甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

ごあいさつ

2007-12-12 11:50:20 | 御挨拶 (始めにお読みください)


 私・甚六の拙いブログにお越しくださってありがとうございます。
 このブログでは盛岡近辺・岩手県内の見どころ・食べどころなどを私自身の体験を通してつづっていきたいと考えています。また、時には我が家の変な猫の様子もご覧いただきたいと思います。
 「盛岡散歩」のカテゴリーでは主に盛岡の神社仏閣歴史的建物などを訪れてレポートしますが、私の知識の足りない部分は各施設のパンフレット、現地の案内板の他、以下の図書やウェブサイトを参考にさせていただいています。

【図書】
「岩手県の歴史散歩」岩手県高等学校教育研究会地歴・公民部会 歴史部会日本史部会編 山川出版社 2006
「盛岡もの識り検定試験参考書 もりけん本」文化地層研究会編 盛岡商工会議所 2007
「盛岡町家 盛岡市街並み保存活用計画調査報告書」盛岡市街並み保存活用計画策定協議会企画編纂 盛岡まち並み塾 2007
「いわてのお寺さん 盛岡とその周辺」北稿房E&R/外内英子 テレビ岩手 2005
「シリーズ藩物語 盛岡藩」佐藤竜一 現代書館 2007
「もりおか歴史散歩」アップル編集部 東北堂 2006
「岩手県市町村地域史シリーズ1 盛岡市の歴史」長岡高人 熊谷印刷出版 1991
「ぶらり盛岡 河北版/河南版」ぶらり盛岡研究会 2002
「盛岡ノート」立原道造 東山堂 2007
「一握の砂・悲しき玩具」石川啄木 新潮文庫 2007
「岩手県の歴史」細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏 山川出版社 2004
「いわて歴史探訪」岩手日報社 2006
「岩手の戦争遺跡をあるく」加藤昭雄 熊谷印刷出版部 2006

【ウェブサイト】
財団法人盛岡観光コンベンション協会
盛岡商工会議所
盛岡タウン情報
テレビ岩手 夢見るピノキオ


 このブログ全体を通して、間違った記述等ありましたらお知らせください。
 また私は専門家ではありませんので、このブログからの引用はおやめください。

河南の寺町散歩2

2007-12-12 11:24:30 | 盛岡散歩
 


 ・木津屋本店 南大通二丁目

 真っ白な漆喰壁と大きく張り出した「うだつ」(防火用建築様式)が印象的なこの建物は、OA機器や文具等を扱う「木津屋本店」の総務部事務所として現在も使用されています。
 現在は静かなこの地区ですが、藩政時代には「惣門」がすぐ近くにあり、盛岡の南の玄関口としてにぎわった場所らしいです。
 大慈寺や十六羅漢の宗龍寺を焼いた明治17年の大火では、この建物のうだつと「昆布むしろ」などの備えで、ここで火を食い止めたということです。天保5年(1834)の建物が現役で使えるのも、うだつのおかげなのですね。このうだつとは、「うだつのあがらない」などというときの「うだつ」だそうです。



 ・惣門跡

 木津屋さんのすぐそばにある惣門跡の碑です。



 ・新山御蔵(下町資料館)  南大通三丁目

 円光寺の裏手にある、というより明治橋へ向かう道路沿いにあります。
 現在の明治橋より少し下流の北上川左岸は「新山河岸(しんざんかし)」と呼ばれ、川舟で運ばれる物資を荷揚げした場所でした。そのそばにあったこの御蔵は盛岡藩の米の備蓄蔵であり、湿気を防ぐ高床式になっています。長さ30mもあります。屋根は空気断熱層を備えた二重構造になっているらしいです。
 現在は資料館になっているのですが、開館日が非常に限られているため、見学するときは事前に確かめなければなりません。
 明治橋付近は現在も交通の要所となっており、長い長いこの土蔵を写真におさめようと道路の向かい側からカメラを構えるものの、信号待ちの車の列ができてしまってなかなかシャッターを切ることができませんでした。



 ・明治橋碑

 御蔵から道路をはさんだ向かいがわにあります。
 この近辺は「新山河岸」としてにぎわったところですが、江戸前期には橋がなく、舟渡しでした。延宝8年(1680)に舟橋が完成したものの翌年流失。その後土橋がかけられるも、やはり流失し、再び舟橋に。明治7年(1874)に木造の明治橋がかけられ、現在の明治橋になったのは昭和7年(1932)のことです。
 この「舟橋」はかつて盛岡の名所として知られるものだったようです。両岸の柱に固定した鉄の鎖に何艘もの舟をつなぎ、舟の上に橋板を並べて橋としたもの。この場所の上流では雫石川と中津川が北上川に合流しており、水量豊富な場所でもあります。増水時には橋板を外して舟を引き上げたそうです。舟橋に使われたと言われる鉄の鎖が岩手公園内にあるようです。



現在の明治橋