実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

再録!大聖寺の偉人「瓜生外吉(うりう そときち)」

2013年09月03日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

今日は、先輩が昨年9月9日の記事でまとめた大聖寺の偉人「瓜生外吉(うりう そときち)

についてご紹介します。どうぞご覧下さい!

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全昌寺の墓所を歩くと、大聖寺藩ゆかりの多くの偉人の墓石を見ることができます。

墓所に入ったすぐの所に、「瓜生(うりう)家累代の墓」が建っています。そして墓前の

灯籠には外吉傳治」ときざまれています。ここに見られる瓜生外吉(うりう そときち

とは、日露戦争連合艦隊第四戦隊の司令官をつとめ、日露開戦の火ぶたを切った

仁川沖の海戦で最初の号砲を鳴らした人物です。

仁川沖の海戦では、瓜生外吉がロシア艦『ワリャーグ』号の砲の死角を巧みに利用し、

緒戦の勝利を導きました。瓜生はいくつもの戦功によって、1907(明治40)年に

男爵を授けられ、1912(大正元)年に海軍大将に昇進、1922(大正11)年から

3年間は勅選貴族院議員になりました。また1914(大正3)年にはパナマ運河

開通記念博覧会に日本代表として参列したそうです。

Sotokichi Uryu cropped.jpg←瓜生外吉(wikipediaより)

瓜生外吉は大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として1857安政4)年に大聖寺に

生まれました。幼いときから優秀な人物で、海軍兵学寮を卒業後、

1875~1881(明治 8~明治14)年には米国アナポリス海軍兵学校に留学し、

海軍きってのアメリカ通でした奥さんの繁子さんもとても有名な人です。

瓜生繁子さん三井物産創始者益田孝の妹さんで、1871(明治4)年、9歳の

ときに岩倉遣欧使節団の一員として、津田梅子、山川捨松らとともにアメリカに渡り、

ワシントンで10年間ピアノを学んだことで知られています。のちに、

文部省音楽取調掛教授となり、東京音楽学校や東京女高師(現お茶の水女子大)の

教授として1902(明治45)年に退職するまで音楽教育に尽力しました。

瓜生外吉はアメリカ留学中に繁子と知り合い、帰国してすぐの1882(明治15)年に

二人は結婚しました。

繁子鹿鳴館の花の一人とうたわれた人でもあります。また瓜生外吉繁子

津田梅子、山川捨松など、帰国子女の活動を支える良き理解者でした。

外吉繁子の間には7人の子が生まれています。瓜生外吉は晩年、神奈川県小田原市に

別邸を構えました。その別邸の近くにある坂はいまでも「瓜生坂」と呼ばれているそうです。

瓜生外吉1937 (昭和12)年、80歳で亡くなり、今は東京の青山墓地で

眠っています。 

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