甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

岩手公園2

2007-12-29 16:05:33 | 盛岡散歩
 岩手公園といえば石垣。今日はこれでもかというほどの石垣づくしをお届けします。




 ↑櫻山神社の右手、かつて鳩御門があったあたりが北側の入り口です。入ってすぐの右側がこの石垣。このあたりに宝永2年(1705)の石垣普請奉行銘石があるはずです。
 石と石との隙間がほとんどない、きれいな切込接(きりこみはぎ)です。




 ↑一枚目の写真の向かい側です。傾斜しているラインにそって算木積(さんぎづみ)で角を作り、強度を持たせています。




 ↑上の2枚からほんの少し上に移動。瓦御門跡付近。算木積の美しさが分かるのはこういう部分だと思います。長方形の石を長辺・短辺交互に積んで角を作っています。くっきりしてます。




 ↑車御門跡付近。背後に教育会館の建物が見えています。この近くに啄木の歌碑があります。
 この石垣を土台にして門があったのでしょうか?小さな石組みですが、だからこそ組み方が難しそうです。




 ↑二ノ丸から吹上馬場に向かって行きます。御二階櫓南西角。
 どうやら私は算木積のすっきりした角のラインばかり追いかけているようです。




 ↑虎屋敷跡付近から二重隅櫓(大櫓)跡を見るとこんな感じになります。ずっと奥に小櫓跡も見えて、三重の角です。角・角・角。算木積ファンにとってはたまらない場所です。




 ↑米内蔵跡付近から。青い空に映えます。昭和・平成の大修理で復元されたのはこの石垣のはずです。(上、下の写真も含めて)




 ↑南西角。角の傾斜が直線ではなくわずかに曲線を描いています。これにもきっと理由があるはず・・・。




 ↑菜園通り側出口に向かって、石垣も斜めに下がっていきます。




 ↑石垣の斜度が切り替わっています。侵入者をよけるためでしょうか。それとも排水のためでしょうか。上の方に穴がありますが、蛇口跡(排水口跡)でしょうか、それとも矢穴跡でしょうか。専門家の話を聞いてみたいです。

 石垣の美しさは、場所にあわせてきっちり丈夫に組んでいく機能美なのですね。まだまだ見落としているポイントがたくさんあります。石垣の世界は深い。

岩手公園1

2007-12-29 00:22:11 | 盛岡散歩
 岩手公園のレポートをアップしないうちは仕事納めになりません。写真の写りがよくなかったり(いつものことですが)、撮り忘れたポイントがあったりで、もう一度岩手公園を歩くつもりだったのですが、それは来年への宿題ということで。
 3回シリーズでお届けします。今日は岩手公園北側をレポート。



・時鐘  内丸四

 中央通から鳥居をくぐって左手にある内堀跡・鶴が池のほとりにある時の鐘。延宝七年(1679)小泉仁左衛門清則により鋳造されたもので、市指定文化財になっています。日影門外時鐘と言われ、現在の中央郵便局裏(外堀土塁上)にあったものですが、明治維新後にこの地に移され、昭和30年(1955)年頃まで実際に時を告げていました。
 戦時中の金属供出を免れたのはなぜなのでしょう。利祥公の銅像も供出しているのですが・・・。時の鐘はそれほど大切にされたということでしょうか。
 今でも時の記念日(6月10日)正午と大晦日の除夜の鐘として鳴らされているそうです。




・櫻山神社

 南部氏の始祖・光行、初代藩主・信直、2代藩主・利直、11代藩主・利敬を祭神として祭っている神社。城内腰曲輪の淡路丸に寛延2年(1749)創建されたものが明治維新で移され、他所を経て明治32年(1899)にこの場所に移されました。1月26日には裸参りが行なわれています。この場所にはかつて藩の勘定所がありました。狛犬の右側は火消しの1番組、左側は2番組が奉納。神門は綱御門(大手門)の木材で作ったと言われており、また江戸藩邸にあった「おもかげ地蔵尊」や高橋萬治作の灯篭もこの神社の入り口付近にあります。
 年の瀬だからでしょうか、神門には茅の輪が設置してありました。



・烏帽子岩

 盛岡城築城時、かつて八幡社のあった傍らに三角状の岩があり、掘ってみたところ烏帽子に似た二丈ばかりの巨大な岩が現れたため、利直公はこれを瑞兆として喜び、この岩を宝大石として崇めました。災害・疫病などがあった時など、この岩の前で神事が行なわれ、南部藩盛岡の「お守り岩」とされました。
 ↑の写真は櫻山神社右側の階段を上がって撮影。↓は反対側の三ノ丸側から。