隊員NO.2りかで~す(^_-)
明治・大正期の文豪、田山花袋(たやまかたい、1872~1930)は、『蒲団』『田舎教師』などを著した
自然主義派の代表的な作家です。
田山花袋は紀行文の名手ともいわれ、60冊近くもの紀行本を残しています。
また文壇一の温泉通としても有名で、多くの温泉紀行を残しており、今風に言えば温泉紀行作家の
パイオニアです。
この田山花袋が、山中温泉を訪れたときのことを明治39年1月に「北國街道」で発表していて、
山中馬車鉄道を利用した感想をまとめていますので、ご紹介します。
「加賀国、大聖寺町に至りて再び汽車を下りぬ。停車場を出れば、前の広場の一隅に、小さき屋ありて、
矮小なる男、破鐘のごとき大鈴を鳴して頻(しき)りに客を呼べり。これ、山中温泉に通ぜる鉄道馬車の
発車の近きを報ぜるなり。山中、山代、片山津は加賀の著名なる温泉場、ことに山中は風景に富みたり
と聞けば直ちにこれに赴かんとす。山中馬車鉄道会社は、官線北陸線の対面にありて、
其処に集れるは、皆其地への湯治客、旅鞄の大なるを携へたる若夫婦、其地の友人を訪ぬると言ふなる
絽(ろ)の三紋付羽織の紳士、山中漆器を買出しに行くと称する若者など、
その喧(やかま)しきこと言はん方なし。
待つこと稍(やや)少時にして、馭者(ぎょしゃ=馬車を走らせる人)は痩せたる馬を桟(さん)にと繋ぎつ。
一声の喇叭(らっぱ)を相図に、これより山中まで二里半の長途、われはいかに腰の痛さを覚えたりけむ。
線路の細きが上に、馭者馬を御するに拙なる為めか、其動揺実に夥(おびただ)しく、
折々車輪に当る大石小石、其度毎に、乗客は皆な手に汗握りて、辛くもこれを堪ゆるなりき。
ましてや、馬車の路は一筋に田圃の中に長く、やヽ登り坂に至れば、馬は呼吸絶え絶え、
馭者の鞭烈しく馬の空しき背を打ちて、殆ど血汐の流るを見るに至れるをや。
二里半の道程に二時間余を費して、大聖寺川の流遙(はるか)に、一帯の小盆地、
楼々(ろうろう)相連れる温泉場に着きしは、午後四時過ぎなりき。」
この文章を読むと、馬車鉄道は大聖寺~山中間を旅する人たちにとって不可欠であったものの、
その乗り心地は少し悪かったようですね。