実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

『古九谷梅樹七宝図小皿』

2012年08月16日 | 日記
実高ふれ愛隊で~す!

山深き大聖寺川の上流の旧九谷村。山中温泉からさらに約9km離れた奥山中で「古九谷」が

生まれました。1655(明暦5)年頃、九谷で創出された磁器は、日本色絵磁器の礎となりました。

青(緑)、黄、赤、紫、紺青。濃厚な色彩が自由闊達にえがかれる上絵は九谷焼の源流といえます。

←古九谷窯跡

古九谷」の伝世品のひとつに金沢美術工芸大学元学長北出不二雄氏が所蔵する

古九谷梅樹七宝図小皿があります。この作品は北出不二雄氏の父、

九谷焼の名工として知られた故北出塔次郎氏(1898~1968)が「古九谷」として入手し、

不二雄氏に受け継がれたものです。

塔次郎氏は昭和42年4月、この色絵の箱書に自筆で次のように書かれています。

梅樹七宝図小皿に就て

小皿、向附など生活用品の小物の中には現在古九谷と称する伊万里素地の物が可成混在する。

本品切立小皿は地物の一標本と見てよいと思ふ。素野な高台の削り歪みぐせのある素地杯土、

白釉の肌色、そして縁造りのそれとなく滲み出た品位などの可憐さは古九谷素地のよく特色を出している。

文様の布置は大胆に四つ割にとり七宝の緑と黄、残る二面に梅の老木を描き枝を省略して蕾と花を

結びつけるか如く描き上げるさままことに心憎く稀に見る意匠的図柄である。」


実はこの古九谷梅樹七宝小皿』は世に言われる”古九谷伊万里説”に見直しをせまる有力な科学的

データをもたらしました。

平成13年に東京理科大学の中井泉教授が行った「スプリング・エイト」を使ったエックス線による測定により、

古九谷梅樹七宝小皿』の成分が、加賀地方で見つかった磁器の生地の成分と近いことが明らかに

なったのです。この科学的なデータは”古九谷伊万里説”の反論材料としてとても重要なものです。

九谷焼の名工・北出塔次郎氏がその目で「これはまさしく九谷で焼かれた古九谷だ」と見抜いた眼力と、

その子である不二雄氏の古九谷」をひたすら愛する思いが、この客観的データを生み出したといえます。

今後の研究がとても楽しみです。

(レポートにあたっては、石川県九谷焼美術館の資料を参照させていただきました。)

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古九谷の誕生・前田家と肥前鍋島家の深い関係

2012年08月15日 | 日記
実高ふれ愛隊で~す!

