甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

岩手公園3

2007-12-30 16:39:59 | 盛岡散歩
 啄木が盛岡中学を窓から抜け出して寝転んだ城跡は当時荒れ放題だったようで、まさしく「お城の草に」といった風情だったのでしょうけれど、その後公園として整備された時は随分とハイカラに見えたようです。
 現代の岩手公園は、お散歩はもとより花見にデートにお外ランチに、新興宗教やデモ行進の集合場所としてまで、実に多彩に気楽に使われています。
 そんな「公園」としての姿と、数少ないお城の遺構を。
 


 ↑石川啄木歌碑。記されているのは「一握の砂」に収められている歌。

  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心

 このあたりから盛岡中学跡(現岩手銀行本店)が見えるそうです。
 私はてっきり、啄木は上田の現盛岡一高を抜け出してはるばるここまで来たのだとばかり思っていました。遠すぎますよね。
 この碑は昭和30年南部藩士邸にあった庭石を使用して建立されました。歌は啄木と親交の深かった金田一京助の筆によるものです。
 啄木の歌はセンチメンタルなものが多いように思いますが、この歌からは晴れ晴れとした気分が感じられ、私は気に入っています。




 ↑新渡戸稲造の碑。

  願わくはわれ太平洋の橋とならん

 「太平洋のかけはし」だとばかり思っていました。勘違い。
 この言葉、明治16年(1886)21歳の新渡戸が東京大学選科生となる面接試験で「英文学を学ぶ目的は?」との問いに対して答えたというもの。大志を持った青年です。
 そしてもちろん、国際連盟設立時の事務次長を務め、『BUSHIDO (THE SOUL OF JAPAN)』の出版により世界中に日本文化の理解を広めるなど、その後の活躍は太平洋の橋に留まらないスケールの大きなものとなりました。
 『BUSHIDO』って英語で著したのですよね。岩波文庫で矢内原忠雄訳による日本語版を読むことができます。これを書いたとき、新渡戸38歳。おそるべし。




 ↑宮野小提灯句碑。宮野小提灯は『ホトトギス』で活躍し『夏草』を創刊。郷土を愛し続け大正から昭和の(戦時中も含め)岩手俳壇の発展に尽くしました。

  月待つや独り古城の松のもと




 ↑南部中尉銅像台座。南部家42代利祥(としなが)公は時の皇太子(大正天皇)の学友でした。陸軍に仕官し日露戦争に出兵、満州の最前線で明治38年(1905)戦死。旧盛岡藩士らによって明治42年(1909)銅像建造。台座は旧第九十銀行を設計した横濱勉設計。この銅像の除幕式に皇太子が来盛することになり、宿舎と公園を結ぶ橋として建設されたのが毘沙門橋ということです。(現在の橋は昭和36年建設。)銅像は昭和19年(1944)金属供出されてしまいました。




 ↑北側に設置されている案内表示。供出される前の銅像の写真を見ることができます。この馬の頭の石膏型と言われるものが報恩寺に展示されています。本堂から羅漢堂へむかう途中(鋳金原型堂)にあります。かなり大きいものでした。
 台座だけでも充分立派ですが、やはり実物の銅像を見てみたかったです。




 ↑渡雲橋。二の丸と本丸をつなぐ朱塗りの御廊下橋。かつては屋根がかかっていました。絵になる場所です。




 ↑朝日谷。朝日が最初に差し込む場所。紅葉の時期は見事な眺めとのこと。




 ↑宮沢賢治詩碑。『岩手公園』の詩碑と街灯がいい感じです。昭和45年建立。




 ↑詩碑をアップで。牧師ヘンリー・タッピング夫妻をモデルとして創作された文語詩です。

 岩手公園

 「かなた」と老いしタピングは
 杖をはるかにゆびさせど
 東はるかに散乱の
 さびしき銀は声もなし

 なみなす丘はぼうぼうと
 青きりんごの色に暮れ
 大学生のタピングは
 口笛軽く吹きにけり

 老いたるミセスタッピング
 「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
 中学生の一組に
 花のことばを教へしか」

 孤光燈(アークライト)にめくるめき
 羽虫の群のあつまりつ
 川と銀行木のみどり
 まちはしづかにたそがるゝ

           賢治




 ↑彦御蔵。城跡唯一の現存建造物。木造2階建ての土蔵造り、屋根は新山御蔵同様の二重構造。参勤交代の道具を入れていたと考えられています。平成2年に吹上御門下から現在地・腰曲輪下に移設されました。もともとここ腰曲輪下には米内蔵と呼ばれる米蔵があったようです。