隊員NO.7ゆっこで~す
今日は、先輩が昨年9月9日の記事でまとめた大聖寺の偉人「瓜生外吉(うりう そときち)」
についてご紹介します。どうぞご覧下さい!
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全昌寺の墓所を歩くと、大聖寺藩ゆかりの多くの偉人の墓石を見ることができます。
墓所に入ったすぐの所に、「瓜生(うりう)家累代の墓」が建っています。そして墓前の
灯籠には「外吉傳治」ときざまれています。ここに見られる瓜生外吉(うりう そときち)
とは、日露戦争連合艦隊第四戦隊の司令官をつとめ、日露開戦の火ぶたを切った
仁川沖の海戦で最初の号砲を鳴らした人物です。
仁川沖の海戦では、瓜生外吉がロシア艦『ワリャーグ』号の砲の死角を巧みに利用し、
緒戦の勝利を導きました。瓜生はいくつもの戦功によって、1907(明治40)年に
男爵を授けられ、1912(大正元)年に海軍大将に昇進、1922(大正11)年から
3年間は勅選貴族院議員になりました。また1914(大正3)年にはパナマ運河
開通記念博覧会に日本代表として参列したそうです。
←瓜生外吉(wikipediaより)
瓜生外吉は大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として1857(安政4)年に大聖寺に
生まれました。幼いときから優秀な人物で、海軍兵学寮を卒業後、
1875~1881(明治 8~明治14)年には米国アナポリス海軍兵学校に留学し、
海軍きってのアメリカ通でした。奥さんの繁子さんもとても有名な人です。
瓜生繁子さんは三井物産創始者益田孝の妹さんで、1871(明治4)年、9歳の
ときに岩倉遣欧使節団の一員として、津田梅子、山川捨松らとともにアメリカに渡り、
ワシントンで10年間ピアノを学んだことで知られています。のちに、
文部省音楽取調掛教授となり、東京音楽学校や東京女高師(現お茶の水女子大)の
教授として1902(明治45)年に退職するまで音楽教育に尽力しました。
瓜生外吉はアメリカ留学中に繁子と知り合い、帰国してすぐの1882(明治15)年に
二人は結婚しました。
繁子は鹿鳴館の花の一人とうたわれた人でもあります。また瓜生外吉は繁子や
津田梅子、山川捨松など、帰国子女の活動を支える良き理解者でした。
外吉と繁子の間には7人の子が生まれています。瓜生外吉は晩年、神奈川県小田原市に
別邸を構えました。その別邸の近くにある坂はいまでも「瓜生坂」と呼ばれているそうです。
瓜生外吉は1937 (昭和12)年、80歳で亡くなり、今は東京の青山墓地で
眠っています。