九谷焼(古九谷)は、1655年に大聖寺藩祖である前田利治が

大聖寺藩士・後藤才次郎に命じて九谷で磁器をつくらせたことから始まると

地元では考えてきました。

しかし学会では長年、”古九谷産地論争”というものが続いてきたそうです。

その理由は九谷に色絵の窯跡がなく、出土するものに古九谷の名品とは

違う素地のものが多くあったこと、九州肥前の古い窯に古九谷と近い素地の

ものが出土し、色絵素地が出たことです。そして近年では、古九谷とは

有田の窯で作られたものだとする”古九谷伊万里説”までもが主張されてきました。

石川県九谷焼美術館副館長・中矢進一さん

しかし、今回講師を務められた石川県九谷焼美術館副館長の中矢進一先生からは、

”古九谷伊万里説”を見直す大きな研究成果をご紹介いただきました。

その一つが九谷A遺跡での新発見です。江戸前期の地層から、

これまで見つかってなかった色絵磁器の破片が三器種発見されました。

中には古九谷の特徴である緑色に卍の文様が描かれているものもありました。

これは”古九谷伊万里説”に一石を投じる有力な手がかりといえます。

そしてもう一つが、これまで研究者の間でもあまり語られることのなかった

加賀前田家と伊万里有田焼を有する肥前佐賀の鍋島家との関係

の研究です。

加賀藩3代藩主の前田利常が大御所だった頃、佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂から

伊万里焼の茶道具が贈られるなど、加賀前田家と肥前鍋島は大変親しい

間柄でしたさらに初代佐賀藩主鍋島勝茂の長女市姫という方が

出羽米沢30万石の外様大名・上杉定勝(上杉謙信の孫)のところに嫁に行き、

徳姫、虎姫、亀姫という三人の娘をもうけ、徳姫が大聖寺初代藩主前田利治に、

虎姫が2代佐賀藩主・鍋島光茂に、亀姫が大聖寺2代藩主前田利明にそれぞれ

嫁いでいるのです

つまり古九谷を興すことを夢見た大聖寺藩と伊万里有田焼を有する肥前鍋島家の間には

深い姻戚関係があったのです。とくに前田利治は初代佐賀藩主・鍋島勝茂にとって

外孫姫の婿であり、さらには2代藩主光茂の義理の兄にあたります

実は前田家と鍋島家がそのような密接な友好関係にあった1650年~1700年の間が、

ちょうど古九谷を焼いていた古九谷窯の稼働期と一致するのです。前田家と鍋島家が

深い親交でむすばれていれば、当然両者のあいだに職人の技術、人・物の交流が

さかんにあったでしょうし、大聖寺前田家が磁器の窯業を興すにあたって、

肥前の窯業技術を導入することが容易に可能だったはずです。

今後”古九谷産地論争”の中で、前田・鍋島両家が姻戚関係にあったという歴史的事実に

注目した論考がされることを期待したいものです。


古九谷の誕生と加賀百万石文化

2012年08月14日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す!

加賀市観光ボランティア大学第9回講座で、石川県九谷焼美術館副館長の

中矢進一先生から九谷焼(古九谷)の誕生」にまつわるお話しをいろいろと

教えていただきました。

加賀市観光ボランティア大学第9回講座

九谷焼(古九谷)は、江戸前期に大聖寺藩領内の九谷村で磁器の原料となる

陶石が見つかったのをキッカケに、大聖寺藩祖前田利治(治世1639~60)が始め、

二代利明(治世1660~92)によって進められました。

1736(享保16)年の『重修加越能大路水径』という史料からも、1655年に

大聖寺藩祖である前田利治が大聖寺藩士で九谷金山の鋳金師だった後藤才次郎に

命じて九谷で磁器をつくらせたことが分かります。

←受講生用のレジュメ

中矢先生は、そもそも大聖寺藩で九谷焼(古九谷)がはじめられた背景に、

強力な経済力を持ち、絢爛豪華な文化を追い続けた加賀前田家の存在があることを

忘れてはいけないとおっしゃっいます。大聖寺藩祖前田利治の父は加賀前田家

3代藩主利常です。利常が隠居し、息子をご三家分立(金沢・富山・大聖寺)させ、

小松で「大御所」統治をおこなっていたころ、”文化で天下を覇する”ことを夢見て、

琳派や狩野派の絵画、蒔絵や染色、金工といった美術工芸を積極的に育成しました。

また中国陶磁器(三彩や五彩など)の収集にも非常に力を注ぎ、日本で初めて

「色絵」を完成させた初代柿右衛門から最初に作品を買った大名も前田だそうです

加賀前田家はこの当時、いつも当代一流で最先端をいく文化人と交流を持ち、

日本一の百万石文化作り上げていたのです。

利常の三男で大聖寺藩祖となった前田利治の心の中にも、陶磁器にかける人一倍の

熱い思い、「大聖寺で美しいものをつくりたい」という強い願望や美意識があったに

ちがいありません。九谷焼誕生の背景には百万石文化を育んだ加賀の土壌

大きく影響しているのです

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NHK「鑑賞マニュアル 美の壺 File186 九谷焼」

2012年08月13日 | 日記

実高ふれ愛隊で~す!

