都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

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小平市の歴史 第7回

2005年11月01日 21時38分46秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
2章:開拓の章(つづき)
2、小川村開拓(3)
 小川村の入村はその年十一月から始まり、わずか二ヶ月で四十六人が入った。
 尚、九郎兵衛が一番最初に鍬を下ろした場所と伝えられているのが、小川町二丁目の、青梅街道と鎌倉街道の交差点であり、かつては「石塔が窪(せきとうがくぼ)」という地名であった。江戸時代末期までは大きな石碑があったそうである。
 この後、小川村は多大な苦労の中、開拓が進んだ。九郎兵衛は寛文(かんぶん)九年(一六六九年)十二月七日に没した。
3、享保の新田開発
 小川村の開拓は進み、元禄二年(一六八九年)頃には開墾する所がほとんど無くなっていた。そこで新たに目がつけられたのは、小平村周辺の入会地(いりあいち)(共有の落葉・採草地のこと)であった。
 そんな中享保(きょうほう)元年(一七一六年)、徳川吉宗が八代将軍に就任した。吉宗は享保の改革を進め、財政再建のため幕府の就任を増やすことを目的に、全国的に新田開発を行った。
 享保七年(一七二二年)、新田開発を奨励する高札が日本橋に出され、武蔵野の人々は次々に幕府に許可を申し出た。そして享保九年(一七二四年)、小平でも新田開発が認められ、以後、小川新田、鈴木新田など、小平では次々と新田開発が行われたのである。
 尚、ここまで小川九郎兵衛が開拓した地域を「小川村」と書いてきたが、この地域は開拓当初「小川新田」と呼ばれていた。しかし、今見たように享保年間に新しい「小川新田」が誕生したのに伴い、それまでの小川新田は「小川村」に改称された。(つづく)(執筆:研究関連担当代表<前・会長全権代行>)

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