実高ふれ愛隊で~す!
加賀市観光ボランティア大学第9回講座で、石川県九谷焼美術館副館長の
中矢進一先生から「九谷焼(古九谷)の誕生」にまつわるお話しをいろいろと
教えていただきました。
九谷焼(古九谷)は、江戸前期に大聖寺藩領内の九谷村で磁器の原料となる
陶石が見つかったのをキッカケに、大聖寺藩祖前田利治(治世1639~60)が始め、
二代利明(治世1660~92)によって進められました。
1736(享保16)年の『重修加越能大路水径』という史料からも、1655年に
大聖寺藩祖である前田利治が大聖寺藩士で九谷金山の鋳金師だった後藤才次郎に
命じて九谷で磁器をつくらせたことが分かります。
中矢先生は、そもそも大聖寺藩で九谷焼(古九谷)がはじめられた背景に、
強力な経済力を持ち、絢爛豪華な文化を追い続けた加賀前田家の存在があることを
忘れてはいけないとおっしゃっいます。大聖寺藩祖前田利治の父は加賀前田家
3代藩主利常です。利常が隠居し、息子をご三家分立(金沢・富山・大聖寺)させ、
小松で「大御所」統治をおこなっていたころ、”文化で天下を覇する”ことを夢見て、
琳派や狩野派の絵画、蒔絵や染色、金工といった美術工芸を積極的に育成しました。
また中国陶磁器(三彩や五彩など)の収集にも非常に力を注ぎ、日本で初めて
「色絵」を完成させた初代柿右衛門から最初に作品を買った大名も前田だそうです。
加賀前田家はこの当時、いつも当代一流で最先端をいく文化人と交流を持ち、
日本一の百万石文化を作り上げていたのです。
利常の三男で大聖寺藩祖となった前田利治の心の中にも、陶磁器にかける人一倍の
熱い思い、「大聖寺で美しいものをつくりたい」という強い願望や美意識があったに
ちがいありません。九谷焼誕生の背景には、百万石文化を育んだ加賀の土壌が
大きく影響しているのです。