加賀市観光ボランティア大学第9回講座「これであなたも九谷焼博士 

-こだわりの人吉田屋伝右衛門-」が8月9日(木)19時30分から

加賀市民会館で開かれました。

講師は石川県九谷焼美術館副館長の中矢進一さんで、先生には

古九谷焼再興と吉田屋伝右衛門”についてとてもわかりやすく説明して

いただきました。ありがとうございました。

中矢先生は講義のはじめに、”九谷焼とはどういうものか”がよくわかる

DVDを紹介して下さいました。

タイトル名は「鑑賞マニュアル 美の壺 File186 九谷焼」で、

NHKBSやNHK総合で2年前に放送され大好評だったものです。(中矢先生も

番組に出演されています。またこの番組は英語に吹き替えられ、世界各国でも

放映されているそうです。)

案内役・俳優の草刈正雄さんが、毎週、暮らしの中に隠れたさまざまな美を

紹介する新感覚の美術番組で、File186には九谷焼のエッセンスがとてもわかり

やすくまとめられていました。

「鑑賞マニュアル 美の壺 File186九谷焼」(←クリック)

古九谷の力強い色彩はゴッホの油絵を思わせるもので、かの魯山人も

「恐ろしく芸術的」と絶賛しました。緑と黄色に彩られる色づかいや器の全面を

塗りつぶす”青手”は九谷焼独特のもので、雪国・加賀に住む者ならではの

緑と黄への深い想いが込められています。

また江戸末期~明治時代に登場した”赤絵”は、いく千もの点と線が織りなす

職人のミクロ技の結晶で、その絢爛(けんらん)たる華やぎは「ジャパンクタニ」と

呼ばれ、欧米の人々を魅了しました。

番組では、わたしたち加賀の人間がハレの日に色鮮やかな九谷焼を使うのは、

長い冬を豊かに彩ろうとした想いの結晶であると紹介がありました。

中矢進一先生から教えていただいた九谷焼のことをこれからレポートしますので、

よろしくお願いします!

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開業115年目の大聖寺駅

2012年08月12日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^^;)

←JR大聖寺駅

1899年(明治32)年から1912(大正元)年までの約13年間活躍した山中馬車鉄道の起点駅

だったのが、現在のJR大聖寺駅です。この大聖寺駅の歴史は古く1897(明治30)年9月20日の開業以来、

115年間、加賀市民だけでなく、加賀温泉郷を訪れる多くの旅行客に親しまれてきました。

1970(昭和45年)に加賀温泉駅ができるまでは、ほとんどの急行・特急列車が停車する加賀温泉郷の

玄関口として、動橋駅とともに利用されていました。

大聖寺駅の待合室には、「大聖寺駅100年のあゆみ」というボードが掲示されていて、

その歴史を知ることができます。

←大聖寺駅100年のあゆみ

ところでみなさん、大聖寺駅のプラットホームの柱がレールを再利用した物だということをご存じですか?

白くペンキで塗られた柱のところどころには「CARNEGIE1900」と刻まれていて、

この柱がアメリカ製のレールだったこともわかります。そしてこのレールはニューヨークの

カーネギーホールのオーナー会社がつくったものだそうです。

←大聖寺駅のプラットホームの柱は廃レールでできてます。

昔と違って大聖寺駅には観光客の姿が少なくなりましたが、いまも多くの市民や高校生の通勤・通学に欠かせない

大切なステーションとして活躍しています。

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田山花袋が乗った山中馬車鉄道

2012年08月11日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_-)

明治・大正期の文豪、田山花袋(たやまかたい、1872~1930)は、『蒲団』『田舎教師』などを著した

自然主義派の代表的な作家です。

田山花袋紀行文の名手ともいわれ、60冊近くもの紀行本を残しています。

また文壇一の温泉通としても有名で、多くの温泉紀行を残しており、今風に言えば温泉紀行作家の

パイオニアです。

  

