甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

河南の寺町散歩2

2007-12-12 11:24:30 | 盛岡散歩
 


 ・木津屋本店 南大通二丁目

 真っ白な漆喰壁と大きく張り出した「うだつ」(防火用建築様式)が印象的なこの建物は、OA機器や文具等を扱う「木津屋本店」の総務部事務所として現在も使用されています。
 現在は静かなこの地区ですが、藩政時代には「惣門」がすぐ近くにあり、盛岡の南の玄関口としてにぎわった場所らしいです。
 大慈寺や十六羅漢の宗龍寺を焼いた明治17年の大火では、この建物のうだつと「昆布むしろ」などの備えで、ここで火を食い止めたということです。天保5年(1834)の建物が現役で使えるのも、うだつのおかげなのですね。このうだつとは、「うだつのあがらない」などというときの「うだつ」だそうです。



 ・惣門跡

 木津屋さんのすぐそばにある惣門跡の碑です。



 ・新山御蔵(下町資料館)  南大通三丁目

 円光寺の裏手にある、というより明治橋へ向かう道路沿いにあります。
 現在の明治橋より少し下流の北上川左岸は「新山河岸(しんざんかし)」と呼ばれ、川舟で運ばれる物資を荷揚げした場所でした。そのそばにあったこの御蔵は盛岡藩の米の備蓄蔵であり、湿気を防ぐ高床式になっています。長さ30mもあります。屋根は空気断熱層を備えた二重構造になっているらしいです。
 現在は資料館になっているのですが、開館日が非常に限られているため、見学するときは事前に確かめなければなりません。
 明治橋付近は現在も交通の要所となっており、長い長いこの土蔵を写真におさめようと道路の向かい側からカメラを構えるものの、信号待ちの車の列ができてしまってなかなかシャッターを切ることができませんでした。



 ・明治橋碑

 御蔵から道路をはさんだ向かいがわにあります。
 この近辺は「新山河岸」としてにぎわったところですが、江戸前期には橋がなく、舟渡しでした。延宝8年(1680)に舟橋が完成したものの翌年流失。その後土橋がかけられるも、やはり流失し、再び舟橋に。明治7年(1874)に木造の明治橋がかけられ、現在の明治橋になったのは昭和7年(1932)のことです。
 この「舟橋」はかつて盛岡の名所として知られるものだったようです。両岸の柱に固定した鉄の鎖に何艘もの舟をつなぎ、舟の上に橋板を並べて橋としたもの。この場所の上流では雫石川と中津川が北上川に合流しており、水量豊富な場所でもあります。増水時には橋板を外して舟を引き上げたそうです。舟橋に使われたと言われる鉄の鎖が岩手公園内にあるようです。



現在の明治橋


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