見て取れる。そうして恐るべきことに人生の一時期だけ詩人であったのではない、生涯を通して詩人であったようだ。だから絵に独特の脱俗の味わいがあってそれが一生変化しなかったとみられる。これが「強いヒト」の成り立ちであろう。鉄斎にナントかあやかりたいものである。やれ外車だタワマンだと他人にマウントをとれる立場に立つことが、「強いヒト」の条件だと思い違いをしているひとが本当に多くなった。これが、世の中の雰囲気を悪くするだけではなく、思い違いをしている本人の人生を破壊していることを、鉄斎さんにお叱りいただきたいものである。

 

 展覧会のタイトルは「最後の文人画家」というのである。それはいけない。「万巻の書を読み万里の道を往く」文人画家はもうこの人で終わりというわけではない。これからもこのような芸術家に活躍してもらわないといけない。「巨大な文人画家」とするのがよいタイトルの付け方である。