この田山花袋が、山中温泉を訪れたときのことを明治39年1月に「北國街道」で発表していて

山中馬車鉄道を利用した感想をまとめていますので、ご紹介します。

「加賀国、大聖寺町に至りて再び汽車を下りぬ。停車場を出れば、前の広場の一隅に、小さき屋ありて、

矮小なる男、破鐘のごとき大鈴を鳴して頻(しき)りに客を呼べり。これ、山中温泉に通ぜる鉄道馬車

発車の近きを報ぜるなり。山中、山代、片山津は加賀の著名なる温泉場、ことに山中は風景に富みたり

と聞けば直ちにこれに赴かんとす。山中馬車鉄道会社は、官線北陸線の対面にありて、

其処に集れるは、皆其地への湯治客、旅鞄の大なるを携へたる若夫婦、其地の友人を訪ぬると言ふなる

絽(ろ)の三紋付羽織の紳士、山中漆器を買出しに行くと称する若者など、

その喧(やかま)しきこと言はん方なし。

待つこと稍(やや)少時にして、馭者(ぎょしゃ=馬車を走らせる人)は痩せたる馬を桟(さん)にと繋ぎつ。

一声の喇叭(らっぱ)を相図に、これより山中まで二里半の長途、われはいかに腰の痛さを覚えたりけむ。

線路の細きが上に、馭者馬を御するに拙なる為めか、其動揺実に夥(おびただ)しく、

折々車輪に当る大石小石、其度毎に、乗客は皆な手に汗握りて、辛くもこれを堪ゆるなりき。

ましてや、馬車の路は一筋に田圃の中に長く、やヽ登り坂に至れば、馬は呼吸絶え絶え、

馭者の鞭烈しく馬の空しき背を打ちて、殆ど血汐の流るを見るに至れるをや。

二里半の道程に二時間余を費して、大聖寺川の流遙(はるか)に、一帯の小盆地、

楼々(ろうろう)相連れる温泉場に着きしは、午後四時過ぎなりき。」

この文章を読むと、馬車鉄道は大聖寺~山中間を旅する人たちにとって不可欠であったものの、

その乗り心地は少し悪かったようですね。

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山中馬車鉄道の客車が動橋小学校にあった!!

2012年08月10日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_-)

昨日レポートさせていただいた「しらさぎ」号が走っていたのは北陸鉄道山中線でした。

そして大聖寺~山中間を走った電車の歴史は古く、さらにその前身は山中馬車鉄道でした。


1897(明治30)年9月、米原~福井間だった北陸線が小松まで延びて、大聖寺駅と動橋駅が開業しました。

(日露戦争開戦に向けて、日本の鉄道網が急ピッチに整備されていた時代です。)

そこで温泉客誘致のため、山中温泉の旅館経営者七人が発起人となって、

山中馬車鉄道株式会社を設立したのです。まず、1899(明治32)年10月に山中~河南間約4.8kmが開業、

さらに翌1900(明治33年)に山中~大聖寺駅までの全線約8.6kmが開通しました。

山中馬車鉄道は1899年の創業から1912(大正元)年までの約13年間、約10両の客車、

約10~15頭の馬を使って、明治44年には一日平均約250人ものお客さんを輸送しました。

乗客・貨物共に順調に伸びたため、電車への転換が決まり、山中電軌が設立されました。

大正2年3月18日には石川県内初の電車が走り出し、山中馬車鉄道はその役割を終えました。

←動橋小学校

さて、この当時山中馬車鉄道の客車として使われていた車両が、加賀市文化財に指定され、

現在なんと加賀市立動橋小学校の倉庫に保存されています。

先生が、資料として写真を撮影してくださいましたので、ご紹介します。

←山中馬車鉄道の客車

この動橋小学校の車両は、高さ1.9メートル、幅1.6メートル、長さ2.2メートルで、

1899年の馬車鉄道創業時に8両あったうちの1両とみられます。

天井は曲線で彫刻の雲の飾りも見ることができて、とてもよく保存されているそうです。

わたしもぜひ今度実物を見せていただきたいと思います。

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7月の活動(29)大聖寺~山中を疾走した『しらさぎ』号

2012年08月09日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_-)

7月の課題研究で、山中ゆ~ゆ~館横の山中温泉道の駅を利用しました。

この山中温泉道の駅には2両連結の電車が展示してありました。その名は、『しらさぎ』号。

日本で最初にできたオールアルミ車体のとっても美しいロマンスカーです。

そのすてきな色が、羽根にケガした白い鷺(さぎ)が温泉の湯で傷を癒していたという

山中温泉発祥の伝説のイメージとぴったり重なることから、電車の愛称は『しらさぎ』と名付けられました。

←今でも斬新さがきわだつ『しらさぎ』号

昭和38年7月に登場してから昭和46年7月に北陸鉄道加南線が廃止になるまでの約8年間、

大聖寺と山中の間を毎日多くの観光客や通勤・通学客を乗せて突っ走っていたそうです。

北陸鉄道加南線とは、山中線(大聖寺-河南-山中、8.6km)、

山代線(河南山代宇和野新動橋、6.3km)、

粟津線(宇和野那谷寺-粟津温泉-新粟津、11.2km)、

片山津線(動橋-片山津、2.7km)から成り立っていて、加賀市中に電車網がはりめぐらされていました。

(バス路線がどんどん廃止されている今からは想像もつきませんが。)

加南線は、戦後(1945年頃)から昭和30年代前半まで、加賀温泉郷と国鉄線を結ぶ観光路線として、

とってもにぎやかな路線でした。

しかし、この当時、日本には急速に車社会がやってきていました。昭和37年に粟津線、昭和40年に

片山津線が廃止され、山中線と山代線だけが残ることになりました。

そのような状況の中で、加南線の救世主として昭和38年に山中線に投入されたのが

しらさぎ』号だったのです。『しらさぎ』号は、九谷焼でつくられたエンブレムをつけた

真っ赤な車体の『くたに』号とともに、加南線のエースとして活躍したのです。

しらさぎ』号が活躍したのは、わずか8年の期間でした。大聖寺と山中温泉・山代温泉をつなぐ

重要な役割を果たしながらも、加賀温泉駅の開業(昭和45年10月)・山中線の廃止とともに、

あっという間にその姿を消すという不幸な運命を背負うことになりました。

←『しらさぎ』号の車内

山中温泉道の駅に復活・展示されているしらさぎ』号は、現在もとてもよく整備されています。

みなさんそれぞれの思いを胸にしらさぎ』号の車内をじっくり歩いてみてください。

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7月の活動(28)魯山人の古九谷観

2012年08月08日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_-)

北大路魯山人は、山代温泉で出会った「古九谷」を芸術的にとても高く評価していました。

魯山人は昭和8年11月30日に発行された『星岡 第三十六號(ごう)』で、次のように書いています。

古九谷觀(かん)』

「・・・ 古九谷が有する美の價値(かち)に言を移して見やう。

其所(そこ)で吾人(ごじん=わたし)が常に思ってゐる所をさらけ出して見ると伊萬里とか有田とか、

古九谷とかは製陶の手法こそ相酷似してゐ(い)るものの、實際(じっさい)が有する美的要素に於ては

前者と後者と全然價値を黒白の如く別にしてゐると斷言(だんげん)したいのである。

有田にも伊萬里にも結構な出來(でき)が有るには有るが、悲しい事に幾何(いくばくか)あっても

職人の仕事としての成果である。

職工美術としての價値以上は何としても見出し難いのである。謂(い)ひかえれば實に非藝術(げいじゅつ)

であって無精神なる單(たん)的な工藝美術なのである。ゆゑに美的鑑賞の低級な歐米(おうべい)人の

好みにはうまく當篏(あては)まって持って來いに出來てゐるが、日本の眼の有る者にはこれを尊べと

言はれては甚だ迷惑者なのである。

それに引換へ古九谷の方は根本的にものが違うと云って可い。・・・本質に於て實に斷然(だんぜん)藝術的

なのである。眞(まさ)にこの事こそ不思議な現象だと常に思ってゐる。伊萬里、有田なるものは如何に動いても

その結果の立派さが職工的にのみ成就し、遺憾なことに深みの無い、餘韻(よいん)の無い

干からびたものにしか過ぎない。尚も言ふと、それと反對(はんたい)に九谷となると初めからガアーンと

藝術的に吾人の眼に迫って来る。同時に眞に心からの欣びが胸から湧き出づるのである。・・・

・・・ 全く古九谷は恐ろしく藝術的だ、男性的であり、豪快であり、雅(みやび)も亦頬(すこぶ)る雅でありして

世界中の燒物(やきもの)の前に斷然優越を感ずるものである。彼の萬暦赤繪(え)などから見ても有情であり、

人間味に當(と)むだ趣きのある點(てん)が我國産として大に誇られる譯(わけ)だ。・・・」

 ←魯山人寓居跡いろは草庵

※レポートにあたっては、『加賀の文化(NO.4)』(加賀市教育委員会発刊、平成8年3月31日発行)を

参照させていただきました。

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7月の活動(27)山代温泉・魯山人と陶芸の出会い

2012年08月07日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_-)

北大路魯山人は幾度も山代温泉を訪れて、ぬれ額などを制作し、

山代の人々と生涯にわたって親交を温めました。

←魯山人が「ぬれ額」を制作した現「いろは草庵」の仕事場

初代須田菁華をはじめ、山代湯の曲輪の旦那衆は「吉野屋別荘」

(現いろは草庵)に魯山人を訪ね、芸術を語り酒飲茶を楽しみました。

以来「別荘」は山代の文化サロンとなったのです。

山代温泉には、北大路魯山人がつくったぬれ額が「あらや」「白銀屋」

「吉野屋」「菁華」などにいまも7枚残っています。

北大路魯山人は昭和30年に金沢美術倶楽部で行った講演会の演題を

私ハ先代菁華に教へられた」としました。

「この男ただ者ではない」と見抜いた山代湯の曲輪の旦那衆が

初代須田菁華の工房へと魯山人をいざない、魯山人と陶芸の出会いを作り出したのです。

初代菁華の奥さんは、菁華に「秘伝まで魯山人に教えてはいけませんよ」と忠告した

と言われています。

北大路魯山人の焼き物は山代温泉抜きでは語ることができないのです。

 ←魯山人寓居跡いろは草庵のロビー

 ※レポートにあたっては、『加賀の文化(NO.4)』(加賀市教育委員会発刊、

平成8年3月31日発行)を参照させていただきました。

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7月の活動(26)北大路魯山人と大聖寺味噌

2012年08月06日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_-)

「よし。諸氏を集めて、朝飯会をやってみよう!」 それは閃(ひらめ)きのように

決まりました。美食家・北大路魯山人がこの朝飯会をひらいたのは、

昭和8(1923)年8月23日のことです。場所は北鎌倉の「星岡窯」。

40人の客が集まり、献立は次のとおりでした。

・蓮めし ・つくだに(こんぶ じゃこ えび) ・にしめ(ゆば ぜんまい 高野豆腐)

こぶとろ(浅草海苔をかけたこぶとろのご飯) ・味噌汁(大聖寺味噌

・ちんぴづけ(すずきを材料にして) 香のもの(いろいろ)

味噌汁は丸太にかけられた銀鍋でつくられたもので、”大聖寺味噌”に

蜆(シジミ)の汁加減もちょうどでした。

 ←山代温泉「魯山人寓居跡いろは草庵」のロビー

北大路魯山人は言いました。「狸(たぬき)汁は、肉や山ごぼう、コンニャク、

絹さやや粉山椒などを使い、必ず”大聖寺味噌”で仕立てよ」

「狸汁を作ったときの味噌は”大聖寺味噌”が一番だ」

この大聖寺味噌というのは、山代温泉の吉野屋から嫁いだ越前吉崎の

石塚屋さんの味噌だそうです。

←「魯山人寓居跡いろは草庵」(旧吉野屋別荘)からながめた服部神社鳥居

北大路魯山人を山代に紹介した金沢の細野燕台という人は、山代に行くとき、

必ず銀の小鍋を下げていったそうです。なぜなら、当時の山代は、各旅館が板場を

持たず、料理を仕出し屋に頼んでおり、細野燕台は仕出し屋の汁物が

途中冷えてしまうので、銀鍋を使って温めなおしたのです。

美食家・北大路魯山人のもてなしには、山代での経験がきっと息づいている

のでしょうね。北大路魯山人が愛した”大聖寺味噌”ってはたしてどんな味が

したのでしょうか?

※レポートにあたっては、『加賀の文化(NO.4)』(加賀市教育委員会発刊、

平成8年3月31日発行)を参照させていただきました。

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7月の活動(25)美食家・北大路魯山人と山代温泉(2)

2012年08月05日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_-)

北大路魯山人は、大正4年10月18日から12月28日までと翌大正5年1月末から

わらびの芽を出すころまでを、山代温泉で過ごしました。

魯山人は美味しいものには人一倍どん欲で、食材のこと、食材の良し悪しの選び方、

さらには料理の仕方までも山代の人びとから教わりました。

北大路魯山人山代温泉で開眼させられた美食には、コノワタ、コノコ、クチコのほか、

温泉玉子、真鱈(まだら)のちり鍋、狸汁、大聖寺味噌、沢庵漬、早春のわらびがありました。

とくに山代の沢庵について、魯山人は次のように語っています。

沢庵の話をしよう。今日食べた沢庵は、加賀の山代でできたものである。

私の知っている限りでは、山代産の沢庵が一等よいものだと思う。

それは、大根が寒国でできたことが主な原因であるが、山代のは他のコツもあって、

伊勢のものとも違う。伊勢のも種類があり、いいものだが、山代のには及ばない。

伊勢は産業として、大量に生産しているので、山代のようなウブなうまさはない。・・・

                              (『魯山人の料理天国』文化出版局より)

また、かれが主宰した「星岡茶寮」には、毎年山代の沢庵を送らせました。この山代の沢庵は、

現「魯山人寓居跡いろは草庵」の敷地にあった漬物小屋でつくられていたものだそうです。

この山代の沢庵を漬けるときには、新しいワラジを履いて樽の中で踏んでつくられました。

←北大路魯山人が滞在した吉野屋別荘(現いろは草庵)

美食家・北大路魯山人は心底山代温泉の食べ物を愛していたのですね。

※レポートにあたっては、『加賀の文化(NO.4)』(加賀市教育委員会発刊、

平成8年3月31日発行)を参照させていただきました。

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7月の活動(24)美食家・北大路魯山人と山代温泉

2012年08月04日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_-)

加賀市観光ボランティア大学第7回講座魯山人が愛した山代温泉」で

勉強したことをレポートさせていただきます。

←講師の山代温泉ガイド「ヤタガラス」加藤大二さんと竹本利夫学長

いまの山代温泉「いろは草庵」で創作活動をした北大路魯山人は、人気コミック

「美味しんぼ」に登場する海原雄山のモデルと言われる人です。

魯山人は人間国宝に推薦されるほど素晴らしい芸術家であっただけではなく

(推薦を辞退しました)、東京赤坂の「星岡茶寮」の料理長をつとめるなど、

美食家・料理家としても稀代まれな実力を発揮しました。

魯山人が22歳で町書家岡本可亭(画家岡本太郎の祖父)の弟子になったとき、

可亭から、「きみの夢は何か?」と聞かれました。そのとき、魯山人は、

「食べたいものを食べたいときに食べたいだけ食べることが夢だ!」と答えたそうです。

魯山人は幼少時代、「私には家庭の暖かさなんかあるか」と本人が言っているように、

愛情に恵まれない育ちをしました。そんな彼がまだ不遇だったときに、

山代温泉の「吉野屋」に滞在し、料理研究のキッカケをつかんだといわれています。

山代の土地がいい。人がいい。人を裏切らない。もてなしの仕方がすばらしい。

山代温泉の旦那衆が温かく魯山人を迎え入れ、魯山人の芸術家としての才能や

客人をもてなす上での魯山人独自の美食哲学を育てたのです。

器は料理の着物である」「感動を与えられる料理は芸術だ!

「料理とは、単に舌先だけで味わうものではない。 器がくだらないものでは

料理も生きない」

魯山人は、冬になるとは山代温泉をたびたび訪れて作陶に励んだそうで、

「星岡茶寮」で使う食器にも須田菁華窯で自分が焼いた作品をたくさん用いました。

魯山人の器は「使い勝手が良く、料理が映える器」と評されます。

美を求め、美食を極めて、自由奔放に生きた北大路魯山人の才能は、

加賀の風土、四季折々の食材、そしてそれらを巧みに調和させている

山代温泉の人びとと過ごした日々から生まれたにちがいありません。

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7月の活動(23)北大路魯山人が愛した山代温泉

2012年08月03日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(*^_^*)

7月12日(木)の加賀市観光ボランティア大学第7回講座では、

講師に山代温泉ガイド「ヤタガラス」の名物ガイド加藤大二さんを

お迎えして、「魯山人が愛した山代温泉」について勉強させていただきました。

 ←加藤大二さんと加賀市観光ボランティア大学のみなさん

加藤大二さんはいつも「魯山人寓居跡いろは草庵」で山代温泉を訪れた方々に

北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)についてのガイドをされています。

加藤さんは日頃「いろは草庵」で語られている名調子でしっとりと、そして思いを

込めて話してくださいました。

まだ無名だった魯山人がなぜ山代に来たのか、魯山人を温かくもてなした

山代の人びとのこと、北大路魯山人の人間的な魅力と波乱の生涯、

そして魯山人がこよなく山代温泉を愛していたこと、などをとてもわかりやすく

話していただきました。

「魯山人寓居跡いろは草庵」

北大路 魯山人は1883(明治16)年3月23日に生まれ、1959(昭和34)年

までの間、篆刻(てんこく)家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家として、

多彩な才能を発揮した人です。

そして魯山人の原点が、1915(大正4)年~1916(大正5)年のあいだ、

山代温泉の現「いろは草庵」で過ごした期間にあったことをお聞きして

とっても驚きました。

強烈な個性を持った魯山人は、生涯5回結婚し、5回離婚しました。

「十人友達がいても、九人とはケンカ別れした」ともいわれます。

だけど、こと山代にかぎると「山代のみんなはどうしてるかネ」

「山代の別荘はどんな様子かね」といつまでも親交を深めたそうです。

これから、北大路魯山人山代温泉についてレポートしますので、

よろしくおねがいしま~す!

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7月の活動(22)山代温泉・お光と幸蔵の悲しいお話し

2012年08月02日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(^^)/

山代温泉では、湯女(ゆな)のことを、「太鼓の胴(タイコンド)」とよびます。

そして、湯の曲輪のすぐ近くにある専光寺というお寺に湯女にまつわるとても悲しいお話しが

伝わっていますので、ご紹介します。

←専光寺

『太鼓の胴』

江戸時代の中頃、山代温泉の専光寺に幸蔵というイケメンの堂守がいました。

毎日暮れ四ツ(午後十時)と明け六ツ(午前四時)に時を告げるために、堂の太鼓を打つ

仕事をしていました。そして当時の湯女の自由時間は暮れ四ツ(夜十時)から

明け六ツ(翌朝の四時)までと決められていました。

この堂守の幸蔵は「お光」という純情で可憐な湯女と恋に落ち、二人は暮れ四ツの太鼓

のあと、人目を忍んで、専光寺の四畳半の狭い太鼓の堂をデートの場所として落ち逢うようになりました。

若い二人にとって、そのひとときはとても幸せな時間だったと思います。

ところが、お光が毎日の厳しい仕事と風邪がもとで床に伏すことになり、幸蔵のもとへ

行けなくなってしまいました。でも誰かに頼んでそのことを幸蔵に知らせるわけにもいきません。

そうとも知らず幸蔵は毎晩暮れ四ツの太鼓を打ち、お光が来るのを待ちつづけました。

しかし、お光は来てくれません。そして幸蔵お光と逢えない苦しさから、とうとう半狂乱となりました。

幸蔵はその日暮れ六ツ(午後六時)から、「お光!」「お光!」と名前を叫びながら、止むことなく

太鼓を打ち続けました。

そのころ、お光幸蔵の狂わしいまでに打ち響く太鼓の音を聞きながら、はかなくも散っていったのです。

お光の死を知らされた幸蔵は、この世に生きる希望を失い、専光寺境内の古池にわが身を投げて

お光の後を追いました。

この悲しいお話しは、山代温泉の人びとに語り継がれ、いつしか山代では湯女のことを

「太鼓の堂」転じて「太鼓の胴(タイコンド)」と呼ぶようになったそうです。

←専光寺前の案内板

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